ふたつの国、ふたつの家族

第25話 ユーリェン

 ジュ・ウェイロンの娘と会う日、リリー・メイはお茶会のために仕立てた華夏フアシア風の生地で作ったドレスを着付けてもらいました。髪型も、あの時のようにお団子シニョンを頭の両側に作った華夏の女の子みたいなものです。見慣れた意匠で迎えた方が、その子も安心できるかと思ったのです。


「今日も可愛いよ、リリー」

「ありがとう、お兄様」


 お兄様の腕を取って馬車に乗り込みます。商会の品物を展示して、お客様にお見せする建物へ向かうのです。

 必要以上にくっつこうとするリリー・メイと、形ばかり腕を添えるだけにさせようとするお兄様とで変な押し合いが起きるのも、毎回のことになりました。


「そういえば」


 何とか馬車に落ち着くと、リリー・メイはお兄様に尋ねました。


「その子はどうしてドレスを作るの? 華夏の服だって綺麗だし可愛いのに」

「社交界に出したいのかもしれないね。ジュ威竜ウェイロンは本国とも商売を始めているようだから。夫人や令嬢も伴わなければならないこともあるだろう。夫人は本国の言葉を話せるようだったが――あれは、本当はとても珍しいことなんだ」

「華夏の服では駄目なの?」


 リリー・メイは繰り返しました。思い返せば、ジュ・ウェイロンも本国風の服装をしていました。華服を着ていたのはお屋敷の中だけです。華夏伝統の刺繍や模様も素敵だと思うのですが。


「そういうものなんだ。どこでも自分の国の言葉を話して、自分の国の服を着ていけたら良いのだろうけど」


 少し悲しそうなお兄様の口調から、また戦争のせいなのかしら、とリリー・メイは思います。華夏は戦争で負けたから本国との関係が対等ではないと、本にも書いてありました。


「華夏の人は嫌ではないのかしら」

「嫌だろうね。朱威竜も、昔はどこでも華服で通していたし、我々に対する当たりもきつかった」


 お兄様はリリー・メイから目を逸らして窓の外を見ると、独り言のようにつぶやきました。


翡蝶フェイディエのことであの男も考えを変えたのか?」


 翡蝶の名前にちくりと胸が痛みましたが、リリー・メイに対していった訳ではないので、翡蝶の話なんかしないで、とは言えませんでした。仕方なく、リリー・メイも反対側の窓に向かって租界の街並みが流れていくのをぼんやりと眺めました。

 すぐ隣に座っているのに、お兄様とは別々の方向を向いてしまうなんて。何だかお兄様がどんどん遠くに行ってしまうようで、リリー・メイの気持ちは沈む一方でした。        




「わあ……!」


 それでも、展示室を彩る華やかな生地の数々を見たリリー・メイは、思わず歓声を上げました。応接間のようにテーブルとソファが設えられた部屋は、けれどお屋敷の部屋よりもずっと広くて、開けたところに反の状態の生地が並べられたり、トルソーにドレスを模して巻きつけられたりしています。

 素材も色も、模様も刺繍も。様々に違ったものが並べられていて、お花畑か宝石箱のようです。


「壮観だろう」

「すごいわ。リリーの時よりも沢山あるのね」

「屋敷に運べるのには限りがあったから。それに今日は、お嬢さんの背丈や顔立ちも分からないからね。できるだけ色んな種類を集めてみたんだ」


 リリー・メイがはしゃいでいるのを見て、お兄様も嬉しそうです。そもそも沈んだ気分になってしまったのはお兄様のせいなのに。ずっと優しくしてくれれば良いのにと思うのですが。


「どんな子なのかしら」


 リリー・メイの声の温度が下がったのに気づいたのでしょう。お兄様は少し眉を寄せましたが、次の瞬間にはわざとらしいほど明るい声で答えました。


「さあ……言葉が分かるかも聞いていなかったな。通訳は私がするから、変わったことがあっても失礼のないようにね」

「分かってるわ」


 リリーだってマナーを教わってきているのです。それに、そもそも令嬢とお話したことだってほとんどないのです。お兄様は何をそんなに心配しているのかしら、と思うと、リリー・メイはまた不機嫌になってしまうのでした。




「いらっしゃいました」

「お通ししてくれ」


 商会の人がお兄様に報告しに来ました。物珍しげにリリー・メイをちらちらと見るので、リリー・メイはお兄様の陰に隠れます。

 この建物に到着した時、お兄様は姪だから、と紹介してくれたのですが、黒い髪の女の子が、華夏風の模様のドレスを着ているのはそんなに変わっているのでしょうか。ジュ・ウェイロンが娘の心配をしていたのももっともなのかもしれません。


 間もなく、商会の人に先導されてジュ・ウェイロンが部屋に入ってきました。背中にシャンランと、もう一人従えています。フロックコートのジュ・ウェイロンに対して、後ろの二人は華服を纏っているので何だかちぐはぐな感じもしました。


「娘の玉蓮ユーリェンだ。十四になる」


 前に出された女の子を、リリー・メイはしげしげと見つめました。純粋な華夏人だから当たり前ですが、真っ黒な髪に真っ黒な瞳の子です。リリー・メイは同じ年頃の女の子をあまり知らないのでよく分からないのですが、背は高い方なのではないかと思います。やや釣り上がった目と、お父様のジュ・ウェイロンが不機嫌そうな時に似た、真っ直ぐ引き結んだ口元をしていて、気が強そうに見えました。着ているのも、赤い紅葉の模様を金糸でふちどった、はっきりした色合いの華服です。


「……はじめまして」


 怖い子じゃないと良いけど、と思いながら、リリー・メイはスカートを摘んで挨拶しました。そういえば、言葉も通じるか分からないのでした。何て言っているか分かってくれないのだったら、リリー・メイが変なことをしているように見えないかしら。

 とても長いような不安な一瞬の後、ユーリェンが口を開きました。


「ハジメマシテ」


 ジュ・ウェイロンよりも、シャンランよりも更にたどたどしい発音でしたが、ユーリェンが紡いだのは確かに本国の言葉でした。言葉が通じるようなら安心のはずなのですが、ユーリェンはにこりともしていないので、リリー・メイは次に何を言ったら良いか分からなくなってしまいました。


「あなた、莉麗リリーね? 翡蝶のムスメ。母様が見たがってた」


 ユーリェンの言い方もぶっきらぼうで、少し怖いくらいでした。

 それに、また翡蝶です。初めて会った子にまで嫌いな翡蝶のことを言われて、リリー・メイはぎゅっと顔を顰めてしまいました。


「リリー」

「玉蓮」


 叱るような声が、お兄様とジュ・ウェイロンの口からほとんど同時に発せられました。強い口調に、リリー・メイは首を竦めてびくりとしてしまいます。


「そんな顔をしてはいけない」

「初めて会った相手に対して非礼だろう。口を慎みなさい」

「……ごめんなさい」

「申しワケありません、父様」


 リリー・メイとユーリェンが消え入るような声で返事をしたのも、ほぼ同時のことでした。

 また翡蝶の話を出されたのも、珍しくお兄様が強い言い方をしたのも嫌だったし、しかもそれがあまり知らない人たちの前だったのが恥ずかしくて、リリー・メイはすっかりお屋敷に帰りたくなってしまいました。ユーリェンもますます唇を固く結んでいます。

 皆が気まずく黙ってしまったところへ、おっとりとした声が割って入ります。


「子供ですもの。うるさくしなくて良いでしょう」


 歌うような不思議な抑揚アクセント。シャンランです。


香蘭シャンラン。だが――」

「仲良くさせたいなら怖い顔はやめてください。二人とも怯えているではありませんか」


 ジュ・ウェイロンは、初めてリリー・メイたちの様子に気付いたようで言葉を詰まらせました。お兄様も困った表情でリリー・メイとユーリェン、ジュ・ウェイロンの顔を見比べています。


「すぐに打ち解けろという方が無理なのです。殿方は邪魔ですから女だけにしてください」


 シャンランはおっとりとにこやかに、けれどきっぱりと言いました。ふんわりとしたお伽話の中の人のように思っていたので、リリー・メイには意外でした。お兄様に叱られた胸の痛みも忘れて、目を丸くしてシャンランを見上げます。


太太マダム、しかし、リリーが――」

「邪魔です」

「香蘭。言葉が直接過ぎる。言い方を学べ」


 ジュ・ウェイロンがため息を吐きました。でも口元は笑っています。


「しかし女の領域を侵す訳にはいかないのだな。香蘭、玉蓮と莉麗を頼む」

ラオジュ、しかし――」

「世間知らずは玉蓮も同じだ。娘のためには離れて見守るのも必要なこと。まして香蘭もついている」


 まだ何か言いたそうにしているお兄様を見て、ほんの少し、リリー・メイの気持ちが上向きました。お兄様が困っているのと、リリー・メイを心配しているみたいなのが嬉しかったのです。だから、笑顔を作ってお兄様を見上げることだってできました。


「お兄様、リリーは大丈夫よ。ユーリェンが布を選ぶのを手伝ってあげれば良いのね?」

「そうだが……」


 お客様のジュ・ウェイロンに引きずられるように、こちらを振り返り振り返りしながらお兄様は部屋を出て行きました。仕事のお話は男の人がするものなのだそうです。


 残されたリリー・メイは、シャンランとユーリェンを交互に見ながら、また女同士のお話ね、と思いました。ベアトリスお姉様が言うには、男の人には言えないことも言って良いそうなのですが――今は、何を話せば良いのでしょうか。




 商会の人がお茶とお菓子を運んで帰って行くと、リリー・メイは本当にシャンランやユーリェンと三人きりになりました。ソファに掛けた二人は、シャンランは悠然とお茶を口にしているけれど、ユーリェンはきょろきょろと辺りを見渡しています。


「クッキー、食べたことありますか? 焼き菓子なの。美味しいからおひとついかが?」


 女主人ホステスらしくしなきゃ、と思ったリリー・メイは、ユーリェンに声を掛けました。華服を着ているくらいだから、本国のお菓子に慣れていないのかも知れないと思ったのです。


「クッキー、知ってる。食べたことあるわ」


 ユーリェンは答えると、クッキーを一つ摘まんで口に運びました。ジュ・ウェイロンやシャンランと同じ、流れるような綺麗な所作でした。ぶっきらぼうな口調ですが、多分怒っている訳ではなくて、言葉が流暢でないのでそうなってしまっている感じです。ゆっくり、丁寧に話してあげれば良いのね、と思ってリリー・メイは少し安心しました。

 クッキーを飲み込んだユーリェンは、優雅に口元を拭いました。そして、リリー・メイを頭から爪先までじっくりと眺めました。ジュ・ウェイロンと同じ、黒い鋭い瞳に見つめられて、リリー・メイは落ち着かない気持ちになってしまいます。

 ユーリェンは唐突に口を開きました。


「あなたのクツ、見たい」

「クツ、靴……?」

「そう、クツ」


 ユーリェンは発音がきちんとできないみたいです。聞き直して意味は分かったけれど、言い直すことはできないみたい。


「布を選ぶのではないの?」

「布、選ぶ。でも最初にあなたのクツが見たい」


 たどたどしくて単語を並べるような喋り方は、子供みたいです。リリー・メイも自然と砕けた話し方になってしまいます。


「見せて」


 ユーリェンの黒い瞳が真っ直ぐにリリー・メイの足元に注がれるので、リリー・メイは仕方なくスカートの裾を少しだけ持ち上げました。はしたないけれど、ここにいるのは女の人だけだからまあ良いかしら、と思ったのです。


 リリー・メイの靴を見たユーリェンは、にっこりと満面の笑みを浮かべました。そうすると初めて、少し歳上なだけの女の子なのだと思えて、可愛らしく思えます。


「ワタシと同じ」

「そうかしら?」


 ユーリェンも華服のズボンの裾を摘まんで、靴を見せてくれました。けれど、リリー・メイは首を傾げてしまいます。

 リリー・メイの靴は足首にストラップを巻く意匠のつやつやしたエナメルのもので、踵が少し高くなっています。一方ユーレェンのは、前にリリー・メイが貸してもらったような、布張りに刺繍を施した華夏風の平らな靴です。

 全然違うものだと思うのですが――


「言ったでしょう、玉連」


 そこへ、シャンランがまた口を挟みます。黙ってお茶を飲んでいたようなのに、しっかりとリリー・メイとユーリェンのやり取りを見ていたようでした。


「旦那様が纏足チャンズーをさせなかったのは、あなたが嫌いだからではないわ」


 華夏語の意味が分からなくてきょとんとするリリー・メイを他所に、ユーリェンはとても嬉しそうな表情で、何回も大きく頷きました。


「はい。はい。――そうでした、太太おくさま


 ユーリェンは勢いよくソファから立ち上がると、リリー・メイも手を引っ張って立たせました。そして並べられた布地の方へ小走りに急ぎます。一部を三つ編みにして、あとは垂らしたユーリェンの黒髪が背中で揺れています。


「莉麗、ワタシに教えて。どれが似合う?」

「う、うん」


 靴が何だったのかしら? リリー・メイはシャンランの足元にも目を向けましたが、華服の長い裾に隠れてどんな靴を履いているか見ることはできませんでした。

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