第37話 夜の底で
「
「リリーも。今日はお母様は一緒じゃないの?」
飛びついてきた玉蓮を受け止めながら、リリー・メイもくすくすと笑いました。同じ年頃の女の子と話すことは今までなかったことですから、高く澄んだ声や抱き合った時の柔らかい感触がとても新鮮でした。
「母様は言葉が分からないからいいって」
「リリー、お邪魔だったかしら」
確かにリリー・メイがいると他の人たちは本国の言葉を使ってくれるのですが、玉蓮のお母様の
表情を曇らせたリリー・メイに、玉蓮はにっこりと笑いました。
「父様が会いに来てくれたから嬉しいはず。心配ないよ」
「なら良いけど」
リリー・メイもつられて笑うと、改めて玉蓮の着ている服に目を落としました。昨日とは違う生地のドレス姿です。青系の
リリー・メイも、もちろん本国風のドレスをまとっています。暖かそうな明るい茶色のツィードの生地のものです。二人とも黒い髪と黒い瞳なのに。華夏の古風なお屋敷にいるというのに。
「何だか、変な感じね」
「そうね」
玉蓮もリリー・メイの言っている意味が分かったのでしょう。二人は手を取り合ったまま澄んだ笑い声を響かせました。
その夜の
華夏のお屋敷に、食器ももちろん華夏の白磁や青磁です。でも、カトラリーはリリー・メイのためか本国風のナイフやフォークです。それに、献立も。華夏の点心やあんかけの他に、お屋敷でいただいているようなパン――それも焼きたてのもの――や
「租界でだってたまには華夏料理を食べるでしょう。この屋敷の料理人も色々勉強しているの」
ひと皿ひと皿に目を瞠るリリー・メイに、
「どれも美味しいです。ありがとうございます」
「伝えておくわ。きっと租界の子の褒め言葉は喜ぶでしょう」
食事の席での話題はリリー・メイが中心でした。朱ウェイロンは勉強の進み具合を知りたがったし、玉蓮や香蘭は普段どんなドレスを着たり髪型をしたりしているかを聞いてきました。
ちょっとしたことでも感心してくれたり興味深げに問いを重ねてくれたりするのが楽しくて、リリー・メイも会話に夢中になりました。お兄様が傍にいなくて、他所のお屋敷にお邪魔しているのを忘れるくらいに。
そしてデザート――干した葡萄や
「私は今夜は金蓮のところで過ごす。玉蓮を奪ってしまったから埋め合わせをしなくては。
……明日はまたこちらにいるから、莉麗が帰る前にもう少し話せたら良いが。今日のところは玉蓮と仲良くして欲しい」
「はい。リリーも玉蓮と話したいです」
横目で香蘭と玉蓮の方をうかがうと、当然のように微笑んでいました。リリー・メイには華夏のことはよく分かりませんが、香蘭と金蓮は旦那様のことを半分こしているみたいです。リリー・メイだったら、お兄様をいつも独り占めしたいと思ってしまうのですが。
やっぱり華夏の人とはどこか違うわ、とリリー・メイは思うのでした。
そして、寝室は一人が良いか玉蓮と一緒が良いかと聞かれたリリー・メイは、迷わず玉蓮と同じ部屋にしてもらいました。連日のお出かけで気持ちも身体も疲れてはいたのですが、初めての場所で一人きりでは眠れるかどうか自信がなかったのです。
「本邸で寝るのは久しぶり。懐かしい」
寝巻きはさすがに華夏風で、ゆったりとしたズボンにチュニックのような上着を着た玉蓮が言いました。いずれも絹の生地でとても肌触りが良いものです。リリー・メイも玉蓮のお下がりを着せてもらっています。
「玉蓮は別のお屋敷で暮らしているのね。どうして?」
ベッドに横になりながらリリー・メイは尋ねました。租界のお屋敷のベッドよりも広くて、二人が横になっても十分に余裕があります。
玉蓮は灯りを消すとリリー・メイの隣に寝転がりました。顔を近づけて、ささやくように答えてくれます。
「ムスメと母親が一緒なのは普通よ」
「じゃあ前はなんで別々だったの?」
リリー・メイもささやき声で聞き返しました。香蘭はうるさくしては駄目よ、とは言いましたが早く寝なさい、とは言いませんでした。小さな声でならお喋りしても良いということね、とリリー・メイは思いました。
「……母様がワタシに
「だから?」
「父様は駄目だと言ったのに。隠れてやろうとして怒られたって」
「纏足を?」
暗がりの中で、玉蓮の影がうなずきました。何だか辛そうな、悲しそうな口調だと思います。表情は見えないけれど、泣いているのではないかと思って、リリー・メイは玉蓮の顔に手を伸ばしました。
「一度始めてしまったらやめられないの。だから母様と離さなきゃだったの」
朱ウェイロンが言っていました。纏足をするのに、まずは子供の足の骨を折って折り曲げるのだと。そんなことをしてしまったら、多分折れた足は元通りにはならないでしょう。
「……そうだったの」
リリー・メイはそう答えるのがやっとでした。リリー・メイもお母様がいなかったけど、それが当たり前だったので悲しいと思ったことはありませんでした。玉蓮のように、お母様が生きているのに離ればなれというのは、亡くなって二度と会えないのとどちらが悲しいものなのでしょう。
「寂しかったでしょう」
「……まあね。でも、父様や兄様たちもいたし。
リリー・メイの指先が触れた玉蓮の頬は、濡れてはいませんでした。でも、強がる言葉を裏切って、声はまだ辛そうだったので、リリー・メイは玉蓮を抱き締めてみました。すると、玉蓮も腕を回して力を込めてきました。
だから、そこから先の会話は、お互いに顔を近づけて耳元にささやき合う感じになります。
「お兄様?」
「
「奥様にも子供がいたの!」
玉蓮がさらりと言ったことにリリー・メイは驚きました。考えてみれば、結婚した女の人に子供がいるのは何もおかしなことではないのですが。でも、
「会ってみたいわ」
「兄様たちは都にいるの。そこで勉強してる。
「そう。残念だわ」
それからしばらく玉蓮は黙っていたので、リリー・メイは眠ってしまったのかと思いました。暗い中、暖かい寝具に包まれて、もっと温かい玉蓮とくっついていると、リリー・メイも眠くなってきました。昼間からずっとお喋りをしていて疲れていたのもあって、とろとろと夢の中に溶けていきそうになります。
「ねえ、莉麗」
「なあに?」
だから、玉蓮がまた話しかけてきたときも、ぼんやりと寝ぼけたような声になってしまったのですが、
「好きな人はいる?」
「好きな、って……」
聞かれた内容があまりに意外だったので、すっかり目も覚めてしまいました。
「父様や母様が好き、とは違うよ? 恋という意味よ?
思わず半身を起こして玉蓮の方をうかがうと、黒い目が暗い部屋の中でも分かるくらいにきらきらと輝いていました。
「お茶会とか? リリーはあまり行ったことがないのだけど……」
「でも、父様が言ってた。最初に来た時は赤い髪の男の子と一緒だったのでしょ? 好きじゃないの?」
「ダニエルのことならただの友だちよ」
ダニエルとは最近また手紙を交わしました。そろそろ降誕節の休暇だから会いたいと言っていて、リリー・メイも是非遊びに来てねと返事をしましたが……お喋りをするのが楽しみ、ということでしかありません。
恋という意味で好きなのはお兄様しかいません。でも、玉蓮に言っても良いものかリリー・メイには分かりませんでした。ベアトリスお姉様のように、おかしなことみたいに言われたらまた悲しくなってしまいます。
「そうなの」
玉蓮は少しつまらなそうにつぶやきました。
「母様は、はしたないと言うけど」
そして、一転して夢見るような口調で、身体を起こして身を乗り出すように言いました。
「お茶会や夜会に招かれたら男の子と話してみたい。租界では結婚する前にお話できるってほんと?」
「お兄様とお姉様は一緒にお食事をしたり、お茶もいただいたりもしているわ……」
楽しそうな玉蓮とは逆に、二人が仲良くしているところを想像して、リリー・メイの胸が痛みました。答える声も沈んでしまいます。
「そうなの!?」
暗いからリリー・メイの表情は見えないのでしょう。玉蓮はさっきと同じ言葉を、さっきとは全く違って明るく言いました。
「父様と母様は結婚する日に初めて会ったんだって。父様は格好良いから良かったけど、ワタシは租界のやり方の方が素敵と思う」
「玉蓮は租界の人と結婚したいの?」
お兄様のことを考えていたので、リリー・メイの質問は少々上の空なものでした。でも、お母様の金蓮は本国のドレスでさえ嫌がっていたのに、玉蓮がこんなことを言うのは本当に意外でした。
「ムリ。母様が心配で死んじゃう。ワタシは父様が探してきた人と結婚するの」
「じゃあ……」
思ったことは当たっていたようです。あっさりと首を振った玉蓮に、リリー・メイは訳が分からなくなりました。
「でも、恋ってしてみたいじゃない。はしたないことなんかしないけど。家や親じゃなくて、その人だけを見て、その人だけを考えるって素敵じゃない?」
玉蓮があまりに楽しそうに言うので、リリー・メイは少し笑ってしまいました。おかしくて、というよりも、何も知らない玉蓮に教えてあげなくちゃ、と思ったのです。そう、お兄様が、問題が解けないで困っているリリー・メイを見て笑っている時の感じに似ているのかもしれません。
「そんなこと、ないわ。恋は苦いものよ」
「そう、かしら?」
「ええ。好きな人が玉蓮じゃない他の人を好きだったら? 他の人とばかり仲良くしてたら? 悲しくて辛いだけよ」
玉蓮が困ったようにもぞもぞと動きました。寝具が乱れて、夜の冷たい空気が少しだけリリー・メイに触れて、ぞくっとした感覚が肌を走りました。
「その人が優しくしてくれなくて、ずっと何で、どうしてって思って泣きたくなるの。そんな思いはしない方が良いわ」
お兄様のことを思い浮かべながら言い募ると、どんどん悲しくなってきました。せっかく今日はこのお屋敷にお邪魔して、華夏の珍しい料理をいただいて、玉蓮にも会えて。楽しく過ごしていたのに、あの辛い気持ちを思い出してしまいました。抱きつこうとしても振り払われるし、お姉様とは恋人のキスをするのにリリー・メイにはしてくれないし、二言目には一人で生きていけるように、とか言われるのです。
「莉麗? 莉麗の話をしているの?」
「違うわ。恋は苦いの。恋なんてしない方が良いわ」
今度は玉蓮がリリー・メイの頬を撫でました。泣きそうなのが、今にも目から涙が溢れそうなのが分からないように、リリー・メイは一生懸命まばたきをしました。
「莉麗は可愛いもの。その人もきっと莉麗を好きになるわ」
リリー・メイはまた笑ってしまいました。玉蓮は何も知らないのです。慰めるつもりで言ってくれたことが、リリー・メイをもっと傷つけてしまうことも。
「お兄様はリリーを好きだって。でも、妹としての好き、なんだって。リリーはお兄様に恋をしてるの。恋してる好き、なのにそれはダメなんだって。お兄様は――」
お兄様は、ひどい。言おうとした言葉は、柔らかくて温かいものに遮られました。玉蓮がリリー・メイを抱きしめているのです。
「莉麗は可愛いよ」
ぎゅうと息苦しいくらいに抱きしめられて、でもそれが嬉しくて、リリー・メイは玉蓮にしがみつきました。お兄様がこうしてくれなくなってからずっと、誰かに触れて欲しかったのかもしれません。
「大人になったらもっと可愛くなる。あの人もきっと莉麗に恋をするよ」
それでも玉蓮が言ってくれることはリリー・メイの胸をえぐります。玉蓮の柔らかな胸に顔を押し付けながら、リリー・メイは激しく首を振りました。
「ダメよ」
「どうして、莉麗。自信を持って。莉麗が大人になれば、それまで諦めなければ」
「ダメなの」
玉蓮に言ってもどうにもならないけれど、きっと困らせるだけだけど、リリー・メイは言わずにはいられませんでした。
「お兄様はもうすぐお姉様と結婚しちゃう。リリーのことなんてどうでも良いの。昨日もこのうちの子になれば良いって、玉蓮のお父様に言ったんだって!」
言ってから、リリー・メイははっとして玉蓮の顔を――暗くてよく見えないのですが――見上げました。お父様もお母様もいるおうちに後からリリー・メイが入ってくる、なんて。きっと嫌なことに違いないのです。
「莉麗、ごめん。ワタシが恋のことなんか言ったから」
でも、玉蓮の声は、悲しそうでしたけれどとても優しい響きでした。
「ううん――リリーこそ、ごめんなさい」
「良いのよ」
どういう訳か、二人とも泣きそうな声でした。ますます強く、お互いを抱きしめます。
「うちの子になれば良い。父様も母様も喜ぶわ。
暗くて良かったわ、と思いながら、リリー・メイはこっそりと目の端から涙をぬぐいました。
誰が何と言っても、お兄様のことを嫌いになんてならないし、忘れることなんかできません。そんなことができるくらいなら、こんな辛い思いはしなくても良いのです。
でも、リリー・メイは今日知ることができました。
それがとても嬉しかったのです。
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