第29話 恋人のキス
「私の、お姫様? リリーは私のじゃない……」
「それでも大事な妹でしょう? この子、すっかり手が冷えちゃってたの。早く休ませてあげた方が良いかもしれないわ」
顔を顰めたままソファから立ち上がるお兄様に、ベアトリスお姉様はあくまで朗らかに答えます。さっき、一瞬だけですけどとても怖いお顔をしたのが嘘みたい。リリー・メイがお姉様を怒らせてしまったのです。
「そんな薄着で外に出るからだ」
お兄様に横目で睨まれたリリー・メイは身を竦ませました。叱られたからか真っ直ぐに見てくれないからかは自分でも分かりませんが、とても寂しく思います。
「ごめんなさい、お兄様。お薬ならちゃんと飲むわ」
大人しく謝りながらも、お兄様にリリー・メイをちゃんと見て欲しい、甘えさせて欲しいと思ってしまいます。
「ちゃんと飲むから、飲んだら褒めて。撫でたりとかキスはいらないから、偉いねって言ってくれる、お兄様?」
お兄様は、最近は以前のようにはリリー・メイに触れてくれません。髪を梳くのも、頭を撫でるのも。抱きしめられたのも、この前の馬車の中でのことが最後です。お薬を飲むから撫でて、とねだった時は、言うことを聞かないと療養所に入れてしまうと脅かされました。
だから、もうそんなことはお願いしません。でも、お兄様に嫌われているかも、なんて考えるのさえ辛いのです。だからせめて、優しい言葉をかけて欲しいのです。
「ああ、好きなお菓子を選んで良いから」
けれど、リリー・メイの精一杯のおねだりは、軽い頷き一つで流されてしまいました。
お兄様は、もう完全にお姉様に向かっています。リリー・メイなんてここにいないかのように。
「ベアトリス、やはりリリーが心配だ。食事は一緒にできなさそうだが、構わないだろうか」
「仕方ないわね。私なんて、お姫様の侍女程度なんでしょう」
「……すまない。この埋め合わせは必ずするから」
「そう、ありがとう」
お兄様とお姉様の会話を、リリー・メイはどこか遠くの舞台でやっているお芝居のように眺めていました。
お姉様のお見送りには、リリー・メイも立会います。最近は体調も良いですから、少しくらい身体が冷えてしまったとしても、寝込んでしまうようなことはないと思います。お兄様が心配だというのも念のためなのでしょう。
「今日は来てくれてありがとう。また、今度」
「待って」
頬にキスをしようとしたお兄様を、お姉様は制しました。
「子供扱いは嫌よ。私たちは結婚するのだから、恋人のキスをして」
お兄様はリリー・メイの方を一瞬ちらっと見て――一瞬だけでも目が会ったので、リリー・メイの心臓は高鳴りました――ため息を付くと、お姉様の顎を少し持ち上げて唇に軽く口付けました。
「これで、良いかな?」
「ええ、ありがとう。――ご機嫌よう」
今度はお姉様がリリー・メイを一瞥すると、くるりと背を向けてお姉様のおうちの馬車に乗っていきました。目を瞠って何も言えないでいるリリー・メイを残して。
「さあ、リリー。今日は大人しくしているんだ。勉強は良いから、ベッドで編み物でもしておいで」
お兄様に促されても――手を引いたり背中に手を回したりなんてしてくれません。最近は、ずっと――リリー・メイは動くことができませんでした。それほど、驚いていたのです。
「リリー」
「ねえ」
焦れたように促されてやっと、リリー・メイはお兄様に呼びかけることができました。ぎくしゃくとした動きではありますけど、お兄様に歩み寄り、高いところにあるお顔を見上げます。
「恋人のキスって、何? 口にするのが恋人のキスなの?」
お兄様は眉を寄せて嫌な顔をして、ふいとリリー・メイから顔を背けました。
「さあ? 君はまだ知らなくても良いことだ。忘れてくれと言っただろう?」
「忘れたりなんかしないわ!」
リリー・メイは覚えています。先日馬車の中でお兄様に強く抱きしめられ、全身を撫でられた時のことを。お兄様が辛そうな顔で、リリー・メイの睫毛がお兄様の吐息で揺れる距離で。二人の唇が今にも重なりそうだったのです。結局、お兄様はそこまでで止めてしまったのですけど。
リリー・メイにとって、キスは頬や額に軽く落とすものでした。お兄様が相手だから、どこにされても良いわ、と思えたのですが、いつものキスと違う意味があるだなんて考えてもいませんでした。
「お兄様、リリーに恋人のキスをしようとしていたの? どうして止めたの? リリーはお兄様の恋人なの?」
リリー・メイはお兄様に次々と問いかけました。実のところ、恋人が何か、ということもよく分からないのですが。ただ、リリー・メイにはしてくれなかったことを、ベアトリスお姉様にはしていたのです。だから、お兄様はリリー・メイよりお姉様の方が大事なのかしら、と思うととても嫌な気持ちになったのです。まだお薬を飲んだ訳でもないのに、口の中も胸も、苦くてたまらないのです。
「妹だ。君は私の大事な妹。そうでしかない」
「でも、この前――」
「だから、してはいけないことだと言った!」
お兄様の言葉はあまりに強くて、鞭のようにリリー・メイを打ちました。こんなに大きな声で、しかも有無を言わせず怒鳴られたのは初めてでした。驚いて、悲しくて、涙がぽろぽろと頬を伝います。
「……泣いても撫でてあげられないよ」
見上げたお兄様は、やはり難しいお顔のままでした。しっかりと腕組みをして、絶対に手を出さないと身体で示しています。
「どうして……?」
リリー・メイは涙でかすれた声で問いかけました。
別に泣けば撫でてくれるかも、と思って泣いた訳ではありません。自然に涙が出てしまうくらい怖くて、寂しくて、辛かったのです。どうしてそんな風に思うの、と聞きたかったし、どうして優しくしてくれないの、という問いでもありました。今までだったら、具合が悪い時や泣いてしまった時は、必ず頭を撫でて落ち着くまで抱き締めてくれていたのに。
「撫でるだけでは済まなくなるから。君に、ひどいことをしてしまう」
「お兄様はそんなことしないわ……」
お兄様は何も言わずにリリー・メイに背を向けてお屋敷の中へと戻って行ってしまいます。リリー・メイは慌ててお兄様を追いかけます。涙がひと雫こぼれて、ポーチの石畳に染みを作るのが俯いた視界に入りました。
「嫌いって言ったのも本当じゃないの。良い子にするから、ずっと好きだから、だから――」
最後の方は
お屋敷に入ったところでお兄様が振り向いたので、リリー・メイはほんの少し安堵してお兄様の間近に駆け寄りました。
「ひどいこと、しても好きだから……!」
ひどいことなら今だって十分されています。それでも、リリー・メイはお兄様が大好きなのです。お兄様を嫌いになるようなことなんて絶対にありません。
涙でぐしゃぐしゃのリリー・メイの顔は、きっとひどいものなのでしょう。お兄様は眉を寄せて、リリー・メイの肩に触れてくれました。
「そうかもしれないね」
分かってくれたのね、とリリー・メイが浮かべた笑顔は一瞬で凍りつきました。お兄様はちっとも笑ってなんかいなくて、肩を掴んだのもそれ以上寄って越させないためでした。お兄様の腕は突っ張った状態で、リリー・メイを目一杯遠ざけています。
「そこまでしても嫌われないことを、私は何より恐れているんだ。私を最低な人間にさせないでくれ、リリー」
お兄様はなんて説明したのでしょう。ジェシカは何も言わずに蒸したタオルを目にあててくれました。
リリー・メイはベッドに横になってずっと泣いています。編み物なんかする気分にはなれません。お兄様に怒鳴られて拒まれたことで心が壊れてしまいそうです。身体を冷やしたのは大したことではなかったかもしれないけれど、泣き過ぎて頭が痛くなってきました。このまま熱が出てしまう気がします。
「お兄様……」
そっとつぶやく声も、涸れてしまっています。熱を出すのは慣れていますが、今まで耐えられたのはお兄様が傍で手を握ったり本を読んだりしてくれたからです。泣いているのに放って置かれる今なら、どんなに具合が悪くてもお兄様は来てくれないのではないでしょうか。そう思うと、収まったと思った涙もまた溢れてきてしまうのです。
扉が軋む音がしたので、リリー・メイは勢いよく顔を上げました。
「お兄様!?」
「お薬をお持ちしましたよ、お嬢様」
けれど入って来たのはジェシカで。リリー・メイは崩れるようにまたベッドに倒れ込みました。
「蜂蜜も持ってきましたよ。きっと喉を涸らしているからと、エドワード様が」
「お兄様はどうして来てくれないの……?」
半身を起こしたリリー・メイは大人しくお薬のお椀を受け取りました。飲みたくないわ、と駄々をこねていたのは、お兄様に構ってもらうためだったのだと今になって気付きました。お兄様が来てくれないなら、そんなことをしても仕方ないのです。
「お嬢様はエドワード様が大好きなのですね」
「そうよ」
ジェシカは問い掛けに答えてくれず、ただ微笑むだけでした。リリー・メイはお薬の表面を一瞬だけ睨むと、思い切って一息に飲み下しました。ジェシカがすかさず蜂蜜を掬ったスプーンを差し出してくれます。嫌な気持ちで胸が一杯だったので、口の中の逃さなんてもうどうでも良くなっていたのですが。
「でも、大好き過ぎるようだと心配ですわ、私どもも、エドワード様も」
さっきの続きだと気付くのに、リリー・メイは何秒間か考えてしまいました。そして、気付いた後でも納得できることではありませんでした。お兄様を好きなことに、何もいけないことがあるとは思えません。
「……どうして心配なの?」
「実は、ジェシカはエドワード様の方も心配だったのです。あまりにお嬢様を可愛がっていらっしゃるから」
またジェシカは真っ直ぐに答えてはくれませんでした。遠回しな言い方がどう繋がるか見えなくて、リリー・メイは苛々と舐め終わったスプーンを突き返しました。
「まるで恋人同士のような様子だったものですから。いくらお嬢様が小さいからといって、抱き締めたりキスをしたり。姪御様が可愛いからだとは信じていましたし、そろそろ子離れが必要と気付いていただけたようですが」
「リリーはお姉様にもジェシカにも抱きつくわ。お兄様とお姉様だってキスをしていたし」
「女同士でしたら、まあ少し幼い振る舞いではありますが問題ございません。そしてエドワード様とベアトリス様は婚約者です」
でも、リリー・メイとお兄様ではダメ、なのでしょう。これ以上は聞きたくなくて、リリー・メイは頭から寝具を被ってしまおうと手を伸ばしました。
「エドワード様は心配なのです」
けれど、ジェシカはリリー・メイの手を止めて繰り返しました。
「……何が?」
仕方なく、リリー・メイはジェシカから目を逸らして聞き返します。
「お嬢様は兄妹としての好き、と恋人としての好き、の区別がついていないのではないかと」
「どう違うの?」
お兄様の心配とやらが当たっているなんて思われたくなかったのですが、リリー・メイには本当に分からないことでした。好き、に色々な意味があるということが。お兄様を好きというだけではどうしていけないのでしょうか。
「兄妹同士では、大きくなったらあまり抱きついたりなんかはしないものなのです」
お兄様もそんなことを言っていました。本当の兄妹はべたべたしないものだ、とか何とか。
でも、全く納得できません。今までは良かったのに、突然お兄様は冷たくなったのです。
「どうしていきなりダメになったの?」
「お嬢様がレディにおなりだからでしょう。最近は、ベアトリス様がドレスを持って来てくださって。本当にお似合いで、綺麗でしたから。子供だと思っていたのに大人になっていたことに気付かれて、だから線を引かなければと思われたのでしょう」
ジェシカは言い聞かせるようにゆっくりと語りながら、リリー・メイの髪を撫でてくれました。多分リリー・メイのことを褒めてくれているのでしょう。でも、それもリリー・メイにはどうでも良いことです。撫でてもらうのも、お兄様でなければ嬉しいとは思えません。
「お兄様、どうしたらまた優しくなってくれるのかしら」
リリー・メイが気にかかっているのはそこだけです。
「お嬢様が心から大人のレディになれば、きっと。見た目はお綺麗なのに子供っぽいのを心配していらっしゃるのでしょうから」
「じゃあ頑張るわ……」
リリー・メイが小さな声で答えると、ジェシカはにっこりと笑ってまた頭を撫でてくれました。
ジェシカがゆっくりお休みを、と言って下がると、リリー・メイはまた泣きました。さっきのように激しく嗚咽を漏らすようなものではありませんが、さっきよりもずっと悲しくて涙が止まりませんでした。
リリー・メイが大人のレディらしく、妹らしく振る舞えば、お兄様はまた優しくなってくれるのでしょう。でも、それは言葉や態度だけのことで、以前のように抱き締めたり頭を撫でたりは決してしてくれないのでしょう。そういうのは恋人がすることだから。
お兄様には、前のように戻るつもりは全くないのです。リリー・メイがどんなに望んでも、あの頃には戻れないのです。
それに、リリー・メイは気付いてしまいました。妹として優しくしてもらうだけでは満足できないことに。お兄様に触れたいし、触れてもらいたい。お姉様と三人とでは嫌で、二人きりで思い切り甘えたい。恋人のキスもしてもらいたい。
リリー・メイはお兄様に恋をしています。兄妹としてではなく、恋人として好きなのです。
でも、お兄様は妹としての好き、しか受け入れてくれないのでしょう。またまとわりつこうとしたら、今日みたいに怒られてしまうのでしょう。お兄様に邪険にされるのはとても辛いことです。そうならないためには、妹扱いでずっと我慢していかなければならないのでしょう。
我慢なんてできるでしょうか。ベアトリスお姉様はお兄様と結婚して、このお屋敷に来て、恋人のキスもしてもらえるのに。それを横から見続けて、リリー・メイは我慢できるのでしょうか。
それに、翡蝶のこともあります。お兄様は今も翡蝶が好きなのです。
お姉様と翡蝶に阻まれて、リリー・メイはお兄様に近づくこともできません。
これが恋の味だというなら、確かになんて苦いものなのでしょう。
お兄様が恋なんてしてはいけないと言っていた意味が分かりました。こんなに辛くて悲しいのに、リリー・メイはまだお兄様を大好きなのです。
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