第38話 ただいま

 まぶたに感じる朝の光がいつもと違うわ、と夢から醒めかけのリリー・メイは思いました。

 いつかのように枕元にお兄様がいるのかしら。また悲しいことを言われなければ良いのだけど。

 そんなことを考えながら目を開けて、リリー・メイは一瞬混乱しました。


 丸くくりぬいたような窓からは、冷たそうなもやにかすむ広い池が見えます。目の端に映るヘッドボードには異国風のエキゾチックな植物の彫刻が施されています。リリー・メイのベッドではありません。知らない間にどこか知らないところに連れてこられてしまったのかしら、と目をこすります。

 すると、すぐ隣で何かが動く気配がしました。


莉麗リリー你早ニーザオ……おはよう」


 あくびをしながら猫みたいに伸びをしたのは玉蓮ユーリェンです。それでやっと思い出しました。ゆうべはジュウェイロンのお屋敷に泊めてもらって、玉蓮と同じベッドに寝たのでした。


「眠れた?」

「ええ、自分の部屋にいるみたいにぐっすりと」


 おかげで目が覚めた時にどこにいるか分からなくなってしまったのですが。

 それから、昨日は玉蓮にしがみついて泣いてしまったことを思い出して、リリー・メイは恥ずかしくなりました。ごまかすように、どうでも良いことを尋ねます。


「リリー、寝相が悪かったりしなかった?」

「ううん。ワタシもよく寝た。莉麗、温かいからかな」

「玉蓮だって」


 そして二人は顔を見合わせて笑いました。玉蓮といると何でもないことも楽しくなるのは不思議なことです。


 華夏フアシア人の召使が、リリー・メイたちが着替えるのを手伝ってくれます。早口の華夏語で話しかけられるのに首を傾げていると、何を着たいか聞いてるの、と玉蓮が教えてくれました。


「昨日の服ではなくて? 他に何があるの?」

「こっちの屋敷にはワタシの昔の服があるよ。着てみない?」

「良いの?」

「ワタシにはもう小さ過ぎるから。莉麗ならちょうど良い」

「じゃあ、是非! この前着せてもらったのも可愛かったけど、無断だったから悪い気がしてたの」

「別に良いのに。ね、お揃いにしようよ」

「うん!」




「まあ、可愛らしいこと」


 朝食のために広間に入った二人を見て、香蘭シャンランは目を細めました。

 玉蓮は薄い紫――やっぱり本当は青系の方が好きだそうです――、リリー・メイは桃色と、選んだ華服の色は違うのですが、模様は同じように細かい花の刺繍なので、お揃いのように見えるのです。


「やっぱり血が繋がっているのね。そうしているとよく分かるわ」


 血の繋がりというのは、ベアトリスお姉様が何か悪いことを指すかのように使った表現でした。でも、玉蓮と血が繋がっていると、姉妹だと言われるのはリリー・メイには嬉しいことでした。リリー・メイにもちゃんと家族がいるのです。


 朝食にはお粥が出されました。といっても昨日いただいたものとは違って、卵を入れた柔らかい色のものです。鶏のスープと似た香りがするので、きっと味付けも昨日とは違うのでしょう。赤い木の実のようなものが散らしてあるのが可愛いと思います。


「洋風の方が良かったかしら。面包パンも焼けるのだけど」

「いいえ、せっかく華夏のお屋敷だから。いただきます」


 陶器のスプーンですくったお粥を吹いて冷ます合間に、香蘭が話しかけてきます。食べるのを止めなくても答えられるようにリリー・メイをよく見ているようで、さすがは大きいお屋敷の奥様だと思います。


「旦那様はまだ金蓮ジンリェンのところなの。戻られたら莉麗を送っていただくわね」

「お兄様が来るんじゃないんですか?」

「昨日無駄足を踏ませてしまったから。毎日来ていただくのも悪いでしょう」

「……リリーをお迎えに来るのが嫌なのかと思って」

「まさか。少しでも長く莉麗と一緒にいたいのは旦那様の方よ。必ず帰すからと言ったのに、あの方はなかなか退かなかったそうだもの。きっと租界でまだかと焦れていらっしゃるでしょう」


 お兄様の話が出ると、隣に座っている玉蓮が意味ありげに横目でリリー・メイを見て、ちょっとだけ口の端を上げて笑いました。ゆうべ、リリー・メイはお兄様のことが好きだからと打ち明けたからでしょう。

 リリー・メイも、お兄様が待っていてくれると思うととても嬉しくて、くすぐったいようなふわふわとした気持ちになりました。




 朝食を終えると、玉蓮と二人で朱ウェイロンの帰りを待つことになりました。香蘭はお屋敷のことを色々見て回らなければいけないそうです。もう二人だけの方が気楽でしょう、と笑っていました。


 リリー・メイは玉蓮と、玉蓮が前に使っていたという部屋にいます。考えてみれば昨日眠った部屋も玉蓮のものだったのでしょうが。

 とにかく、色々な模様や色の華服を広げて、何の機会に作ってもらったものか、そしてそれはどんな行事なのか教えてもらうのは楽しい上に勉強になることでした。お兄様が沢山のことを教えてくれるとは言っても、華夏の人たちがどんな暮らしをしているかまでは、お兄様も知らないのです。


 そして会話が途切れた時に、玉蓮が見計らったように姿勢を正してリリー・メイに向き直りました。


「ね、莉麗。ずっと考えていたのだけど」

「なあに?」


 玉蓮が真剣な顔をしているので、つられてリリー・メイも椅子に座り直します。


「好きな人がいるのに諦めるなんてダメよ。何かしてみないの?」

「何か、って……何?」


 熱心な口調で、どこか楽しそうに目を輝かせた玉蓮が顔を寄せてきたので、リリー・メイは困ってしまいました。これをしたらお兄様に好きになってもらえる、なんてことがあるなら、教えてもらいたいものなのですが。そんなことは思い付けそうにありません。


「気持ちを伝えるとか、お洒落してみるとか」


 どちらも良い考えとは思えませんでしたが、リリー・メイはせっかく考えてくれた玉蓮のためにちょっとだけ笑顔を作りました。


「お洒落のことはよく分からないの。それに、何度も好きって言ったけどダメだって」


 それでも玉蓮は諦めずに食い下がりました。


「でも嫌われてる訳じゃないでしょ? 本気にしてないのかしら。恋の好きだって言った? お兄様だから、じゃなくて」


 これにはリリー・メイもはっとします。


「それは……言ってないかも」

「じゃあ」

「でも、お兄様はきっと嫌がるわ。兄妹と恋人は違うんだって」


 玉蓮はぱっと陽が射すように笑顔を輝かせますが、リリー・メイは沈んだ声になってしまいます。言うのを忘れていたという訳ではないのです。言う前から断られているようなものだから言えなかったです。


「お兄様ね、一人で生きていけるようになれ、とか本当のお父様やお姉様の方が良いから、とか言うの。あとは、どうせリリーはお兄様を嫌いになるから、とか」


 そう、だから言っても仕方ないと思ってリリー・メイは諦めてしまったのです。

 リリー・メイは気持ちを慰めるために広げたままだった玉蓮の昔の服の模様をなぞりました。絹糸の刺繍は艶々として滑らかで、指先が滑る感触が気持ち良いのです。


「本当にあの人がそんなこと言うの?」


 玉蓮は口を真っ直ぐに結ぶと、眉を寄せました。お父様の朱ウェイロンが怒った時の表情とそっくりです。やはり親子なのでしょう。もしかしたら、リリー・メイもあの人に似たところがあるのでしょうか。


「子供みたい。いじけてるだけじゃない」

「お兄様は大人の方よ」

「でも子供よ。莉麗の気を惹きたくてわざと意地悪しているみたい」


 唇を尖らせて訴える玉蓮が何だか可愛らしくて、リリー・メイは少しだけ笑うことができました。それに、お兄様が子供みたいにいじけているなんて想像できなくて面白いと思いました。だって、お兄様はリリー・メイよりずっと歳上で、何もかも教えてくれているのですから。


「そうだと良いけど」


 だから、そう言ったのは相づち程度のつもりでした。でも、玉蓮は勢い込んで大きくうなずきます。


「絶対そうだよ。ね、莉麗。あの人に好きだって言った方が良いよ。それから、ダメなのか聞かなくちゃ」

「どうして……」


 妹だから、という以外の理由があるのでしょうか。恋という意味で好きだと言って、またひどい態度を取られたら、また悲しい思いをすることになります。


「男の人がちゃんとしてないと女が大変なの。悔しいけど莉麗が頑張らなきゃ」


 あまりにも玉蓮が熱心に言うので、とうとうリリー・メイもうなずきました。


「分かったわ、お兄様に言ってみる。

 ……ひどいことを言われたら話を聞いてね、玉蓮」


 昨晩、玉蓮と抱き合って泣いてしまったのは、恥ずかしいことでしたけれど妙にすっきりもしたのです。お兄様に何を言われても、後で玉蓮に聞いてもらえるなら少しは楽になりそうでした。

 それに、リリー・メイは妹だからダメ、というところで止まってしまっていました。そこから踏み込んで理由を考えていなかったのです。もし、万が一どうにかお兄様に好きになってもらえる方法があるなら。

 それなら、絶対にお兄様とお話しなければいけません。




 朱ウェイロンはお昼前にお屋敷に戻りました。朱い地にドラゴンが身をくねらせる意匠の華服はとても色鮮やかで、普段着というよりは舞台の衣装のようで、リリー・メイは少し驚いてまじまじと見つめてしまいました。


「金蓮の方が香蘭よりも派手好きだな。まあ用意してくれたものだから仕方ない」


 視線に気づいたのか、朱ウェイロンもどこか恥ずかしそうに笑いました。


「やっぱり朱、なんですね。家の名前に合わせて?」

「そう。それに私の名にちなんでもいるのだろう」

「名前?」


 そうして初めて、リリー・メイは朱ウェイロンの名前の意味を教えてもらいました。威竜ウェイロン。力のある竜。いつも堂々としているこの人にはぴったりの名前かもしれません。


「エドワードのところへ送っていくが、もう良いか? 何なら今日も泊まっても構わないが」

「いいえ!」


 リリー・メイは慌てて首を振りました。


「お兄様、心配していると思うし……玉蓮とも話せて楽しかったけど、もう失礼します。あの、本当にありがとうございました」

「そうか」


 朱威竜は少し寂しそうな顔を見せましたが、すぐに表情を改めて微笑みました。


「私は莉麗とあまり話せなかったから。また来てくれると嬉しい」

「はい、必ず。この服も返さなきゃいけないし――」


 リリー・メイは玉蓮から借りた服の裾をちょっと摘んで示しました。


「玉蓮とももっと話したいから」


 お兄様に好きだと伝えて、どうして妹じゃなきゃダメなのか聞くのです。きっとまた悲しいことを言われてしまいそうですが、玉蓮がリリー・メイ以上に怒ってくれそうなので、一人で思い悩んでいた時よりも辛くはなさそうです。


「そうか」


 朱威竜はまたそう言って、今度は嬉しそうにうなずきました。


「では、馬車を出させよう。エドワードが待ちかねてここへ乗り込んでくる前に」




 玉蓮と香蘭に別れを告げて、また必ず遊びに来るからと約束して、リリー・メイは馬車に乗り込みました。膝の上には翡蝶の靴を抱えています。朱威竜に渡した時とは違う箱に入れて返してもらったのです。

 華夏人が暮らす街並みは道路も土がむき出しなので、少し揺れが激しい感じがします。だからなのか、馬車の中ではほとんどお喋りをすることはありませんでした。でも、前のように気まずいとか怖いと思うようなことはありません。まだお父様なんて呼べないけれど、この人もリリー・メイにとって近い人になってきているのです。


 そして租界の石畳が近づいた頃、朱威竜が口を開きました。


「莉麗。貴女はこれからどうしたい?」

「どう、って?」


 だから言葉を交わすのにも構えることはありません。でも、聞かれたことがあまりにもぼんやりとしていて、聞き返すしかできませんでした。


「エドワードは結婚するのだろう。ずっとあの屋敷にいるのは肩身が狭くないか? 私だとて莉麗を引き取りたいのだが、言葉も習慣も分からないのではむしろ哀れだと思っていた。だが、あれほど玉蓮と仲良くやれるなら――」

「リリーはお兄様と一緒が良いの!」


 リリー・メイは叫んでから、本当にお屋敷に向かっているのかしら、と窓の外に目を凝らしました。石造りの建物はどれも似たようなもので、数えるほどしか外に出たことのないリリー・メイにはどこにいるのか分かりません。


「そういうと思った。もうすぐ着くから安心しなさい」


 リリー・メイの慌てる姿がおかしかったのか、朱威竜は少し笑いました。でもすぐにため息を吐きます。


「莉麗はエドワードが好きなのだな」

「ええ。大好きなの」


 朱威竜はお兄様として好きと言ったのか恋の好きなのか分からなかったのですが、とにかくリリー・メイはしっかりと、はっきりとうなずきました。


「正直に言えば莉麗が幼いゆえの思い違いであってほしい。あの男は莉麗を傷つけている卑怯者だ」

「……でも好きだもの」


 リリー・メイは言い張りました。朱威竜の言うことが本当だと、お兄様がリリー・メイにひどいことをしているのは分かっていますが、だからといって嫌いになんてなれないのです。


「そういうものなのだろうな」


 朱威竜はさっきよりも深くため息を吐きました。


「他人に言われて諦められるものではないのは私にも覚えがある。だが、忘れないでくれ」


 そして、リリー・メイの目を真っ直ぐに見て、言い聞かせるようにゆっくりと告げました。


「私たちは莉麗が不幸になるのを望まない。エドワードとの間に何かあったら、一緒にいる以外の未来を考えたなら、頼りなさい」


 そんなことにはならないわ、とリリー・メイは思いました。でも、朱威竜が、大人の男の人が真剣な眼差しで言う迫力に負けて、渋々と首を縦に振りました。


「……分かりました。そうなったら、その時は、言います」


 そうすると、朱威竜は安心したように笑いました。


「忘れないでくれ。――さあ、着いたようだ」


 言われて馬車の外を見ると、確かに見慣れたお屋敷の庭が目に入りました。一日ぶりに、おうちに帰って来たのです。




「リリー!」


 お兄様はお屋敷の外、門のところまで出て待っていました。もう寒くなってきているのに上着も着ないで。


「お兄様、寒くないの? お身体は大丈夫?」


 ふつかよいとやらで昨日は具合が悪そうだったのが心配で、リリー・メイはお兄様に駆け寄りました。すると、――抱き締めてくれることはなかったけど――そっと肩を抱き寄せられました。


「リリーが帰ってきてくれたから大丈夫。もう帰って来なかったらどうしようかと思っていた」


 リリー・メイは不思議な気持ちでお兄様のお顔を見上げます。眉を寄せてはいるけれど、顔色は良くて、金の髪も青い瞳もいつも通りに綺麗な色で、それは安心できました。でも、リリー・メイが帰って来ないなんてあるはずのないことなのに。

 玉蓮が言っていたことを思い出します。お兄様はリリー・メイに嫌われたくないと思っている、というのはもしかしたら本当なのかもしれません。そう思うと、リリー・メイは嬉しくなりました。

 リリー・メイはお兄様の服を引っ張ってこちらを向かせました。そして、満面の笑みを浮かべて言いました。


「ただいま、お兄様」


 今まではお兄様から聞くだけだった言葉を、今度はリリー・メイがお兄様に言うのです。

 お兄様が望んだ通りです。リリー・メイの世界は広がったのです。

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