第19話 開かれた扉に吹き込む嵐

 いつも通りの格好で、リリー・メイはベアトリスお姉様をお迎えします。清潔なブラウスとスカート。涼しくなってきたから、毛と綿の混紡のやや厚手の生地で、色も茶系の落ち着いたものですが、意匠としては大体夏と一緒です。お兄様は可愛いと言ってくれました。髪も綺麗に梳きましたし、お姉様と会っても、何も恥ずかしいことはありません。

 お姉さまも、笑顔で両腕を広げて迎えてくれました。


「リリー・メイ、久しぶりに会えて嬉しいわ。大冒険だったそうじゃない。華夏の服を着たところを見てみたかったわ」


 でも、お姉様と会ってみて、リリー・メイはどこかへ隠れてしまいたいような気持ちがしました。

 お姉様は明るい色のドレスをまとっていて――リリー・メイにはよく分からないけれど、租界で流行っているものなのでしょう――、杏色の髪も高く結い上げていて、とても綺麗でした。お兄様の隣に、しっくりと似合っています。

 ジュ・ウェイロンとシャンランを思い出します。見慣れない華服だったこともあって、対のお人形みたいでした。そこには他の人なんて割って入れないのです。


「ええ。ダニエルに守ってもらったの。お姉様、心配かけてごめんなさい」


 地味な色の服が見劣りする気がして、なんだかここにいてはいけない気がして、リリー・メイの声は沈みがちになってしまいます。一方、お姉様は、もしかしたらいつも以上に晴れやかな笑顔でした。


「良いのよ。無事だったんですもの。それより、ダニエルと仲良くなってくれたなら嬉しいわ。あの子、きちんとエスコートできたかしら。生意気なことは言わなかった?」

「ううん。とっても優しかったわ」


 お姉様が自然な様子でお兄様の傍に寄り添っているので、リリー・メイの声はどんどん小さくなっていきます。胸の中もざわざわと落ち着かなくて、大好きなお姉様と久しぶりに会えたのに、どういう訳か全然嬉しくないのです。


「リリーを謝らせてどうする。謝るのは君の方だろう」


 お兄様はリリー・メイの背中を押すとお姉様の正面に差し出しました。お兄様が触れてくれたこと、お姉様から離れてくれたことでほんの少し気分が上向きます。


「……そうだったわね」


 反対にお姉様は眉を寄せて嫌そうな顔をしました。お姉様がこんな表情をすることがあるなんて思ってもなくて、リリー・メイはびっくりしてしまいます。いつもにこにこしている人なのに。

 でも、少し屈んでリリー・メイと目線を合わせた時には、お姉様はもう笑っていて、さっきのは見間違いだったような気もします。


「迷子にさせてしまってごめんなさい、リリー・メイ。

 に助けてもらって良かったわ」


 お姉様は親切な人、というところに変に力を入れていました。


「知ってるの? ジュ・ウェイロンのこと……」

「いいえ。でも、リリーのお母様のお知り合いかと思ったから。とても良くしていただいたんでしょう?」


 お姉様の優しそうな微笑みはいつもと全く変わりません。リリー・メイはお兄様を見上げて首を傾げました。翡蝶やウェイロンのことは言ってはいけないと言われたのですが、お姉様は知っているのでしょうか。それなら言っても良いのでしょうか。お兄様が翡蝶の話ばかりして嫌だと、お姉様に訴えたいのですが。

 でも、お兄様は小さく首を振りました。どうやらダメなようです。


「仲直りできたなら何よりだ。――では、お茶にしようか。リリーはお菓子は久しぶりじゃないか? 食べ過ぎてはいけないよ」


 お菓子、の一言にリリー・メイの胸が踊ります。ご飯を食べないからと、お菓子がもらえない日が続いていたのです。お薬だって、口直しなしで飲まなければならなかったのです。


「もちろんよ! お姉様は何を持って来てくださったのかしら。楽しみだわ!」


 楽しみなのは嘘ではありませんが、子供みたいに跳ね回ってお兄様にまとわりつくほどではありません。本当は。

 でも、子供の振りをすればお兄様に触ることができます。それは、お姉様にはできないことです。どうしてこんなことをしてしまうのか、リリー・メイにも分かりません。それでも、お兄様の腕を取って歩くのは、とても楽しくて、嬉しくて、誇らしい――本で読んだことのある表現です。今やっと意味が分かりました――ことでした。


 お姉様がまた嫌な顔をしたのが目の端に映って、少し怖くて少し胸が痛んだのですが。それでも、リリー・メイはお兄様の手を離しませんでした。




「待って」


 お兄様の手を引っ張ってお庭の方へ行こうとするリリー・メイでしたが、お姉さまに止められました。


「お茶をするなら離れが良いわ。華夏フアシア風の、素敵な建物があるんでしょう?前に話してくれたじゃない」


 子供っぽくてはしゃいだみたいな声。リリー・メイと同じです。

 お姉様が話しかけているのはお兄様に対してでしょう。リリー・メイは離れのことも、そこで見つけた綺麗な靴のことも話したことはありませんから。お姉様はまっすぐお兄様のお顔を見つめているので、背が低いリリー・メイは、目に入っていないかもしれません。


「ろくに掃除もしていない。今日は無理だ」


 つい何日か前に離れでお話したばかりなのに、お兄様はそんなことを言います。不思議そうに見上げられているのに気付いたのでしょうか。お兄様は、黙っていなさい、とでも言うようにリリー・メイの頭に掌を置きました。


「じゃあこの次にでも。私もじきにここに移るんですもの。どんなところか見ておきたいわ」


 お姉様が言ったことに、リリー・メイははっとして目を見開きました。結婚したら一緒に住むもの、なのでしょう。お伽話だって二人はいつまでも幸せに暮らしました、で終わります。

 でも、朝起きたらお兄様の傍にお姉様がいて。お兄様のお帰りを迎えるのも二人一緒で。お休みなさい、を言うのは――どうなるのでしょう。リリー・メイが一人でベッドに向かうのを他所に、お兄様とお姉様は寄り添ったままなのかしら? その様子を想像すると、また心臓が鉛のように重く沈みました。


「見てどうするんだ? 君に華風の造りは馴染まないだろう、ベアトリス。本館にも部屋は幾らでもある。わざわざ離れに行くことはない」


 お兄様が嫌そうに言うのを見て、リリー・メイは逆に嬉しくなって、お兄様の手をぎゅっと強く握りました。離れに連れて行ってくれたのは、リリー・メイが特別だからだと思って良いのでしょうか。


「ふうん。そうね」


 一方、断られたというのに、お姉様はにっこりと笑いました。そして、リリー・メイに手を伸ばします。


「案内して頂戴、リリー・メイ。エドワードはあなたのお母様の住処を誰にも渡したくないみたい」

「え……」


 お兄様から離されて、今度はお姉様と手をつなぐ格好になって。お姉様の方が手は暖かいのに、なぜか寂しくて心細い気がします。


翡蝶フェイディエのこと、知ってるの?」


 リリー・メイはお姉様に問いかけました。さっきもジュ・ウェイロンのことを聞いたわ、と思いながら。リリー・メイのお母様のことなんて、今まで一度も話題に出たことがないのに。お姉様もお兄様と一緒になってリリー・メイを外の世界に追い出そうというのでしょうか。そう思うと、素直にお姉様の手を握り返すことができません。


「いいえ」


 でも、お姉様の返事もさっきと同じ、否定の言葉でした。お姉様はリリー・メイを見下ろすと、口元だけで笑いました。少し陰になったお姉様のキャラメル色の瞳は、いつもより暗い色に見えてちょっと怖い感じがします。


「でも、見ていれば分かる。エドワードはあなたのお母様が大好きだったの。そうでなければ、こんなにあなたを大事にするはずがない」


 お兄様の方をうかがうと、お兄様は真剣な表情で、眉を寄せて――お姉様を見ていました。リリー・メイをかすめることのない目線に、何だか胸がもやもやしました。


「お姉様、お庭に行きましょう。もうすぐ涼しくなってしまうもの。お外でお茶ができるのも終わっちゃう」


 だから、リリー・メイはお姉様の手を引っ張って早足になりました。お兄様の目に映るお姉様が、少しでも小さくなるように。お兄様の目から、お姉さまが隠れるように。




 お姉様は、これまででも初めてじゃないかしら、というくらい沢山のお菓子を持ってきてくれました。

 ベリーの彩りが可愛らしいマフィンに、バターの香りが香ばしいマドレーヌ。つやつやとした照りのパイには何が入っているのでしょう。ふわふわしたケーキには、ジェシカがクリームを泡立てて添えてくれました。クッキーも色々な形のものが並んでいます。

 ちょうど晴れた日で、お庭に設えた席でしたから、甘い香りに誘われたように一匹の蝶がひらひらと漂ってくるのを、お兄様がそっと手で追い払います。


「こんなに……?」


 お礼を言うより先に、リリー・メイは戸惑ってしまいました。大好きなものばかりなのに、手を伸ばすこともできません。ただ遠慮がちにお菓子を眺めていると、お姉様はどんどん食べて、とでも言うように笑ってお皿をリリー・メイの方へ押しやりました。


「最近お菓子を食べていないんですって? リリーは我慢できないんじゃないかと思って」

「お兄様、良いの?」


 お菓子を出してもらえなかったのは、ご飯をちゃんと食べなかったからです。それも、お兄様を困らせたくてしたことでした。なのにこんなにしてもらってはいけないような気がします。

 すると、お兄様はやはり難しいお顔をしました。


「食べ過ぎてはダメだ。食事が入らなくなるようでは困る」

「ずっとお菓子で甘やかしてきたのに、今更そんなことを言うのね。

 リリー、好きなだけ食べて良いのよ。この前危ない目にあわせてしまったことへの、お詫びなんだから」


 お姉様がにこにこしながら言うと、お兄様は黙ってそれ以上はなにも言いませんでした。

 どうやら食べても良いみたいです。それでもお兄様の目が気になって、リリー・メイは小さなクッキーを一つだけかじりました。久しぶりの甘いものなのですけど、お兄様とお姉様が全然違う表情をしているのが居心地悪くて、味わうどころではありません。


「浮かない顔ね」

「そんなことないわ。ありがとう、お姉様。とっても美味しい」


 言われて、リリー・メイは慌てて顔を上げました。気付かないうちにうつむいてしまっていたのです。せっかく来てくれたお姉様に対して、失礼なことでした。

 とても自然に嘘をつくことができてしまったことに、自分でも驚きます。それでも、声音も表情も取り繕うことができなかったのですが。


「聞いてるわよ。エドワードと上手くいっていないから、でしょう?」

「そんなこと――」


 お姉様は否定の言葉を最後まで言わせてくれませんでした。


「すっかり大人ね、リリー・メイ。私に焼き餅を焼くなんて。――でも心配しないで、私はあなたを追い出したりいじめたりなんかしないから。それどころか、今まで通りエドワードと仲良くして良いのよ」


 リリー・メイは信じられないわ、と思いました。あまりにも都合の良いこと、できればお兄様に言って欲しいことをお姉さまが口にしたからです。

 それに、最近お兄様は変なことを言ってリリー・メイを追い出そうとしています。お姉様をご招待したのも、その計画の一つなのではないかと思ったくらいです。寄り添った二人はとても似合っていましたから、リリー・メイの居場所なんてないような気がさせられました。


「本当? お姉様」


 お兄様が、リリー・メイは何も知らないと言っていたのは本当でした。お姉様のお顔をどんなに見つめても、何を考えているのか全然分かりませんでしたし、嘘にしても本当にしても、どうしてそんなことを言うのか見当がつきません。お姉様は、前はしきりにリリー・メイを外に連れ出そうとしていたのに。


「疑うなんて悲しいわ。あなたはエドワードの可愛い姪っ子で、私にとっても妹のようなもの。エドワードもひどいわ。いきなりあなたを大人にさせようとするなんて」

「そうなの! お兄様、ひどいの!」


 でも、そんな疑問も、お姉様が次に言ったことで吹き飛んでしまいました。

 だって、お屋敷にはリリー・メイの味方がいなかったのです。

 お兄様ご本人はもちろんのこと、優しいジェシカでさえ、リリー・メイの気持ちを分かってくれませんでした。エドワード様は過保護過ぎると思っていました、なんて言ってお兄様の肩を持ってばかりだったのです。


「ほら、エドワード。あなたは急ぎ過ぎてるのよ」


 お姉様は得意げな表情でお兄様を横目で見ます。お兄様が何も言わず、それでも嫌そうに眉を寄せるのを見て、リリー・メイはほんの少しだけ胸がすっとしました。お姉様に怒られて、お兄様も考え直せば良いのです。

 続けて、お姉様はリリー・メイに顔を近づけてきました。内緒話ね、と察してリリー・メイもお姉様の方に耳を寄せます。沢山のお菓子が並んだテーブルの上、二人で身を乗り出してささやき交わします。


「持ってきたのはお菓子だけじゃないの。可愛い服もあるのよ。ラドフォード商会のお嬢様に既製品なんて、おかしいかもしれないけど。でも、まずは色々な色や意匠のものを着てみましょう。リリーはお洒落も覚えなきゃ」

「本当? お姉様、ありがとう! リリー、もっと可愛くなりたいの。お姉様みたいに!」


 お菓子の時と違って、今度のお礼は心から言うことができました。

 まるで、さっきお姉様のドレス姿を見て隠れたくなってしまったのが分かっているみたい。やっぱりお姉様は大好きです。いつも優しいし、リリー・メイのことを思ってくれています。さっき怖い顔をしたようだったのも、きっと気のせいなのでしょう。


「試着するのに男の人はいちゃダメよ。リリー、女同士でお喋りしましょう? エドワードの悪口だって、言って良いのよ」

「お兄様の悪口なんて言わないわ。でも、お喋りは楽しそう」


 リリー・メイはお姉様と顔を見合わせてくすくすと笑いました。


「エドワード、リリーを借りるわ。部屋も用意してもらって良いかしら?」


 お兄様は諦めたように肩を竦めます。怒っている訳ではないけど不機嫌そうな表情には、覚えがあります。お姉様やダニエルと金鶏ジンジー大路ダールーへお出かけした日、お見送りしてくれた時と一緒です。

 あの時は心配しているのかしら、と思いました。でも、今はなんでこんなお顔をしているのでしょう。お兄様の悪口を言ったりなんか、絶対しないのに。


「……そういうことも必要だろうからね。あまりはしゃがせ過ぎないでくれれば」

「お許しが出たわね。リリー、行きましょう」


 お姉様に促されて立ち上がると、風がリリー・メイのスカートをふわりと揺らしました。

 風もいつの間にか冷たくなって、爽やかさよりも肌寒さを感じる時期になってきました。日差しはまだ強くて、木々の緑も青々としているのですが。見えないところで季節は変わっていくのね、とリリー・メイは思いました。

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