変化

第39話 約束

 ジュ威竜ウェイロンが馬車で戻っていくのを見送ると、リリー・メイはお兄様についてお屋敷の中へ入っていきました。離れていたのはほんの一日のことでしたが、見慣れた廊下や窓からの景色、家具の艶や傷の具合も何もかも懐かしく思います。

 朱威竜の、古風な華夏のお屋敷も素敵だったけれど、リリー・メイのおうちはやっぱりここしかないのです。

 お兄様の後をついて自分の部屋へと向かいながら――借り物の華服姿のままなので、とりあえず着替えなければいけません――リリー・メイはそう思いました。


「リリー、疲れてはいない? 今日はもう休んでいたら?」


 お兄様が振り返って尋ねたので、リリー・メイは大きく首を振りました。


「全然そんなことないわ。昨日もよく眠れたし、ゆうべも今朝も沢山いただいたの。華夏の料理もだけど、お屋敷で出るみたいな料理もあって――」

「楽しかったんだね。今日も泊まれば良かったのに」


 声を弾ませて、朱威竜のお屋敷で見聞きしたことを語ろうとしたのですが、お兄様の突き放すような口調に勢いを失ってしまいます。続いての言葉は、しおれた花のようにしょんぼりとしたものでした。


「だって、何日もお邪魔する訳にはいかないわ。それに、お兄様に会いたかったもの」

「それが本当なら嬉しいね」

「……本当よ」

「そう、ありがとう」


 お兄様は別にきつい言い方をしている訳ではないし、微笑んではいるのですが、リリー・メイの言葉を信じていないのだとはっきりと分かります。

 泣きそうになるのを我慢して、リリー・メイは深呼吸しました。怖いけれど、お兄様にちゃんと気持ちを伝えて、どうすれば一緒にいられるのか聞かなければいけません。玉蓮ユーリェンと約束したのです。

 翡蝶フェイディエの靴の包みを胸に抱き締めて、リリー・メイは恐る恐る口を開きました。


「お兄様、今日はまだお仕事があるの?」

「そうだね、これから行かなくては」


 リリー・メイを迎えるためにお屋敷にいてくれたのかしら、と思います。待っていてくれたと、リリー・メイは邪魔なんかではないと思って良いのでしょうか。


「じゃあ、帰ってからお話がしたいわ。大事なことなの」


 今すぐ伝えることにはならなくて、ほっとしたら良いのかずっとやきもきしなければならないか、リリー・メイには分かりませんでした。でも、とにかく、お兄様に約束してもらわなくてはなりません。


「…………」


 お兄様はすぐには答えてくれませんでした。それどころか足を止めて立ち止まってしまったので、リリー・メイはあやうくお兄様の背中にぶつかりそうになりました。


「お兄様? 約束してくださる?」

「……帰りが遅くなるかもしれない。先に寝ていなさい。疲れているだろうから、熱を出してしまうよ」


 リリー・メイがもう一度聞くと、お兄様はまた歩き出しました。そして首を振られてしまったのですが、リリー・メイは諦めずに食い下がりました。


「じゃあ、明日ならどう? お時間を取れる?」

「明日も分からない。リリー、仕事というのは急に入るものだから。必ずという約束はできないよ」


 お兄様はリリー・メイの方を見ないで、前だけを向いて早口で言いました。

 まただわ、とリリー・メイは思います。朱威竜のお屋敷に最初に連れて行かれた後と同じです。お兄様はお仕事を言い訳にして、リリー・メイと話すのをできるだけ後回しにしようとしているようです。


「時間がある時で良いの。――それともお兄様はずっと忙しくなってしまうのかしら」

「リリー」


 拗ねた口調で言うと、お兄様は慌てたように振り返りました。そして膨れ面のリリー・メイを見て驚いた顔をして、すぐにまた目を逸らしてしまいます。


「降誕祭が近いから。忙しいのは本当なんだよ」

「リリーが帰るのをずっと待っていてくれたのに? お話はダメなの?」

「リリー、入りなさい。着替えて、休んでいるんだ」


 そんなことを話しているうちに、リリー・メイの部屋の前までたどり着いていました。お兄様が扉を開けて中に入りなさいと示すのですが、リリー・メイは顔を背けてその場に突っ立ったままです。

 話を聞いてくれようとしないお兄様に、怒っているのです。リリー・メイは何を言われても良い気持ちで、一大決心でお話しようとしているのに、大事なことだと言っているのに、お兄様は聞こうとしてくれないのです。

 せっかくお屋敷に帰ってきて、お兄様のお顔を見ることができて嬉しかったのに、そんな気持ちも台無しでした。


「あの人が言ってたわ。お兄様は卑怯だって。都合が悪くなると何も答えてくれないのね」


 リリー・メイが何の話ともまだ言っていないのに、お兄様はどうしてこんなに避けようとするのか、全く見当もつかないのですが。とにかく、誤魔化そうとされているのだけは分かるので、リリー・メイはむくれてそっぽを向いてしまいます。


「……そんなことを、話していたのか」


 でも、お兄様のひび割れた声に振り向くと、お兄様はとても辛そうな表情をしていました。リリー・メイを部屋の中へ導くために伸ばした手が、宙に浮いて止まっています。


「お兄様、リリーが言った訳じゃないの。でも、だって、お話してくれないって言うから」


 リリー・メイは言い訳をするように弱々しく言いました。さっきまで怒っていたのに、お兄様にこんな顔をされると、リリー・メイの方が悪いことをしてしまったような気がします。お兄様の悪口を言っていたのだと思われてしまったのでしょうか。


 リリー・メイは唇を噛んで一瞬だけ俯きました。そして、もう一度顔を上げます。

 今までのリリー・メイだったら、お兄様に機嫌を直して欲しくて言うことを聞いて良い子にしていたでしょう。でも、今はそういう訳にはいきません。


「本当に大事なことなの。リリーのことが少しでも大事なら、お話を聞いて――それから、教えて欲しいの」

「教える? 何を?」


 お兄様が眉を寄せたのでリリー・メイはまたくじけそうになりましたが、必死に続けました。


「リリーはどうしたら良いか。……ねえお兄様、これ以上はちゃんとお話しないと。だから、今日じゃなくても、明日でも良いから、リリーに会いに来て。お話して。約束して欲しいの」


 リリー・メイはお兄様を翡蝶の靴を抱えて両足を踏ん張るように立って、お兄様をまっすぐ見上げて、約束してくれないとお部屋には入らないわ、と身体で表します。

 対するお兄様は、難しい顔をしたままでした。そして、リリー・メイが譲らないとわかったのでしょうか、やがて深くため息を吐きました。


「私は確かに卑怯者で、何と言われても文句は言えない。ことに君と朱威竜には。

 でも、君を……愛しているのも本当だ。君が望むことなら、例え何を言われても受け入れよう」

「本当、お兄様?」


 リリー・メイは瞬きました。ここのところ、お兄様とは雑談とお勉強以外でお話することはありませんでした。リリー・メイは翡蝶や家族のことなんて聞きたくなかったし、リリー・メイが好きだと言うとお兄様は嫌な顔をしていたのです。

 それを、こんなにあっさりと約束してくれるなんて、お願いしたのはリリー・メイなのにすぐには信じられなかったのです。


「ああ。今日早く帰れるかは本当に分からないが、数日中には必ず君と話す時間を作ろう」


 お兄様はまだ顔を顰めていましたが、それでもしっかりとうなずきました。その小さな動作で、リリー・メイの心は雲が晴れて太陽が覗いた時のようにぱあっと明るくなりました。


「お兄様。ありがとう!」


 膨れた顔から一転して、笑顔でお礼を言うと、お兄様はどういう訳か一層辛そうな顔をしました。


「君を喜ばせることができて嬉しいよ。――嫌でなければ、いってらっしゃいのキスをしてもらえるかな?」

「もちろんよ」


 どうして嫌かもしれないなんて思うのかしら、と少し不思議でしたが、リリー・メイは少し屈んだお兄様の頬に喜んで唇を寄せました。




「見事な刺繍ですねえ」


 脱いで畳んだ玉蓮に目を近づけてしげしげと眺めて、ジェシカはつぶやきました。普段着に着替えたリリー・メイは、自分のものでもないのに自慢げに答えます。


「ええ、本当に。もっと手の込んだのや沢山の色を使ったのもあったし、奥様が着ていたのもとても綺麗だったわ」

「楽しかったようで良かったですわ。華夏人のお屋敷に泊まるだなんて、心配していたのですよ」

「……どうして?」


 ジェシカは微笑んで言ったのですが、リリー・メイは心臓がすっと冷えるような感じを覚えました。お兄様は華夏の人たちを見下す人もいると言っていたし、初めて会った時のダニエルもそうだったのですが――いつも優しいジェシカまでそんなことを言うなんて、何だかとても嫌だわと思ったのです。


「だって。お嬢様は華夏語なんて知らないし、食事や家の造りも違うのでしょう? 押しの強い人たちだし……乗り気ではないのに無理に引き止められたのではないかと不安だったのですわ」


 ジェシカは笑ったまま、とても穏やかに答えました。そして、それが一層リリー・メイに嫌な感じを与えました。ジェシカは別に悪いことを言っているだなんて思ってなさそうだったのです。

 落ち着き無く髪を指先で梳きながら、リリー・メイはどうしようかしら、と思いました。ジェシカは華夏の人たちを誤解しているみたいなので、リリー・メイは本当に楽しかったのだと、良い人たちだったのだと分かってもらいたいです。


「リリーももっとお喋りしたかったから泊めてもらったのよ。食事だってここでいただくみたいな、本国風のものもわざわざ作ってくれたし。奥様たちは本国の言葉も喋ることができて、華夏語をリリーに教えてくれたの。寝る時も一人じゃなかったし――」


 翡蝶のこと、朱威竜が本当のお父様だということに触れないように、リリー・メイは考え考え、言葉を選んで挙げていきました。真夜中の玉蓮とのやり取りを思い出すと、自然と微笑みが浮かびます。同じくらいの歳の女の子と話し込んだのは初めてで、とてもわくわくしたのです。お兄様に気持ちを伝えてきちんとお話しなくちゃ、と思ったのも玉蓮のおかげです。


「まあ、どなたと一緒に!? まさか、以前助けていただいたという紳士ではありませんわよね?」

「違うわ」


 でも、ジェシカが悲鳴のような声を上げたので、リリー・メイは楽しい思い出から引き戻されました。どうして男の人と一緒に寝たりするなんて思うのかしら、と内心首を傾げながら説明します。


「お屋敷のお嬢様と同じベッドだったの。玉蓮っていって、二つ歳上のお姉様よ。色々お喋りしたの」

「ああ、そうでしたか。申し訳ありません、早合点をしてしまいました」


 ジェシカが照れたように笑って謝ったので、リリー・メイはほんの少し安心しました。何だかよく分からないけれど、ジェシカは心配し過ぎているような気がします。


「男の人と同じベッドなんて嫌よ。お兄様とだってそんなことしないのに」

「ええ、ええ、そうでしょうとも。でも、お嬢様は世間知らずで無邪気でいらっしゃるからもしやと思ってしまいました」


 ジェシカはそう言うと、リリー・メイを鏡の前に座らせて髪を上げ始めました。ジェシカは納得したようなのですが、リリー・メイはまだ飲み込めていません。鏡の中のジェシカに向かって問いかけます。


「どういうこと?」

「お嬢様にはまだ早いことですわ。申し訳ありません、忘れてくださいませ」

「この前は大人のレディになれって言ったのに。ジェシカもお兄様も勝手だわ」


 リリー・メイは唇を尖らせると、首を振って髪をいじるジェシカの手を払い除けました。最後には約束をしてくれたとはいっても、さっきのお兄様もリリー・メイを誤魔化そうとしたのです。都合の良い時だけ子供扱いされるというのは、とてもずるいことだと思います。


「お嬢様」

「勝手だわ。ずるいわ」


 リリー・メイはなおも首を振ってジェシカの手を拒みました。ジェシカは軽くため息を漏らすと、そっと宥めるようにリリー・メイの肩に手を置きました。


「くだんの華夏の紳士はお嬢様のお母様とお知り合いだったのでしょう」

「そうよ。お母様のお話も聞かせてもらったわ」

「……子供に何てことを。

 そして、お嬢様はお母様に似ていらっしゃるということでしょう」

「お兄様はそう言っていたわ」


 話の流れが今ひとつ掴めていないので、リリー・メイはまたジェシカが髪を編み込むのに身を任せました。鏡の中で、窓から漏れる陽光に艶々と輝く黒い髪が三つ編みにされていくのを、ぼんやりと眺めます。


「だから、心配してしまいましたの」


 ジェシカがまだ何か言うだろうと思ったので、リリー・メイはしばらく待っていました。けれど、ジェシカはそれでおしまいとでも言うように黙って手を動かしていたので、とうとうもう一度尋ねました。


「どういうことなの?」


 リリー・メイが促すと、ジェシカは鏡越しに迷った表情を見せてから、やっと口を開きました。


「その方はお嬢様をお母様の身代わりにしようとしているのかもしれません。気をつけなくてはいけませんよ」


 ジェシカは分かってくれていないのね、とリリー・メイはがっかりしました。結局ジェシカは朱威竜のことを信じていないのです。あの人は、お兄様よりもよっぽどリリー・メイのことを――翡蝶とは別に――考えてくれたのに。


「分かったわ」


 ジェシカの言うことはやっぱりよく分からなかったけれど、これ以上言っても無駄だろうということはよく分かりました。


「ええ。知らない男の人には気を許してはなりません。お嬢様は可愛らしいから特に気を付けないと」


 知らない人ではないのだけど、というつぶやきは心の中に閉まって、リリー・メイは黙って頷きました。




 リリー・メイは夜遅くまで編み物をしています。

 朱威竜にあげるはずだった手袋を仕上げようと思うのです。刺繍の靴を返してもらって、翡蝶の話をしてくれたお返しに。それに、やっぱり贈り物をすると言ったのを嘘にしてはいけないと思ったのです。


 何より、編み棒を動かして毛糸をっていると、時間を忘れることができます。お兄様は今日は帰ってこないかしら、とか考えなくても良いのです。


「お嬢様、あまり根を詰められるとお身体に良くないですわ」

「もう少しだけ。お兄様が帰ってくるまで起きていたいの」

「……昨日は離れ離れでしたものね。お寂しいのですね」


 ジェシカも珍しく、リリー・メイの夜更しを許してくれました。


 編み目に針を入れて、糸を引き出して。一段一段、落とさないように目を数えて。そうして集中していると、周りの音なんて聞こえなくなってしまうのです。

 だから、リリー・メイは扉が開いた音に気付きませんでした。手元に影が落ちて暗くなって初めて、お兄様が来てくれたことを知ったのです。


「お兄様! 来てくださったのね!」


 ぱっと目を上げると、お兄様はどういう訳か弱々しく微笑みました。お仕事から帰って真っ直ぐに来てくれたのでしょう、コートを脱いだばかりのようで髪も少し乱れています。


「約束したからね。これを破ったら君は許してくれないだろう。――何であっても、話を聞くよ」

「ええ。本当にありがとう、お兄様。

 ――座ってくださる?」


 緊張で高鳴り始めた心臓を抑えて、リリー・メイはお兄様を椅子へ案内しました。

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