第34話 遺されたもの
「
リリー・メイがあまりにもぼうっとしているからでしょうか、
「でも……リリーは
刺繍の靴はリリー・メイの手の中に収まっています。それほどに小さいのです。おまけに先の方は三角に尖っていて、爪先を入れることさえ出来そうにありません。
「大人の女が履くにしては小さ過ぎるのだ。たとえ纏足をしていても」
頑なに首を振るリリー・メイに、朱ウェイロンは辛抱強く語りかけました。
「香蘭と金蓮も口を揃えた。これは、纏足を始めたばかりの子供のための靴だ」
「子供のための……?」
「そう。最初はどんな子でも足の骨を砕いて折り曲げる痛みに泣き叫ぶ。それを少しでも紛らわせるために母親は手の込んだ美しい刺繍を施した靴を履かせるそうだ」
「骨を砕く、なんて。そんな怖いこと……」
リリー・メイが身震いすると、朱ウェイロンは慌てて靴を握らせたままだった手を離しました。謝るかのように目線を伏せて、少し口調を和らげます。
「莉麗には痛くて怖いばかりの話だな。すまない」
そして、朱ウェイロンは自分自身が痛みを感じているかのように顔を歪めました。
「だが、
「…………」
リリー・メイには何て答えたら良いか分かりませんでした。まず、目の前の人が言っていることもよく飲み込めていないのです。朱ウェイロンの言葉には不思議な
リリー・メイは翡蝶の気持ち、なんて考えたことがなかったのです。香蘭や
「
リリー・メイがやっとそう答えると、朱ウェイロンはほっとしたように笑いました。そしてすぐに眉を寄せます。
「租界で育った莉麗には、纏足は気味が悪いだけではないかとは思ったのだ。だが、それにしても母親のものを手放してしまおうというのが気に懸かった――エドワードは、本当に全てを話したのか?」
朱ウェイロンの瞳は、また黒い刃物のように鋭いものになっています。最初に攫われるようにお屋敷に連れて来られた後、お兄様と言い合っていた時のように。
一人で呼ばれたのはこのためだったのね、とリリー・メイは気付きました。やっぱりこの人はお兄様が嫌いなのです。
「お兄様は、ちゃんと話してくれました。リリーはいらないって言ったのに」
リリー・メイは朱ウェイロンの深く黒い瞳を真っ直ぐに見つめて言いました。できるだけはっきりと、堂々と。お兄様が悪く思われたままでは可哀想です。嘘を言ったと疑われているなら、リリー・メイが疑いを晴らしてあげなくてはいけません。
「どのように?」
リリー・メイは膝の上に押し付けられた靴をぎゅっと握り締めました。ひるむことなく、きちんと続きが言えるように。
「アルバートは翡蝶のことが好きで、結婚を申込みました。翡蝶のために華夏風の離れを作ってあげたりして。でも、翡蝶はアルバートのことが好きじゃなくて、本当は別の人が好きで――」
リリー・メイはまだ朱ウェイロンのことをどう呼べば良いのか決めかねているので、言葉をぼやかして目線と顔の向きで本当のお父様だというこの人のことを示しました。朱ウェイロンもうなずいたので、リリー・メイの言いたいことは伝わったと思います。
「だから、翡蝶は阿片を吸うようになって、リリーが生まれてからも変わらなくて、それで、亡くなってしまった、って……」
言い終えた後も朱ウェイロンはしばらく難しい顔で黙ったままだったので、リリー・メイは息を詰めてじっと見守りました。もしお兄様の言ったことに嘘があったら、リリー・メイが間違って覚えてしまっていたらどうしようと思ったのです。
「――大筋では合っているようだ」
認めたくないが、と言葉に出さなくても聞こえるような口調で朱ウェイロンはやっとうなずきました。とはいえ表情は険しいままで、リリー・メイはまだ安心できません。
「だが、早くに死に別れたとはいえ母親のものを要らない、などと。エドワードが話したのはそれだけか? あの男は何か自分に都合の良いように言ったのではないか?」
「お兄様は、関係ないです」
ここで目を逸らしてはいけないわ、と自分に言い聞かせて、リリー・メイは懸命に言い募りました。本当は、最初に翡蝶が嫌いになったのはお兄様が翡蝶のことばかり話すから嫉妬してしまったからなのですが。
正直に言ってしまったら、きっとこの人はお兄様のことを良く思わないでしょう。だから、リリー・メイは昨日から考えていたことを代わりに口に出しました。
「だって、翡蝶はリリーを置いて死んでしまったから。玉蓮は言っていたわ。親は娘が可愛いものだって。でも、翡蝶はリリーのことなんかどうでも良かったの。だから嫌いで、そんな人のものを持っていたくなくて――」
「だが、違うと分かっただろう?」
温かくて大きな、でもお兄様とは違う手がリリー・メイの手に重なりました。握り締めたままの刺繍の靴を包み込むように。
この人の、それに香蘭や金蓮の言うことが当たっているなら、翡蝶がリリー・メイのために作ってくれたものだそうです。でも、そうだとしても――
「お兄様は、翡蝶はリリーのことを構わなかったって。金蓮奥様とは違うの。ひどい人だわ」
リリー・メイはいやいやをするように首を振りました。翡蝶にもアルバートにも構われなかったから、リリー・メイは可哀想な子だとお兄様に言われたのです。その時は、お兄様がいるから可哀想だなんてことはないのに、と思いました。でも、お兄様の様子がおかしくなった今となっては、優しいお父様やお母様がいて欲しかったと思うようになってしまいました。
「エドワードにはそう見えたのかもしれないし、莉麗にそう思わせたい理由があるのかもしれない。それは今は言うまい」
「お兄様は……」
お兄様をかばってあげなくては、と思うのですが、良い言葉が見つかりませんでした。前ならお兄様はリリー・メイのことを想ってくれていると信じられたのですが、最近はひどいことを言ったりしたりするばかりで、大事にされていると思えなくなってしまったのです。
「エドワードが知らないことを教えよう」
朱ウェイロンは立ち上がると、お茶を新しく淹れ直しました。消えかかっていたジャスミンの香りがまた華やかに部屋に広がります。
そういえばお兄様から翡蝶の話を聞かされた時もジャスミンのお茶を淹れてもらったのでした。翡蝶が好きな香りだったと言って。華夏語での呼び方も言っていたけれど、そこまではリリー・メイには思い出せません。
「冷めてしまったから。菓子も遠慮しないで食べなさい」
「……ありがとうございます」
朱ウェイロンは自分でも茶器を傾けて口を湿すと話を続けました。
「女の子が三、四歳になると纏足を始める。大抵は母親がやるが、親族や召使がやる場合もある。さっきも言ったが子供の足を文字通りに折り曲げるのだ。子供は痛みで止めてくれと泣いて頼むし、熱も出るから、気が弱い女では心が折れてしまうのだ」
聞かされたことがあまりに痛そうで可哀想で、リリー・メイはドレスの下で足をもぞもぞとさせませた。お兄様が纏足のやり方について詳しく教えてくれなくて良かったと思ってしまいます。そしてなんでこんな話をするのかしら、と淡々と語る朱ウェイロンを恨めしく見上げました。
「美しく形を整えるのにまず数年掛かる。その後も布を巻き替えたり薬を塗ったりは終生必要ということだ」
「それ、リリーに関係あるんですか? 翡蝶も――」
我慢できなくなって口を挟んだリリー・メイに、朱ウェイロンはきっぱりと言いました。
「租界では代わりに娘に纏足をしてくれる者はいない。翡蝶が莉麗にその靴を作ったのだとしたら、自分の手で娘を育て上げるつもりだったのだろう」
「嘘! だって、翡蝶は死んでしまったじゃない!」
リリー・メイは思わず高い声を上げてしまいました。この人もお兄様と同じでリリー・メイが翡蝶のことを好きになって欲しいみたいです。お兄様と同じように、翡蝶のことが好きだからなのでしょうか。リリー・メイは膝の上の靴を投げ出したい気持ちを必死に抑えました。
「翡蝶はリリーなんてどうでも良かったのよ……!」
俯いて繰り返すと、朱ウェイロンはまた眉を寄せました。怒っているとか機嫌が悪いというよりも、悲しそうな表情だと思います。
「人の心は一様ではない。翡蝶が死んでしまったのは――逃げたかったのかもしれないし何もかもどうでも良くなったのかもしれない。彼女がその道を選んでしまったのは、私にとってもこの上なく悲しいことだ。だが、莉麗を愛しく想って案じる気持ちも、間違いなくあったと思う」
「どうして、分かるんですか!?」
それならリリー・メイを置いて死んでしまうなんてことは、こんなに寂しい思いをさせることはないでしょう。今になって翡蝶はリリー・メイを大事に思っていた、なんて。都合が良さ過ぎて信じてはいけないと思ってしまいます。
「靴だけではないのだ」
朱ウェイロンは机の上の紙にさらさらと何か書くと、リリー・メイに見せました。そこには華夏の文字が二つ、並んでいます。
「莉麗、と。玉蓮は文字は書いても意味は教えなかっただろう。莉はジャスミン、麗は美しいという意味だ」
リリー・メイにはその二文字は玉蓮が書いてくれたものと同じかどうかも分かりませんでした。だから、ぼんやりとその字を眺めてその意味だという単語をつぶやきました。
「美しい、ジャスミン……」
「翡蝶が好きだった花だ。翡蝶は、娘に好きな花の名を贈ったのだ」
お兄様も言っていたことだから、本当のことなのでしょう。そして、朱ウェイロンがジャスミンのお茶を淹れたのは、このためだったのでしょう。それでもまだ実感がなくて、リリー・メイは曖昧に首を傾げました。
「リリーは、百合だと思っていたわ」
「翡蝶は
翡蝶は黒い髪に翡翠の瞳をしていたとお兄様が言っていました。リリー・メイも、肌の色はお兄様やお姉様のように白いけれど、珍しいという黒い髪と黒い瞳をしています。リリー・メイは、今までぼんやりとした影に過ぎなかった翡蝶が、急にはっきりとした姿になるのを感じました。知らない女の人ではなくて、リリー・メイのお母様になっていったのです。
「どうして、リリーを呼んだの? どうして教えてくれたの……?」
朱ウェイロンはリリー・メイの頭を撫でようとするかのように手を伸ばして、やっぱり引っ込めてしましました。最近のお兄様と似たような動きです。でも、お兄様のようにぴりぴりと張り詰めたような感じはなくて、何か――リリー・メイを怖がらせないか、心配しているような気配がありました。
「リリーはエドワードが大好きに見えたから、突然父親を名乗っても受け入れられないと思った――というか、香蘭にそう
だが、その靴を贈られて、エドワードの話に不備があるのではないかと思ったのだ」
朱ウェイロンはリリー・メイの髪に軽く触れて、そのまま数秒間手を止めました。避けられないのを確かめたあと、優しく頭を撫でてくれます。お兄様ではないけれど、何度か会っただけの人だけれど、リリー・メイはそれを嬉しいと思いました。
「他の者を――それも近しい血の者、母親のことを悪く思うのは辛いことだろう。エドワードは華夏のことを全て知っている訳ではないから、莉麗の心を軽くする助けになれば良いと思った」
リリー・メイの視界がぼやけました。どうしてかは分からないけど、涙が浮かんできたのです。零さないように一生懸命瞬きしながら、リリー・メイは尋ねました。
「玉蓮が纏足をしていないのはどうしてですか?」
「……もしも翡蝶が纏足をしていなかったら、アルバートの屋敷から逃げられたのではないかと考えるのを止められなかった。そして、もしも玉蓮が、自分の娘が嫁ぎ先で意に染まない扱いを受けて、なのに逃げられなかったら、と思うと耐えられなかった。それに――」
リリー・メイの頭を撫でる手が一瞬止まりました。言っても良いか迷うようにしばらく黙ったあと、朱ウェイロンは続けました。
「翡蝶の娘は租界で
その時に、纏足をしている娘としていない娘で区別をするようなことはしたくなかった」
それを聞いて、リリー・メイは目を閉じました。
「お父様。お母様」
言葉と一緒に、リリー・メイの目から涙が溢れました。
ずっとリリー・メイにはお兄様しかいないと思っていました。でも、お父様もお母様もいたのです。お父様は離れていてもリリー・メイのことを考えてくれていました。お母様は、亡くなってしまったけれど、リリー・メイのことを想ってくれていたと思います。
今やっと、信じることができました。
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