第27話 見えない纏足

「あれはね、纏足チャンズーと言うんだよ」

「え?」


 ジュ・ウェイロンたちを見送って、三人を乗せた馬車が見えなくなると、お兄様がぽつりと言いました。

 お客様が帰ったので、リリー・メイもお屋敷に戻るところです。お兄様はまだお仕事があるのですが、送ってくれるということでした。


ジュ夫人の足。変な形をしていただろう」

「うん……」


 リリー・メイが届くように腕を差し出しながら、お兄様はちょっと顔を顰めました。


華夏フアシアの悪習の一つだよ。女の子が小さいうちに、足を折り曲げて縛って――ああいう形に固めてしまうんだ。纏足というのは、足を縛るとか包む、固めるという意味だ」


 リリー・メイは一瞬だけちらりと見えた、シャンランの小さな足を思い浮かべました。先が尖っていて、甲がとても短くて、リリー・メイの掌に載ってしまいそうな小さな足でした。作ったような形で、あんな足で歩いているのかと思うと不思議です。

 そういえば、確かにシャンランはゆっくりと身体を左右に揺らしながら歩いていたし、よく椅子に掛けていましたが。歩くのも立っているのも大変なのかもしれません。


「何で? とても痛そうだわ」


 リリー・メイはお兄様に教わったことがあります。スプーンとか、金属のものは溶かした鉄を型に流して作るのです。そんな風に足を型に押し込まれるのを想像すると、爪先がぞわぞわとして落ち着かない気分になりました。


「とても痛いと言っていたよ。でも、華夏人の男は纏足を美しいと思うらしい。禁止令が出ているのに効果はないとか。華夏の女性には気の毒なことだ」


 馬車に乗り込みながら、リリー・メイは自分の足を、段を登る一歩一歩を意識しました。纏足だったら、と思うとやっぱりあんなに小さな足では上手く歩くなんてできそうにありません。

 リリー・メイは、ユーリェンが靴を見たいと言っていたのを思い出しました。そして、首を傾げます。


「でも、ユーリェンは普通の足だったわ」


 そう言うと、お兄様は大きく頷きました。お兄様も気付いていたのでしょう。纏足の人の歩き方は――今思えば――とても独特なので、見れば分かってしまうのです。


「ああ、私も驚いたが。――洋装をさせようとしたり、朱威竜はさすがに進んだ考えを持っているということかな」


 お兄様の助けを借りて、リリー・メイは馬車の席に収まりました。たっぷりしたスカートで狭いところに座るのにはまだ慣れていないのです。


「纏足なんてしない方が良いんだ。あれではダンスもままならないしね。あの子は幸せなんだろう」


 そうなのかしら。リリー・メイの耳にシャンランの穏やかな声が蘇りました。


 ――旦那様が纏足をさせなかったのは、あなたが嫌いだからではないわ。


 あの言い方だと、纏足をしない方が可哀想みたいです。お兄様と、シャンランやユーリェンと、どうしてこんなに考え方が違うのでしょう。




 馬車が走り出して、街並みが来た時と逆の方向に流れ始めてからも、リリー・メイは纏足のことを考えていました。そして、ユーリェンとシャンランが言っていたことを。

 リリー・メイの靴を見たがったのは、実は足が見たかったのでしょう。ユーリェンと同じ足だと確かめて安心した、と言っていました。リリー・メイも纏足をしているのだと疑っていたようでした。リリー・メイは租界で本国のやり方で育てられたと知っているはずなのに、そう思うのは、多分――


「お兄様、どうして華夏のことを勉強した時に纏足のことを教えてくれなかったの?」


 ずっと黙っていたリリー・メイが唐突に口を開くと、お兄様は怪訝な顔をしました。


「なぜって――話を聞いても気持ち悪いだけだろう。纏足をした女性と会う機会があるなんて思わなかったしね。ただ、実際に夫人の足を見てしまったからには、知っておいたほうが変な目で見ないで済むと思ったんだ」 


 それは、一応本当だろうとは思います。リリー・メイはそんな痛い話なんて嫌いです。シャンランに会ったのもつい最近、それも思いがけないことでした。


「嘘でしょう」


 けれど、リリー・メイははっきりと言って、お兄様を睨みました。なぜリリー・メイが怒っているのか分からないのでしょう、お兄様は機嫌を取るような曖昧な笑みを浮かべました。その表情がいつものお兄様と違って格好良くないので、リリー・メイは余計に苛々してしまいます。


翡蝶フェイディエも、纏足をしていたんでしょう?」

「…………」


 お兄様は答えませんでしたが、リリー・メイから目を逸したのが良い証拠だと思います。想像が当たっているのを確信して、リリー・メイは次々にお兄様を問い詰めました。


「リリーに教えなかったのは翡蝶を思い出すから? 痛いって言っていたのは翡蝶なのよね? 纏足が気の毒なのは翡蝶が気の毒だから? お兄様はずっと翡蝶のことばかり考えていたのね。リリーのことなんてどうでも良いんでしょう? ただ翡蝶の子供だから大事にしているだけなんでしょう?」


 おかしなことを言っているのはリリー・メイにも分かっていました。でも、一度言い出すと止めることができませんでした。

 最近冷たいお兄様、そのお兄様が好きだったという――もしかしたら今も? ――翡蝶のこと、お父様だとかいうジュ・ウェイロンと仲良くさせようとすること。色々なことで溜まっていたもやもやとした黒い感情が、纏足のことをきっかけに吹き出してしまったようです。


「リリー、落ち着いて……」

「お兄様がリリーにしてくれたことはみんな、本当は翡蝶にしたかったんでしょう!? リリーは翡蝶の代わりなんだわ」


 宥めるような呼びかけが癇にさわって、リリー・メイの声は一層高くなります。両手でお兄様を揺さぶろうとして、リリー・メイの力では全く動かないのが悔しくて、握った拳でお兄様の胸を叩きます。


「そうなんでしょう? ねえってば」

「リリー」


 お兄様はつぶやくなり、リリー・メイを抱き締めました。本当に久しぶりに感じるお兄様の温かさに、鼓動が早くなるのが分かります。拳も、二人の身体の間に挟まれてしまって、もう動かすことができません。


「お兄様、離して」

「暴れるから駄目だ」


 誤魔化されるのが嫌でもがくのですが、お兄様の腕がしっかりと背に回っているのでほとんど身動きが取れません。そこへ耳元にささやかれると、何でだか余計に胸がうるさく鼓動を打ちました。

 しばらくの間、嬉しいのだか居心地が悪いのだか分からない時間を過ごしてリリー・メイの身体から力が抜けた頃、お兄様はやっと腕を緩めてくれました。


「落ち着いた?」

「え、ええ……」


 また突き放されてしまうのかしら、とリリー・メイは警戒しました。けれど、力は緩んでも、お兄様はリリー・メイを腕の中に収めたままでした。リリー・メイに伝わる振動は、馬車の揺れなのでしょうか。それとも、お兄様の?


「私は――翡蝶を気の毒に思っていた。生い立ちも、境遇も。でも、なにより纏足が可哀想だった。他は、言葉も振る舞いもレディそのものなのに、纏足のために彼女は華夏の女でしかなかったんだ。

 私は、君を朱威竜に返さないことで君を守ったつもりだった。君を翡蝶のようにはさせるものか。華夏の悪習から君を守ろうと……。

 だが――朱威竜の娘は纏足もされずに出歩いて、一方の私は君を閉じ込めていて……私は、一体何をしていたのだろう」


 抱きしめられたままなので、お兄様の吐息がリリー・メイの耳をくすぐりました。


「私は、翡蝶のことが好きだった。彼女を守り、自由にしたかった。今思えばそういうことだったんだろう。だが、君を育てたのはそれとは関係ない。君を、幸せにしたいだけだ、と、思う」


 翡蝶のことが好き、と言われてリリー・メイの胸が刺されたように痛みました。でも、それとは関係なく幸せにしたい、と続いたのでほんの少しですが気持ちが上向きました。だろうとか思うとかはっきりしない言い方で、完全にお兄様の言うことを信じることはできないのですが。


「……本当に?」


 お兄様の顔を見上げて恐る恐る尋ねると、お兄様は眉を寄せて首を振りました。


「分からない」

「え」


 驚いて悲しくて、凍りついたように固まってしまったリリー・メイを溶かすかほぐすかのように、お兄様はリリー・メイの髪から頬、背中から腰をなぞって撫でました。腰に届いたら、今度はまた背中へと撫で上げて。

 お兄様の息も掌も熱くて、抱きしめる力も強くて。くすぐったいような変な感覚に、リリー・メイの身体もふるりと震えます。

 最後に、お兄様はリリー・メイの頬を包むように掌を添えました。


「本当に、分からないんだ」


 リリー・メイの顔のごく間近、睫毛が息で揺らぐ距離で、お兄様がささやきます。


「君は翡蝶の分まで幸せにならなくてはいけない。そう思ってはいる。でも、君の幸せとは何だ? 本当なら、ダニエルみたいに歳の近い子と笑って過ごせるはずだったのに、君にはそれが楽しくないんだ。そういう風にしてしまったのは私だから、心を鬼にしてでも送り出さなければいけないはずだ。でも、君が他の人と仲良くするのにも、君が私を睨むのにも、心を引き裂かれる。君を閉じ込めてきた罰として受け入れなければならない痛みなのだろうが――耐え切れないと思うこともある。

 更に悪いことには――嬉しいんだ、私が君の心を乱すことができるのが。翡蝶は私なんてまともに見ていなかったから。

 そもそも私は翡蝶に同情していたのか? もし彼女が私だけを見て私だけに笑ってくれたなら、喜んで彼女を閉じ込めていたかもしれない! こんなにも慕ってくれる――私がそう育てた――君を見て、ずっとこのままでも良いと思ってしまう! 君が、そんな目で私を見るから、つけ込んでしまえと思う時もある! 翡蝶にそっくりな顔で、誘うから……いっそ……」


 お兄様の言葉の響きを、吐息を、リリー・メイは唇で感じました。このまま唇同士が触れ合うのでしょうか。これもキス、と言えるのでしょうか。頬や額に落とされるのは、今までにも何度もあったことなのですけど。唇にキスをされるのは初めてのことですが――別に構わないわ、と思いました。だから、リリー・メイは黙ってお兄様を見つめていました。


「――すまない」


 でも、お兄様はそれ以上近づいてくることはありませんでした、逆に、強い力でリリー・メイを押しのけます。


「こんなことは、してはいけなかった。忘れてくれ」

「お兄様」


 急に温もりが遠ざかるのが怖くて、リリー・メイは手を差し伸べます。でも、それも払いのけられてしまいます。


「どうして? やっぱりリリーが嫌いなの? お兄様!」


 必死に叫んでしがみつこうとしても、お兄様が応えてくれることはなくて――馬車の中には、ただがらがらと石畳を削る車輪の音だけが響いていました。




 リリー・メイをお屋敷に届けると、お兄様はまたお仕事に戻っていきました。いつも通り勉強しておいで、と言い残して。そんなこと、できるはずがないのに。

 本や筆記具を広げる代わりに、リリー・メイは宝箱を開きました。外国の切手や絵葉書、南の国の置物など、お兄様からもらった綺麗なものや素敵なものをしまっている箱です。そこから、リリー・メイは小さな靴を取り出しました。


「翡蝶……」


 離れで見つけた、華夏風の蓮の刺繍を施した靴です。その時は、お人形のためのものに違いないと思ったのでした。だって、リリー・メイの掌に収まるほど小さくて、爪先も尖っていて、人間が履けるとは思えなかったから。でも、シャンランの纏足を見た今では、翡蝶のものだと分かりました。


 リリー・メイは翡蝶が嫌いです。翡蝶に嫉妬しています。馬車の中での一幕で、その思いは一層強くなりました。こんな靴も――綺麗で精巧でとても気に入っていたのですが――もう持っていたくはありません。


「ジェシカ、燐寸マッチをちょうだい」

「まあ、何に使うのですか?」

「……燃やしたいものがあるの」


 花やなんかを燃やして亡くなった人のところに届けるのが華夏の弔い方ということです。この靴も、そうやって翡蝶に返してしまおうと思ったのです。


「危ないですからお嬢様にはお任せできません。ごみが出たなら私どもが処分いたします」


 でも、ジェシカに手を差し出されて、リリー・メイは慌てて首を振りました。


「やっぱり良いわ。まだ取っておこうと思うの」

「そうですか」


 ジェシカは不思議そうにしていましたが、それ以上は何も言わないでいてくれたのでリリーメイはほっとしました。宝物を燃やそうとしたなんて、きっとお兄様に告げ口されてしまうでしょう。


 ジェシカの目を誤魔化すために、お勉強をする振りをしてみますが、リリー・メイの意識は刺繍の靴のことばかり考えています。どうにか、どこかへやってしまいたいのですが、どうしたら良いのでしょう。

 屑籠くずかごに入れたら当然見つかってしまうでしょうし、お庭に埋めるにしても、手や服を汚してしまったら見咎められそうです。リリー・メイは、紙の上に無駄にインクを垂らして、花や猫に見立てて遊びました。いえ、全く楽しいということはないのですが、お勉強が手につかないのです。


 考えるのは、あの靴を燃やしてしまいたい、ということだけ。ジュ・ウェイロンが翡蝶に供えた花束が、燃え上がって灰を舞い上がらせたところを思い出します。


「ジュ・ウェイロン……」


 今度はあの人の名前をつぶやきながら、リリー・メイは考えます。あの人は、ずっと翡蝶のお墓に行くこともできなかったということでした。リリー・メイにとってはいらないものでも、翡蝶のものをあげたら、喜んで受け取ってくれるのではないでしょうか。ユーリェンはまた会いたいと言ってくれたし、ついででジュ・ウェイロンにも会えるのではないでしょうか。どうにかお兄様の目を盗めるように、靴を包んでしまえば大丈夫そうです。


 お兄様が帰ってきたら、ジュ・ウェイロンに会いたいっておねだりしてみましょう。


 そう結論づけて、やっとリリー・メイはお勉強に取り掛かることができました。

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