第23話 舞い上がる灰

「何でこの人がここにいるの!?」


 リリー・メイは悲鳴を上げてお兄様の後ろに隠れようとしました。

 この人――ジュ・ウェイロンは怖いです。金鶏ジンジー大路ダールーでは、いきなり追いかけられました。その後汚れた華夏フアシア人に襲われてくれたのもこの人ですが、訳の分からないままお屋敷に連れて行かれてしまいました。何より、この人と会ってからお兄様の様子がおかしくなったのです。

 お兄様が言うにはジュ・ウェイロンはリリー・メイの本当のお父様だそうですが――そんなことは知りません。リリー・メイにとっては一回会っただけ、それも怖い思いをさせられた人でしかありません。


「ある程度は仕方ないと覚悟していたが……本当に全て話したのだろうな?」


 ジュ・ウェイロンが悲しそうな顔をしたので一瞬胸が痛くなりましたが、次の瞬間にはお兄様を睨んだので、リリー・メイはお兄様にしがみつきました。やっぱり怖い人だわ、と。


「誓った通り、全て話した。

 ただ、寂しがらせるだけだから今まで両親のことなんて話さなかったんだ。そこへきて本当の父親と言われても実感がないんだろう。じきに、分かる」

「寂しがらせるから? お前だけを見るようにではないのか」


 ジュ・ウェイロンは目を細めて冷たく言いましたが、お兄様はそれには答えず、しがみつくリリー・メイを剥がしてジュ・ウェイロンに向き合わせました。


「リリー、レディらしく挨拶を」

「でも……」

「私がついてるから。危ないことは何もないよ」


 お兄様の服の袖を握ったまま、リリー・メイはお兄様とジュ・ウェイロンを交互に見上げました。二人ともリリー・メイよりずっと背が高いから、覆いかぶさってくるみたいで余計に不安になってしまうのです。


「人を獣のように言う」


 不機嫌そうに言ったジュ・・ウェイロンの口調は、それこそ獣が唸るみたいで、リリー・メイはますますお兄様にぴったりとくっつきます。


「リリー、良い子だから。挨拶を……」

「だって、お兄様。ひどいわ」


 ひどい。最近お兄様によく言ってしまう言葉です。でも、そう言われても仕方ないと思うのです。何も言わないで連れてきて、ほとんど知らない人に会わせるなんて。それでこんな聞き分けのない子みたいに扱われるなんて。


「どうしてこんなところに来たの? この人が来るって知ってたら来なかったわ!」

「リリー!」


 お兄様がジュ・ウェイロンの方を見ました。リリー・メイには叱るみたいにきつい口調なのに、この人に対しては気遣うような目をしています。本当に、ひどいです。


「許してやってくれ。この子は自分が何を言っているか分かっていない」

莉麗リリーに怒りなどするものか。だが何一つまともに教えなかったお前は許さない」


 前に会った時と同じ、お兄様に対するジュ・ウェイロンの口調は刃物で切りつけるみたいに鋭くて冷たい言い方でした。

 リリー・メイが挨拶できないのからいけないのかしら、と思うとお兄様に対して申し訳なく思います。同時に、この人にお兄様が悪く言われているのを見ると、何だか腹が立ってきました。


「お兄様はちゃんと教えてくれてるわ!」


 言ってしまってから、どうしようとは思ったのですが、もう後には退けませんでした。お兄様の袖から手を離して、一歩二歩、ジュ・ウェイロンの方へ歩み寄ります。その時初めて、この人も花束ブーケを持っているのに気がつきました。といってもリリー・メイの持っている百合のように真っ白なものではなくて、赤や桃色も入った大振りの牡丹です。華夏では人気の花だと聞いたことがありますが。

 ジュ・ウェイロンの黒い怖い目を見なくて良いように、リリー・メイはほとんど牡丹に向かってスカートを摘んで挨拶しました。


「ごきげんよう、良いお天気ですね。お会い出来て嬉しいです」


 そして、あまりに素っ気ないかと思って、少し迷ってから付け足しました。


「この前は、ありがとうございました。ご飯も、服も……」


 牡丹を見つめていると――ちょうどリリー・メイの目線にあったということもあって――それは本物の花ではなくて、何か紙のようなもので出来た造花でした。どうりで香りがしないと思いました。でも、牡丹の香りってどんなものなのかしら?


「当然のことだから感謝には及ばない。むしろ私が無理強いした」


 造花の花束に気を取られていたので、その優しい声が誰のものか、一瞬戸惑ってしまいました。明らかな異国の抑揚アクセントがあるのに。お兄様に対してとは全然違って、ジュ・ウェイロンはリリー・メイにはとても穏やかに語りかけてくるから、まるで別人みたいだったのです。


「まさかエドワードが何も言わずに連れ出したとは。――母親の墓参も、初めてなのだな」


 そんなため息混じりの言葉も、どういう意味か飲み込むのに時間が掛かりました。だってリリー・メイにはずっとお母様なんていなかったから。誰のことかやっと結びつけると、すっかりお馴染みになってしまった苦い気持ちが広がりました。


「ここ、翡蝶フェイディエのお墓があるのね……」


 ひどい、と改めて思います。

 リリー・メイは翡蝶が嫌いです。ずっと昔に亡くなった人なのに、お兄様のお兄様――アルバートの奥様だった人なのに、エドワードお兄様に大事に想われているからです。リリー・メイは翡蝶に嫉妬しているのです。


 お兄様にそうとはっきり言った訳ではない――言えるはずがない――ですけど、お兄様もリリー・メイが翡蝶の話を嫌がるのは分かっているはずです。だから内緒で墓地ここまで連れてきたのです。


「そう。黙っていて悪かったが――少し遠出をしても良さそうだったから。ちょうど良い距離だと思ったんだ」


 お兄様の言葉は少し弱々しいものでした。どうせ言い訳なのでしょう。お兄様はどうしてもリリー・メイに翡蝶のことを教えたいみたい。

 リリー・メイを翡蝶の代わりにしたいのよ、とベアトリスお姉様が言っていたのがどんどん本当らしくなってきました。


「私だとて嫌われたくはない。不安なら近寄ったりはしない」


 リリー・メイが暗い顔なのを、ジュ・ウェイロンは自分のせいだと思ったようです。悲しそうな寂しそうな口調に申し訳ないとは感じたのですが、だからといってリリー・メイには傍に来ても良いわ、と言うこともできませんでした。

 翡蝶のことだけでもどうしたら良いか分からないのです。その上にジュ・ウェイロンのことまで考えなければならないなんて、倒れてしまいそうでした。たとえこの人がリリー・メイの本当のお父様だとしても。




 墓地の中は、墓石が並んでいるのを除けば本で見たお城の庭園と言っても信じてしまいそうな光景が広がっていました。青々とした芝生の間を白っぽい灰色の石畳の道が通っていて、ところどころに彫刻が置かれています。ほとんどが聖典に関わるもので、石で出来た人たちの衣装や持ち物やポーズから、リリー・メイはどのお話か当てることができました。


 百合を掲げた御使いの像を通り過ぎながら、衣装のひだを目で追っていると、目の端に黒い影が入ったので、リリー・メイは慌てて前を向きました。

 自分で言った通り、ジュ・ウェイロンはリリー・メイとお兄様の数歩後を歩いています。でも、ぴったりと同じ距離を保ってついてきているというのも、お化けの影みたいで不安になってしまうのです。

 お兄様の腕に添えた手に力を込めると、お兄様がリリー・メイに話しかけてきました。


ジュ威竜ウェイロンは翡蝶の墓を詣でたことがないんだ」

「どうして?」

「信じる教えが違うから。信徒じゃないから私たちの墓地には入れない。本当は華夏の流儀で葬りたかっただろうが。今日は私が招いたから許された。アルバートはそんなことをしなかったから……」


 お兄様の口調は気の毒そうです。ジュ・ウェイロンが可哀想だから怖がってはいけないよ、と言おうとしているみたい。この前もついさっきも、あんなに怒ってくるような怖い人なのに。


「どうして?」

「嫉妬、かな。死んだ後でも翡蝶と朱威竜が会うのが嫌だったんだろう」

「嫉妬……」

「リリーには分からないかもしれないね」


 分かるわ、とリリー・メイは心の中でつぶやきました。好きな人を独り占めしたい気持ちはとてもよく分かります。リリー・メイだって、できることならお兄様が翡蝶のことを考えたりベアトリスお姉さまと会ったりするのを止めたいのですから。顔も知らない、さして考えたこともない上に、実はお父様でもなかったアルバートですが、リリー・メイには今になって何だか親しみが湧いてきました。


 ふと、思いついてお兄様を見上げます。


「アルバートが亡くなった後、お兄様はあの人を入れてあげなかったの?」

「……思いつかなかったな。そうしても良かったのに」


 よく晴れた日だというのに、お兄様の瞳が陰ったようでした。リリー・メイの胸にも暗い影が落ちます。

 お兄様はまたリリー・メイに嘘を吐きました。お兄様もアルバートと同じだったに違いないのです。ジュ・ウェイロンに嫉妬していたから、翡蝶のお墓に行かせたくなかったのでしょう。お兄様も翡蝶が好き――きっと今も――なのでしょう。


 リリー・メイは、形のない嫉妬という気持ちの苦さを、口の中にはっきりと感じました。




 翡蝶とアルバートの墓石は、他のものとあまり変わりありませんでした。刻まれた文字をじっくり読まなかったら通り過ぎてしまっていたでしょう。まっさらという訳ではないけど、苔むして黒っぽくなっているわけでもない。辺りにいくらでもある墓石に紛れてしまっています。


「ふぇいでぃえ……」


 翡蝶の名前は、華夏の文字ではなく、リリー・メイにも読める本国の文字で刻まれていました。でも、本国の文字は音だけを表すので、「翡翠の蝶」という意味だとかいうのは今ひとつ実感が湧きませんでした。


「花を供えて。リリーのお母様だから、君からが良いだろう」


 お兄様に言われるがまま、リリー・メイはずっと抱えていた百合の花束を墓石の前に置きました。お母様といっても知らない人だけど、とは口に出さないままで。


 墓石には翡蝶とアルバートが亡くなった日付も刻まれています。翡蝶は二十二歳、アルバートは二十四歳で亡くなったようです。今のお兄様よりも、もっと若い。リリー・メイが二歳の頃のはずです。

 その頃のことは、と考えても何一つ思い出すことはできませんでした。ただ、気がつけば傍にお兄様がいて遊んだり本を読んだりしてくれたのです。


「心の中で良いから、何か話しかけてあげれば良い。翡蝶も喜ぶと思う」


 お兄様はそんなことを言いますが、リリー・メイには翡蝶に言うことなんてありません。名前の綴りや亡くなった日を知ったからといって、翡蝶はリリー・メイにとって知らない人のままです。

 顔のところにぽっかりと暗い穴の空いた華夏の貴婦人がお兄様に寄り添う姿が思い浮かんで、リリー・メイは身震いしたその嫌な想像を振り払いました。


「もう終わったわ」


 リリー・メイとお兄様が下がるのと交代で、ジュ・ウェイロンも翡蝶たちの墓石の前に進みました。牡丹の花束を抱えたまま、じっと長いこと佇んでいます。リリー・メイと違って、伝えたいことが沢山あるのでしょうか。


 やがてジュ・ウェイロンは跪いて花束を置くと、懐から何か取り出しました。紙の束と――燐寸マッチです。ジェシカがランプを灯すのをいつも見ているから分かります。

 どうするのかしら、と思っていると、ジュ・ウェイロンはしゅっと燐寸を擦りました。嗅いだことのある煙い臭いに、小さな炎が生まれたのが見えます。

 そして、ジュ・ウェイロンは火の点いた燐寸を造花の花束に近づけます。リリー・メイが目を丸くする一瞬の間に炎は大きく燃え上がって、綺麗な花も枯れたように白く灰になっていってしまいます。


 リリー・メイが驚いてお兄様を見上げると、お兄様は心配いらない、というように微笑みました。


「華夏の弔いの方法だ。紙はお金を模している。燃やすことで、死者の国に花やお金が届くと信じられているんだ」


 それを聞いて思い出すことがありました。華夏風の離れを探検して刺繍の靴を見つけた時のことです。お兄様は靴の持ち主を、綺麗な人形を燃やしてしまったと言っていました。今なら分かります。お人形とは翡蝶のことなのでしょう。男の人に逆らわない華夏の女の人はお人形みたい、とはベアトリスお姉様の言葉です。


「翡蝶のものを燃やしたのもそれでなの?」

「そう。彼女の衣装、髪飾り、化粧品。全て燃やした。彼女があちらで不自由しないように」


 白く細かい灰は瞬く間に空に舞い上がり、吹き散らされて見えなくなってしまいました。

 なのに、お兄様はいつまでも宙を見つめています。まるで翡蝶の姿を探すかのように。


 百合の花束を供えた時には何も出てこなかったけれど、今度こそリリー・メイは翡蝶に向かって語りかけました。天の国まで――華夏の人も同じところに行くかは知らないのですが――届くように、強く、強く。


 お兄様はここにいるの。リリー・メイの隣にいるの。翡蝶になんか渡さないわ。お兄様はリリー・メイのお兄様よ!


 空を見上げるお兄様を引き止めるように、不安を紛らわすように、リリー・メイはお兄様の袖を強く握り締めるのでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る