第17話 嫌いにならない②
――君の父親は、
お兄様はとても苦しそうに、でもはっきりと告げました。それでも言われたことの訳が分からなくて、リリー・メイはぽかんと口を開けてお兄様の顔を見上げます。
「ジュ・ウェイロンがリリーのお父様……? でも、あの人には奥様がいたわ。
人形のように微笑んでいたシャンランのことを思い出します。それに、リリー・メイは結婚すると子供ができると教わってきました。翡蝶はジュ・ウェイロンではなくアルバートと結婚したと、お兄様は言ったばかりではないですか。
「華夏の貴人は沢山の奥さんを持てるんだよ。あの男にも何人かいたはず。アルバートにはそれも許せなかったのだろうが」
お兄様はリリー・メイの髪をそっと梳くと、ゆっくりと首を振りました。
「翡蝶が身篭っていると分かったのは、身請けされてすぐだった。朱威竜とアルバート、どちらが父親でもおかしくなかった。それで生まれたのが君で――翡蝶は朱威竜のもとにいるという妄想が強くなったようだし、アルバートはますます現実から目を背けるようになった」
リリー・メイの髪はさらさらとお兄様の指の間からこぼれます。真っ直ぐなのも、真っ黒なのも、リリー・メイは気に入っていました。お兄様が褒めてくれるから。でも、確かにジュ・ウェイロンやシャンラン――
「朱威竜は何度もアルバートに手紙を送っていた。翡蝶は幸せなのか。彼女の子の父親は本当にアルバートなのか。混血の母子が租界で辛い思いをしないのか。翡蝶が亡くなった後は、子供を引き取りたいとさえ書いていた。アルバートの遺品を整理していて見つけたんだ。最後の方は開封さえされていなかったが」
リリー・メイは華夏人、なのでしょうか。ダニエルが言っていたように召使みたいだとか、戦争に負けたからどうだとか、そんなことはリリー・メイは思いません。でも、血が繋がっていないということは、違う国の人だと言われているようで。ずっと近くにいたお兄様と別の世界に分け隔てられたようで、リリー・メイはとても悲しく恐ろしく思いました。
「リリーはこのお屋敷から出たくなんてないわ……。ここが好きなのに。他所にやったりしないで……」
お兄様の服を強く掴むと、お兄様はまたリリー・メイの髪を梳いてくれました。でも、今一番してほしいのは抱きしめてもらうことなのに。今のお兄様は、リリー・メイに触れるのが嫌なようです。そう思うと、リリー・メイは一層悲しくなりました。
「アルバートの葬儀の席で、私は初めて朱威竜に会った。初めてでも良く分かったよ。華夏の上流たる者は格が違う。翡蝶が縋ろうとしたのも無理はない。あの男は改めて私に申し出たんだ。君の養育を引き受けたいと。第一夫人――この前会ったあの女性だろうな、彼女は娘がいないから可愛がるだろうと言っていた」
リリー・メイのさらさらとした髪はお兄様の指の間に留まることはありません。一筋ひとすじこぼれ落ちて最後の一本が手を離れると、お兄様は拳を握りました。ちょうどリリー・メイの目の前で。白くなるほど力を込めて、かすかに震えるのが見てとれます。
「どうしてそんなことを受け入れられる!? 妻子に
だから――君はアルバートの子に違いないとあの男に言ってやった。叔父として、必ず大切に幸せに育てて見せると。あの男の手など借りないと。
またリリー・メイの知らない華夏語が混ざります。リリー・メイに言っているようで、お兄様は一体誰に、何を伝えようとしているのでしょう。青い瞳には小さいリリー・メイが息を呑んでいる姿が映っているのに、お兄様にはリリー・メイが見えているのでしょうか。
リリー・メイが目の前にいるのに、フェイディエのことばかり考えているのだとしたら――とても、悲しくて嫌なことです。リリー・メイの胸に、苦い味が広がりました。
「だが、それこそが私の最大の罪であり過ちだ。君を本当の父親から遠ざけて。閉じ込めたのは、いつしか私の方だった。都合の良いことばかり教えて、私を慕ってくれるように。一人では何もできないように。
お茶会や
リリー・メイ、今こそ私を軽蔑しただろう? 嫌いになったならそうとはっきり言ってくれ。そのための覚悟はできているはずだから。――君を解放しなくてはならない」
力が篭っているのは拳だけではありませんでした。全身を強ばらせ、ぎゅっと眉を寄せた険しい顔できっぱりと言い切ると、お兄様はリリー・メイの前に跪きました。
リリー・メイにとっては、お兄様はいつも見上げる人でした。ベッドに寝ついている時、本を読んでもらっている時。どんな時でも、リリー・メイを包んで守ってくれる人だったのです。そんなお兄様を上から見下ろす形になって、リリー・メイはどうしたら良いか分からなくて、心の底から困ってしまいました。
「……お兄様?」
恐る恐る呼びかけても、お兄様は返事をしません。ただ、唇を結んでリリー・メイを見上げるだけです。もしかしたら、リリー・メイが何か言うのを待っているのでしょうか。でも、何を言ったら良いかなんてリリー・メイには分かりません。お兄様の言っていることだって、よく分かっていないくらいなのです。
お兄様の言ったことをどう考えても、リリー・メイはひどいことや悪いことをされたとは思えないのです。今みたいに訳の分からないことを言って、リリー・メイがそこにいないみたいに扱ったり、不安にさせたりしたほうがひどいのではないでしょうか。
「お兄様、それだけ、なの? もう終わりなの?」
「……何だって?」
やっぱりリリーを信じていないのね、と内心唇を尖らせながら、リリー・メイは表面では笑顔を作りました。お兄様が安心できるように。リリー・メイの気持ちを分かってもらえるように。
「リリーは大丈夫よ。お兄様を嫌いになったりなんかしないって、言ったでしょう。ずっと大好きよ、お兄様。何を言われても何を聞いても変わらないわ。今言ったのが全部なら、全然大したことじゃないわ。何もかも今まで通りよ。また一緒にお勉強したりお茶をしたりしてくださるかしら、お兄様」
「リリー」
お兄様の顔が強ばったままなのが不安でしたが、リリー・メイは頑張ってにこにこと笑顔を保ちました。そして、跪いたままのお兄様を胸に抱き締めます。まるで普段とは逆の構図です。リリー・メイが熱を出したりしてぐずった時に、お兄様がしてくれる格好です。
「ね、お兄様。怖いお顔はもうやめて。お部屋に帰りましょう? 今のお話を聞いても、リリーは何とも思わなかったわ」
お兄様の身体がぴくりと揺れました。リリー・メイから抜け出そうとしているのでしょうか、お兄様が手を上げようとするのをそっと制して、リリー・メイはさらに強くお兄様を抱きしめました。
「私は……ずっと君の両親のことを隠していた。翡蝶やアルバートのことを……」
「リリーも聞かなかったもの。知る必要なんてなかったことよ。ずっと前に亡くなった人たちだもの。聞いても仕方なかったわ」
お兄様のくぐもった声に、リリー・メイは明るく答えます。本当に気にしていないということを伝えるために。
「本当の父親のことも! 朱威竜は君の父親で、君のことを気にかけていた。私が余計なことをしなければ、リリーはお父様のところで育っていたのに」
「でも、知らない人だわ。この前お出かけしなければ会うこともなかったし……。お兄様や――アルバートが断ってくれて良かったわ。おかげでお兄様と一緒にいられるもの。リリーは、知らない人のところよりお兄様のところ、このお屋敷の方が良いわ」
「リリー・メイ……」
とうとう、お兄様はリリー・メイを振り払って顔を上げました。青い目が驚いたように大きく見開かれ、次いで悲しげに伏せられます。
「君の手紙を読んで嫌な予感はしていたんだ」
お兄様が笑ってくれないので、リリー・メイは少し心配になってしまいました。まだ、伝わっていないのでしょうか。
「お兄様? 大好きなのよ……?」
「だろうとも」
頷いてもらって胸が軽くなったのも一瞬のことでした。お兄様は、今までで一番ではないかというくらいに、苦しげに辛そうに顔を歪めました。
「私がそんな風に育てたんだから。私だけを信じて、私だけを愛するように。
リリー、信じてくれ。私は、自分は朱威竜や兄とは違うと思っていた。君に文字や勉強を教えて、普通のレディのようにマナーも身につけさせて、君がいつ外に出ても良いようにしているつもりだったんだ。
お兄様はリリー・メイの背に腕を回しました。跪いたままなので、頭はさっきと同じにリリー・メイの胸の辺りにあります。抱き締めてほしい、とは思ったのですが、いつものように包み込んでもらうのではなく、まるでリリー・メイに縋りついているみたいです。
「お兄様、苦しいわ……」
本当は、苦しいというよりも困ってしまった、というのが正しいのですが。あまりに強い力で抱き締められるので、リリー・メイは心臓がどきどきするのが分かりました。
「私は君の今までの人生を盗んでしまった。もう返すことはできない。君がそんなにも無知で鈍感なのは私のせいだ。私のことも、ダニエルも、ベアトリスも。君はもっと怒って良いはずなんだ」
お兄様は相変わらずリリー・メイの言うことを聞いてくれません。よくお兄様がリリー・メイにしていることを真似て金色の髪を梳いてみると、お兄様は軽く頭を振ってリリー・メイの指を振りほどいてしまいました。
「だが、これからのことは……まだ遅くない。リリー、私は君に沢山の嘘を教えてしまった。恋は――翡蝶やアルバートにはそうでなかったが――時に甘いものだし、外の世界にも楽しいことや美しいことが満ちている。それと同時に、罠や悪意にも事欠かないが……君は、自分でも見分けられるようにならなければ。あるいは、信じられる人を見つけなくては。私は、いつまでも君の傍にいられる訳ではないから」
「嫌よ! リリーはずっとお兄様の傍が良いわ。ここが一番だって、お兄様はいつも言っていたじゃない」
静かな衣擦れと共にお兄様は立ち上がると、リリー・メイを抱き締めました。望んでいたような、包み込むような抱擁です。でも、リリー・メイは怖くて仕方ありません。お兄様がどこかへ遠くへ行ってしまうようで、最後のお別れの挨拶のようで、捨てられてしまうような気がしたのです。
「リリーは今のままが良いの。お兄様、もうリリーをいらないの? お薬も飲むし言いつけは絶対に守るわ。だから、そんなことは言わないで……」
お兄様のお顔がぼやけました。リリー・メイは涙ぐんでしまっているのです。涙の雫が目からこぼれ落ちようとした時、お兄様は指先でそっとそれを拭いました。
「
「リリーはお兄様を嫌いになったりしないわ……!」
何度言えば分かってくれるのでしょう。さっぱり信じてもらえないことがとても悲しくて、さっき拭ってもらったのに、リリー・メイの目から涙が筋となって頬を伝いました。
「泣かないでくれ、リリー」
やっといつもの優しい口調になったお兄様が、ハンカチを取り出してリリー・メイの頬を拭ってくれました。晴れた視界に、いつものお兄様の笑顔が映って、そしてまたぼやけます。子供みたいでみっともない、と思っても涙を止めることができないのです。
「正直なことを言うと、ほんの少し嬉しいな。君を泣かせてしまうのが。君が現実を学んでいるということだから。
本当にすまないと思っているんだ、リリー・メイ。だから今日は仕事には行かない。一日ずっと君を甘やかそう。そして明日からは――」
言葉通りの優しく丁寧な手つきで、お兄様はリリー・メイの頭を撫でました。
「一緒に探していこう。君が一人で生きていける道を」
そういうと、お兄様は大きな掌でリリー・メイの目を覆いました。
「本館に戻るのは待った方が良いね。ジェシカたちを心配させてしまう。落ち着くまで、こうしてくっついていてあげるから」
リリー・メイはしゃくりあげるように大きく息を吸っては吐きました。声を立ててわんわん泣くなんて、ずっとしていないことです。きっとみっともない姿を見せてしまうに違いありません。お兄様の前で、そんなことはできません。
お兄様を嫌いになったりしないわ。ずっと一緒にいさせて欲しい。
伝えたい言葉を口に出すことはできませんでした。声に出そうとしても、嗚咽になってしまいそうで。リリー・メイは、お兄様にしがみつくことしかできませんでした。
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