第32話 拒絶と動揺
「一人だなんて、そんなことは……私が、いるから……」
随分と長い沈黙の後、お兄様も絞り出すような声を出しました。ちらりと様子をうかがうと、とても苦しそうな表情をしていたので、リリー・メイは驚きました。泣いてしまいそうだからそちらを見てはいけないと思っていたのですが、思わず身体ごと向き直って正面からお兄様の顔を見てしまいました。
「お兄様?」
ランプの柔らかい灯りに浮かんだお兄様の瞳は、空というよりも水面のようだと思いました。水面に
「お兄様? どうしたの?」
「リリー。可哀想に。すまない」
お兄様はリリー・メイの間近に跪くと、頬に手を伸ばそうとして触れないところで止めてしまいました。やっぱり、という気持ちがある一方で、それでも優しくしてもらえる期待が裏切られて、リリー・メイは沈んだ声でまた尋ねました。
「何が?」
「君がもっと小さい頃にお父様やお母様のことを話しておけば良かった。その頃なら、君が寂しがって泣いても抱き締めてあげられたのに。例え
お兄様の手はリリー・メイの顔の傍をさまよって、でも決してそれ以上は近づいてきませんでした。
「全て、私のせいだ」
抱き締めてもらえないことを寂しく思いながら、リリー・メイは首を傾げました。別にお兄様が悪いと言いたかった訳ではないのです。
「お兄様は関係ないわ」
それから、翡蝶を嫌いだなんて言ってしまったから庇っているのかしら、と思いました。まだ翡蝶のことが好きなお兄様の前で、言ってしまって良いことではなかったかもしれません。
「ただ……お母様がいる子と会ったから、お母様ってどんなものなのかしらって思っただけよ。
なのに、どうしてリリーにはお母様がいないのかしらって、翡蝶は何もしてくれなかったのかしらって、それで寂しくなって」
「私がちゃんと教えなかったからだ」
「違うってば」
どうしても翡蝶を悪く言う方向になってしまっていけません。お兄様が一層顔を歪めるのが申し訳なくて、リリー・メイは小さく首を振りました。ちょっとお兄様のお顔を見れば安心して眠れるかと思っただけなのに、どうしてこうなってしまったのでしょう。どうすれば、少しでも笑ってもらえるでしょうか。
「お兄様は沢山のことを教えてくれたじゃない。ずっと優しくしてくれたし」
くれた、と過去形を使ってしまったことに、リリー・メイの胸は痛みました。意識してそう言った訳ではないのですが、お兄様はきっと前のように撫でたり抱き締めたりしてくれることはないのです。そう思うと、お兄様の部屋を訪れたことも間違ったことのように思えてきました。リリー・メイは一体何を期待していたのでしょうか。お兄様を困らせるか怒らせるかするだけなのに。
だから、リリー・メイは無理をして笑顔を作りました。
「翡蝶のことも。仕方ないわ。亡くなってしまった人だもの。それくらい、可哀想なことだったのでしょう。リリーのことなんか考えられなくても仕方ないわ」
「リリー……」
お兄様が優しくしてくれなくなったのは悲しいけれど、リリー・メイは死んでしまいたいとは思いません。好きでない人と結婚して好きな人と会えなくなってしまったのは、それほど辛いことだったのでしょう。お兄様と同じお屋敷にいられるだけ、リリー・メイは幸せなのかもしれません。
「夜更かししてベッドを抜け出してごめんなさい。もう戻るわ」
リリー・メイは羽織らせてもらったジャケットを脱ぐとお兄様に押し付けました。そして、ぴょんと椅子から飛び降りて扉へと走ろうとしました。
「リリー!」
でも、止められてしまいました。お兄様がリリー・メイの腕を取って、背中から抱き寄せたのです。
「関係ないとか、言わないでくれ。黙っていたのは君のためだと思ったからだ。
私は君を愛している。ずっと。だからそんなことは言わないで……」
背丈の小さいリリー・メイを抱き止めるために屈んでいるのでしょう。お兄様の息にお酒の香りが混ざっているのが分かります。
「でも、リリーはただの妹なんでしょう? お兄様はお父様じゃないわ」
それに、お兄様の愛している、は恋人としてのものでもありません。だから、リリー・メイはくるりと振り返ってお兄様に抱きつきそうになるのを必死に我慢しました。この前抱きしめられた時は、キスをしてくれそうだったのにお兄様は途中で止めてしまったのです。
「
お兄様と一緒に寝る、というのはとても魅力的な申し出でした。お兄様に抱きついて温もりを感じながら眠りについたら、きっと嫌な夢も見ないし不安や寂しさも忘れることができるでしょう。でも――
リリー・メイは、身体の前に回ったお兄様の腕にそっと触れました。そして、甘い想像と一緒に振り払いました。
「明日からはまたキスとかしてくれないのね? それなら良いわ」
抱き締められた後で突き放された記憶は、一度だけで今までの楽しくて幸せな記憶より深く刻まれてしまいました。優しくされた後で冷たくされて、何でとかどうしてとか思いたくないのです。
「リリー? 私は、そんなつもりじゃ……」
お兄様の声は風邪をひいた時のようにひび割れていました。リリー・メイからお兄様を拒むなんて、そういえば初めてかもしれません。怒った時でも泣いた時でも、リリー・メイはお兄様に抱きついていっていたのです。でも、お兄様はもうそうしてはいけないと言うのです。
「今日だけ優しくしてもらっても辛いだけだもの。――おやすみなさい、お兄様」
ちらりとだけ振り返ったお兄様は、ひどく驚いた顔をしていました。今日
「リリー、待ちなさい。待ってくれ! リリー!」
叫ぶようなお兄様の声を振り切って、リリー・メイは部屋を飛び出しました。そして、暗い廊下を、行きとは違って走って自分の部屋へと駆け戻りました。
すっかり冷たくなってしまったベッドに潜り込んで、やっぱりお兄様と一緒に寝させてもらった方が良かったかしら、いいえ今日だけなのは嫌だわ、と思い悩んでいるうち、気がつくと朝になっていました。
ジェシカが起こしてくれたので、いくらかは眠ることが出来たと思うのですが、それでもリリー・メイの頭はぼんやりと重くて少し痛みました。朝食の席でお兄様とどんな顔をして会えば良いのかしら、というのも気の重いことです。
「お兄様、大丈夫?」
けれど、お兄様のお顔を一目見るなり、リリー・メイは声を上げてしまいました。いつもは体調が悪いのはリリー・メイの方だというのに、今朝のお兄様は目の下に隈ができているし、顔色も悪くてまるで病気になってしまったようなのです。
「大丈夫、何でもないよ」
そう言いながら、お兄様はお茶しかいただいていないようなので、リリー・メイは心配になって駆け寄りました。
「具合が悪くてもきちんと食べないといけないのでしょう? パンやベーコンも召し上がって」
「本当に何でもない、いらないよ」
寝込んだ時に言われることを思い出してお皿を差し出すのですが、お兄様は顔を背けてしまいます。
「お兄様……」
「エドワード様はお酒を過ごしてしまわれたのです。大きな声を出すと頭に響いてしまうそうですから、静かにして差し上げてくださいね」
昨夜のことを怒っているのかしら、と表情を強ばらせたリリー・メイに、ジェシカがささやきました。
「お酒? 本当に?」
リリー・メイはお皿とジェシカとお兄様を交互に眺めて首を振りました。確かに昨夜お兄様の部屋にお邪魔した時、テーブルの上にはお酒の瓶とグラスがあったのですが。でも、昨夜話している限りではおかしな様子はなかったし、お兄様がこんなに具合が悪そうなのは、リリー・メイの覚えている限りではほとんどなかったことなのです。
「ええ、
「お兄様をいじめるなんて」
とんでもないことです。リリー・メイが慌てて首を振ると、ジェシカは笑って席へと導いてくれました。
「この歳で宿酔だなんて恥ずかしいんだ。気にしないで放っておいてくれ」
そう言うと、お兄様は新聞を広げてしまいました。リリー・メイの席は真向かいなのでお兄様の姿は灰色の紙にぼんやりと映る影でしかありません。だから、どんな顔をすれば良いのかしら、という心配は無駄になった訳ですが、一緒に食べられないというのは、これはこれで寂しいものです。
リリー・メイは何も言わないまま、もそもそと朝食を食べ終えました。
朝食を終えた後、お兄様はお仕事には出ないで、席に着いたまま手紙の確認を始めました。お屋敷で出来ることはここでやってしまうつもりのようで、やっぱり具合が悪いのではないかしらとリリー・メイは心配になります。放っておいてくれと言われたので、声を掛けることも出来ません。ただじっと、お兄様がペーパーナイフで手紙を開封していくのを、食後のお茶をいただきながら眺めるだけです。
中でも商会のお仕事に関わる手紙が一番多いみたいです。リリー・メイにはよく分からない、細かい数字や取引先と思しき
何かの招待か、お友だちからかしら。
そう思うと、リリー・メイの胸はまた痛みました。当たり前のことですが、お兄様がお屋敷の外で何をしているか、リリー・メイはほとんど知らないのです。どんな人と会っているかも。リリー・メイは身体が弱いから、お兄様はかなりの時間を一緒に過ごしてくれましたが、これからは外にいる時間の方が長くなるのでしょうか。
どんな人からなのか、名前だけでも分からないかしら、とリリー・メイは封筒や便箋に目を凝らしました。テーブルの向かい側からではよく見えませんでしたが。
けれど、封筒の色や紙の模様は分かります。手紙の山の一番上に来た封筒を見て、リリー・メイは何だか嫌な感じがしました。白くつるりとした質感の紙は、
お兄様もその封筒を見るなり眉を寄せたので、リリー・メイは一層不安になって、お茶のカップをソーサーに戻しました。
お兄様は一瞬リリー・メイの方をちらりと見てから、その封筒を他と同じ手つきで開封しました。
中に入っていた手紙は短いもののようでした。お兄様が便箋をめくることはありませんでしたから。けれど、目の動きからして同じ一枚を何度も読んでいるようです。これまでの手紙のように、さっと中身を確認して脇に除けたりなんかしないで。
「何の、お手紙なの? 悪いお知らせ?」
お兄様が難しい顔で口元に手をあてるのに至って、リリー・メイは我慢しきれないで口を出してしまいました。
「そういう訳ではないんだが、リリー……」
お兄様は手紙から顔を上げると、リリー・メイを見てため息を吐きました。
「酒なんて飲むものじゃないな」
「お兄様?」
「君の前で開封するところを見せるなんて。もう少し、心の準備がしたかった」
テーブル越しに、お兄様は便箋をリリー・メイへ差し出しました。そこにはきっちりとした印象の字が並んでいます。例の華夏の筆と墨ではなくて、ペンで書いたもののようですが、末尾の署名の綴りが表す音は、リリー・メイも良く知った人のものでした。
「
お兄様と同じように、リリー・メイも何度もその短い文面を読んでしまいました。確かに、言われた通りのことが書いてあります。
「昨日の今日だと言うのに、何を考えているんだ?」
お兄様は眉を寄せて首をひねっていますが、リリー・メイには呼ばれた理由が分かりました。
翡蝶の靴のことに違いありません。贈り物だなんて嘘を吐いてあの
考えようによっては――あまり考えなくても――とても失礼なことです。
怒らせて、しまったのかしら。
今更ながら怖くなって、リリー・メイは膝の上でぎゅっと拳を握りました。
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