第24話 本当のきょうだい

 お兄様とジュ・ウェイロンは炎が完全に消えても、灰が舞い散る様子をずっと眺めています。翡蝶フェイディエのことを考えているのでしょうか。

 ジュ・ウェイロンは別に良いのです。翡蝶が好きだった人だというし、翡蝶に似たリリー・メイを追いかけようたしたくらいだから、この人も翡蝶のことが好きだったのでしょう。


 でも、お兄様が翡蝶のことを考えていると思うと、リリー・メイは面白くありません。翡蝶は別にお兄様のことなんて好きではなかったはずです。翡蝶がお屋敷にいたころは、お兄様はスクールの寮にいたそうですから、会う機会もそんなになかったと思います。

 それなのに、もう十年も一緒にいるリリー・メイが隣にいるのに、いつまでも翡蝶のことを考えているのはひどいと思います。


「お兄様、風が冷たいわ。リリー、早く帰りたい」


 だから、リリー・メイはお兄様の袖を引っ張って気を引きました。秋の始まりとは言ってもよく晴れた日のことですから、本当は日差しが気持ち良いくらいだったのですが。でも、お兄様はリリー・メイの身体を心配しているから、きっと帰らせてくれるでしょう。


「そうだね。戻ろうか」


 思った通り、お兄様がちゃんとリリー・メイを見て微笑んでくれたので、リリー・メイは安心しました。


ラオジュも。もう良いだろうか」


 お兄様の目線を受けて、ジュ・ウェイロンも頷きました。


「ああ。今日のことは感謝している」


 言いながら、少しだけど確かにお兄様に向かって頭を下げたので、リリー・メイは驚きました。この人は最初に会った時から王様のようにとても偉そうで堂々としていて、こんなことをするとは思えなかったのです。


「では、場所を移そう」


 帰り道は、ジュ・ウェイロンはリリー・メイとお兄様と並んで歩いて行きました。リリー・メイを真ん中に、大人の男の人に挟まれる形です。お兄様のがわに言ってくれれば気が楽なのに、と思うのですが、さすがにそれは失礼なので、リリー・メイは何も言うことができませんでした。

 それに、怖いと思っていた人なのに、何だか印象が変わってきたのです。リリー・メイが怯えているのを見た時の悲しそうな表情や、お兄様にちゃんとお礼を言ったこと。そんなところを見ていると、もっと優しくしてなければいけないのかしら、と思うのです。


 こっそりとジュ・ウェイロンの顔を見上げていると、視線に気付いたのかリリー・メイに向かってにっこりと笑いかけてきました。


「この前よりも顔色が良い。食事はきちんと摂っているのか?」


 リリー・メイはお兄様の方を見ましたが、黙って微笑んでいるだけでした。助けてくれないと分かったので、仕方なく反対側を向いてジュ・ウェイロンの黒い瞳を見上げました。前は刃物みたいに鋭い目つきだと思ったのに、今は優しそうにさえ思えます。お兄様が晴れた青空の瞳なら、この人の瞳は静かな夜の色をしています。


「ええ……」

「好きな食べ物は?」

「クリームを使ったお菓子が好きよ」

「エドワードは甘やかしているな。料理では?」


 なんでこんなことを聞くのかしら、と思いながら正直に答えます。


「お肉よりはお魚の方が好き。ハーブで柔らかく蒸したのとか」

「野菜は嫌いか?」

「お芋や南瓜は好きよ」

「青菜は?」

「あんまり……お肉やお魚と一緒とか、煮込んで味が染みたのなら食べられるわ」


 お兄様が代わりに話してくれないかしら、とリリー・メイはお兄様の方をちらちらとうかがいます。その間にもジュ・ウェイロンは次々と質問を投げてくるので、リリー・メイは首を忙しく左右に動かして目が回りそうです。


華夏フアシア風は苦手ではないか? この前は食が細かったが。食べ慣れたものの方が良いだろうか?」

「点心はお屋敷でも出ることがあるわ。あまり辛いのとかは好きじゃないけど……華夏風だからって食べられないということはないと思う」


 ジュ・ウェイロンの方を向いている時でも、リリー・メイの手はしっかりとお兄様の腕を握っています。リリー・メイは知らない人と話をするのが苦手――というよりもほとんどそんなことをしたことがないので、緊張してしまうのです。

 それでも、ジュ・ウェイロンが尋ねてくることははっきりしていて、悩まずに答えることができるからまだ良いのですが。お茶会で会った奥様たちや令嬢たちの、丁寧なのに回りくどい話し方の方がやりにくかったと思います。皆さま笑っていても、正しい答え方をしないと呆れられてしまうような気がして疲れてしまったのです。


「なるほど」


 ジュ・ウェイロンが深く頷いたので、リリー・メイはこれで終わりかしら、と安心しました。答えやすいとは言っても、全く気疲れしない訳ではなかったのです。


 ちょうど墓地の入口のアーチも見えてきました。これで馬車に乗ってしまえば、すぐにお屋敷です。お兄様は、お仕事を終わらせて来たと言っていました。遅めのお昼をいただいて、午後は目一杯甘えて過ごしたいです。翡蝶のことなんか考えられないように。


フーライフェン楼が良さそうだ」

「あなたに任せよう。だが、席は取ってあるのか?」

「顔が利くから問題あるまい」


 すっかりお兄様との楽しい時間のことを考えていたリリー・メイは、大人二人の会話に首を傾げました。何か怪しい雰囲気がします。


「……何の話?」


 リリー・メイは顔を強ばらせて立ち止まってしまいました。お兄様は気付かず数歩進んでしまったので、組んでいた腕がするりと解けてしまいます。


「私は老朱と話すことがある。リリーも一緒に来てくれるね? 華夏料理の店だ。この前行けなかった代わりに、良いだろう?」


 振り返ったお兄様は、宥めるようにリリー・メイに言い聞かせます。困ったような微笑みは、最近よく見る表情です。リリー・メイが我が儘を言っているように扱う時のお顔です。何も聞かされないであちこち連れ回されるリリー・メイの気持ちなんて、分かってくれていないのです。


「知らない人とお食事なんて……」


 思わずつぶやくと、横から深いため息が聞こえてきました。


なのは承知している」


 もちろん、ジュ・ウェイロンです。またも悲しそうな顔をしているのはリリー・メイのせい、なのでしょうか。お兄様に対してなら、リリー・メイは何も悪いことはしていないと言えますが、この人に対しては――どうなのでしょうか。分からないのですが、申し訳ないと思ってしまいます。


「だが、知り合う機会も与えてもらえないのだろうか」


 本当のことを言えるなら、これ以上この人と話していたくはありません。この華夏人も翡蝶に深く関わった人だからです。お兄様でなくても、誰にだって、翡蝶と比べられたくなんかありません。


 でも、面と向かってそんなことが言えないことくらい、リリー・メイにだって分かります。失礼だし――言ったらきっとまた悲しませてしまうのでしょう。結局、リリー・メイはお兄様の思い通りにするしかないのです。


「……分かったわ。一緒に行くわ」


 だから、リリー・メイは横を向いて小さな声で答えるのでした。




 馬車に揺られながら、リリー・メイは不貞腐れています。


「お兄様、リリーを騙したのね」


 リリー・メイに黙って、ジュ・ウェイロンと合わせようとたくらんでいたのです。リリー・メイを遠ざけようする作戦の一環に違いありません。


「すまなかったね」


 唇を尖らせて抗議しても、お兄様はおざなりに謝っただけでした。お顔を窓に向けたまま、リリー・メイを横目にして相手をしています。


「先に言ったら会いたくないと言うに決まっているから仕方なかった。実の娘に拒絶されてはジュ威竜ウェイロンも気の毒だ」

「そんなの知らない。リリーはお兄様がいれば良いの」


 またその話です。確かにリリー・メイとジュ・ウェイロンは同じ黒い髪と黒い瞳だけど、お父様だとか言われても何の実感も湧きません。

 お兄様は嘘を吐いてまで離れたいのかと思うと涙が出そうになったので、リリー・メイは少し上を向いてぱしぱしと瞬きをしました。お兄様を見つめたままで。

 すると、お兄様は少し眉を寄せました。


「そんな目で見ないでくれ。怖いから」

「怖いって、リリーが?」


 お兄様は何を言っているのでしょう。怖いというならリリー・メイの方なのに。お兄様がどこかへ行ってしまいそうで、一人にされそうで、不安で仕方ないというのに。


「そう。最近綺麗になってきたからね。妹だったはずなのに。そんな目で見られると自信がなくなってしまうから」

「リリー、お兄様の妹じゃないの……?」

「妹だよ」


 お兄様は眉を寄せたまま、リリー・メイから目を背けてまた窓の外を向いてしまいました。


「兄妹でいるために、距離を置いた方が良いんだ。本当の兄妹はあまりべたべたしないものだから」


 でもお兄様、お兄様はリリー・メイの本当のお兄様じゃないじゃない。

 口に出して言ってしまおうかとも思いましたが、リリー・メイにはどうしてもそれを言うことができませんでした。お兄様が、まるでリリー・メイがそこにいないみたいに外を見ているのが理由の一つ。もう一つ、もっと大きい理由は――


 お兄様とリリー・メイは本当の兄妹ではありません。他の人たちが信じているように叔父と姪ですらありません。それなら、二人は何なのでしょう。

 妹だから、と言っていくれているのはお兄様だけ。今までなら疑うこともなかったけれど、最近のお兄様は変なのです。リリー・メイにはっきり言わないことばかり。とても信じられません。


 だから、確かなはずの足元が急に崩れていくような気がして、リリー・メイは何も言えなくなってしまったのです。




 ジュ・ウェイロンが言っていた何とかいう店――リリー・メイには華夏語の額は読めなかったので分からないままでした――は、金鶏ジンジー大路ダールーで見たようなのと同じ、赤や青や緑の装飾も華やかな建物でした。ただ、金鶏大路では本国風の石造りの建物の全面だけを華夏風にしていたのに対して、ここは全てが木造のようでした。

 辺りを見渡しても通りの名前を示す標識はなくて、租界やその近く、本国の言葉が通じる界隈ではないようです。


「お話って、何なの?」


 裏通りで迷子になった時の心細さを思い出して、リリー・メイはお兄様の腕にしがみつきました。抱きつくのは駄目でも、紳士とレディのように腕を組むことまではお兄様も拒まないのです。


「仕事の話だよ」


 お兄様はリリー・メイに微笑みかけます。優しいお顔ですが、前だったら髪を撫でながらだったでしょうに、と思うと物足りません。


「当家の商売でラドフォード商会から布地を仕入れたいのだ。そのための商談だ」

「……ふうん」


 リリー・メイはお兄様とジュ・ウェイロンの顔を交互に見比べました。

 翡蝶に関係することでなくて良かったと思えば良いのか、どうせ口実なんでしょう、と疑えば良いのか分かりませんでした。そう、本当に仕事のお話だったらリリー・メイがいる必要なんてないのです。

 気をつけなければいけないわ、とリリー・メイは決心しました。




「――までに納品可能だろうか」

「全てという訳にはいかないかも。確約できるのはこの程度だが」

「まずはそれで問題なかろう」


 今のところ、お兄様たちは本当にお仕事の話だけをしています。訳の分からない日付や数字や地名を聞き流しながら、リリー・メイは拍子抜けして華夏料理をつついています。

 魚や海老とか、多分大鯨ダージンの港に揚げられた海の幸を使った料理が多いです。ジュ・ウェイロンは、お魚の方が好きだと言ったリリー・メイのことを考えてくれたみたいでした。良い人かしら、と思ったリリー・メイですが、すぐに食べ物で釣られてはいけないわ、と心の中で首を振ります。お菓子で言うことを聞かせようとするお兄様みたいに、これが作戦なのかもしれないのです。


「今日のところはこれくらいで良いだろう」


 デザートにシロップ漬けの果物をいただいていた頃、お仕事の話も終わったようでした。結局、リリー・メイは座っていただけです。

 やっとお屋敷に帰れると思うとほっとして、リリー・メイはスプーンを器に置きました。そこに、お兄様が声を掛けます。


「良い子にしていたね、リリー」

「ええ」

「次は同じくらいの歳の子もくるから。そう退屈しないだろう」

「次?」


 リリー・メイが首を傾げると、お兄様とジュ・ウェイロンは顔を見合わせて少し呆れたように笑いました。


「……聞いていなかんだね」

「訳が分からなかっただろうから無理もない」


 何だか嫌な予感がして、リリー・メイは大人二人を睨みました。


「次、って?」


 答えたのはジュ・ウェイロンの方でした。


「娘に洋装を仕立ててやりたい。今度連れてくるから、莉麗リリーに見立ててもらいたいのだ」

「娘?」


 繰り返してまた首を傾げたリリー・メイに、お兄様が言い聞かせます。


「先日、君が服を借りた子だ。お礼もしなければならないだろう?」


 そうでした、ジュ・ウェイロンのお屋敷に行った時、ちょうど女の子の服があって不思議に思ったのでした。あれは綺麗にして返したということでしたが、確かに、本の時と同じようにちゃんとお礼をしなければいけなかったのかもしれません。


「……そうね」

「ありがとう。聞き分けてくれて」


 小さく頷くと、お兄様はほっとしたように笑いました。手がぴくりと動いたのは、頭を撫でようとしてやめたのでしょうか。


「同じくらいの歳だから友だちになれるだろう。君の、本当のお姉様でもあるし」


 本当の、お姉様。お兄様はまた嫌なことを言いました。大好きなお兄様が本当のお兄様でなくて怖いというのに、どうして会ったこともない子をお姉様だなんて思わなくてはいけないのでしょう。


「エドワード。余計なことだ」


 顔を強ばらせて固まったリリー・メイを見て、ジュ・ウェイロンがお兄様を睨みます。そして、リリー・メイに向かって――今度は優しく――語りかけました。


「娘もまた莉麗にとっては知らない子だ。だが、洋装をした黒髪の子が一緒なら娘も安心できると思うのだ。莉麗が私の屋敷に来た時は怖かっただろう。娘も同じことだと思うから」


 確かに、知らない言葉を話す変わった服装の人に囲まれるのは、不安で怖いことでした。リリー・メイもダニエルがいたから頑張ることができたのです。同じ歳頃の子がいるのは、その子にとって良いことかもしれません。


「分かったわ……」


 嫌なことばかり言うお兄様より、ほとんど知らないジュ・ウェイロンの方が信じられるというのは、とても不思議なことでした。

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