依って立つ場所
第33話 招待、そして
「嫌なら、断るよ」
気がつくと、お兄様がリリー・メイのすぐ傍に来ていました。急な招待に顔が強ばっているのを、嫌がっていると思ったのでしょう。
「でも……」
本当は、失礼なことをしてしまったのはリリー・メイの方です。
「大丈夫だから。二日続けて出掛けるのは嫌だろう?」
お兄様はそう言ってちょっと笑ってくれましたが、相変わらず具合が悪そうで、テーブルに手をついて身体を支えています。こんな調子でお仕事になんて行けるのでしょうか。朱ウェイロンのお屋敷に送ってもらうにも馬車に乗らなくてはいけないし。
そんなことを思いながら手紙をもう一度読み直すと、リリー・メイはある一文を見落としていたことに気付きました。
「リリーだけで、って言ってるわ」
「君を一人で!? とんでもない!」
自分で出した大声に驚いたように、お兄様は辛そうに顔を歪めました。
「でもお兄様、具合が悪そうなのですもの。もう三度目だし、リリーは一人でもご挨拶できるわ」
それに、きっと
「……行きたいの? お父様やお姉様に会いたい?」
お兄様はまだ頭が痛いのか、眉を寄せ、口を曲げたままで言いました。リリー・メイが寝込んだ時にしてもらったように、撫でてあげたいと思うのですが、どうせ止められてしまうに違いありません。だから、リリー・メイはただ首を横に振りました。
「そういう訳じゃないけど。でも、行かなければいけないの」
もっと正確に言うなら謝りに行かなければ、なのですが。そして、リリー・メイはお兄様が昨日言っていたことを思い出して、慌ててつけたしました。
「リリーはここの子よね? 絶対に迎えに来てね」
お兄様は朱ウェイロンにリリー・メイを引き取らないか聞いたそうなのです。朱ウェイロンが何て答えたかまでは言っていませんでしたが、
「そんな心配はしなくて良い」
けれど、お兄様はきっぱりと否定してくれました。リリー・メイが心から安心するには、あまりにも不機嫌そうな口調でしたけど。
「あの男、昨日は君を引き取るつもりはないと言っていたんだ。一晩経って気が変わったなんて身勝手なこと、許せるものか」
怒っているのか、まだ気分が悪いのか、お兄様は顔をしかめたままです。
「どうしても行くと言うなら着替えなさい、リリー。私も行くから」
「え、お兄様も?」
リリー・メイは驚いて目を瞠りました。こんなに具合が悪そうなのに、馬車に乗ることなんてできるのでしょうか。
リリー・メイが気遣う目の前で、お兄様はお水を一杯飲み干しました。そして、気分の悪さを振り払うかのように軽く頭を振って、強い口調で言いました。
「
それでも、お兄様の身支度にはいつもより時間が掛かりました。髪を上げてもらったリリー・メイの方が待ったされたくらいです。
馬車の中でも襟元を緩めて窓に寄りかかるお兄様の姿はいかにも気分が悪そうで、リリー・メイは思わず言ってしまいました。
「お兄様、寝ていなくて大丈夫なの? リリーだけでも構わなかったのに」
気持ちを落ち着かせるために、リリー・メイはツィード地の少しちくちくするスカートを撫でました。お兄様と朱ウェイロンが言い合うところは、怖いからあまり見たくないのです。朱ウェイロンに対しては悪いことをしてしまったから、怒られるのは仕方ないと思えるのですが。
「私は自分の意思で行くだけだ。リリーは気にしなくて良い」
「でも、一人だけって言われたのに」
「関係ない……」
お兄様は半ば目を閉じて窓の外を向いたまま、つぶやくように言いました。
「昨夜、君に関係ないと言われてとても悲しかった。もし、万が一でも、このまま君が遠くに行ってしまったら悔やんでも悔やみきれない」
リリー・メイは驚いてお兄様の横顔をまじまじと見つめました。リリー・メイの方こそ、お兄様が離れていってしまってずっと寂しくて悲しくて辛い思いをしてきたのに。リリー・メイが言ったのはただ一言だけです。それも、お兄様はお父様でもお母様 でもないから関係ない、ということだけ。別に嫌いだから言ったことではないのに、どうしてお兄様がこんなに気に病んでいるのか訳が分からなかったのです。
お兄様はまた苦しげに目を瞑って、窓に頭を預けてしまいました。話しかけるのも悪いだろうと思ったので、リリー・メイは仕方なく反対側の窓から外の景色を眺めることにしました。
租界の外の、
でも、三回目ともなると、どこか見慣れて馴染みのあるものに思えてきました。
「
朱ウェイロンが笑顔で迎えたので、リリー・メイは少し安心しました。会うなり怒鳴られてしまったらどうしよう、と思っていたのです。
スカートを摘んで挨拶しようとした時、お兄様がリリー・メイを隠すように前に出ました。
「
朱ウェイロンはほんの少しだけ眉を上げました。それだけで、お兄様の言葉に怒ったのが分かりました。リリー・メイは後ろから見ていてはらはらしてしまいます。
「妻たちや
「リリーを呼んだのはあの子のためだったということじゃないか。母親がいないからといってリリーを軽く扱うつもりか? それとも奥方たちには隠してリリーを囲うつもりなのか?」
朱ウェイロンは、嫌そうに顔を歪めて、今度はため息を吐き、吐き捨てるように言いました。
「お前の発想は下世話だな、エドワード」
そして、一歩前に出ると、軽く屈んでリリー・メイと目線を合わせて笑いかけてきました。
「その辺りのことをきちんと話さなくてはならないと思ったのだ。どうしてかは、分かるだろう、莉麗?」
リリー・メイはこっくりとうなずきました。お兄様に対してと違って、リリー・メイに対する口調はとても優しいものでした。あまり怒っていないのかも、とほのかな期待を抱いてしまいます。
「一人で、と言ったのに来てくれたのだな。エドワード抜きで、二人で話しても良いだろうか」
「ええ……」
「リリー!」
ためらいがちに、けれどはっきりとリリー・メイがうなずくと、お兄様が驚いたように大きな声を上げました。
「本当に私がついていなくて大丈夫なのか? 一人で怖くない? 君のためなら仕事なんて休んで良いんだ、一緒に――」
「いらないわ」
どうしてお兄様はこんなに早口でまくし立てるみたいに言うのかしら、と心の中で首を傾げながら、リリー・メイは遮りました。お兄様に安心してもらえるように、できるだけ自然な笑顔を作りながら。朱ウェイロンとの話をお兄様に聞かれるのは、きっと決まりが悪いですから。
「具合が悪いのに送ってくれてありがとう、お兄様。リリーは一人でも大丈夫だから。帰って休んでいてちょうだい。お願いだから」
そしてやっぱり不安になったので、お兄様の袖をちょっと握って念を押しました。怖いというなら、一人になることよりも置き去りにされてしまうことなのです。
「迎えに、来てくれるのよね?」
「あ、ああ。それは、もちろん……」
見上げた先でお兄様がうなずいてくれたので、リリー・メイは今度こそ心からの笑顔を浮かべることができました。
お兄様が――まだふらふらとした足取りだったので、リリー・メイは心配になりました――馬車に乗って戻っていくのを見送ると、リリー・メイはお屋敷の中へと案内されました。
通されたのは、前にお食事をいただいたことのある広間ではなくてもっと小さな部屋でした。壁には本棚が並んでいて、机の上には筆記具が――本国の造りのペンとインクと、華夏の筆と墨とそれぞれ――あるので書斎なのだろうと思います。本の背表紙に書かれているのはもちろん華夏語です。複雑な形の文字がたくさん並んでいるところを見て、リリー・メイは目が回りそうな気がしました。
「今日は玉蓮は来ていないのだ。相手をするのが私だけで、すまない」
朱ウェイロンがお茶の準備をしながら言いました。お湯を注がれた茶器からはジャスミンの香りが立ち上ります。寒くなっていく季節には合わない香りですが、爽やかな花の香りはリリー・メイも好きなものです。
「奥様も?」
そういえば、最初に来た時にも玉蓮はいませんでした。他のお屋敷にいる、と
「二対一になってしまうと気疲れするかと思ったのだが。呼んだ方が良かったか?」
リリー・メイは何秒間か考えました。香蘭がいてくれた方が気は楽ですが、叱られるところはあまり人に見られたくありません。
「いいえ、大丈夫です」
「それは良かった。では、そこに掛けて」
朱ウェイロンは微笑みました。怒っているのではないのかしら、とリリー・メイは不思議に思いました。勧められるままに黒っぽくて艶やかな木で出来た椅子に座りながら、いいえ勝手に安心してはいけないわ、と思います。失礼なことをしてしまったのだから、まずはきちんと謝らなければいけません。
「茶菓を」
「……ありがとう、ございます」
だから叱るなら早くして欲しいのですが、お菓子までいただいてしまってリリー・メイはいっそ困ってしまいました。出されたのは、バターたっぷりのマドレーヌ。レモンの皮をすりおろしたのが少しだけ入っていて良い香りがします。このお屋敷の料理人は本国のお菓子も作れるのでしょうか。それともわざわざ租界から取り寄せたのでしょうか。
「口に合うだろうか」
「はい。美味しいです」
思えばこの人と二人きりになるのは初めてだったかもしれません。最初の時はダニエルがいたし、その後もお兄様や香蘭や玉蓮が一緒でした。何を言われるかまだ分からないのもあって、リリー・メイの受け答えはぎこちないものになってしまいます。
朱ウェイロンは、しばらくリリー・メイがマドレーヌを齧るのを目を細めて眺めていました。穏やかな表情であってもずっと見られているのは落ち着きません。
「あの、お話って……」
「そうだったな」
思い切って話しかけると、朱ウェイロンは茶器を置きました。そして、机の
「これを見て、驚いたのだ」
朱ウェイロンの手の中に自分が書いた手紙もあるのを見て、リリー・メイは顔が赤くなるのが分かりました。私にはいらないものだから翡蝶のことが好きな人が持っていた方が良いと思うから、あげますと書いたのです。今思えば、受け取った方の気持ちなんて全然考えていませんでした。
「ごめんなさい、失礼なことをして……。手袋、途中までは編んだんです。今度持ってくるから――」
「謝ることではない」
リリー・メイはうつむかないように必死で顔を上げて言い募りました。申し訳ないと思っているのがちゃんと伝わるように。けれど、朱ウェイロンは優しく、それでもきっぱりと首を振りました。
「翡蝶の形見を分けてくれたのは嬉しかった。しかし受け取る訳にはいかない」
「嬉しいならどうして? 翡蝶のもの、持っていないのではないですか……?」
怒られるのではないと分かると現金なもので、リリー・メイはできれば翡蝶の靴を引き取ってもらいたいと思ってしまいました。リリー・メイにとって、翡蝶は知らない人です。リリー・メイに何もしてくれなかったお母様です。そんな人のものを手元に置いておきたくないのです。
「これを持つべき人がいる。そしてそれは私ではない」
「持つべき、人? それって――?」
お兄様でなければ良いけど、と思いながらリリー・メイは尋ねました。朱ウェイロンは、お兄様が翡蝶のことを好きだと知っているのでしょうか。
「莉麗、あなただ」
「え?」
朱ウェイロンが手を取って靴を押し付けたので、リリー・メイは驚いて手を引っ込めそうになりました。けれど、大人の男の人の強い力で、しっかりと手の中に握らされてしまいます。
それでも訳が分からなくて、リリー・メイはきょとんと朱ウェイロンを見上げました。戸惑う視線を、黒い――リリー・メイと同じ――瞳がしっかりと受け止めます。
「この靴は、翡蝶が莉麗のために作ったものだ」
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