第21話 嫉妬の味

「お兄様、ごきげんよう!」


 リリー・メイはお兄様の前で軽く膝を曲げるお辞儀をしました。お兄様は軽く笑うと、リリー・メイの手を取ってキスをしてくれました。


「小さなレディ、素敵だよ。

 ベアトリス、気を遣ってもらってすまなかった。ありがとう」

「良いのよ。リリーのためですもの。見て、すっかり機嫌も治ったでしょう」

「ああ……やっぱり女の子なんだな」


 お兄様とお姉様が話している様子を、リリー・メイはじっと目を凝らして観察しました。

 お兄様が褒めてくれたのは本当にリリー・メイなのかしら。お母様 の、翡蝶フェイディエの面影を見ているだけではないのかしら。

 お兄様の笑顔はいつも通りでしたが、だからといって安心することはできませんでした。お姉様の考えが当たっているなら、お兄様は今までずっとリリー・メイを翡蝶の代わりとして見ていたのかもしれないのです。そして、あまり似すぎているから今度は離したいと思っているかもしれないとか。


「リリーもいつまでも子供じゃないわ。お菓子で釣るのも限界なのよ」

「そのようだ。私には女心が分からないからな。君には改めてお礼をしなくては」

「じゃあ、買い物に付き合ってもらおうかしら。気になるお店ができたのよ」


 二人の話を聞いているうちに、リリー・メイの中でもやもやとした黒い影のようなものが膨らんでいきます。何て言ったら良いのでしょうか。


 そう、ずるい、と思います。


 お兄様はお仕事で外に行きます。色々なものを見て色々な人に会います。リリー・メイの知らないところでお姉さまと会って、ダニエルとも知り合っていました。リリー・メイはずっとお屋敷でお留守番しているのに。

 外に出掛けたいとは今でも思っていません。ただ、リリー・メイにはお兄様しかいないのに、お兄様にはリリー・メイ以外の人や事や物が沢山あるのに気付いたのです。それを、とてもずるいと思うのです。


「お兄様、それならリリーも行きたいわ。せっかく綺麗なドレスをいただいたんだもの。連れて行ってくれる?」


 だから、リリー・メイはお兄様とお姉様が話しているところに割って入りました。

 おねだりしたのは、お兄様の気を引きたかったからです。だってあんなにリリー・メイを外に連れ出そうとしていたのですから。リリー・メイから言い出したらきっと喜んでくれるに違いありません。

 思った通り、お兄様はお姉様から目線を外してリリー・メイに真っ直ぐ笑いかけてくれました。それどころか、久しぶりに頭を撫でてくれたのです。


「リリーとはまた別の機会に二人で行こう。リリーの体力がどれだけ持つか分からないからね」

「ほんと!?」


 二人で、というのが何よりも嬉しい言葉でした。ちょっと前まで、お姉様やダニエルも一緒に、なんて思っていたのに不思議なのですが。

 お兄様の一番はリリー・メイではないのかも、と思ってしまったからです。お兄様はリリー・メイを大事にしてくれているけれど、それが実は翡蝶に似ているからだったとしたら、言葉にできないくらい悲しくて嫌なことです。


 いえ、リリー・メイはこの気持ちを何て言ったら良いかもう知っています。ついさっき、お姉様に教えてもらいました。リリー・メイは翡蝶に嫉妬しています。お兄様を独り占めしたくなってしまったのです。


「結局甘やかしてしまうのね。本当に手放すつもりがあるのかしら」


 困ったような笑顔のお姉様が言ったことに、リリー・メイの心臓は踊りました。素敵な格好をしたら、大人のレディになったら、お兄様はずっと一緒にいてくれるかしら?

 期待を込めて抱きつこうとしたのですが、やはりお兄様はそっとリリー・メイの腕を退けてしまうのでした。




 お姉様は夜までお屋敷にいて、一緒に晩餐をいただくことになりました。リリー・メイも、新しいドレスと綺麗な髪型にふさわしく、レディとしてマナーを覚えているのをお披露目できて上機嫌です。

 リリー・メイは、お姉様にいただいたドレスの色や生地や模様や意匠を一つ一つ、お兄様に説明します。


「箱もね、可愛い紙に包んであったの。破かないで綺麗に開けたのよ。何かに使えないかしら」

「百貨店の包装紙は季節でも変わるのよ。今度、降誕節の模様になる頃に連れて行ってあげましょう」

「お兄様と一緒が良いわ」

「……そうね、エドワードも一緒に」


 リリー・メイとお姉さまがお喋りしている間、お兄様は聞き手に回っているので、一足先に食べ終わってしまっています。空になったお皿にナイフとフォークを置いて、赤い葡萄酒のグラスを傾けながらゆったりとくつろいでいます。


「女の子同士の方が楽しそうだな。私の悪口は盛り上がったかな?」

「お兄様の悪口なんて言わないわ!」

「あら、お兄様はひどい、って言ってたじゃない。エドワード、あなたすっかり嫌われてるわよ」


 確かにそうは言ったのですが、言いつけるようなことをするお姉様も意地悪です。誤解されたらいけないわ、とリリー・メイは不安になってお兄様に訴えました。


「嫌いになった訳じゃないの……」

「分かった分かった。じゃあ何を話していたんだ、リリー?」


 リリー・メイは付け合せの潰したお芋を口に運んで味わいながらちょっと考えました。バターの風味がとても美味しいです。食事をたっぷりいただくのはそういえば何日か振りだったかもしれません。お兄様を困らせてやろうと思ってあまり食べないでいましたから、余計に美味しく感じるのかもしれません。


 翡蝶のことを話していた、とは言いたくない気がしました。せっかく綺麗な服を着せてもらって、お兄様とお姉様と楽しい時間を過ごしているのです。嫌なことは話題にしたくありませんでした。お兄様が翡蝶の名前を言うのを聞きたくありませんでした。

 それに、はっきりと聞いてしまうのが怖いのです。リリー・メイを可愛がってくれるのは、翡蝶に似てるからなの、なんて。お兄様が見ているのがリリー・メイではないと決まってしまうのは恐ろしいことです。


 だから、リリー・メイはお芋をゆっくり噛んで飲み込むと、言いました。


「お姉様も恋は甘いものだって言うの。お兄様、何で恋は苦いものだなんて言ってたの? どっちが本当なの?」


 それでも、全く安心とは言えない聞き方でしたが。翡蝶を好きだったから、死んでしまった人に恋したから苦いんだ、なんて言われたらどうしましょう。

 でも、お兄様は笑ってまた葡萄酒を口にしました。暗い赤に明かりが映ってガーネットみたいです。いつも美味しそうに飲むので少しだけ舐めさせてもらったことがあるのですが、渋くて全然美味しくありませんでした。何で大人はわざわざ不味いものを飲むのでしょうか。


「幸せな恋をしたら恋は甘いといえるだろうが、私はそんな経験はないんだ」


 リリー・メイはお兄様とお姉様のお顔を見比べました。お姉様が飲んでいる葡萄酒は、白。といっても実際には薄い金色に見えますが。甘口なのだそうですが、リリー・メイにはやはり美味しいとは思えません。


「じゃあ、お姉様は幸せなのね」


 すると、お姉様は軽く肩を竦めました。


「さあ? 私の恋はまだ叶っていないのだけど」


 お姉様に横目で睨まれて、お兄様は不思議そうに軽く首を傾けました。リリー・メイにはお姉様が暗に言っていることが分かります。リリー・メイとお姉様は一緒です。二人とも、お兄様に翡蝶を忘れて欲しいのです。


「でも、人を好きになるという気持ちだけでもとても幸せになれるのよ。リリーも早く恋をなさいな。そうすれば分かるから」


 好きで幸せ、というのはリリー・メイにも分かります。ついこの間まで、お兄様がおかしなことを言い出すまで、リリー・メイはお兄様が大好きでお兄様と一緒にいれば幸せだったのです。

 恋が苦いものでないなら、本当に甘いものだというなら、リリー・メイの好きな人は一人しかいません。


「それならリリーはお兄様に恋をするわ!」


 自信たっぷりに宣言したのですが、お兄様もお姉様もどういう訳か顔を顰めてしまいました。


「それは……」

「ええ、エドワードな人は素敵でしょうね」


 絶句したお兄様と、ゆっくりと言い聞かせるような口調のお姉様。驚いたお顔のお兄様と、何だかきつい感じのお姉様。どうして二人ともこんな反応なのでしょうか。リリー・メイがお兄様を好きだと言うのはいつものことなのに。

 訳が分からないまま、リリー・メイはきょとんとつぶやきました。


「リリーはお兄様じゃなきゃ嫌よ」

「でも、エドワードはあなたの叔父様じゃない。兄妹はもちろんだけど、叔父と姪でも結婚なんてできないのよ?」


 叔父様じゃないわ。

 危うく言ってしまいそうになったので、リリー・メイは慌てて葡萄の果汁の入ったグラスを口に運んでごまかしました。お酒の代わりに、気分だけでもそれらしくしてもらったのです。

 アルバート――お兄様のお兄様――は、本当はリリー・メイのお父様ではないということです。つまり、お兄様はリリー・メイの叔父様ではないのです。それなら、リリー・メイがお兄様に恋しても良いと思うのですが。


「リリーにはまだ友だちもろくにいないからね。元気になれば同じ年頃の男の子と知り合うこともあるだろう」

「ダニエルがいるわ」

「もっと沢山の友だちだよ。君は人を知らないから、私が良く見えているだけだ」


 お兄様はまたリリー・メイを信じてくれていないみたいです。どれだけ友だちがいても、沢山の男の子と知り合っても、お兄様以上に好きな人なんてできるはずがないのに。

 そんなことないわ、と言おうとしたのを、お姉様が遮りました。


「リリーはまだ子供なのね。小さい子がお父様やお兄様に憧れるのはよくあることなのよ。もう少し大きくなったら、お兄様なんて嫌になってしまうわ」

「そんなことないわ。リリーはずっとお兄様が大好きよ」


 お姉様がいつもの優しそうなお顔と口調に戻っていたので、リリー・メイは今度こそ言いたいことを口にすることができました。わざとらしく唇を尖らせることだって。


「そう言ってくれるのは嬉しいが。父親代わりとしてはいつか嫌がられる覚悟をしているところだよ」

「若いのにお年寄りみたいなことを言うのね、エドワード」

「リリーに比べれば老けているのは仕方ない」


 お兄様とお姉様は和やかにお喋りしているように見えます。なのに、どこか緊張したような空気を感じるのは気のせいでしょうか。二人とも、心からの笑顔には思えないのです。それにどこか早口で、まるでリリー・メイに口を挟ませたくないみたい。


 お兄様が大好きなのに、と言い募ろうかしら。それともまたドレスのお話にした方が良いのかしら。

 リリー・メイが迷っているうちに食後のお茶とデザートのトライフルが運ばれてきました。スポンジとカスタード、クリームを重ねて果物で飾ったお菓子は、見た目も可愛らしくてリリー・メイの好物です。

 なので、おかしな雰囲気はとりあえず忘れることにして、リリー・メイはスプーンを手に取ったのでした。




 お姉さまを見送った後、リリー・メイは気楽な部屋着に着替えてソファでぼんやりとしています。

 ドレスは綺麗だったけれど、ずっと胸が締め付けられていたのですっかり疲れてしまったのです。凝った髪型も、ピンが頭にあたって痒かったり痛かったりです。リリー・メイがしきりに頭を振っているのを見て、お兄様がほどいてくれています。


「ねえ、お兄様。兄妹同士や叔父と姪同士では好きになってはいけないの?」


 お兄様の指が優しく編みこんだ髪をほぐしているのを心地よく感じながら、リリー・メイは問いかけました。リリー・メイの髪を整えてくれるのはいつもならジェシカですが、お兄様のちょっとぎこちない手つきも好きでした。


「家族としてなら当然愛しているだろうね。ベアトリスとダニエルだって仲が良い。

 でも、恋という意味では確かにいけないね」

「どうして?」


 どうやら好きとか愛しているという言葉には色々な意味があるみたいです。何てややこしい。お兄様がリリー・メイを好きなのは、家族として。お姉様がお兄様を好きなのは、恋なのでしょう。

 リリー・メイはお兄様を――好きです。それだけではいけないのでしょうか。


「法で結婚が禁じられている。血が濃くなり過ぎるのは生まれる子供のためにも良くないんだ。道徳的な問題もある」


 後ろからお兄様の返事を聞いて、リリー・メイは少し安心しました。さっきお姉様に言われたことが引っかかっていたのです。左右を見渡して近くに誰もいないのを確かめてから、小さな声でつぶやきます。


「それは、リリーには関係のないことよね。お兄様は本当のお兄様じゃないんだもの」


 お兄様に振り返って、うなずいてもらおうと笑いかけると、お兄様は困ったように曖昧に笑いました。


「……私は君を本当の妹のように思っているよ。恋という意味では考えられない」

「お兄様がリリーを好きならそれで良いわ。ずっと一緒よね?」


 そういえば、お姉様が言っていたのは兄妹や叔父姪では結婚できない、ということでした。リリー・メイは別にお兄様と結婚したい訳ではないのです。ずっと一緒にいられればそれで良いのです。


「疲れただろう。顔が白いよ。薬を飲みなさい」


 でも、お兄様はリリー・メイの問いかけに答えてくれませんでした。ちょうどジェシカがお薬のお椀を持ってきたのです。慣れてはいるけどそれでも嫌な苦い臭いに、リリー・メイは顔を顰めました。


「今日はしっかり食べていたからね、お菓子で口直ししても良いから。ベアトリスが持ってきてくれたのが沢山余っているだろう?」


 お兄様がなだめるように言いますが、リリー・メイはふいとそっぽを向きました。


「お菓子はいらない。お兄様が撫でてくれるなら飲むわ」

「リリー」


 咎めるように言われても、リリー・メイは顔を背けたままです。今までだったら、お兄様は髪を梳いたり頭を撫でたりしながら言い聞かせていたのに、お菓子だけで言うことを聞かせようとしているのが気に入りませんでした。


「レディは男の人に簡単に触らせたりしない。大人になりたいなら、そう振舞いなさい」

「リリーは大人になりたい訳じゃないの。お兄様がいれば良いの」


 じっと、ほとんど睨むように、お兄様を見つめて訴えます。


「…………」

「ねえ、撫でて」


 お兄様が何も言ってくれないのに焦れてせがむのですが、お兄様ははっとしたようにリリー・メイから目を逸らしてしまいます。


「どうしても飲まないなら、屋敷では面倒を見きれない。元気になるまで療養所に入れてもらうことになる」

「お兄様」


 驚いてお兄様の袖をつかもうと手を伸ばしたのに、振り払われてしまいました。目も合わせてくれないままで、顔も背けたままです。リリー・メイは宙に浮いた手を呆然と眺めました。

 このままお薬を飲まなかったら、本当に追い出されてしまいそう。リリー・メイは怖くなって悲鳴を上げました。


「飲むわ。飲むから――でも、お菓子なんていらない!」


 リリー・メイはお薬のお椀を睨みました。苦いのも嫌だけど、お兄様がひどいことを言うのが悲しくて悔しくて、怒っているのです。

 翡蝶のせいだわ、と思います。きっとお姉様の言う通りで、お兄様が一番大事なのは翡蝶なのでしょう。翡蝶に似ているから大事にされて、似過ぎているから手放されてしまう。リリー・メイ自身のことなんかそんなに可愛くないのです。


 そもそも、リリー・メイがお薬を飲まなければいけないのも翡蝶のせいです。

 お兄様が言っていました。翡蝶が阿片を使っていたからリリー・メイは身体が弱くなってしまったのだそうです。


 翡蝶なんて大嫌い。

 お兄様の前では言えない言葉と一緒に、リリー・メイは嫉妬の味がするお薬を飲み干しました。

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