苦い味の想い

第18話 反抗

 リリー・メイはお兄様の膝の上にいます。いつまでもぐすぐすと泣き止まないので、お兄様が抱き上げてくれたのです。

 あやすように、リリー・メイの背を軽くとんとんと叩きながら、お兄様がささやきます。


「ここで話したことは二人だけの秘密だよ。誰にも言ってはいけない」

翡蝶フェイディエのこと?」


 リリー・メイの声はかすれてしまっています。喉が荒れるのは良くありません。そこから体調を崩してしまうのです。でも、お兄様に突き放されて悲しいのはどうしようもありません。


「アルバートのことも、ジュ威竜ウェイロンのことも。リリーはアルバートの娘だということになっているから。……華夏フアシア人の血が濃いということは、悲しいことだが、租界では難しいことなんだ」

「ジェシカにも?」

「そうだね。今の屋敷には直接アルバートや翡蝶を知っている者はいない。翡蝶に似たからリリーは黒い髪に瞳なのだと、思っていてもらわなくては」


 リリー・メイが抱きついても、お兄様は抱き締め返してくれません。それがもどかしくて、リリー・メイはつい意地悪なことを言ってしまいます。


「リリーが華夏人だからいらないの……? お兄様は、リリーの黒い髪は本当は嫌だったの……?」


 すると、リリー・メイが思った通り、お兄様は強く抱き締めてくれました。


「そんなことはない! 君が嫌いだからじゃない、愛しているからこそ、私は君から離れなければいけないんだ」


 お兄様の言葉と腕の力強さに、リリー・メイはやっと少し安心できました。リリーを嫌いじゃないのは本当みたい。でも、それならどうして離れなければいけないのかしら。どうしたら今まで通りにしてもらえるのかしら。

 お兄様にしがみつきながら、リリー・メイは一生懸命考えました。どうしたら、お兄様とずっと一緒にいられるのかを。




「もういらないわ」


 半分以上残ったお皿を前に、リリー・メイはふいと顔を横にそらしました。目の端にジェシカの困った顔が映って胸が痛みますが、仕方のないことなのです。


「そろそろ涼しくなりますのに。しっかり食べないと、また寝込んでしまいますよ」

「別に良いもの」

「エドワード様とお出掛けの約束をしたのでしょう? 行けなくなってしまいますよ」

「別に良いもの」


 それこそリリー・メイの思う通りです。言葉でどれだけ言っても伝わらないなら、お兄様がリリー・メイの傍にいてくれるようにしてしまえば良いのです。具合が悪い時は、お兄様はいつでもリリー・メイに優しくしてくれますから。それに、リリー・メイが一人でなんて生きていけないと、お兄様に分かってもらわなければなりません。


 金鶏ジンジー大路ダールーでダニエルと、お兄様やベアトリスお姉様とお出掛けしたい、何て言っていたのも遠いことのようです。今のリリー・メイにとっては、元気になること、よりもお兄様と離れないことの方が大事になってしまいました。

 お兄様は租界のお店でお菓子を買ってくれると言いました。でも、それは本当の目的ではありません。リリー・メイが外で出歩けるようになるためには、体力をつけたり色々な人に会うのに慣れたりしなければならないそうです。そんなことはしたくありません。


 お兄様とのお出掛け、で言うことを聞くと思っていたのでしょう。ジェシカが深々とため息を吐きました。


「エドワード様に叱られてしまいますよ」

「別に良いもの」


 三度、リリー・メイは繰り返します。叱られたら、お兄様のせいだと言ってやるのです。お兄様が酷いことを言うからリリー・メイだって悪い子になってしまうのです。お兄様に優しくしてもらう方法は、具合が悪くなることだけではありません。リリーなんて嫌いなんでしょう、困った子だから捨ててしまうのでしょう、と訴えるのです。そうすれば、そんなことはないよと言ってもらえます。


「もう下げて。食べたくないの」


 リリー・メイはそう言うと椅子から立ち上がりました。お兄様が帰るまで、お勉強でもしていましょう。そして褒めてもらうのです。


「お食事を残すなら、お菓子もお出しできませんよ」


 背中でジェシカの声を聞いて、リリー・メイはうっと詰まりました。ジェシカもお兄様も、リリー・メイがお菓子を大好きなのを知っていてこういうことを言うのはずるいです。

 毅然として答えなければ、と思うのですが、今度は即答という訳にはいきませんでした。


「……別に良いわ!」


 本当は、お腹が空いていて焼きたてのパンやジャムの甘い香りが気になって仕方がないのですが。でも、ここで諦める訳にはいかないのです。




 お兄様が帰ってからが、リリー・メイの戦いの本番です。


「今日も残したんだって? 悪い子だ」


 お部屋で本を広げていたリリー・メイのところに、お兄様は暖かそうに湯気をたてるスープを運んできました。

 リリー・メイの目の前に、こつりと小さな音を立ててお皿が置かれます。根菜や押し麦が入っていてひと皿でお腹いっぱいになるようなやつです。リリー・メイが寝込んだ時によく作ってもらうのです。


「お兄様があーん、ってしてくれるなら食べるわ」

「そういう訳にはいかないだろう」


 上目遣いでおねだりしても、お兄様は苦笑するだけでした。具合が悪い時なら、何でも聞いてくれるのに。やっぱりもっとずっと食べないのを続けないとダメみたいです。


「食べないとお菓子はあげられないよ」

「ジェシカも同じことを言ってたわ。でも、もうお菓子なんていらないの。お兄様の方がずっと欲しいわ」

「……そんなことを言ってはいけないよ」


 甘えるように言ってみましたが、お兄様は目を逸してしまいました。仕方がないのでリリー・メイは立ち上がってお兄様の正面に回り、綺麗に晴れた空みたいな、青い瞳を見上げます。


「どうして?」

「どうしても」


 お兄様がまた目を逸らすので、リリー・メイはお兄様を中心にぐるぐると円を描いて回っているみたいです。止まってもらおうと抱きつこうとするのですが、やんわりと遮られてしまって悲しくなります。


「どうしてリリーを見てくれないの? 悪い子だから嫌い?」

「そんなことはない。そんなことはないよ――」

「じゃあ食べさせて」

「…………」


 お兄様はまだ頷いてくれません。リリー・メイはだんだん苛々してきました。


「早く。スープが冷めちゃうわ」

「リリー」

「食べさせてくれないならこのままお腹が空いて倒れちゃう」


 唇を尖らせて言い放つと、お兄様は顔色を変えてリリー・メイの両肩を掴みました。激しく揺さぶられて、苦しいですけどリリー・メイは嬉しいです。お兄様がやっと触ってくれたから。まだ顔に出してはいけませんが。まだ怒っていると思っていてもらわなくては。


「自分をいじめるようなことをしてはいけない。食べなさい」

「いじめているのはお兄様じゃない」

「君が痩せていくところなんて見たくないんだ。……翡蝶も、そうだったから」

「翡蝶の話なんかしないで!」


 リリー・メイはお兄様を振り払うと、強く鋭く叫びました。この前からこうなのです。翡蝶やアルバートやジュ・ウェイロンの話を聞いてから、なぜか翡蝶の名前を聞くのが嬉しくないのです。翡蝶の分まで元気にならなくちゃ、とか。翡蝶と違って君は自由になれるから、とか。お兄様が何かと翡蝶を引き合いに出すからでしょう。全てを話してしまったからにはもう口に出しても良いと思っているみたい。

 今までも、お兄様は心の中で翡蝶のことを考えていたのかしら。そう思うと、なぜか胸の中がもやもやとして嫌な気持ちになるのです。


「君のお母様だよ?」

「知らない人だもの」


 お兄様が困った顔をしているのが――いけないことですけど――嬉しく思います。リリー・メイを気にかけてくれているということですから。でも、心配でもあるのです。あまり悪いことばかりしていると、本当に嫌われてしまうかもしれません。


「お兄様。もう翡蝶のことを言わないのだったら、ちゃんとスープをいただくわ。だから、ご本を片付けて?」


 だから、リリー・メイは今日のところは折れてあげることにしました。笑顔で見上げると、お兄様はため息を吐いて、でもリリー・メイの言う通りに机の上を開けてくれました。


「君はもっと色々なことを知らなくては。……私が、今まで隠してしまっていたから」

「ええ、だからお勉強は怠けてないわ。華夏との戦争のところまで進んだのよ」


 阿片って怖いものなのね、と言おうとしたのは呑み込みました。翡蝶は阿片をたくさん使ったから死んでしまったと、お兄様は言っていました。また翡蝶の話になってしまうのが嫌だったのです。

 代わりにリリー・メイはスプーンを口元に運びます。お話している間に、スープはちょうど良い熱さまで冷めていました。お腹もじんわりと温まって、手指やつま先にも温かさが届くよう。大丈夫なつもりで、お腹を空かせ過ぎていたのかもしれません。いえ、別に倒れてしまっても良かったのですけど。


「歴史の勉強も進んできたね。一段落したら華夏語を勉強してみない? リリーならすぐ覚えられるだろう」


 机の横に掛けてリリー・メイがスープをいただくのを眺めながら、お兄様が言いました。リリー・メイはお行儀悪くスプーンを口にあてたまま、首を傾げました。


「どうして華夏語なの?」

「租界の外で何かあったときに、話せた方が安心だろうから。それに、華夏語で挨拶したら朱威竜は喜ぶだろう」

「なんで? なんであの人と会うことがあるの?」


 リリー・メイが驚いてスプーンを乱暴に下ろしてしまったので、お皿と触れ合ってがちゃりと耳障りな音を立てました。


「会いたくないの?」


 お兄様の方もなぜか驚いた顔をしています。


「全然。一度しか会ったことのない人よ?」

「でも君の――」

「リリーにはお兄様しかいないの!」


 お兄様が言いかけたのを遮って、リリー・メイは声を高くして叫ぶように言いました。お父様、だなんて聞きたくないのです。そして、おかしなことを言うともう食べないわ、と示すために手を膝の上に置いてお兄様を睨め上げました。


「分かった。悪かったから、食べてくれ」


 お兄様はため息を吐きながら、人参をスプーンですくってリリー・メイの口元に近づけました。人参はあまり好きではありませんが、お兄様が食べさせてくれるのは久しぶりだったので、リリー・メイは喜んで食いつきました。それを見て、お兄様はまたため息を吐きます。


「ジェシカを困らせたから、お菓子はあげられないよ」

「別に良いわ」


 スプーンを返してもらいながら、ジェシカに対して言ったのと同じようにさらりと返すと、お兄様はちょっと顔を顰めました。お菓子でリリー・メイが言うことを聞くと思っているのでしょうが、そうはいきません。


「良い子になるまで、と言いたいところだが、今度機会がある」


 お兄様はリリー・メイの方へ手を伸ばそうとして、引っ込めてしまいました。髪を撫でたいならそうすれば良いのに、とリリー・メイは思います。


「何のこと?」

「ベアトリスを招いたから。きっとお菓子を持ってくるだろう」

「ベアトリスお姉様」


 リリー・メイはスプーンをスープのお皿に置くと、目を瞬きました。お姉様とは、金鶏ジンジー大路ダールーではぐれてしまってから会っていません。ジュ・ウェイロンのお屋敷からの帰り道、リリー・メイは馬車でぐったりとしてしまっていたので、ご挨拶もできませんでした。

 ダニエルと会った時に確かにお会いしたい、とは思ったのですが。お兄様のこと、翡蝶のこと……考えることが多すぎて、忘れてしまっていたのです。


「仲直りしたの? お姉様と」


 そしてリリー・メイは思い出します。ダニエルが言っていたこと。お兄様はベアトリスお姉様のことを怒っていたみたいだったそうです。


「まだ、かな。君に謝ってくれると言っているから、そうしたら仲直りできそうだ」

「そう。良かったわ」


 リリー・メイは安心しました。お姉様のことをすっかり忘れてしまっていたものですから、何だか悪い気がしたのですが。お兄様がもう怒っていないというなら、きっと大丈夫なのでしょう。


「彼女とは結婚するから。あまり長引かせる訳にもいかない」

「ダニエルが喜ぶわね」


 ダニエルは、お兄様がお姉様を嫌いになってしまうのではないかと心配していました。ジュ・ウェイロンに対して、お兄様はお姉様との結婚を考え直すとまで言ったのです。無事に仲直りできたと知ったら、きっと安心するでしょう。今度手紙に書いてあげなくちゃ、とリリー・メイは決めました。


「リリーも喜んでくれる?」


 お兄様が真剣な目で聞いてきました。

 リリー・メイはゆっくりとスープを口に運びながら考えます。今までだったらもちろん、と答えていたでしょう。なのになんで、ダニエルが、だなんて言ってしまったのでしょう。リリー・メイ自身は、どう思っているのでしょうか。

 リリー・メイはお姉様も大好きです。でも、今は――


「結婚しても、何も変わらない、のよね? お兄様、前はそう言っていたわ」

「もちろん。私はずっと変わらず君を愛するよ。ベアトリスが来ても、君の暮らしは変わらないようにしよう」


 お兄様の言い方はずるいです。リリー・メイを愛している、なんて言いながら外に出そうとしたり一人にさせようとしたりするのが最近のお兄様です。変わらない暮らし、にお兄様と一緒に過ごすことはちゃんと入っているのでしょうか。

 でも、お兄様を問い詰めるにはリリー・メイは疲れてしまっていました。お腹が空くということは、力がなくなってしまうということなのです。


「……約束よ?」


 だから、そう念を押すのにとどめて、リリー・メイはスープを食べるのに集中しました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る