第36話 翡蝶②
「
「でも、あの、お兄様は、翡蝶は可哀想だったって」
リリー・メイは思わず――本当は失礼なことなのですが――
翡蝶は強い人だった、と言われても実感がないのです。この人が嘘を吐いているなんて思わないけれど、お兄様が言うには、翡蝶は本国のレディのような外見なのに
それに、纏足のせいで好きでない人と結婚させられても逃げることもできなかったそうです。これは朱ウェイロンがついさっき教えてくれたことです。つじつまが合わないと思ったのです。
「哀れな生まれではあった」
戸惑い、首を傾げるリリー・メイに対して、朱ウェイロンはあっさりと頷きました。
「だが、だからといって弱いばかりの女だったとは限らない」
「どういうこと……?」
朱ウェイロンは微笑みました。また、リリー・メイが一生懸命考えているのを励ますような表情です。
「翡蝶の容姿は聞いているだろう。黒髪はまだしも、翡翠の瞳。
朱ウェイロンの口調には熱が篭っていますが、リリー・メイには意味がよく分かりません。めんじんるーというのがどういうところなのか、お兄様も教えてくれなかったのです。
きょとんとしているところへ口を挟んでくれたのは、やはり
「旦那様。子供の前ですよ」
「すまない、
朱ウェイロンはほんの少し笑うと、話を続けました。
「翠の瞳を持ちながら父親には引き取られず、しかも纏足をほどこされては夢境路で生きるしかない。それは確かに不幸というか哀れなことだ。
朱ウェイロンの二番目の奥様の金蓮は、本国風のドレスでさえ嫌がっていました。お兄様と一緒にお会いした時も緊張した様子だったし、多分あれが普通の華夏の人の反応なのでしょう。それに、お兄様も纏足のことを何かとても恐ろしくて嫌なもののように言っていました。朱ウェイロンの口ぶりだと、もっとひどい態度の人もいるようです。
翡蝶が華夏人でも本国の人でもなかった――どちらにもなれなかった、というのもうなずけることでした。
「翡蝶、とても可哀想だわ」
リリー・メイはつぶやきました。そして、そんな人を、リリー・メイのお母様をずっと悪く思っていたことに、改めて胸がちくちくと痛みました。
「だが、強かった」
「どうして……?」
可哀想かどうかということ、強いか弱いかということ。確かに別のことなのかもしれませんが、可哀想な人がどうしたら強くなれるのか、リリー・メイには想像できませんでした。
「理由は私も知らない。とにかく、それが彼女の魅力の一つだった」
翡蝶のことを語る時の朱ウェイロンは、お兄様と同じようにどこか遠くを見るような目をしていました。でも、お兄様の場合と違って、嫌な気持ちになったりはしません。この人のことを、お兄様ほどには好きではないからでしょうか。それとも、翡蝶のことをお母様だと思えるようになったからでしょうか。
「翡蝶は言っていた。外の世界では奇異に見られる容姿でも、夢境路では武器になると。他に仲間がいないということは、他に比べられる者がいないということ。普通の――と、敢えて言うが――者とは違う姿だからこそ、彼女の価値が上がるのだと。
纏足も、
――それで、私に会うことができたから良かったと言っていた」
朱ウェイロンは、本国の人たちの夜会に出るのが嫌だった香蘭の代わりに翡蝶を三番目の――リリー・メイにとってはとても不思議な表現ですが――奥様にしようとしていたということでした。
レディの教育を受けた華夏人の翡蝶が朱ウェイロンと出会ったのは、まるで決まっていたことのようだと思います。可哀想な人だったと思うけれど、朱ウェイロンが話したことの全てが分かった訳ではないけれど、確かに二人はお互いのことが好きだったのね、とまた少し実感がわきました。
「なのに、アルバートは翡蝶と結婚してしまったのね」
アルバートという人は、リリー・メイにとって一層よく分からない人になってしまっていました。
お父様だと言われていたけれど実は違うということでした。それに、リリー・メイがお兄様を独り占めしたいように、翡蝶を独り占めしようとしていたらしいということで親しみがあったのですが、朱ウェイロンの話を聞いた今では、翡蝶にひどいことをしたようにも思えます。
「アルバートのことはエドワードに聞いた方が良い。私もよく知っている訳ではないのだ」
「お兄様に?」
「私は華夏の見方しかできない。あちらにはあちらの言い分があるだろう。迂闊な推測を言って莉麗に嫌われたくはない」
「嫌うなんて……」
怖い人だと思っていたのは最初だけでした。香蘭や金蓮に対する旦那様としての顔、
「エドワードを悪く言ってしまいそうだから。……とても、信頼しているように見えた」
朱ウェイロンは軽く顔をしかめています。やっぱりこの人はお兄様のことがあまり好きではないようです。
リリー・メイも、今までだったらお兄様を庇う言葉を探していたでしょう。でも、なぜか曖昧に微笑むことしかできませんでした。
今日聞かされたことは、お兄様から教えられたこととは全く違っていたから。それは、朱ウェイロンが言った通り、お兄様の考え方と華夏の人たちの考え方は違うのでしょうけど。リリー・メイだって、翡蝶のことをお兄様に詳しく聞こうとはしていなかったのですけれど。
でも、お兄様から翡蝶のことを聞かされた時には、翡蝶がどんな人だったのか思い描くことができなかったのです。アルバートのことを聞いてみたとして、リリー・メイは納得することができるのでしょうか。
何といっても、最近お兄様の様子がおかしくてリリー・メイに対して冷たいのです。お兄様にアルバートのことを尋ねるなんてできるのかしら、とリリー・メイは口には出さずに不安に思いました。
「莉麗、良かったら旦那様に話してあげて。いつも何をしているか。何が好きなのか。きっと気になっているでしょうから」
会話が途切れたのを、香蘭がちょうど良く繋いでくれました。朱ウェイロンも嬉しそうな表情をします。
「そうだな。甘いものが好きなのは良く分かったが。何か欲しいものはないか? 莉麗のために何かできたら良いのだが」
「そんな、欲しいものなんて……お兄様が何でもくれるから、良いんです」
リリー・メイは慌てて首を振りました。他所の人から特に理由もなく物をもらうなんていけないことです。きっとお兄様に叱られてしまうでしょう。ベアトリスお姉様がしてくれることだって、大げさ過ぎて困ってしまうくらいなのに。
「では、普段何をしているか教えて欲しい。……娘、のことを何一つ知らないというのは決まりが悪いものだ」
だから、朱ウェイロンがあっさりと引き下がったのにリリー・メイは安心しました。娘、という単語をとても慎重に発音したのにも。この人がお父様だと、頭では分かってもまだそうと口に出して呼ぶことなんてできそうにないですから。
「はい。お勉強はお兄様が見てくれていて――」
それに、何よりお兄様がきちんとリリー・メイを育ててくれていると、朱ウェイロンに伝える絶好の機会です。どうもこの人はお兄様がリリー・メイの面倒をちゃんと見ていないと思っているようですから。
リリー・メイは、嬉々としてお兄様との暮らしを語り始めました。お勉強だけでなくて、本を読んでもらったり、外の珍しいもののお話を聞かせてくれたりすること。マナーだって見てくれること。リリー・メイがどれだけお兄様を大好きかということ。でも――
「莉麗? 大丈夫?」
やがて、香蘭が表情を曇らせて問いかけてきました。朱ウェイロンも、途中までは微笑んで聞いていたのですが、口元が真っ直ぐになってしまっています。
「はい……」
理由は分かっています。
語るうちに、リリー・メイも暗い表情になってしまっていったのです。だって、途中で気付いたから。お兄様と一緒にいて幸せだったのは、この前までで終わってしまいました。気軽に抱き締めてもらったりキスしてもらったり、なんてもうありません。嬉しかった、楽しかったと、全て過去形で言わなければならないのです。
「エドワードと何かあったのか? 可愛がっている様子なのに引き取らないか、などと言い出すからおかしいとは思っていた」
「いえ! お兄様は何も……」
はっきりと答えたつもりなのに、口から出た声はリリー・メイの耳にも弱々しくて頼りないものでした。
「――――」
そこへ、華夏語の低い声が聞こえました。地味な紺色の華服を来た使用人が入ってきたのです。その人はご主人様に、朱ウェイロンにすり足で歩み寄ると、耳元で何かささやきました。
やはり変わった歌のような華夏語の連なりを聞いて、朱ウェイロンが一層険しい顔になります。
「エドワードが迎えに来たそうだが……帰れるか? 嫌なことがあるのではないか?」
窓の外に目を向けると、話しているうちに日は傾いて夕方になっていました。お兄様が来る約束の頃です。でも、朱ウェイロンに尋ねられても、リリー・メイ自身も、どうしたいか決められませんでした。
「それは……」
租界のお屋敷には帰りたいです。あの場所こそ、リリー・メイが育ったところで、リリー・メイは他のおうちなんて知らないのです。
でも、帰ってもお兄様は相変わらずなのだろうと思うと、帰るのが怖くもあります。この華夏のお屋敷ではリリー・メイはお客様ですが、だからこそ、朱ウェイロンも香蘭も優しいのです。お兄様が冷たいとか様子がおかしいとかで、いちいち悲しい思いをしなくて済むでしょう。
でも、そんなことを言ったらお兄様はどう思うでしょうか。ただでさえ昨晩はお兄様の部屋に押しかけて、その上お兄様が一緒に寝てくれるというのを断ったのです。リリー・メイはお兄様が嫌いだと思われたりはしないでしょうか。
リリー・メイが答えられないでいると、香蘭がふわりと微笑みました。
「わたくしはまだ莉麗とお話したいわ。ねえ、泊まってもらうことはできないかしら」
「奥様……?」
「わたくしがお願いしたから残ってくれたという訳にはいかないかしら?」
リリー・メイには香蘭が助けてくれたのだと分かりました。言いづらそうにしているのを察して、リリー・メイが言い出したのではないということにしてくれるのでしょう。
「……はい、奥様。喜んで。お世話になります」
なおも何秒か考えて、ためらいがちに。リリー・メイはうなずきました。
朱ウェイロンがお兄様と話す間、リリー・メイは香蘭と一緒に広間とは別の部屋にいました。本が沢山あった朱ウェイロンの書斎とは違って、置いてある家具が少なくて広々とした感じがします。
部屋の隅には白い薔薇が磁器の花瓶に活けられています。椅子や窓枠の細工も繊細な雰囲気で、女の人の――もっと言うなら香蘭の部屋なのでしょう。
「旦那様が戻るまで待っていましょう」
その証拠に、香蘭は椅子に掛けると刺繍の道具を手にとって針を動かし始めました。艶やかな絹糸が描いているのは、多分――例によって華夏の意匠は実際のものとは全然違うから確信はないのですが――黒猫です。
「リリーも行かなくて良かったのかしら……」
猫に金色の目ができていくのを眺めながら、リリー・メイはつぶやきました。
お兄様の顔を見たらお泊りしたいなんて言えなくなってしまいそうだから、朱ウェイロンに言付けてもらったのです。でも、お兄様と丸一日会えないなんて初めてのことです。いざこのまま夜になると思うと、寂しい気持ちも出てきてしまいました。
「旦那様が良いと言ったもの。莉麗も一人で泊まれる歳でしょうし……それに、殿方が言い合うのは怖いでしょう?」
全然怖いとは思っていなさそうな穏やかな表情で香蘭は刺繍を続けています。でも、リリー・メイにとってはお兄様と朱ウェイロンが言い争うのを見るのは怖いし嫌なものなので、黙って部屋の中の小物を眺めて待っていることにしました。
そしてやっと朱ウェイロンが部屋に入ってくると、リリー・メイは駆け寄りました。お兄様がどんな様子だったか、気になって仕方なかったのです。それに、今朝のお兄様の顔色の悪さも心配でした。
「お兄様、何て言っていましたか? 具合は大丈夫そうでした?」
朱ウェイロンは軽く肩をすくめました。
「誘拐だと騒いでいたが、莉麗も望んでいると言ったら引き下がった。明日必ず帰すからとは伝えたが。……体調が悪かったのか? そうは見えなかったが」
それでは、お兄様は取り敢えずリリー・メイに帰って来て欲しいと思って良いのでしょう。いらない子だからこのまま置き去りにされてしまうようなことはなさそうです。リリー・メイは少しだけ安心しました。
「朝はとても具合が悪そうだったの。ふつかよいだって……」
そうなると気になるのがお兄様の身体のことです。お兄様とジェシカが言っていたふつかよいとかいう単語を口にすると、朱ウェイロンは顔を顰めました。
「どうしようもないな」
「病気、なんですか?」
朱ウェイロンと、それに刺繍をしていた香蘭までもが同時に笑ったので、リリー・メイはきょとんとしてしまいました。
ひとしきり声を立てて笑うと――この人がそんなことをするのを見るのは初めてだったかもしれません――、朱ウェイロンはリリー・メイの頭を撫でて言いました。
「何の心配もない。明日には元気になっているだろう。
莉麗、玉蓮に会いたくはないか? 莉麗が今日も来ていると知ったら、玉蓮は喜んで来るだろう」
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