第20話 女同士の話
ベアトリスお姉様の指示の下、色々な大きさの箱が運ばれてきます。
淡い色で草花を描いたもの、
租界にも、本国で人気の百貨店が店を出しているそうです。もちろんリリー・メイは行ったことはありませんが、雑誌で広告は見たことがあります。
「まあ、こんなに。お嬢様のために持って来ていただいて」
「エドワードに任せていては地味過ぎるもの。年頃の女の子なのに可哀想」
「ええ、ええ、本当に。エドワード様は、お嬢様を大切に思うのは良いのですが大事にし過ぎです! ずっと心配だったんです。ろくにお出掛けもさせないで……」
ジェシカが目を潤ませてお姉様と話し込んでいます。声も口調も嬉しそうなのに、涙がこぼれそうになっているのがリリー・メイには不思議でした。
「既製品で悪いのだけど、とりあえず色々着させてあげたいと思って。
「それくらいでしたら喜んでやりますわ。お嬢様のためですもの、喜んで腕を振るわせていただきます」
リリー・メイは下着姿になってソファに腰掛けています。客間のソファはふかふかで、どこまでも沈み込んでしまいそう。冷えないように、とジェシカの言いつけで暖炉に火が入っているので、薄着でも寒くはありません。むしろ、箱を抱えて行き来するメイドたちの方が汗ばんでいるようで、リリー・メイは少し申し訳なく思いました。
「女の子がいるのにお菓子作りやお茶を淹れるだけではねえ。今まで甲斐がなかったでしょう」
「ええ、おめかしなんて、この前のお茶会が初めてだったのですよ。エドワード様のお気が変わったのも、ベアトリス様のおかげです」
「そうだと良いけど」
女同士のお喋りに男の人はいてはダメ――お姉様が言ったことは本当みたいです。ジェシカがお兄様のことをこんな風に言うのは初めて見ました。いつも、お嬢様は大事にされて幸せですね、って言っていたのに。
お兄様の悪口には加わらないわ、と心に決めて、リリー・メイは口をつぐんでいます。
それに、お姉様たちの会話よりも、箱の中身が気になって仕方ないのです。お茶会の時の
前の二回は、多分生地から選んだのも大きかったのでしょうが。既製品とはいえ、お姉さまがリリー・メイにどんなものを選んでくれたのかしら、と想像するのもわくわくします。
「リリー? 自分で箱を開けてみる?」
「ええ!」
お姉様に水を向けられて、リリー・メイは跳ねるようにソファから立ち上がりました。
それ自体でも綺麗な包装紙をできるだけ破かないように、丁寧に箱を開封していきます。
「着付けは私だけでできるわ。お茶でも用意してくれるかしら」
「かしこまりました」
お姉様とジェシカのやり取りも半分以上は聞き流して、リリー・メイはドレスの箱を取り出すのに成功しました。しっかりした厚紙の箱、その蓋をそっと持ち上げます。
「わあ……!」
中から次々と箱を開ける手が止まりません。降誕節の仕掛けの暦や、離れで見つけた
「気に入った? リリー」
「ええ、とっても! これ、着てみても良い?」
リリー・メイはまず、青いベルベット地のドレスを手に取りました。絵本で見た海の色みたいに深い色です。でも、白いレースの飾りがふんだんについているので、地味過ぎる感じではありません。お姉様と同じ、大人のレディが着るような、丈が長くたっぷりと襞をよせたスカートのものです。
「もちろん。さあ、ここに足を入れて」
床に広げたドレスのスカートの部分が円を描き、腰のところが丸く空いています。そこへリリー・メイはつま先を差し入れます。雨の日の翌日、水たまりをわざと踏むみたい。
布地の中に収まると、お姉さまがリリー・メイの腰のあたりまでスカートを持ち上げてくれました。
「今の流行りが細身のスカートで良かったわ。ちょっと前のクリノリンだったら、一人では着付けられなかったから」
スカートを大きく膨らませるための枠組みのことです。中にはお部屋を丸々埋め尽くしてしてしまうような大きさのものもあったとか。侍女が数人がかりでお姫様にドレスを着付ける様子を、絵で見たことがあります。舞踏会のドレスとまではいかないけれど、綺麗な服を人に着せてもらうのは何だか大人になった気がしました。
「クリノリンって鯨の
真新しくぱりっとした袖に腕を通しながら、リリー・メイはお姉様にうきうきと話しかけました。
「そうなの? リリーはよく勉強しているのね。さ、ちょっと息を吸って」
言われた通りにすると、お姉様は布地をぎゅっと引っ張って背中の
「苦しいかもしれないけど、この方が綺麗に見えるの」
一番上まで留めてしまうと、お姉様はくるりとリリー・メイを振り向かせ、裾や襟元をちょいちょいと直してくれました。そして、にっこりと微笑みます。
「素敵。とても似合っているわ、リリー」
「ありがとう、お姉様!」
リリー・メイも自分の姿を見下ろしながらくるくると回ります。長いスカートが足首に
まとわりついてくすぐったいのも、まだ慣れない新鮮な感覚です。
「ほら、見て」
お姉さまが姿見を示します。ジェシカたちが持って来てくれていたのです。
そこに映っているのは、普段とは全然違うリリー・メイでした。
前に、お姉様が黒い髪と瞳にはどんな色でも似合うと言っていたのは本当でした。
深い青のベルベットに、リリー・メイの黒髪はよく馴染んでいました。これがお兄様のような金髪やお姉様のような杏色の髪だったら浮いてしまっていたでしょう。かといって暗い印象かというとそんなこともなくて、綺麗に梳いてもらった髪は艶々と輝いています。
新しいドレスに興奮して、頬も薔薇色になっています。体つきはまだ真っ直ぐで平らで、お姉様のように胸や腰の辺りの曲線はないのですが、鏡の中のリリー・メイはとても大人っぽく見えました。
「リリー」
自分の姿に見とれていると、お姉様が優しくリリー・メイの肩に触れました。いつの間に用意したのでしょう、手にはブラシを持って、椅子を目線で示しています。
「座って。髪も上げてあげましょう」
「お願い、お姉様!」
椅子を姿見の前に持って来て、リリー・メイは鏡の中のお姉様と目を合わせる格好になります。座った時のスカートの流れ方や、レースの見え方が気になったからですが、どうやって髪型が出来上がるのかも見てみたかったのです。
リリー・メイの髪を丁寧に梳きながら、お姉さまがつぶやきました。
「こんなに可愛いのに、どうしてエドワードは地味な服ばかり着せようとするのかしら」
「……リリーが子供だから?」
楽しい気分に、ほんの少し影が差してしまいました。
可愛いドレス、綺麗なドレスは着てみたいです。凝った髪型にしてもらうのも。リリー・メイはお兄様に似合う大人のレディになりたいのです。
でも、最近のお兄様はリリー・メイが子供でなくなったらどこかへ行ってしまいそう。何かにつけて一人で生きていけるように、と言うのです。
大人になりたい。でも、子供のままでなければお兄様と一緒にいられない。
どうすれば良いか、どうしたいのか分からなくて、リリー・メイは軽く唇を噛みました。
「違うわ」
リリー・メイがうつむいてしまったのを他所に、お姉様は自信たっぷりに否定しました。そして、リリー・メイの頭を上向かせます。うつむいたままでは髪を結いづらいようでした。
「じゃあどうして?」
リリー・メイは鏡の中のお姉様に問いかけます。お姉様は、ちょうど髪をひと房とって編み込みを始めようとしているところでした。
区切りの良いところまで編み上げるまでお姉様は黙ったままだったので、リリー・メイの目は鏡と背後に立つお姉様の間を行き来してきょろきょろとしました。顔は動かせなかったので、結局お姉さまを直に見ることはできませんでしたが。
「――あなたのお母様を思い出してしまうからよ」
編み込みを終えて毛束の先を結んでしまうと、お姉様はやっと答えてくれました。
「翡蝶のことを? どうして?」
「そういう名前なのね。エドワード、私には教えてくれなかった。どのみち華夏語なんて覚えられないけど」
「知らないのにどうして分かるの?」
「ダニエルから聞いたのよ。
「……そうなの」
怖くて不安だった記憶が蘇って、リリー・メイは身体を強ばらせました。お姉様はそれには気付かないように、編込みから余った髪の束をくるくると
お団子が出来上がっていく間にも、お姉様は続けました。
「私、今までエドワードがあなたを大事にするのはお兄様の――アルバートの子供だからだと思っていたの。でも、あの日の様子を聞いて、大事なのはあなたのお母様だったんじゃないか、って思ったのよ」
――翡蝶……?
そうです。あの日、ジュ・ウェイロンのお屋敷に迎えに来てくれたお兄様は、真っ先に翡蝶の名をつぶやいたのでした。あの時リリー・メイは華服を着せてもらっていました。ドレスを着ていた時でさえ、ジュ・ウェイロンはリリー・メイと翡蝶はよく似ていると言っていたのです。慌てていたお兄様には、リリー・メイが一瞬翡蝶に見えたのでしょうか。
リリー・メイだって不思議に思ったのだから、ダニエルも同じだったのでしょう。そして、お姉様にも話したのでしょう。ダニエルは翡蝶のことなんて知らないけど、アルバートのことは聞いたことがあったかもしれません。そうでなくても、お姉様なら察することができたのでしょう。
でも――
「お兄様が翡蝶を大事だった、というの? アルバートの奥様なのに? お兄様にはあまり関係ない人ではないの? それに、大事だったらどうして思い出したくないの?」
思いつくままに疑問を口にしながら、リリー・メイは思い出しました。この前離れでお話を聞かされた時、そういえばお兄様はアルバートは身勝手だと言う一方で、翡蝶は可哀想に思っているような口ぶりでした。リリー・メイに対しても、翡蝶の分まで、とか何かと引き合いに出すのです。
「ええ。お兄様の奥様が好きだなんて本当はいけないことよ。エドワードだってその人に打ち明けたことはなかったはず。
だから、あなたをその人の身代わりに大事にしているのではないかしら。でも後ろめたくも思っているから、あまり似てくるのが怖いのよ」
リリー・メイに答えながらも、お姉様はお団子にまとめた毛束を器用にピンで留めていきます。口と手が全く別々に動いているみたいです。ピンの先が痛い角度で刺さったので、リリー・メイはどうにかずらそうと小さく頭を振りました。
お姉様はピンが刺さっているのには気づいていないようです。大人しくしなさい、というように頭の両側を挟まれて動くのを止められてしまいました。
「この前助けてくれた華夏人も、その人のことを知ってる風だったんでしょう? もう何年も前に亡くなった人なのにね。それだけ魅力的な人だったのよ。さすがは
「リリーは翡蝶にそっくりなんですって……」
「やっぱり! さ、リリー、出来上がったわ」
お姉様の手が頭から離れたので、リリー・メイは勢いよく立ち上がってお姉様へと振り返りました。目の端、鏡の中でスカートが
「お姉様。お兄様が最近ひどいの」
翡蝶やアルバートのことを言ってはいけない、と言われているのを思い出して、リリー・メイは必死に何て言ったら良いか考えました。
「リリーに一人で生きていけって言ったり……嫌だって言っているのにお外に出そうとしたり。ずうっと外は危ない、お屋敷が一番だって言ってたのに!
あとは……恋は甘いものだとか。恋は苦い味がするものなんでしょう? お兄様はリリーに嘘を吐いていたの?」
お姉様は、なだめるようにリリー・メイの頭から肩、腕をなで下ろしました。少し困ったような微笑みで、お姉様はリリー・メイの問いかけに答えました。
「華夏の女の人はあまり家の外に出ないんですって。結婚も、親に言われるがまま、知らない人とするものだそうよ。私やエドワードみたいにお互いの家を行き来して、家族を紹介し合うなんてことはないそうよ。親や夫には逆らってはいけないんですって。
そういう文化だから仕方ないんでしょうけど……でも、ひどい話よね」
「…………?」
それがひどいことなのかどうか、リリー・メイにはよく分かりませんでした。リリー・メイは今までお兄様の言うことを聞いていれば幸せだったし、外に出ないことも別に何とも思っていなかったからです。何より、どうしてお姉様がこんなことを言い出すのかが分かりませんでした。
「あなたのお母様もそうだったはず。華夏人だったんですもの。アルバートでも誰でも、強く言われたら逆らえない人だったのでしょう」
お姉様が気の毒そうに眉を下げました。でも、何だか変だわ、とリリー・メイはぼんやりと思いました。目元と口元が違う表情をしているのです。口の端は下がって悲しそうなのに、目元は笑っているみたいです。笑っているのに怒っているようだったお兄様やジュ・ウェイロンとはまるで逆です。
「アルバートは、その人のそういう――思い通りになるところが良かったのかも。エドワードも。でもお兄様の奥様では手が届かないから、あなたをお母様の代わりにしようとしていたんじゃないかしら」
「翡蝶の代わり……」
嫌だわ、と真っ先に思いました。
でも、同時に納得もしました。
リリー・メイを置いて亡くなったのはアルバートも一緒なのに、それに、本当のお父様はジュ・ウェイロンだと言っておきながら、お兄様が口に出すのは翡蝶のことばかりでした。ジュ・ウェイロンの屋敷でリリー・メイと翡蝶を見間違えたのも、お兄様はずっと翡蝶のことを想っていたからなのでしょうか。
「ひどいわね。でも、エドワードもやっとそれに気付いたのよ。だからあなたを自由にしてあげようとしているの」
お姉様が頭を撫でてくれましたが、全然嬉しいとは思えませんでした。
「お姉様、どうしてこんなことを教えてくれたの……?」
ドレスの試着なんて口実だったのだと、今なら分かります。お兄様のいないところで、お姉様はこのことをリリー・メイに教えたかったのでしょう。
お兄様が翡蝶を好きだということ、リリー・メイは翡蝶の代わりに過ぎないということを。
「恋は甘いというのは本当よ、リリー・メイ。好きな人のことを思うだけで幸せな気持ちになるし、一緒にいることが何より嬉しい。その人のためなら何だってできる。私はエドワードが大好きなの」
お姉様の笑顔は、今度は一片の曇りもない晴れやかなものでした。
「だから、私
「嫉妬」
リリー・メイは
「苦いというなら嫉妬の味よ。多分あなたの今の気持ちがそう。お母様からエドワードを取り戻すために――あなたはまずお母様の影から抜け出さなくては。華夏のお人形なんかじゃない、自立したレディになるのよ」
お姉様の言葉がリリー・メイの耳に刺さります。それはとても悲しくて嫌なことでした。お兄様のことをひどいと思っていたし、翡蝶のことを言われるのもなぜか苛々することだったのですが。今聞いたのは、もっとずっとひどい。
それでもリリー・メイの心のどこかで
たった今、リリー・メイは嫉妬の味を知ったのです。
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