第30話 華夏の母娘

「おはようございます、お兄様」

「おはよう、リリー・メイ」


 リリー・メイが丁寧な――他人行儀な――言葉遣いで挨拶すると、お兄様は笑顔で答えてくれました。妹らしくして、べたべたしていないから安心しているのでしょう。

 慣れることのできない寂しさを抱えながら、リリー・メイは朝食の席に着きました。お兄様と一緒なのは良いですが、前みたいにスコーンを半分こしたりスープをあーんってしてもらったりはできないのです。少なくとも、お兄様に優しくしてもらうにはそんなことを言い出してはいけないのです。


 お兄様はリリー・メイが抱えている包みに目を留めました。紙の箱を、お兄様からいただいた商会の包装紙で包んだのです。


「それが、贈り物? 綺麗に包めてる。よく、間に合わせたね」

「ゆうべ、頑張ったの」


 今日はジュ・ウェイロン一家と会う約束をしています。ユーリェンのドレスが出来上がったというのです。ユーリェンにとっては慣れない洋装で、いきなり着て出掛けるのは恥ずかしいからお屋敷の中で着てみたいということです。だから、リリー・メイとお兄様は、夏のあの一件以来、二度目にあの華夏フアシアの古風なお屋敷にお招きされたのです。


ジュ威竜ウェイロンもきっと喜ぶだろう」

「だと良いけど」

「娘の手作りだから喜ばないはずがない」


 よく知らない人と親子だと言われるのはいまだに嫌なことでしたが、リリー・メイはちょっと笑って受け流しました。お兄様に甘えられない寂しさに比べたら、もうどうでも良いことになってしまいました。


 お兄様は包みの中身をリリー・メイが編んだ手袋だと思っていますが、実は違います。ジュ・ウェイロンのために、と編んでいた手袋は、編み物をする気分にはなれなくて、結局編みかけのままです。お兄様はリリー・メイが何をしているか、ちゃんと見てくれていないのです。

 代わりに入れたのは、計画していた通り翡蝶フェイディエの小さな靴と、いらないからあげます、という手紙です。お兄様のいないところで渡せるとは限りませんから。

 リリー・メイの一番の悩みはお兄様のこと。お兄様に恋していることに気付いてしまって、同時にお兄様が応えてくれるつもりはないと思い知らされてしまったことです。もうすぐベアトリスお姉様と結婚して、二人が仲良くするところをすぐ傍で見なければいけないのだと思うと胸が張り裂けそうです。だから、せめて嫌いな人――翡蝶のものは身の回りから遠ざけたかったのです。




 馬車を乗り降りする時にはお兄様も手を差し伸べてくれるので、リリー・メイは――ほんの何秒間かだけですけど――指先に神経を集中させて温かさや重ねた手の感触を覚えようと努めます。

 何ヶ月か振りに訪れたジュ・ウェイロンのお屋敷は、変わらず古びていて、異国の趣が豊かで、本国風のドレス姿で踏み入っても良いのかしら、という気分になります。


「よく来てくれた、莉麗リリー


 出迎えたジュ・ウェイロンも、今日は華服を纏っていました。黒一色に見えて、陽の当たる加減で濃い赤だと分かる生地です。


「娘たちも待っている。入ってくれ」


 そうして通されたのは、以前ダニエルと食事をいただいた広間でした。華夏語の額も丸く切り取られたような窓も記憶にある通りです。ただ、窓から見える池に咲いていた蓮は、今の季節は枯れてしまっているようでした。


「莉麗、久しぶり!」

「ラドフォード様も。ようこそおいでくださいました」

「…………」


 リリー・メイの姿を見て、破顔して手を振るユーリェンと、いつものように穏やかに微笑むシャンランと。もう一人、会ったことのない赤い華服姿の女の人は、多分――


「これは金蓮ジンリェン。私の第二夫人で、玉蓮ユーリェンの実母だ」


 ジュ・ウェイロンの紹介を聞いて、リリー・メイはやっぱり、と思いました。ジンリェンというレディは、ユーリェンと似たつり上がり気味の目をしたはっきりした顔立ちの人だったのです。初めて会った時のユーリェンのように唇を結んで、ユーリェンの手をしっかりと握ってリリー・メイたちを鋭く見つめています。


「こちらこそお招きありがとうございます、太太マダム。二番目の奥様も」


 お兄様は爽やかに挨拶を述べると、ジンリェンに向かって何か華夏語で言いました。金色の髪に青い瞳のお兄様が華夏語を喋るのに驚いたのでしょう、ジンリェンの黒い瞳が大きく見開かれました。


「リリー。繰り返して」


 お兄様はリリー・メイの耳元に口を寄せると、華夏語らしい音の連なりを発音しました。


「――――」


 お兄様の吐息を感じて少し顔を赤くしながら、リリー・メイは言われたままの音を繰り返しました。華夏語は本国の言葉とは違って音を上下させることで意味が変わるのだと聞いたことがあります。一連の音の連なりは、言葉というよりも変わった歌のようでした。

 言わされたのは挨拶だろうと思って、リリー・メイはスカートを摘んでお辞儀をしました。靴が見えるようにいつもより高くスカートをたくし上げるのも忘れません。ユーリェンとシャンランがこの前言っていたことからして、ジンリェンという人はリリー・メイが纏足チャンズーをしているのではないかと疑っているらしいのです。


 リリー・メイが華夏語で挨拶すると、ジンリェンは一層目を見開きました。そして、旦那様のジュ・ウェイロンとシャンラン、ユーリェンを交互に見ながら何かまくしたてました。

 それを聞いて、お兄様とジュ・ウェイロン、シャンランとユーリェン――リリー・メイとジンリェン以外の人たち――から笑いが起きました。


「大きい子なのに言葉が不自由で可哀想だ、と言っている」


 首を傾げたリリー・メイに教えてくれたのはジュ・ウェイロンでした。


「母様は華語フアユーしか分からない。許してあげて、莉麗」


 ユーリェンが言い添えたのを聞いて、リリー・メイは思い出しました。おぼつかない言葉遣いのシャンランやユーリェンを子供みたいだと思ってしまったことを。二人とも、リリー・メイより歳上のレディなのに。ジンリェンという人も、同じようにリリー・メイのことが舌足らずな子供のように見えるのでしょう。


「ううん、良いの。ちゃんとご挨拶できなくてすみません、ってお伝えしてくれる?」


 ユーリェンがお母様ジンリェンに華夏語で何かささやくと、ジンリェンは眉を顰めながらもしきりとうなずいていました。

 本国の言葉が分からないのに挨拶に出てきてくれたのは、ユーリェンが心配だからだったのでしょうか。それとも、翡蝶の娘のリリー・メイが見たかったからでしょうか。

 どちらにしても、手を繋いだままでささやき合う二人の姿はとても仲が良さそうで、リリー・メイは初めて、お母様がいるってこんなことなのね、と思いました。そして――


「ユーリェン、ドレスが出来たのではないの?」


 シャンランとジンリェンはともかく、ユーリェンまで薄紅色の華服で迎えたので、リリー・メイはあれっと思ったのです。


「これから着替える。母様が、挨拶は華服にするべき、って。莉麗、手伝ってくれる?」


 ユーリェンはちょっと困ったように笑いました。今日も赤っぽい服を着ているのもお母様の言いつけなのでしょうか。ジンリェンという人は色々とこだわりがあるようです。


「ええ、もちろん」


 リリー・メイは笑顔でうなずきました。お兄様が傍にいなければ不安で仕方なかった前の時とは違います。今では、お兄様と離れて他の人とお喋りをする方が、気が楽になってしまっているのです。




 広間とは別の、もっと小さな部屋には、下着からペチコート、靴まで、洋装がひと揃い調えられていました。それに、何といってもユーリェンのドレス。まずは、緑の地に薔薇を散らしたものを着てみるようです。自分のものでなくても、真新しいドレスを見てリリー・メイは久しぶりにわくわくして明るい気分になりました。

 そこへ、シャンランが内緒話のようにささやきます。


「金蓮はね、洋装が怖かったのよ」

「怖い?」


 ジンリェンの方をうかがうと、さっきよりも険しい顔でドレスの一式を睨んでいます。呆れたような表情のユーリェンの手をしっかりと握っていて、どちらがお母様か分からないくらいです。


「肩や腕を出す意匠もあるでしょう。はしたないと言って」

「それは夜会の服ですよね? ユーリェンはそういうのを作ったんですか?」


 ドレスは畳まれたままですが、多分昼間のお茶会に着るような意匠だと思います。シャンランも首を振りました。


「いいえ。莉麗と同じように襟が高くて袖もある意匠なのに。広げて見せまでしたのに外国のものは信じられないと。でも、莉麗の着こなしをみて安心したって」

「……そうなの」


 この様子でも安心したというなら、リリー・メイたちが来る前はどれだけ怖がっていたのでしょうか。リリー・メイはそんなに沢山のレディを知っている訳ではありませんが、大人の人がこんなに緊張を露にしているところは初めて見ました。


「母様は心配なの。ワタシは足が大きいからワイライフーとしか結婚できないかもって」


 ユーリェンがぽんぽんと華服を脱ぎ捨てながら笑いました。この部屋にいるのは女の人だけだから、恥ずかしがらなくても良いのです。布の靴を脱いだユーリェンの足は、白くてほっそりしていて、大きいとはとても思えないのですが、シャンランの掌に乗りそうな足を見たことがあるリリー・メイには言っている意味が分かります。


纏足チャンズーをしていないから?」


 その単語を口にする時、胸がちくりと痛みました。纏足の話をきっかけに、お兄様の様子がおかしくなってしまったからです。纏足をさせないようにリリー・メイを引き取ったのに、華夏人のユーリェンの方が自由に出歩いている、とか言って。

 それに、やっぱりお兄様は翡蝶のことが好きだったのです。確かめるのが嫌だったのにはっきりそう言われてしまって、キスもしてくれなかったのです。

 その時のことを思い出して、リリー・メイは早く翡蝶の靴をジュ・ウェイロンに渡してしまわないと、と思いました。


「旦那様は心配いらないと言っているのに。纏足をしていないからと断るような男は願い下げだそうよ」


 ユーリェンとジンリェンが華夏語でささやき交わしているのは、きっとリリー・メイたちの言葉を翻訳しているのでしょう。小鳥のさえずりのような異国の響きを聞きながら、リリー・メイはユーリェンがドレスを着るのを手伝いました。


「ユーリェンは、纏足をした方が良かった?」


 ここに来るまでのゆっくりとした歩き方から、ジンリェンも纏足をしているのだと分かりました。歩きにくそうな上に、纏足をするのはとても痛いとお兄様が――翡蝶が――言っていました。リリー・メイには、纏足なんてしない方が良いと思えるのですが


「うん。莉麗に会うまでずっとそう思ってた。大きい足はキレイじゃないし、母様が泣くし」


 けれど、ユーリェンは大きくうなずきました。相変わらずぶつ切りの言い方で、リリー・メイには上手く飲み込むことができません。曖昧な表情を察してくれたのでしょう、シャンランが説明を加えてくれました。


「娘に纏足を施すのは母親の役目なのよ。――誰よりも小さな足にしてあげたかったのに、って言ってるわ」


 本国の言葉と華夏語が飛び交っていて、リリー・メイは頭が混乱してきました。


「でも、痛いんでしょう?」


 どうしてわざわざ痛いことをするのでしょう。お母様というのは、物語ではいつも優しいものだというのに。


「ムスメのためならできるんだって」

「娘が泣くのを見るのは辛いこと。でも、良い家へお嫁に行くためには手を緩めてはいけないの。金蓮は、玉蓮のためにしてあげるつもりだったことを取り上げられたと思っていたのよ」


 言葉足らずなユーリェンに、またシャンランが分かりやすく噛み砕いてくれます。

 その間にも、ユーリェンとジンリェンは華夏語でお喋りをしています。眉を顰めるお母様に、ユーリェンはドレスの造りや着付け方を説明しているようです。遠慮なく、時に苛立ったように声を上げたり突つき合ったりしながら、それでも笑っている二人の姿は、リリー・メイがベアトリスお姉様やジェシカと過ごす時とはまた違った様子で、お母様というものを知らないリリー・メイにはとても不思議な感じがします。


「莉麗、旦那様のことが怖いでしょう」


 母子の様子をぼんやりと眺めていたリリー・メイは、だから、シャンランに不意に話しかけられてとても驚きました。


「そんな、こと……」


 辛うじて大きくうなずきそうになるのをこらえました。いくらなんでも、それは失礼過ぎることです。


「お父様だとか、お母様だとかいきなり言われても嫌でしょう」


 続けて言われたこともリリー・メイの気持ちを見事に言い当てていて、それでもうなずく訳にはいかないことで、リリー・メイは押し黙ってしまいました。


「旦那様も分かっているわ。――分かってもらった。急に親子になんてなれないし、まして莉麗は華夏語も華夏のこともよく知らない。今日も来てもらったのは、どちらかというと玉蓮ユーリェンのためなの」

「ユーリェンの……」

「あと、金蓮のね。金蓮はまだ纏足をしていない子はお嫁に行けないと信じている。そんなことをいつもいつも言われたら玉蓮もまた暗い顔になってしまう。租界の子は纏足をしないものだと、しなくても大事にされていると、見せなければ分からないのよ」


 リリー・メイは、最近は大事にしてもらっているのか自信がないので、やはり何も言うことができませんでした。そんなリリー・メイに、シャンランはにっこりと微笑むと、だから来てくれてありがとう、と言いました。

 ユーリェンとドレスの生地を選んだ時も、シャンランは会ってくれたことにお礼を言っていました。翡蝶の娘扱いされたら嫌だわ、なんて思っていたリリー・メイの気持ちとは関係なく、ジュ・ウェイロンたちはユーリェンのことを考えていたということみたいです。


「ユーリェンは、大事にされているのね……」


 ぽつりとつぶやくと、シャンランは穏やかな笑顔で答えました。


「親は子供が可愛いものだから。あの子はわたくしが産んだ訳ではないけれど、それでも小さい頃から育てたから、我が子のようなものよ」


 ――親はムスメが可愛いもの。何があっても嫌わない。


 前に会った時、ユーリェンも言っていました。リリー・メイにはそれが本当かどうか分かりません。お母様の翡蝶も、お父様のアルバートも、リリー・メイが小さい時に亡くなってしまったから。

 今までは、それを悲しいとか寂しいとか思ったことはありませんでした。お兄様がいたから。

 でも、お兄様の様子がおかしくなって、冷たくなってしまった今なら――。


 リリー・メイは、お母様と笑い合うユーリェンをとても羨ましいと思いました。

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