第28話 血の繋がり
陽当りの良い窓辺で、リリー・メイは一心に手を動かしています。細い編み棒と細い毛糸で編み物をしているのです。遠い国から仕入れたという、高山に住む山羊の毛から作った糸は、羊の毛よりもしなやかで柔らかくて、出来上がっていく編み地のなめらかな感触にうっとりしてしまいそうです。
隣ではベアトリスお姉様も編み物に夢中です。お姉様が握っているのはかぎ針で、糸も真っ白のシルクですが。結婚式のヴェールにしようかしら、と言っているのを聞いた時は、リリー・メイの胸がちくりと痛みました。
編み物に疲れたのでしょうか、お姉様が手元から目を上げて、リリー・メイに話しかけてきました。
「手袋を編んでいるのね。エドワードにあげるの?」
「いいえ……」
編み目を落とさないように目を凝らしながら、リリー・メイは首を振ります。口を利く余裕のないリリー・メイに代わって答えてくれたのは、少し離れたソファで新聞を広げていたお兄様です。
「先日助けてもらった
「まあ、随分仲良くなったのね」
「リリーと歳の近いお嬢さんがいるからね」
それは、どうにかお兄様に知られないようにジュ・ウェイロンに
手袋を包んだと言って、中身はあの刺繍の靴にしてしまうつもりです。だから、残った手袋は本当はお兄様に着けてもらいたいのですが。あげたはずのものをどうやって受け取ってもらったら良いのでしょうか。ジュ・ウェイロンは要らないと言っていたなんて言ったら、信じてもらえるでしょうか。
「お母様の話を聞かせてもらったら? お知り合いだったのでしょう?」
お姉様は、リリー・メイとお兄様にそれぞれ問いかけました。
「ううん……」
リリー・メイは、否定とも相槌ともつかない返事をします。
翡蝶の靴を渡すのは、翡蝶のものを傍に置いておきたくないからです。でも、ジュ・ウェイロンに渡したら、お兄様のようにリリー・メイに翡蝶の話を聞かせたがるのでしょうか。お兄様にならやめてよと言えるけど、あの人相手にそんなことができるでしょうか。作り笑いで翡蝶の話を聞かなければならないのかしら、と思うと、リリー・メイは憂鬱な気持ちになりました。
「ただの知り合いだ。そこまで親しかった訳でもない。聞かれたところで迷惑だろう」
だから、ばさりと新聞を下げたお兄様が不機嫌そうにそう言ったので、リリー・メイは密かに驚きました。是非ともお母様の話を聞いてきなさい、そうすれば良い、と言うに違いないと思っていたからです。
「あら、リリーだって知りたいと思うわ。お母様がどんな方だったのかとか、その方とどこで知り合ったのか、とか。あなた、ろくに話してあげていないんでしょう?」
「子供に話すことじゃない」
「リリーは大人よ。ねえ?」
突然お姉様に微笑みかけられて、リリー・メイは困ってしまいました。お兄様とお姉様が言い合いをするのは怖くて嫌なのです。この前馬車の中で強く抱きしめられて以来、お兄様はまたリリー・メイから逃げているようだから、余計に。折角お姉様がいらして、一緒の部屋で過ごしてくれているのですから、もっと仲良くしたいのです。
「リリーは……子供で良いわ」
だから、リリー・メイはお兄様に味方するように答えました。これで笑ってくれるかしら、と息を潜めて様子をうかがうのですが、お兄様は険しい顔のままでした。それも、お姉様しか見ていません。すぐ隣にいるのにリリー・メイからは目を逸しているようで、胸が引き裂かれるような思いがします。お兄様に面と向かってあんな顔をされたら、それはそれで辛くて悲しいことに違いないのですが。
「大体、
「どんな
「彼女のことをそんな風に言うのはやめてくれ」
お兄様はテーブルに新聞を投げ出して低く言いました。紙の束が立てる音はそんなに大きくはありませんでしたが、お兄様が本当に怒った様子なのでリリー・メイは驚いて編み針から目を落としてしまいました。
お姉様も一瞬息を呑んでいましたが、すぐにそれを深く吐き出します。そして呆れたような表情で首を振りました。
「……血は争えないわね、エドワード」
「どういうことだ」
「お兄様は、アルバート様はリリーのお母様に恋焦がれてそれは大変な
「ベアトリス!」
お兄様が強く怒鳴ったので、今度はリリー・メイが毛糸と編み針を放り出しました。後で落とした目を拾うのが大変そう、とちらりと思いながら、勢いよく立ち上がります。
「もうやだ。怒ってるお兄様は嫌い。リリーはお庭を見てくるわ」
早足で扉に向かいながら吐き捨てると、お兄様の慌てたような声が追いかけてきます。
「リリー、待ちなさい」
「放っておいて!」
勢いよく扉を閉めて、お茶を運んできたジェシカをすり抜けて。リリー・メイは庭へと向かいます。
お兄様のことを嫌い、なんて言って本当だと思われたらどうしよう。
威勢良く飛び出したのも最初だけで、リリー・メイの足取りはどんどん重くなってしまいます。いつもと同じで、嫌いなのはお兄様ではなくて翡蝶なのに。翡蝶のことを話していたのが面白くなかっただけなのに。
リリー・メイには何の話をしているのかよく分かりませんでしたが、お兄様が怒ったのは翡蝶のためでした。それだけははっきりと分かります。お兄様はまだ、ずっと翡蝶のことが好きで、お姉様にそれを――何かからかうような口調で言われたから、あんな風に怒鳴ったのです。
リリー・メイは、あれ以上あの場にいてお兄様が翡蝶のことを大事に想っているなんて思い知らされたくなかったのです。嫉妬の味は、あまりに苦いから。
お姉様も、わざわざ翡蝶のことを話題にしなくても良いと思います。お母様だからって、全然覚えていない人だし、むしろリリー・メイは翡蝶に嫉妬していると、お姉様も知っているはずなのに。
「もうやだ……」
さっきも言ったことをさっきよりも力なく繰り返すと、リリー・メイはため息を吐きました。
気付けば、離れのところまで来ていました。翡蝶の住んでいたところだと思うと、鮮やかな朱色の柱を見ても前のようにはうきうきした気分にはなれません。あの刺繍の靴を見つけたのもここでだし、お兄様の様子がいよいよおかしくなったのも、ここでお話を聞かされてからです。
「燃えてしまえば良いのに」
「あら、随分怖いことを言うのね、リリー・メイ」
嫉妬にまかせて吐き捨てた言葉に答えがあって、驚いたリリー・メイは勢いよく振り返りました。
「お姉様!」
「迎えに来たわ。エドワードが心配していたわよ」
「お兄様、ご自分では来てくれないの……」
今言ったのを聞かれなくて良かった、という安堵とお兄様が迎えに来てくれなかった悲しさに挟まれて、リリー・メイは微笑むお姉様から目を逸らしました。
お姉様はリリー・メイの態度には構わず近くまで歩み寄ると、手を握ってきました。お姉様の指先は暖かくて、リリー・メイは始めて身体が冷えていることに気が付きました。
「エドワードはきっとまたあなたを怒らせてしまうから、って言うから私が来たの。
――ここが、離れね? 綺麗な建物……!」
「アルバートが、造ったんですって」
「お父様、って呼んであげなさいな。お気の毒に」
またお気の毒、です。お兄様も、娘に拒絶されたら
お父様もお母様もどうでも良い。お兄様さえいれば。
でも、そんなことを言ってもお姉様には分かってもらえないと思ったので、リリー・メイは何も口に出すことはしませんでした。
お姉様はリリー・メイの返事がなくても気にしていないようで、ぐるりと離れを、華夏風の建物を見渡しています。
「こんなにしてもらって、あなたのお母様は愛されていたのね。よく分かるわ。燃やしてしまうなんてもったいないでしょう?」
さっきこぼした言葉を拾われて、リリー・メイは気まずく言い訳を探しました。お姉様はくすくすと笑っていましたから、冗談とは分かっていましたが。
「違うの。華夏の人たちはお花なんかを燃やすと亡くなった人に届くって信じているんですって。だから、服や髪飾りだけでなくて、おうちもあげれば良いのに、って思ったの」
「ふうん。あの人たちは変わった習慣ばかりね。――ねえ、ちょっと入ってみても大丈夫かしら」
入口を探してか、お姉様が建物の壁沿いに歩いだそうとしたので、リリー・メイはお姉様の手を両手で持って、慌ててその場で踏ん張りました。この前もお姉様は離れが見たいと行っていましたが、お兄様が止めたのです。リリー・メイと何日か前に使ったばかりだというのに、散らかっているだなんて嘘をついてまで。
「お兄様が、ダメって」
リリー・メイは必死に訴えるのですが、お姉様は取り合わずに手をほどいてしまいます。
「あら、エドワードなんて嫌いって言っていたじゃない。あんな人、少し困らせてやりましょうよ」
「でも」
「良いのよ。まあ、ちゃんと片付いてるじゃない」
お姉様は窓を覗き込んで中の様子を見ているようです。リリー・メイは、何て言ったらお姉様を止められるか、必死に考えました。
「お姉様……」
でも何も浮かばなくてただ呼び止めると、お姉様は少し苛立ったように眉を上げながら振り向きました。
「リリー、あなたは嫌じゃないの? エドワードがお母様の
リリー・メイはお姉様を止めなければ、としか考えられませんでした。だから、深く考えることもなく、ぽろりと言ってしまいました。
「リリーはこの前お兄様に入れてもらったから良いの」
そして、言った瞬間に、言ってはいけないことだったと気付いて怖くなりました。お姉様のお顔が白く無表情になり、次いで眉をつり上げ――それからいつもの笑顔になったのです。ほんの何秒間かのことでしたが、とても恐ろしくて、リリー・メイは思わず後ずさりしてしまいました。
「そう。リリーには見せているのね。よく分かったわ。そういうことなら戻りましょうか」
お姉様の声は少し震えていました。怒らせてしまったのかもしれないし、傷つけてしまったのかもしれません。
踵を返して本館へと歩き出したお姉様の背中を見て、リリー・メイはひどい後悔にさいなまれました。
「お姉様、あの――」
「ダニエルがね」
前を行くお姉様に追いつこうと足を早めながら、リリー・メイはごめんなさいと――何に対してかはよく分からないのですが――言おうとしました。でも、お姉様に遮られてしまいます。
「手紙であなたのことをよく書いてくるの」
いきなりダニエルのことを言われて戸惑いましたが、リリー・メイは忙しく頷きました。離れのことや翡蝶のことでなければ、いつも通りに話せるのかも、と思ったのです。
「リリーも書いてるわ。お兄様とお姉様が仲直りしたこととか、良かったねって」
お姉様にひどいことを言ってしまったのを許してもらおうと、リリー・メイは精一杯お姉様が喜びそうなことを言いました。でも、お姉様は振り向かずに続けます。
「そうね。でも、その後連絡がないから元気かどうか心配してたわ」
ダニエルを放っておいているのを責められているのかしら、とリリー・メイは胸を痛めました。翡蝶のお墓に行ったこととか、ユーリェンのこととか、書くことはあったのですが、お兄様が冷たいせいでペンを
「そうなの? すぐにお手紙を書かなきゃ」
「焦らしているつもりならそれで良いと思うけど」
「焦らす?」
お姉様は初めてリリー・メイの方を振り返ると、意味ありげに笑いました。
「わざとではなかったの? 意識しないでやっていたなら――お母様の血かもしれないわね」
「……血?」
お姉様は、さっきもそんなことを言っていました。お兄様とアルバートは同じ、とかなんとか。リリー・メイと翡蝶も、確かに血は繋がっているのでしょうが。似ている、という意味のはずです。でも、お姉様は翡蝶を知らないはずなのに、どうしてそんなことが言えるのでしょうか。
「男の人に好かれる血よ。教わらなくてもやり方を知ってるのね」
「リリー、女の子のお友達もできたのよ……? ユーリェンっていって――」
リリー・メイの言葉を遮るように、お姉様が何かつぶやきました。でも、とても小さな声だったのではっきりと聞き取ることができませんでした。それに、聞き返すこともできませんでした。
「エドワード、あなたのお姫様を連れ戻してきたわ。今度は怒らせちゃダメよ?」
ちょうど、さっきまでお兄様たちといた部屋にたどり着いていたのです。お兄様のお顔は、まだ怒っているのでしょうか。それとも心配してくれていたのでしょうか。
お兄様のことで頭がいっぱいになったので、リリー・メイはお姉様の言葉を深く考えるのをやめました。どのみち、知らない単語が混ざっていたので考えても分からないのです。
吐息に紛れるようなささやきで、お姉様はこう言ったと思います。
――娼婦の血は争えないわね。
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