第35話 翡蝶①

莉麗リリー!? どうして泣いている?」


 ぽろぽろと涙を零すリリー・メイを見て、朱ウェイロンは熱いものに触れたように慌てて手を離しました。


「分からな……悲しく、ないのに……嬉し、のに……!」


 リリー・メイにもどうして泣いているのか分かりません。悲しくなんかなくて、むしろ嬉しいはずなのです。リリー・メイは見捨てられた可哀想な子なんかではなくて、お兄様だけではなくて、お父様もお母様もちゃんと気にかけてくれていたのです。

 なのに、そうと知って心から安心したのに、どういう訳か涙が出てきて止まらないのです。


「泣かないで。……どうすれば良い?」


 朱ウェイロンは腕を広げましたが、リリー・メイを抱きしめても良いか迷っているのか、固まってしまっています。

 リリー・メイも。お兄様なら抱きついていたかもしれませんが、この人にも遠慮なくそうして良いのかは分かりません。綺麗な刺繍の華服を涙で汚してしまいそうなのはとても怖いです。

 だから、リリー・メイは泣きながら首を振りました。


「菓子をもう一つ食べるか? 他のが良いか? ――香蘭シャンラン、来てくれ!」


 そしてとうとう香蘭に助けを求めた朱ウェイロンの声は、今までになく情けない、悲鳴のようなものでした。




 香蘭が現れるまでに、リリー・メイはしばらく朱ウェイロンと気まずい時間を過ごしました。恥ずかしいのに、涙が出て止まらないのです。できれば放っておいて欲しいけれど言い出すことはできないし、朱ウェイロンの方も何をしたら良いか迷って、何もできないでいるようでした。


 香蘭はいつも通りにゆったりとした歩き方で部屋に入ってきました。纏足チャンズーをしているから早足なんてできないのでしょうが、お屋敷の奥様がそんなことをしてはいけないのでしょうが、リリー・メイはやっと来てくれたのね、とちょっとだけ恨めしく香蘭を見上げました。


 香蘭は泣いているリリー・メイと困り顔の朱ウェイロンを交互に見ると、にっこりと微笑みました。


「気持ちが昂ぶってしまっただけでしょう。落ち着けば大丈夫」

「本当に? それならば良いが……」

「一度に話しても混乱するだけだと申し上げたでしょう。旦那様のせいですよ」

「そうなのか……。いや、莉麗も知りたがった話をしただけなのだが」


 夫婦の会話――それも、この人たちが普段使う言葉ではない、ややぎこちない本国の言葉での会話を、リリー・メイは俯いたままで聞きました。よく知らない人たちの前でみっともなく泣いてしまって、どんな顔をすれば良いか分からなかったのです。


「泣きたかったら泣きなさい」


 香蘭は迷いなくリリー・メイを抱き寄せて背中をとんとんと叩きました。お兄様の香水とは違う、変わった異国の香りにリリー・メイは戸惑って一瞬身体を固くしました。でも、優しくて温かい腕の中でやがて力を抜きました。でも――


「奥様、あの、ごめんなさい」


 香蘭の華服も、細かな花の刺繍が入った手の込んだものです。そこへ涙が染みを作るのを見て、リリー・メイは慌てて香蘭から逃れようともがきました。


「良いのよ。玉蓮ユーリェンにも、よくこうしてあげたわ」

「でも」

「良いから。あなたが暴れたらわたくしは倒れてしまうわ」


 確かに纏足をしている香蘭は、少しの力でも倒れてしまうでしょう。今も、リリー・メイを抱えてはいても、ふわりと腕を回しているだけでとても頼りない感じです。仕方なく、リリー・メイは身体の力を抜いて香蘭の腕の中に収まりました。そうすると、香蘭は良い子ね、とでも言うように頭を撫でてくれました。


「旦那様。少し席を外してくださいな。そう……昼食の支度を命じてください。莉麗が落ち着いたらお腹が空いているでしょうから」

「分かった」

「ああ、それと熱いお絞りも。女の子が目を腫らしていては可哀想です」

「……分かった」


 涙が次々と溢れてくるのを顔を伏せて隠しながら、リリー・メイはやっぱり華夏フアシアの女の人がお人形だなんて嘘だわ、と思いました。




 リリー・メイが泣き止むのにどれくらい掛かったかは分かりません。香蘭はずっとそばにいて頭や背中を撫でていてくれました。

 やっと涙が止まって、目を拭ってもらうと、言われた通りにお腹が空いていました。泣いてしまっただけでも恥ずかしいのにお腹が空いたなんて言えないわ、と思ったのですが、香蘭は何も聞かずに広間に案内してくれました。ダニエルと食事をいただいて、昨日もお兄様たちとお茶をいただいたあの部屋です。


 大きなテーブルの上には、美味しそうな香りのお粥が湯気を立てていました。具合が悪い時にジェシカに作ってもらうようなパンとミルクのお粥ではなくて、米を煮込んだもののようです。海老の香りがしているのは、朱ウェイロンはリリー・メイがお肉よりお魚が好きだと言ったのを覚えてくれていたのかもしれません。


「別に病気ということではないのですよ。普通の料理で良かったのに」

「いえ、お粥も好きですから。いただきます」


 呆れたような顔の香蘭を遮るように、リリー・メイは陶器のスプーンを取りました。実際、お粥には小さな海老やお野菜も入っていて、物足りないということはなさそうです。


「……夕方にはエドワードが迎えにくるだろう。それまで屋敷の中を見ていれば良い。庭はあいにくあまり花が咲いていないが、香蘭の衣装でも見ていれば楽しいかもしれない。後は、文字は分からないだろうが少しは絵本や図鑑もあるから」


 熱いお粥に息を吹きかけて冷ましながらいただくリリー・メイに朱ウェイロンが言いました。リリー・メイは手を止めてちょっと考えます。絵本の舞台のような華夏の古いお屋敷を探検するのも、きらびやかな刺繍や細工ものを見せてもらうのもとても楽しそうでした。でも、今のリリー・メイには他にしたいことがあるのです。


「あの、それよりも」


 思い切って、リリー・メイはお願いしてみることにしました。


「翡蝶のことを、もっと教えてください」


 朱ウェイロンが驚いたように軽く目を瞠ったのを見て、リリー・メイは少し不安になりました。この人だって何かお仕事があるに違いないのです。お屋敷を見ておいで、と言ったのは、もうリリー・メイに構っている時間がないということなのかもしれません。


「エドワードからは何も聞いていないのか」

「……聞きづらくて」


 本当は、お兄様が翡蝶を好きなようだから嫉妬していたのですが。それを正直に言いたくはありませんでした。

 嫌な気持ちを思い出したのと、お母様の翡蝶を悪く思っていた後ろめたさで、リリー・メイは表情を曇らせて俯いてしまいました。


「エドワードに聞けないことを私に聞いてくれるとは、嬉しいことだ」


 そこへ聞こえた朱ウェイロンの声は思いがけず明るくて、リリー・メイはぱっと顔を上げました。すると、にっこりと微笑む黒い瞳と目が合って、今度はリリー・メイが目を丸くしました。


「話して、くれるんですか?」

「もちろん」

「お仕事はないんですか? 時間は……」


 信じられない思いで立て続けに問いかけるリリー・メイを、朱ウェイロンは軽く手を振って止めました。


「父親面を許してくれるなら、莉麗、娘の頼みを叶える気分を味わわせてくれ。仕方のないことと分かってはいるが、どうしてずっと離れたままだったのか、悔やまれてならないのだ」


 そう言われて、リリー・メイの胸に何か暖かなものが広がりました。この人をお父様と思うことは難しいと――まずお父様とお母様がどういうものが知らなかったし――思っていたのですが、今はリリー・メイを大事に思ってくれる人がいるということがとても嬉しく感じられました。


「じゃあ」

「まずは食べなさい。そうしたらまた菓子をあげよう」

「はい!」


 リリー・メイはまたスプーンを手に取りました。お粥に口をつけると、今度はちょうど良い熱さまで冷めていました。




 食後のお茶は華夏の葉で、色こそお屋敷でいただくお茶に似ていますが、渋みが強いと思います。一口飲んで顔を顰めたリリー・メイに、香蘭は笑ってお菓子を勧めました。胡麻の風味のする濃い甘さの餡のお菓子と一緒にいただくと、お茶の苦さも不思議とすっきりとしたものに感じられるのでした。


「何から話したものか……」


 朱ウェイロンはお菓子には手をつけず、お茶だけをいただいています。腕組みをして言葉を切ってしまったので、リリー・メイも困ってしまいます。翡蝶のことは何も知らないので、尋ねることも浮かばないのです。


「翡蝶を――新しい妻を迎えることになった経緯からではいかがでしょうか」


 助け舟を出してくれたのは、ほんの一口だけお菓子を齧った香蘭でした。足と同じように、ものを食べる仕草も小さくて慎しまやかです。一方、思い切り頬張ったリリー・メイは少し恥ずかしくなってしまいました。


「ふむ。そうだな」

「莉麗には妻、の複数系は馴染まないでしょうから」


 リリー・メイは慌てて口の中に絡みつく餡を飲み込んで口を挟みました。


「あの、奥様は翡蝶のことは――」

「わたくしは会ったことがないからよく知らないの」


 香蘭はいつものようにおっとりと微笑みました。


「だから、わたくしも旦那様のお話を聞くのが楽しみだわ」

「奥様は――」


 リリー・メイは言っても良いものか悩みましたが、香蘭の優しい眼差しに促されて恐る恐る尋ねました。


「翡蝶のこと、嫌いではなかったんですか?」

「いいえ」


 香蘭の笑顔が全く揺らがなかったのが、リリー・メイには不思議でした。リリー・メイはまだお兄様と結婚していないお姉様でも、お兄様の近くにいるのを見ると胸が痛くなるのです。華夏人は奥様が何人もいることがあるそうですが、奥様にとってはとても嫌なことではないのでしょうか。


「旦那様が選んだ女だから間違いないと思っていたわ。そう、確かにそういうところは華夏の女は殿方の言うなりなのかも」


 香蘭は朱ウェイロンを見つめて微笑みました。逆に、朱ウェイロンの方は軽く眉を寄せました。


「間違い、ない……?」

「ええ。旦那様を信じているの」


 信じていれば、嫉妬しなくても済むのでしょうか。お兄様を信じられれば、お姉様と一緒のところを見ても何とも思わないでいられるのでしょうか。

 戸惑うリリー・メイを他所に、香蘭は変わらない穏やかな口調で続けました。


「それに、翡蝶を迎えようとしたのはわたくしのためでもあったのよ」


 香蘭の目線と言葉を受けて、朱ウェイロンがうなずきました。


「そうだった。……やはり、そこから話すのが分かりやすいだろうな」


 朱ウェイロンはどこか遠くを見るような目で語り始めました。お兄様が翡蝶のことを教えてくれた時も同じような顔をしていました。昔のことを思い出す時は、みんなこんな表情になるのでしょうか。リリー・メイにはまだ分からないことでした。


「莉麗が十二歳だから……その更にもう少し前になるか。

 私はワイライフーとの付き合いを始めた頃で、彼らとの社交には妻子を伴わなければならないのを知ったところだった。

 そこで香蘭にワイユーを覚えてもらおうとしたのだが、なかなか上手くいかない。洋装も、言葉が拙いのを侮られるのも、纏足を奇異の目で見られるのも。これには耐え難いことだったのだ」


 香蘭の方を見るとやはりおっとりと微笑んでいました。

 玉蓮のドレスの生地を選ぶために会った時は、子供扱いされるのも都合が良いことがあると言っていました。少しくらい失礼なことを言っても許されるから、と。

 すごいと思ったのですが、そう言えるようになるまでに嫌な思いもしたのかもしれません。リリー・メイだって言葉が通じない人に囲まれるのは心細くて怖いことでした。


「まして金蓮ジンリェンは……外来戸の前に出るなどできない相談だ。だから、外語も外来戸の流儀も解する女を迎えようと考えた」

「それが、翡蝶……?」


 朱ウェイロンはリリー・メイに視線を戻すと、微笑んでうなずきました。


「そう。賢い女だった。当時の私よりも外語が堪能ではなかったかな。それでいて考え方は華夏の女のものだったし、香蘭や金蓮とも上手くやっていけるだろうと思ったものだ」

「翡蝶のこと、好きでしたか……?」


 リリー・メイは思わず遮るように問いかけてしまいました。

 お兄様は、結婚は家や商会のためにするものだと言っていました。朱ウェイロンの口ぶりも、お兄様の考えと同じようです。リリー・メイもそういうものだと思っていました。でも、今は何だか寂しいと思ってしまったのです。


「愛していた」


 朱ウェイロンは恥ずかしそうに――大人の男の人がそんな顔をしたのでリリー・メイは驚きました――言うと、香蘭をちらりと見てから少し早口で続けました。


「最初は都合の良い女だと思った。莉麗に似ている、と言えば美しかったのも分かるだろう。

 だが、それだけではなく強い女でもあった。だから、そこに惹かれていった」

「翡蝶が、強い?」


 リリー・メイは首を傾げました。お兄様はしきりに翡蝶のことが可哀想だったと言っていました。だからリリー・メイはぼんやりと翡蝶はか弱い雰囲気の人だと想像していました。

 そんな疑問を読み取ったのでしょう。朱ウェイロンは微笑みました。リリー・メイが教わったことをなかなか飲み込めない時にお兄様が見せる表情と似ています。一生懸命考えているのを、励ますような表情です。


「意外に思うのも無理はない。だが、本当のことだった」


 そう言うと、朱ウェイロンは続ける前にお茶を一口含みました。

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