第26話 諸花繚乱

「どちらがより良い、莉麗リリー?」


 ユーリェンは二つの生地を見比べてリリー・メイに聞いてきます。黒い瞳に真っ直ぐ見つめられるのは、鏡を見ているようで不思議な気分です。

 でも、どちらも同じようにはっきりした赤の地に花を描いたものなので、どう答えれば良いか悩んでしまいます。


「赤が好きなの?」


 ジュ・ウェイロンのお屋敷で借りたユーリェンのものだったという服も、赤地に蓮を描いたものでした。今日着ているのも、赤。大人っぽい顔立ちだから、青系も似合いそうなものなのですが。


「母様が言う。ジュ家のムスメは赤を着るべき」

「どういうこと……?」


 首を傾げていると、横からシャンランのため息が聞こえました。


金蓮ジンリェンはまたしようもないことを」


 シャンランは椅子に掛けてリリー・メイとユーリェンが布を選ぶのを眺めています。お屋敷でもこんな風でした。ゆったりと腰掛けて、けれどちゃんと見ているのです。ふわふわとした喋り方の人だけど、この人もれっきとしたレディなのです。


「好きな色を選べば良いのよ」

「でも、太太おくさま

「うるさくするならわたくしから言って聞かせるわ」

「……ありがとうございます!」


 雲の間から太陽が覗いたみたいに、ユーリェンの表情がぱあっと明るくなりました。朗らかに答えて青や紫の生地も物色し始めます。

 最初怖そうだと思ったのは、緊張していただけなのかもしれません。刺繍の小鳥を撫でたり花弁を数えたりしているユーリェンはとても可愛いと思います。仲良くなれるかも、とリリー・メイは楽しい気分になってきました。

 一緒に見てあげなくちゃ、と思うのですが、ユーリェンの傍に行く前にリリー・メイはシャンランをちらりと見ました。


「なあに?」

「……印象が違うから」

「そう?」


 さっきお兄様たちにきっぱり邪魔だと言った時もそうだったけれど、優しそうな表情と喋り方なのに、シャンランは随分はっきりものを言います。絵本の仙女様が出てきたみたい、と思っていたので驚いてしまったのです。

 そして、リリー・メイはベアトリスお姉様が言っていたことを思い出しました。


華夏フアシアの女の人は、男の人に逆らわないしあんまり外にも出ないって聞いたわ」


 言いながら、おかしいわ、と気付きます。シャンランもユーリェンもお屋敷の外に出ているし、シャンランに至ってはお兄様たちを追い出してしまったのです。


「お人形みたいだって……」


 叱られて強ばっていたユーリェンの顔。なぜだか分からないけどリリー・メイの靴を見て嬉しそうにしていた顔。お人形だなんて思えません。間違ったことを言ってしまっているようで、リリー・メイの声はどんどん小さくなっていきました。


「そんなはずないでしょう」


 言葉を途切れさせたリリー・メイに、シャンランは首を傾げました。


「でも、お姉様が」


 シャンランがあまりにさらりと言うので、リリー・メイは思わず言い募りました。

 リリー・メイは怖いのです。お姉様の言うのが本当なら、リリー・メイはお兄様にとってお人形でしかないのではないでしょうか。それも、翡蝶フェイディエの代わりの。


「人は楽しければ笑って悲しければ泣くもの。ヤンライレンでも華夏人でも同じよ」

「そう、かしら」


 聞き取れない華夏語は、多分本国の人という意味なのでしょう。言葉の意味を確かめる気も起きないくらい、リリー・メイは言われたことに戸惑いました。

 シャンランとお姉様、どちらの言うことが本当なのでしょう。良く知っているのはお姉様だけど、お姉様だって華夏の人と会ったことはそんなにないはずなのです。お屋敷には華夏人のメイドもいたけど、話しているのはそういう階級の人のことではないはずです。


「そう。人形だなんて。金蓮なんかうるさいくらい」


 リリー・メイが混乱しているのには気付いていないようで、シャンランはふわふわと続けました。人の名前みたい、と見当をつけながらリリー・メイは繰り返しました。


「ジンリェン?」

玉蓮ユーリェンの母親。旦那様の二番目の妻。悪い子じゃないけどあまり賢くないの」


 シャンランの視線の先では、ユーリェンが不思議そうにこちらを見ています。リリー・メイが着いてきていないのに気付いたのでしょう。手を振ってくれましたが、リリー・メイは返すことができませんでした。シャンランの言葉にあまりに驚いてしまったのです。


 華夏の人は何人も奥様がいることがあるとはお兄様から聞いていましたが、二番目の妻、だなんて言い方は聞いたことがなかったのです。それに、ユーリェンのお母様がシャンランではないというのも。奥様だなんて呼ぶから変わっているとは思っていたのですが、リリー・メイにはとても不思議なことに思えました。


「旦那様が莉麗のことばかり話すから、最近特にうるさかったわ。玉蓮よりも翡蝶の娘の方が可愛いのだろう、って」


 賢くないとかうるさいとか、ジンリェンという人の悪口を何でもない風に言うのも信じられないことで、リリー・メイは目を瞠ってしまいます。


「おかげで玉蓮も暗い顔だったわ。だから、今日は会ってくれてありがとう、莉麗」

「リリーは別に何も……」


 だから、座ったままのシャンランがリリー・メイを見上げて微笑んできても、曖昧な答えしか返せません。そして、はっと気付きます。


「ユーリェン、嫌な思いをしていたの? リリーのせいで」


 ジュ・ウェイロンがお屋敷で何を話しているかなんてリリー・メイには分かりません。それに、翡蝶の娘なんて言われるのは嫌なことです。でも、だからこそ、知らない人と比べられるのが悲しいことだと分かります。怖い顔をしていたのも当たり前かもしれません。リリー・メイだって翡蝶にあったとしたらあんな表情になってしまうでしょう。


「玉蓮は莉麗を知らなかったから仕方ないわ。旦那様やわたくしが何を言っても悪い方に取ってしまったのね。……金蓮は話を聞かないし」

「会うだけで大丈夫だったのかしら。ユーリェンは安心できたかしら?」


 不安な顔をしたリリー・メイに、シャンランはにっこりと笑いを深めました。目元や口元にほんの少しだけど皺を見つけて、華夏の人はお人形なんかじゃないのね、と改めて思いました。


「足を確かめたから大丈夫でしょう。でも、仲良くなれればもっと安心」


 シャンランの言葉の前半は、やはり意味が分かりませんでしたが、後半には心から大きく頷くことができました。


「そうね。リリー、ユーリェンのところに行かなくちゃ」

「お願いね」




 リリー・メイが小走りでユーリェンのところへ駆けていくと、咎めるような黒い瞳に迎えられました。


「莉麗、あなたシツレイ」

「ご、ごめんなさい。一緒に選ばせてくれる? 良いのはあった?」


 布を選ぶのを手伝うはずがシャンランと話し込んでしまったのを怒られたと思ったので、リリー・メイは慌てて謝りました。けれど、ユーリェンは大きく首を振ります。


「ワタシではない。太太おくさまにシツレイ。見下ろすのも、話し方も。怖くないの?」


 表情をよく見ると、ユーリェンは怒っているというより呆れているとか驚いているという感じでした。リリー・メイとシャンランの会話が聞こえていたようです。


「怖いって、シャンランが?」


 おっとりした人なのに、と思いながら言うと、ユーリェンはこぼれ落ちそうなほど目を見開きました。更には少し後ずさりしてしまいます。まるでリリー・メイが毛虫か何かを突きつけているみたいに。


「名前呼ぶの、ダメ。おくさま、って呼ぶべき」


 ユーリェンのたどたどしい話し方を飲み込むのに、何秒か掛かりました。そして、気付きます。

 シャンランは、本国の言葉が上手く話せないだけで、大人のレディです。ジュ・ウェイロンのお屋敷で、使用人たちに華夏語であれこれ言いつける姿は堂々としていました。勝手に子供みたいな喋り方と思ってしまっていましたが、それは確かにとても失礼なことです。

 リリー・メイは顔が赤くなるのを感じました。


「そうね、奥様だわ。レディだもの。後で謝らなきゃ」

「そうすると良い」


 にっこり笑ったユーリェンを見て、リリー・メイは自分に言い聞かせます。言葉遣いのせいで子供扱いしてしまいそうになりますが、気をつけなければいけません。ユーリェンもリリー・メイより歳上のお姉さんです。小さな子みたいに扱ったら気を悪くするでしょう。

 そして、シャンランが言っていたことを思い出します。リリー・メイはユーリェンにも謝らなければいけません。


「リリーのせいでお母様が――大変だったんですって? ごめんなさい」


 うるさい、なんてリリー・メイにはとても言えなかったので、ぼかした言い方になったしまいましたが、ユーリェンはよく分かるという風に頷きました。


「母様はいつもうるさいから大丈夫。やっぱり父様と太太おくさまが正しかった」

「何が、正しかったの?」


 ユーリェンは、ベルベットの生地を、毛を逆立てるように撫でながら自慢げに笑いました。


「親はムスメが可愛いもの。何があっても嫌わない」


 リリー・メイにはお父様もお母様もいない――そう思ってきました――から、ユーリェンがどうして悲しくて、どうして機嫌が直ったのかよく分かりません。だから、お兄様に置き換えて考えます。最近は好きだよ、愛しているよと言われても心から信じることはできません。


 ユーリェンも、最近のリリー・メイのようにもやもやとして落ち着かない気分だったのでしょうか。それなら、もっと元気にしてあげたいわ、とリリー・メイは思いました。そして、思い出します。ユーリェンが喜びそうなことを。


「ユーリェンのお父様も言ってたの。不安だろうからリリーがいたら安心するだろう、って。ユーリェンのことを考えてたわ」


 ジュ・ウェイロンを何て呼んだら良いか、ちょっと考えてから、リリー・メイは教えてあげました。すると、思った通り、花が開くように華やかに、ユーリェンは綺麗な笑みを浮かべました。


「本当? ありがとう、莉麗」


 見ているこちらも嬉しくなってしまうような表情でした。リリー・メイは思い出したことを言っただけで、お礼を言われるようなことではないのですが。恥ずかしくて、少し落ち着かないくらいです。


 でも、ユーリェンの晴れやかな顔とは逆に、リリー・メイの心には暗い影が落ちてしまいました。

 ユーリェンの悩みは解けたみたいです。一方、リリー・メイは――ユーリェンがお母様やジュ・ウェイロン、シャンランを信じることができたように、どうすればお兄様を信じることができるのでしょうか。何を言ってもらえれば、何をしてもらえれば、愛してもらっていると安心できるのでしょうか。

 それは、リリー・メイにも分からないのです。




 ユーリェンは長い時間を掛けて布地を二種類選びました。時間が掛かり過ぎてジュ・ウェイロンとお兄様が様子を見に来るくらいに。

 夕焼けの空みたいに濃紺から青、薄紫、少し橙色も入った大人っぽい色のものと、緑の地に薔薇を散らした華やかなもの。どちらにするか決められない、とユーリェンがジュ・ウェイロンに訴えたら、どちらも買えば良いということになったのです。


「玉蓮が赤以外を選ぶのは珍しいな」

「でも、花が赤い。だから母様も許す」

「きっと似合うわ。お母様も気に入ると思う」


 どうしてそんなに赤が良いのかは不思議ですが、それでもリリー・メイはユーリェンは良い生地を選んだと思います。どちらの生地も、すらりとしたユーリェンによく似合うはずです。


「ドレスができたらリリーも見たいわ」

「ワタシも会いたい。もっと外語ワイユー、勉強する」


 もう別れるのが寂しくて、手を取り合ってお喋りしている二人を見て、お兄様が言いました。


「すっかり打ち解けたんだね。心配したけど、良かった」


 嬉しそうな顔をしているのですが、リリー・メイの楽しい気持ちはすっと冷めてしまいました。最近のお兄様が喜ぶことと言ったら、リリー・メイがお兄様以外の人を好きになること、お兄様がいなくても大丈夫なところを見ること、なのです。


「莉麗?」

「ご挨拶しなきゃだから」


 リリー・メイが手を引っ込めてしまったので、ユーリェンは怪訝そうな顔をしました。急に暗い顔になってしまって申し訳ないのを振り切って、シャンランの方へ向きます。


「奥様」


 改まって呼びかけると、シャンランがなあに、と言うように首を傾げました。


「あの、失礼な喋り方をして――申し訳ありませんでした。これからは、ちゃんと奥様って呼びます。あと、今日はユーリェンと会わせてくれてありがとうございました」

「あら、そんなこと」


 シャンランはいつもの穏やかな微笑みを浮かべました。


「わたくしは喋るのが下手だから仕方ないわ。洋来人は、大人でもわたくしを子供扱いするのよ。莉麗はよく気付いたわね」

「ユーリェンが、教えてくれたから……」

「そう、良い子ね、玉蓮」

「ありがとうございます、太太おくさま


 シャンランに褒められて、ユーリェンは得意げに、でもちょっとはにかんだように微笑みました。


「子供扱いされた方が良い時もあるのよ。殿方に邪魔なんて言っても許されたりするし。でも、ありがとう、莉麗」


 その言葉に、さっき邪魔だと言われたお兄様が苦笑いしています。大人のレディならとても言えないようなことでも、言葉がつたないからということなら言ってしまえる、ということでしょうか。ユーリェンがシャンランのことを怖いと言っていた理由が少し分かった気がします。


「そろそろ行くぞ。――私からも礼を言う、莉麗。できるなら、また玉蓮と会って欲しい」


 ジュ・ウェイロンの一言で、シャンランとユーリェンは帰る支度を始めました。椅子に座ったままのシャンランを、ユーリェンが手を差し伸べて立ち上がるのを手伝います。


「またね、莉麗」

「ええ、また。奥様にも、また会いたいです」


 ジュ・ウェイロンにも、と言ってあげれば喜ぶのでしょうが、まだちょっと怖い感じがするので言うことができませんでした。それに、何て呼んだら良いか分からなかったのです。


「ええ、きっと――あら

「きゃっ」


 立ち上がるはずみに身体の均衡を崩したシャンランが倒れそうになったので、リリー・メイは支えようと手を伸ばしました。


「大丈夫か、香蘭シャンラン


 実際に支えたのは、ジュ・ウェイロンのしっかりした腕だったのですが。


「ええ、旦那様」


 リリー・メイが間に合わなかったのは、華服の裾から覗いたシャンランの足に気を取られてしまったからです。赤い鳥の刺繍を施した、とても可愛い靴でした。でも、刺繍に目を奪われた訳ではありません。

 シャンランの足はリリー・メイの掌に載ってしまいそうに小さくて、甲が張り出して爪先が尖った、とても不思議な形をしていたのです。

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