第31話 募る孤独

 広間に戻ってユーリェンがドレス姿をお披露目すると、ジュ・ウェイロンとお兄様はよく似合っていると褒めました。ユーリェンも嬉しそうに笑っています。それに合わせてリリー・メイも笑顔を作りました。


 他所の人と同席している間は、お兄様もごく普通ににこやかにしていてくれるのです。リリー・メイを見て困った顔や怒ったような顔をすることはないから、少しだけでも寂しい気持ちをしないでいられます。それは、以前のように甘えさせてくれることはないから、大した違いではないかもしれないですけれど。リリー・メイにとってはせめてお兄様の笑顔を見ることができるのが嬉しいことでした。


 もしも何一つ心にかることがなかったとしたら、絵本から切り取ったような古風な華夏フアシアのお屋敷で、華服の召使に給仕されてお茶やお菓子をいただくのはきっと、もっとわくわくすることだったのでしょうが。


 ユーリェンは、リリー・メイに華夏の言葉と文字を幾つか教えてくれました。


「ジュ? ジュ?」

「そう。舌を――上のあごにつける。朱いという意味」

「ああ、朱家だから朱い服が良いということ?」

「母様はそう思っている」

「わたくしは好きな色を着れば良いと思うのだけど」

「でも、母様は元々赤が好き」

「ちょうど良かったのかしら? ユーリェン、はどういう意味?」

「宝石と、ロータス。母様は金の蓮で金蓮ジンリェン

「お母様から一字いただいたのね。奥様は――」

香蘭シャンラン。香り高い、蘭」


 ジュウェイロンは紙と、筆という華夏の筆記具を用意してくれました。玉蓮ユーリェンは、筆を執ってさらさらと文字を――リリー・メイには模様か絵のように見えますが――書いていきます。玉蓮たちの名前だけでなくて、簡単な挨拶や、テーブルとか椅子なんかの部屋の中にあるものも。


「華夏語は、発音も文字も難しいわ」


 でも何一つ読むことのできないリリー・メイがため息を吐くと、玉蓮はくすくすと笑いました。


「ワタシには外語ワイユーの方が難しい。莉麗リリーと発音が違うの、分かるケドちゃんとできないの」

「リリーも。どうやってそんな音を出してるか分からないわ……」

「一つ一つ全ての音をなぞれなくても良いの。大体で結構通じるものよ」

「奥様はすごいです。言葉を二つも喋れるなんて」

「十何年も教わってこの程度よ。大したことはないわ」


 お喋りをしているのは女の人ばかりです。本国の言葉が分からない金蓮ジンリェンでさえ、玉蓮や香蘭の通訳を通してリリー・メイの華夏語の発音を直してくれています。

 お兄様と朱ウェイロンは静かにお茶をいただきながらその様子を眺めています。玉蓮が着替えている間は二人きりだったはずですが、一体何を話していたのでしょうか。


「莉麗、も書いてもらったら?」


 リリー・メイが横目でうかがっていることに気付いたのか、お兄様が話しかけてきました。お兄様の口から華夏語での呼び名が出たので、リリー・メイはきゅっと唇を結びました。君は本当は華夏人なんだよ、と突き放されているようで嫌だったのです。


「莉麗はこう書く」


 紙に目を落としていた玉蓮は、リリー・メイの表情は見ていなかったようでした。また二つ、白い紙の上に黒いインク――墨というそうです――で文字が描かれます。リリー・メイにとっては他の文字と同じ、意味の分からない模様に過ぎなかったのですが。


「あげる」

「ありがとう、玉蓮」


 でも、玉蓮がリリー・メイのために書いてくれたことは分かるので、リリー・メイは笑ってその紙を受け取りました。




「そろそろお暇を。リリー、もう良い?」


 空が赤から薄い紫、そして紺色へと変わり始めた頃、お兄様が言いました。部屋の中に落ちる影が長くなっているのにも気付かないほど、リリー・メイは玉蓮たちとのお喋りを楽しんでいたのです。


「ええ」


 少し残念に思いながらも、リリー・メイはうなずいてお兄様に目配せをしました。するうと、お兄様は心得た様子でリリー・メイが用意した包み――翡蝶フェイディエの靴を入れたものです――を差し出してくれました。レディは荷物を持ち歩くものではないので、お兄様が持っていてくれたのです。


「今日は、お招きありがとうございました。あの、これ――」


 リリー・メイは席を立つと、恐る恐る朱ウェイロンに歩み寄りました。よく知らない大人の男の人は、やはり少し苦手なのです。


「私に? 何だろうか」


 朱ウェイロンがとても嬉しそうな顔をしたので、リリー・メイの胸がちくりと痛みました。リリー・メイからしたら、いらないものを押し付けているようなものなのですから。いいえ、この人も翡蝶が好きだったらしいから、きっと喜んでくれるはずです。


「リリーが一生懸命作っていた」


 お兄様の言葉に、朱ウェイロンは一層笑って、リリー・メイは一層居心地が悪くなりました。


「開けてみても?」

「後にしてください! 恥ずかしいから……」


 この場で開けてしまったら、リリー・メイの嘘が露になってしまいます。リリー・メイは慌てて朱ウェイロンを止めました。


「それでは後の楽しみにしよう」


 その言葉を合図に玉蓮たちも立ち上がり、お見送りの準備をしてくれました。纏足で動きにくそうな香蘭と金蓮を、玉蓮が忙しく手伝っています。

 実のお母様の金蓮に対しての方が玉蓮も遠慮がなさそうで、リリー・メイはまた羨ましいと思ってしまいました。そして、同時に朱ウェイロンにあげてしまった翡蝶――リリー・メイのお母様の靴のことを思います。お顔も覚えていないし何をしてくれた訳でもないけれど、お兄様が今でも好きだというから嫉妬する気持ちもあるのですけど。

 手放してしまって良かったのかしら、と後悔が波のように押し寄せるのでした。




 お屋敷に着いて馬車から降りたリリー・メイの顔をしげしげと見て、お兄様が言いました。


「長く出掛けたけど顔色が良いね。体力がついてきたかな? それとも楽しい会だったから良かった?」

「どうかしら。とにかく、今日は熱を出したりはしなさそうよ」


 リリー・メイが心からの笑顔でないのに、お兄様は気付かないようです。

 最近お薬をきちんと飲んで食事の好き嫌いもしないのは、言うことを聞かないで療養所に入れられてしまうのが怖いから。お兄様に連れ出されるままにお出掛けするのは、ただでさえ冷たいお兄様に嫌な顔をされたくないからです。結果として身体は元気だとしても、リリー・メイにとっては決して良いことではないのです。

 お兄様はリリー・メイがべたべたしないで言うことを聞いていればそれで良いというのでしょうか。


「それでも早めに休んだほうが良いね。夜更しはしてはいけないよ」

「ええ。お兄様」


 髪を撫でて欲しいわ、なんて、思っても無駄なことはもうねだったりしません。リリー・メイが作り物の笑顔でうなずくと、お兄様はそれで満足したようでした。


 リリー・メイにはそれが嘘になると分かっていましたが。

 ベッドに横になっても全然眠くなんかならないのです。確かに馬車に乗ってお出かけして、長い間お喋りして。疲れてはいるはずなのですが、目を閉じてもまたすぐに開いてしまうのです。


 灯りを落とした部屋の中でぼんやりと目を開いていると、白い寝具が暗闇のなかにうっすらと浮かび上がります。リリー・メイの髪や瞳は、部屋の隅の方のように夜の黒さに紛れてしまっているのでしょうか。


 一人で寝るのは慣れているはずでした。いくらお兄様でも、リリー・メイが寝付くまで物語を読んでくれることはあっても、寝室は別々でした。

 でも、今日、リリー・メイは思い知らされてしまいました。一人ぼっちだということに。

 リリー・メイにはお父様もお母様もいません。アルバートは実は全然関係のない人でした。朱ウェイロンは、玉蓮のお父様でもあります。リリー・メイのことだけを考えてくれる人ではありません。香蘭も金蓮も、優しいけどリリー・メイのお母様ではありません。


 本当のお母様の翡蝶は、リリー・メイを置いて亡くなってしまいました。改めてひどい人だと思います。リリー・メイに優しくしてくれなかっただけでなく、翡蝶のせいでお兄様がリリー・メイから離れていってしまっているようなのです。翡蝶のようにならないように、とか言って。翡蝶と違ってリリー・メイはお兄様が大好きなのに。ずっと二人きりでいたいのに。


「お兄様……」


 つぶやいた声は暗い部屋の中に吸い込まれました。言葉が一瞬だけ空気を揺らした後は、しんとした静かさが余計に寂しく恐ろしく感じられました。


 お兄様に会いたい。


 寂しさが募って耐え切れなくなったリリー・メイはむくりと起き上がると、爪先でベッドの脇の部屋履きを探りました。お兄様はまだ起きているでしょうか。お休みしているならその方が良いです。きっと早く寝なさいと怒られてしまうに違いないですから。扉の隙間からだけでも、眠っているところでも良いからお兄様の姿を見ることができたら――。




 リリー・メイは星明かりを頼りに暗い廊下を歩きます。夜の冷えた空気が寝間着越しに肌に刺さってふるりと身を震わせます。早く戻らないと、熱を出して結局叱られてしまいそうです。

 そうしてお兄様の部屋の前までたどり着いたリリー・メイは困ってしまいました。扉の隙間から光の筋が漏れていたのです。お兄様は、まだ起きているのです。お仕事なのか、本でも読んでいるのかしら。どちらにしても、こっそり覗き見るという訳にはいきません。


 でも、せっかくここまできたのに、すごすごと戻ってしまうのももったいないです。リリー・メイはどうしようかと考えながら扉の前をうろうろと行き来しました。こうしている間にも指先が冷えて言って、早く帰らなければと思うのですが。


「リリー……」


 そして、扉の中から聞こえた声に、リリー・メイは飛び上がりました。リリー・メイがここにいるのが分かってしまったのでしょうか。


「ごめんなさい、お兄様!」


 ベッドから抜け出したのを叱られるわ、と思いながら怖々と扉を開くと、けれど、驚いた表情のお兄様に迎えられました。


「リリー!? こんな時間にどうして。そんな薄着で……!」

「ごめんなさい、どうしても眠れなくて、寂しかったから」

「早く部屋へ――いや、冷えてしまっているな。仕方ない、入りなさい」

「ごめんなさい……」


 何だか噛み合わないわ、と思いながらもリリー・メイはお兄様に導かれて部屋の中へと入りました。


「温まったら、部屋へ戻るんだよ」

「ええ……」


 ジャケットを肩に羽織らせてもらいながら、リリー・メイは部屋を見渡しました。難しい題名タイトルの並んだ本棚や柔らかな光を投げかけるランプはいつも通り。重たそうな鋳物のストーブも、火はまだ入っていないけれど見慣れたものです。

 でも、部屋の中に一つ、普段はないものが目に留まりました。


「お兄様、お酒を飲んでいたのね」


 ベッドの脇のテーブルの上には琥珀色の液体が入った瓶とグラスがありました。前にお兄様に見せてもらった宝石の欠片と同じ、暖かそうな色です。宝石なのに随分軽いのね、と言ったら、お兄様は石ではなくて樹脂が固まったものだと教えてくれました。あげようか、とも言ってくれたのですが、リリー・メイは羽虫が中に入っていて気味が悪いから嫌だわ、と断ったのでした。

 そんなやり取りも、今ではとても懐かしくて遠いことのようです。


「ああ、酔わなければやっていられない気分だった」

「どうして?」


 リリー・メイはさっきまでお兄様が座っていたであろう椅子に掛けさせられました。お酒の香りが鼻をくすぐってむずむずします。お食事の時以外にお兄様がお酒を飲むのは、あまりないことなのですが。


「君が遠くにいってしまうから」


 お兄様はテーブルの傍を離れて窓辺へと行ってしまいました。部屋に入れてくれたからといって甘えさせてくれる訳ではないのです。遠くに行ってしまうのはお兄様のほうだわ、と思いながらリリー・メイは冷えた指先を擦り合わせました。


「どうしてそんなことを思うの?」

ジュ威竜ウェイロンの令嬢や夫人たちと打ち解けていたじゃないか」


 お兄様は顔を半分だけ向けて、リリー・メイを横目で見ました。真っ直ぐに見るのが嫌だとでも言うように。そんな仕草の一つが、またリリー・メイを傷つけます。


「こうなると思っていたんだ」


 お兄様はため息を吐きました。


「本当の父親に会ったら恋しくなるに決まっている。まして歳の近いお姉様と、血が繋がらないとはいえ優しい夫人たちもいる。この屋敷に閉じ込められるよりあちらに行きたいと思うに違いない」

「そんなこと――」


 お兄様はリリー・メイに最後まで言わせず、大きく首を振りました。


「きっとそうなる。だから今日も朱威竜に尋ねてみた。君を引き取るつもりがあるかどうか――」

「そんなの、ダメよ!」


 今度はリリー・メイがお兄様を遮りました。お兄様が言うのはリリー・メイにとっても悲しく嫌なことですが、それ以上に、あり得ないことなのです。


「リリーが呼ばれたのは玉蓮のためよ。纏足チャンズーをしていないのを気にしてるから、租界ではそんなことしなくても大丈夫だって教えるため。翡蝶フェイディエの子供だからって纏足してもらったり、特別大事にされてる訳じゃないって見せるためよ」


「リリー。そんなまさか……」


 お兄様が初めてリリー・メイを真っ直ぐに見ました。真昼の空のような青い瞳が、困ったように揺れています。


「誰もリリーのことなんか大事にしてくれないの。一番に考えてなんかくれないの」

「そんなことはない。私がいるから……」


 リリー・メイはお兄様の言葉を無視しました。信じられないから。ふいと目を逸らして、独り言のようにつぶやきます。


「玉蓮が羨ましいの。お父様とお母様がいて、大事にしてくれているから。それに、翡蝶が嫌い。リリーを置いていってしまったから」

「リリー」


 衣擦れの音がして、お兄様が近くに来たのが分かりましたが、リリー・メイは振り向きませんでした。泣くか睨むかしてしまいそうだったから。代わりに、噛み締めた唇の間から絞り出します。


「リリーはどうして一人ぼっちなの……!?」

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