第22話 白と黒
リリー・メイは手紙を書き終えると丁寧に封をしました。そしてジェシカに託します。
「お願いね」
「ええ、かしこまりました」
ダニエルに宛てた手紙です。スクールの寮での出来事を教える便りをくれたので、その返事です。男の子たちばかりの暮らしというのは、リリー・メイには想像しにくいことでしたが、楽しそうなのはよく分かったので微笑ましい気持ちで読むことができました。
ダニエルも友だちといると楽しい、というようなことを書いていたのが少し胸に刺さりましたけれど。友だちがいないというのはやっぱりおかしなことなのでしょうか。
リリー・メイは、返信にエドワードお兄様とベアトリスお姉様が仲直りしたようだと書きました。だから、安心して欲しいと。
それから、最近はお兄様とお出掛けするようになったこと。だから、次に会う時にはもっと元気になっているかもしれなくて、ダニエルともどこかへ行けそうね、とも。
ジェシカを見送ると、悪いことをしてしまったような気がして、気分が沈みました。
手紙だと直接は言えないようなことも書ける、とダニエルは言っていました。それは、今のリリー・メイにとっては、面と向かっては言えないような嘘も書ける、ということでした。
手紙ではとても喜ばしいことのように書いたのですが、リリー・メイにはお兄様とお姉様が仲良くしているところを前のように何も考えずに見ることはできなくなってしまいました。お兄様にはリリー・メイだけを見て欲しい、他の人に構って欲しくないと思ってしまうのです。お姉様は嫉妬は苦いものだと教えてくれましたが、お薬とは違った決して消えない苦さを、二人が一緒にいるのを見る度に感じてしまうのです。
お兄様とのお出掛けも、手紙で書いたほど楽しみなことではありませんでした。
リリー・メイの体調が心配だからということで、お屋敷の周りだけ、散歩のように二人で何度か出歩きました。
屋台で揚げ立ての白身魚を買ってもらったり――リリー・メイはお金を見るのも初めてでした――、租界を通る
でも、気がかりなことは何一つ解決していないままなのです。だから、お屋敷に帰る頃にはリリー・メイはいつもため息を吐いてしまいます。
お兄様は相変わらず優しいですが、どこかよそよそしいというか、見えない壁を張り巡らせているみたい。前のように撫でたり抱きしめたりしてくれないし、リリー・メイから甘えようとしてもやんわりとですが止められてしまいます。
それでリリー・メイが怒ったりいじけたりすると、嫌いになれば良いと言うのです。リリー・メイがお兄様を嫌いになるように仕向けてお屋敷を追い出してしまおうとしているようなのです。
療養所に入れられるのが怖いから、お薬も食事もきちんといただくようにしています。そのせいか、お出掛けをしても今のところは熱を出してしまうようなことはなくて、むしろ体調は良いくらいです。
でも、リリー・メイが元気になってしまったら、お兄様はもう大丈夫だね、とか言ってどこかへ行ってしまうのではないでしょうか。
お姉様は、お兄様はリリー・メイのお母様の
リリー・メイだって顔も知らない亡くなった人の身代わりだなんて嫌です。お兄様にはちゃんとリリー・メイを見て欲しい。でも、そのために一人前のレディになったら、お兄様は離れていってしまう。それもまた嫌です。
そういうことなので、リリー・メイはどうしたら良いか分からなくて、悩みが尽きることがないのです。
「お嬢様、そろそろお支度の時間ですよ」
戻ってきたジェシカの声に、リリー・メイは物思いから引き戻されました。今日もこれからお兄様とお出掛けの約束をしていたのですが、すっかり忘れてしまっていたのです。
「え、ええ。今日は何を着ようかしら」
この前お姉様からいただいたドレスを順番に着ているところなのですが、お天気や気分と合わせて考えると迷ってしまって、毎回なかなか決まらないのです。
「今日はこちらを、と。エドワード様から言付かっています」
でも、今回は考えるより先にジェシカが一枚のドレスを見せてくれました。
「地味、なのね」
リリー・メイは首を傾げました。
ジェシカが持ってきたのは、厚手の生地で仕立てた黒一色のドレスでした。少し光沢がある上にふわふわとした起毛があるから、綿に絹と毛を混紡した生地なのでしょう。胸元に
「百合の
「嫌な訳じゃないの。でも、お兄様がわざわざ用意してくれたの?」
「そのようですね。さ、腕を上げてください」
そんなことを話しながら、ジェシカは手際良くドレスを着付けてくれます。
着ていないドレスだってまだあるのに変なの、とは思いますが、お兄様が選んでくれたというのが嬉しくて、リリー・メイは上機嫌で着替えを進めました。
「お髪はどうなさいます? 今日はまとめた方が良いかと思いますが」
「お任せするわ」
ジェシカは髪を編み込みながら一本の三つ編みにして、さらにそれをぐるりと頭に巻きつける形にしようとしているようでした。三つ編みをピンで頭に固定しようとしている時――ジェシカはお姉様と違って慣れているので、頭に刺さってしまうようなことはありません――、部屋の扉が開きました。同時に、ふわりと華やかな花の香りが入ってきます。
「お兄様! ごきげんよう。お仕事はもう良いの?」
頭を動かせないリリー・メイは、目だけを動かしてお兄様に挨拶します。ここのところ様子がおかしいとはいっても、お兄様を大好きなのに変わりはないのです。
「ああ、君のために終わらせてきた。今日の髪型は大人っぽいね」
「ありがとう、お兄様」
お兄様は、リリーに大人になって欲しいのかしら。そしてそれは翡蝶のように、ということなのかしら。
疑問で胸とお腹がぐるぐるとするのを抑えて、リリー・メイは笑顔で答えました。口に出すことはしません。何にも増して、お兄様が翡蝶のことを話すのを聞きたくなかったのです。
「さあ、出来上がりましたよ」
ジェシカの声にうながされてリリー・メイは立ち上がり、お兄様の前まで進みました。髪型やドレスの意匠がよく見えるように、くるりと回って見せます。重いスカートに振り回されるのにも慣れてきました。ふらつくことなくぴたりと止まって、小首を傾げてお兄様を見上げます。
「どう、かしら」
「とても綺麗だよ。喪服もよく着こなしている」
お兄様はいつもの優しい笑顔です。でも、お兄様の青い瞳は――何となくリリー・メイをちゃんと見ていない気がして、納得がいきません。
「本当?」
「本当だとも」
一歩、歩み寄って間近に目を合わせたもの一瞬、お兄様は目を脇に逸らしてしまいました。
「さあ、これを持って」
そうして渡されたのはさっきの香りの源、大輪の百合の花束でした。白い花びらが黒い服に映えて眩しいほどです。
「お花を持って今日はどこへ行くの?」
百合の香りを楽しみながら、リリー・メイは問いかけました。そこで改めて気づきます。お兄様もリリー・メイと同じ、黒一色の服装をしていることに。お兄様はもともと細身なのですけど、黒のおかげで一層すっきりと見えて格好良いです。それに、お揃いね、と思うと地味な色でも少し嬉しいです。
「すぐに分かるよ。では行こうか」
そう言うと、お兄様はリリー・メイに手を差し伸べました。お兄様に触れる理由ができるのが嬉しくて、リリー・メイはお兄様の腕に飛びつきました。
片手に花束を持って、もう片方の手でお兄様の腕を取ってお屋敷の玄関へ向かいます。片手だけでは寂しさや心細さを埋めるには到底足りないのですが。本当は思い切り抱きついたり抱き締めてもらったりしたいのですが。それでも添えた手から伝わるお兄様の温もりを、リリー・メイは精一杯味わいました。
外に出ると馬車の用意がされていたので、リリー・メイはまた首を傾げました。今日のお出掛けはいつもより遠くに行くということなのでしょうか。今までは、リリー・メイの足でも歩いていける範囲だけだったのですが。
「どこへ行くの?」
「すぐ着くから。気分が悪くなったら言いなさい」
「……はあい」
答えになってないわ、と思いながらも、リリー・メイは大人しく馬車に乗り込みました。
最近のお兄様はいつもこうです。決して怒ったり意地悪をしたりする訳ではないのですが、リリー・メイの言うことを聞こうとしないみたい。そうやって、お兄様の思う通りに進めようとしているみたい。
聞いてくれないことが分かってきたから、リリー・メイも思ったことを全ては言わないようになってしまいました。一緒にいるのに、心の方からどんどん離れていってしまっているようで、とても怖いです。リリー・メイは膝の上の百合の花束を、ぎゅっと握り締めました。
馬車はお屋敷が並ぶ通りを抜けて、租界の外れへ向かっているようでした。といっても、
お兄様が言った通り、そう長く掛からないうちに、馬車は鉄製の柵で囲まれた公園のような一角にたどり着きました。道なりに並ぶ黒い鉄の棒をぼんやりと眺めていると、その隙間から緑の丘が、そしてそこに並ぶ白い石の列が目に入りました。角砂糖でも並べたみたい。リリー・メイは、本で見たことの中から、それを何て言うのか探しました。
「――お墓?」
小さく呟くと、聞きつけたお兄様が顔を寄せてきました。馴染んだ香水の香りが漂って、心臓がどきりとしてしまいます。
「そう。怖い?」
「いいえ。何で?」
振り返ってお兄様を見上げると、くすくすと笑い声が降ってきました。おかしなことを言ったのかしら、とリリー・メイは唇を尖らせました。
「何で笑うの」
「何でもないよ。教えなかったことが良い結果になることもあるようだ。君に怪談を読み聞かせなかったのは正解だった」
「どういうこと――」
馬鹿にされているような気がして声を高めてしまったのですが、ちょうどその時に馬車が止まって最後まで言うことはできませんでした。
「舌を噛んだりしなかった?」
「……大丈夫よ」
お兄様はリリー・メイを放り出そうとしている割に、気遣うようなことも言います。全く訳が分かりません。大事にしてくれるというなら、ずっとお屋敷にしまっておいてくれれば良いのに。
「少し歩くよ」
馬車を降りるとお兄様が腕を差し出してきました。片手に百合の花束を、逆の手にお兄様の腕を。お屋敷を出る時と同じ格好です。
「お墓に何のご用なの?」
お兄様はリリー・メイの歩幅に合わせてくれているので、ダニエルの時と違って焦ることはありません。でも、何でこんなところに連れてこられたのでしょう。
リリー・メイの問いかけに、お兄様は曖昧に笑っただけでした。これも、最近はよくあることなのですが。
何て言って責めようかしら、と思っていると、お兄様が立ち止まりました。どうやら墓地の入口のようで、アーチ状の門に、翼の生えた御使いの彫刻が飛び交っています。
そこに佇む人影に、お兄様は軽く手を上げて挨拶します。こちらを向いたその人の顔を見て、リリー・メイは息が止まるような思いがしました。
「――来たか」
「待たせてしまったな。失礼した」
「待つというなら十二年待った。これくらいどうということはない」
「……本当に、悪いとは思っている」
お兄様とその人が言葉を交わすのを、リリー・メイは信じられない思いで聞いています。どうしてお兄様は、この人と何でもないように喋っているのでしょう。
印象深い――忘れられない――低い声に、変わった
「
その人が微笑み掛けてくるのですが、リリー・メイはお兄様の陰に隠れてしまいます。だって、この人はリリー・メイが大嫌いな翡蝶と、とても近い人だから。それに、この人がきっかけで全てが変わってしまったから。
そこにいたのは、間違えようもなくジュ・ウェイロンその人でした。
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