第16話 それぞれの罪

「不幸……リリーが?」


 お兄様の言ったことの意味が分からなくて、リリー・メイは思わず口を挟んでしまいました。リリー・メイがそこにいるのをやっと思い出したかのように、お兄様は遠いところから視線を戻して、フェイディエとかいう知らない人ではなく、ちゃんとリリー・メイの顔に焦点を合わせてくれました。


「そう。とても可哀想な子。だから私が幸せにしてあげたいと思ったんだ」


 でも、言われたのはやはり訳の分からないことです。リリー・メイは自分が不幸だとも可哀想だとも思ったことがないのに。


「まずは、翡蝶フェイディエとアルバートのことだな」


 お兄様はジャスミン茶を一口含むと、またどこか遠くに目をやってしまいました。

 置いてきぼりにされているようで、リリー・メイはずっと苦くて嫌な感じがしています。お菓子を食べたら治るのでしょうか。でも、今の感じは、お薬の苦味とは何か違う気がするのです。


「アルバートが翡蝶を見つけたのはメンジンルーでだ。夢境路を何て説明したら良いか――まあ、社交界の一種だと思えば良いかな。リリーにはまだ早いからそれ以上は聞かないで欲しい。

 とにかく、翡蝶は美しいのはもちろん、華夏フアシアの女性の神秘性と慎ましさ、本国のレディの立ち居振る舞いを同時に持ち合わせた魅力的な人だった。アルバートはひと目で彼女に恋して、すぐに求婚したらしい」


 メンジンルーは、お茶会で奥様たちが言っていた名前でした。租界の外にそんな一角があるのでしょう。リリー・メイは華夏語を知らないので、音だけではどんな意味だかうかがうことはできないのですが。お兄様の口ぶりから、詳しくは聞けないような気がしました。ただ、ぼんやりとお兄様が持ってきた雑誌で見たサロンの様子を思い浮かべました。


「父はひどく反対して、兄よく口論になったらしい。……その頃私はスクールの寮にいたから、父や兄からの手紙で知った、伝聞になるんだが」

「どうして反対したの?」

「翡蝶が華夏人だったから」


 どうして、と重ねて尋ねようとして、リリー・メイはさっきお兄様が言っていたことを思い出しました。それに、ダニエルと最初に会った時に言われたことを。


「戦争で負けて、言いなりになったから? だから華夏の人はダメなの?」

「そう。リリーは賢いね。父が偏見を持っている――というか商売のためには反対せざるを得ないのだと知ったのも、兄が頑なに父に逆らったのも衝撃だったよ」


 お兄様が浮かべた笑みも、リリー・メイの気持ちと同じようにどこか苦いものでした。晩夏の穏やかな風も気持ち良いし、テーブルにはお菓子が並んでいるというのに。


「結局、アルバートが商会の跡継ぎから降りることを条件に父は折れた。翡蝶のことを実際に知ったこともあっただろうが。会長の夫人は無理でも、家に迎えるのは許しても良いということになったらしい。

 おかげで後継ぎの役目が私に回ってきて、勉強を頑張らなければならなかったけれど。でも、やり甲斐のあることではあったし、兄が幸せになれるなら構わないと思ったものだよ」

「『王冠を賭けた恋』みたいね」


 お茶会で会った令嬢が貸してくれた物語では、身分違いの恋を叶えるために王様が玉座を棄てたのでした。リリー・メイのお父様だというアルバートも、好きな人のために後継ぎの立場をなげうったのだそうです。恋は苦いものだと言う通りです。どうして大変なことばかりなのに恋なんてするのかしら、とリリー・メイには不思議でなりません。


「そうだね。でも、兄と翡蝶は物語のようにめでたしめでたし、という訳にはいかなかった」


 お兄様の微笑みは相変わらず苦い感じで、リリー・メイは言われたことの意味を聞き返すことはできませんでした。それに、お兄様はリリー・メイの様子には構わず、独り言のように続けます。


「父の反対を押し切ってこの屋敷に迎えても、翡蝶は明るい顔をしなかった。慣れない本国風の調度が気に入らないのかと思って、アルバートはこの離れを建てさせた。

 休暇で戻ったらいきなりこんな建物が出来上がっていて、とても驚いた記憶がある。それは、華夏風の離れを作ると手紙で知らされてはいたが、こんなに手の込んだものだとは思わなかった」


 そういうとお兄様は立ち上がり、壁に開いた窓枠をそっと撫でました。木製の窓枠が花を描いた透かし彫りになっていて、額のように庭を透かして見ることができる意匠です。本館の鉄製の十字の窓枠とは違う、きっと華夏の伝統のものなのでしょう。


「フェイディエのために……」

「彼女は喜ばなかったが」


 お兄様は木の窓枠を力を込めて掴みました。指先が白くなるほどに。


「アルバートは翡蝶を愛してはいたが、やはり偏見から自由ではなかった。華夏人を租界のとして迎えるのは望外のことだと、喜んでもらえるだろうと思っていた。……翡蝶のことを見ていなかったらきっと私もそうだったろうが」

「フェイディエは何で喜ばなかったの……?」


 小さな声での問いかけに、お兄様はリリー・メイの方を向いてはくれませんでした。ただ、窓越しに庭を眺めています。そうすると、かつてフェイディエが見ていたのと同じ景色が見えるのでしょうか。


「彼女にはアルバートの他に愛する人がいたから」


 リリー・メイにはお兄様の答えを半ば予想することができました。リリー・メイのお母様はフェイディエで、お父様はアルバート。そうだとしたら、あの人はどこに当てはまるのか、リリー・メイだって引っかかってはいたのです。リリー・メイとダニエルを追いかけた、あの人の鋭い黒い瞳が蘇ります。


ジュ威竜ウェイロンだよ」


 やっぱり。リリー・メイは深いため息を吐きました。どういう気持ちなのか、自分でもよく分かりません。

 今までずっと、リリー・メイにはお父様もお母様もいませんでした。フェイディエもアルバートも会ったことのない人だし、ジュ・ウェイロンもよく分からない人です。

 でも、お兄様がとても辛そうなのが、無性に可哀想で悲しく思えたのです。


「二人が結ばれなかったのは、やはり彼が華夏人だったから、だろうな。娼館の――そうじゃないな、翡蝶の周囲の者は朱家よりラドフォード家と縁を結びたかったのだろう。朱威竜も、租界の中には手を出せなかった。

 そして、アルバートと言えば……全てに気付かない振りをしていたようだった。兄からの手紙では何もかも上手くいっているようだったのに、ここに帰る度に翡蝶はやつれていった。それでも彼女を手放そうとしなかったのが、身勝手な恋着のために彼女を追い詰めたのが、君と翡蝶に対する兄の罪だ、リリー」


 突然名前を呼ばれて、リリー・メイはぴくりと身体を震わせました。リリー・メイがいるのを忘れたかのように、お兄様は難しい言葉を使っていました。お顔もなんだか怖くて、いつものお兄様ではないみたい。そんな怖い顔のまま、急にこちらを向いたので、驚いてしまったのです。


 リリーには何も分からないわ。みんな知らないことよ。


 そう、言おうとしたのですが、声になることはありませんでした。お兄様はリリー・メイを見つめてぎゅっと顔をしかめました。とても苦く、痛く、悲しそうで。見ているのも辛いほどで、声を奪われてしまったようです。


「そして翡蝶も、君に対しては罪深い」


 お兄様はキャビネットへ歩くと、抽斗ひきだしから翡翠と象牙の煙管きせるを取り出しました。リリー・メイが探検した時に取り出したのを、元通りに収めていたのでしょう。翡翠の部分にほどこされた蝶の意匠をお兄様の指先がなぞります。何かとても壊れやすいものに触れるかのように、静かに、ほんのわずかな動きで。


「これは翡蝶のものだ。翡翠色の、蝶。彼女の名前を表している。

 彼女は、これを使って阿片に浸っていた。君がお腹にいる間も。阿片の夢の中で、朱威竜の屋敷であの男の傍にいると思い込もうとしていたのかもしれない。

 私には彼女を責めることはできないが――君の身体が弱いのは多分彼女のせいだ」

「阿片……」

「彼女は結局夢の中から帰ってこなかった。君が生まれた後も、赤ちゃんだったリリーを顧みないで、阿片の量ばかり増えていって。アルバートは止めなかった。それどころか自分まで妄想の世界に逃げた!」


 お兄様こそ夢の中にいるみたい。煙管を手の中で弄びながら部屋の中を行き来するお兄様の目は、ここではないどこかを見ているようです。辛そうなお兄様が可哀想で、どうにかしてあげたいのに、リリー・メイのことなんて見えていないみたいです。


「翡蝶が逝ってすぐにアルバートも生きるのを辞めた。勝手な話だ。彼女が死んだのはアルバートのせいなのに。二人してリリーのことを放ったらかして。父も父だ。黒い髪に黒い瞳の子を実の孫とは扱わなかった。スクールから卒業して屋敷に帰ってみれば、痩せて咳き込んでばかりの君がいた……!」


 お兄様の瞳がナイフのようにリリー・メイを貫きます。空の色のよう、と普段は思っているのに今は氷のように冷たく思えます。いいえ、冷たいというよりもお兄様が凍えているような。


「お兄様」


 やっと出せた呼びかけも、お兄様には届きません。


「アルバート、翡蝶、それに父。周りの大人は誰も君のことを顧みなかった。見捨てられた可哀想なリリー・メイ。だから、私は、君を幸せにしなければいけないと思ったんだ。全力で守って、甘やかして。翡蝶にはできなかった分、いつも笑ってもらえるように」

「お兄様、リリーは幸せなのよ」


 リリー・メイには、お兄様が言う可哀想な子が誰のことだか分かりません。リリー・メイの覚えている限り、どんな時でもお兄様が傍にいて、お話したり遊んでくれたりしたのです。すぐに寝込んでしまうのは嫌なのですけど、それでもお兄様が甘やかしてくれるのは嬉しいものなのです。

 リリー・メイが可哀想だなんてことはありえません。お兄様にこんなにしてもらっているのに、こんなに幸せなのに。どうしてお兄様は悲しそうな顔をしているのでしょう。


「大丈夫?」


 リリー・メイは思い切って立ち上がり、お兄様に抱きつきました。熱が出た時のように、そっと手を伸ばして額に触れます。少し汗ばんでいるけれど、熱くはないみたい。それに、指先が触れるとお兄様は我に返ったようにリリー・メイの顔をちゃんと見てくれました。


「リリー・メイは幸せよ。お兄様がいてくださるもの。嫌いにならないって、言ったでしょう? リリーはお兄様がずっと大好きよ」


 お兄様に触れるのは、嬉しくて幸せなことのはずなのに、今はとても怖いです。それでも、リリー・メイは勇気を出して両腕をお兄様の背に回しました。


「リリー・メイ。本当に、なんて優しい子だ」


 お兄様の手もリリー・メイの背に触れました。でも、力が篭ることはありません。


「まだ私を好きだと言ってくれるなんて。でも、これも私がそう育てたに過ぎない。リリー、全てを知ったならきっと私を嫌いになるだろう」


 そんなことないわ。叫ぶ代わりに、リリー・メイは一層強くお兄様を抱きしめました。お兄様の腕が応えてくれることはありませんでしたけど。


「翡蝶は君の母親だ。でも、アルバートが父親だとは、ここに来てからは言わなかっただろう」


 お兄様の低い声が耳元でささやきます。リリー・メイを抱きしめてはくれないのに、腕にはひどく力が入っているようです。普段よりも一層低く、抑えたような声に、リリー・メイの不安は募るばかりです。お父様のこともお母様のことも、今まで気にかけたことなんてないのに。どうしてお兄様はこんなに――何と言ったら良いのか――言いづらそうにしているのでしょう。


「翡蝶は翡翠色の蝶という意味だ。なぜそう呼ばれたと思う? 彼女がその色をしていたからだ。翡蝶は、髪こそブルネットだったが、私や兄と同じ白い肌と、翠色の瞳をしていた。彼女は混血だったんだ」


 ふぇいでぃえ。その名前は、リリー・メイにとってはただの聞きなれない音の連なりです。意味なんて分かりません。お兄様から聞く、租界の外の通りやお店の名前と同じです。名前なんて、昔の物語や聖典から取るもの。百合リリーのように、すぐに分かる謂れがあるものの方が珍しいと思っていたくらいです。

 だから、フェイディエという響きの意味なんて、リリー・メイにはどうでも良いのです。

 翡翠の、蝶? 綺麗な意味だけど――でもやっぱりどうでも良いことです。その人がどんな髪の色でも瞳の色でも、リリー・メイには関係ありません。


「アルバートも私と同じ髪と瞳だった。金色と、青。リリー・メイ、君の父親がアルバートなら、君はそんな髪と瞳の色はしていなかっただろう」


 ベアトリスお姉様とダニエルは同じ髪と瞳の色をしていました。同じ色をしているということが血のつながりを示すなら、リリー・メイとお兄様はどうして違う色を纏っているのでしょう。

 ジュ・ウェイロン――あの華夏人の低い声が蘇りました。あの人は、フェイディエに良く似た黒髪の少女だから、と言っていました。似ているというだけではなく、黒髪だというところに意味があるとしたら――


 ぐるぐると、疑問がリリー・メイの胸に渦巻きます。今までに見聞きした色々なことを絡め取りながら。リリー・メイの中が疑問だけでいっぱいになってしまうくらい。

 お兄様は胸に張り付いていたリリー・メイを優しくはがすと、いつもより低く、けれどはっきりと告げました。


「君の父親は、朱威竜だ」


 疑問で膨らみきったリリー・メイに、お兄様の言葉はとてもよく響きました。

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