第15話 嫌いにならない①
リリー・メイの寝ぼけた目は瞬く間に醒めました。それほど、お兄様は真剣な顔をしていたのです。
「――嫌! 聞きたくない!」
お兄様は嫌われる覚悟、と言いました。リリー・メイがお兄様を嫌いになるなんてありえないのに、お兄様は信じてくれていないのです。それほどのことを、告げられようとしているのです。
それが一体どんなことなのか、リリー・メイは怖くなってしまいました。
また寝具を被ろうとするリリー・メイの腕は、やんわりとお兄様に止められてしまいました。
「リリー・メイ」
お兄様に抱き寄せられると、いつもの香水の香りがふわりと漂いました。お兄様は着替えたり身体を洗ったりしないでずっとリリー・メイの傍にいたのかしら、と不思議に思います。
「顔を洗って着替えなさい。それから朝食を一緒に摂ろう。それが終わったら――話すことがある」
「嫌……嫌よ。どうしてもと言うなら、リリーは絶対にベッドから出ないから!」
両腕を突っ張って、お兄様から逃れようともがきながら叫ぶと、ため息がリリー・メイの耳をくすぐりました。
「それならここに運ばせよう。とても具合が悪い時のように食べさせてあげるから。聞き分けてくれ」
「嫌……」
お兄様の腕の中、リリー・メイは小さな子供のようにいやいやをしました。拳を握ってお兄様の胸を叩くのですが、リリー・メイの腕は細い上に力がないので、お兄様はびくともしません。
「お兄様、リリーは本当に知りたくなんてないの。お兄様が言ったのは、リリーが知りたがるなら教える、っていうだけでしょう。お兄様はリリーの嫌がることなんてしないわ。変なことなんか聞かせないで!」
「でも、薬は、リリーがどんなに頼んでも飲ませているだろう?」
背中を優しく撫でられて、リリー・メイは少しおとなしくなります。お兄様に対して怒っていたけど、ずっと寂しくもあったのです。久しぶりにお兄様が傍にいてくれるというだけで、何だか安心するのです。
「お薬は……リリーのためでしょう? だから、仕方なくよ」
「これから話すことも、薬みたいなものだ。リリーのためには必要なんだ」
「お話はお薬にならないわ」
まだ愚図るように、不機嫌な口調で。リリー・メイは俯いたまま答えます。お兄様の着ている服は、やっぱり昨日の朝お見送りした時と同じものでした。
「なるんだ。リリーが大人になるために。私は今まで君を守り過ぎた。ベアトリスや
「知りたくないわ。外は危なくて怖いところだって言ってたじゃない。お兄様、もうリリーを守ってくれないの!?」
「守るよ。君が嫌だと言わない限り、ずっと守る」
「嘘なんでしょう? お兄様を嫌いになるかもしれないのでしょう……?」
リリー・メイの目から涙がこぼれそうになって、声もか細く揺れてしまいます。なだめるように、お兄様はリリー・メイをぎゅっと抱きしめ、額と額をくっつけました。吸い込まれるような青い瞳でじっとリリー・メイを見つめながら、優しく語りかけます。
「例え君が私を嫌いになっても、絶対に変わらず君のことを大事にするよ」
「リリーはお兄様を嫌ったりしないわ!」
「ありがとう、リリー・メイ。もしも、本当に君が私を嫌わないでいてくれるなら――それなら全て今まで通りだ。それなら、聞いてくれても良いんじゃないか?」
「そう、かしら……」
お兄様はリリー・メイを言いくるめようとしている、と思います。どうしてもリリー・メイに嫌な話を聞かせたいみたいです。何か、聞かなくても良い理由を探さなくては、と思うのですが――お兄様を嫌ったりしない、と言ってしまったのはリリー・メイ自身です。
「そうだよ。では、食事を運ばせるから。一緒に食べよう」
改めて言い聞かせられて、そっと髪を撫でてもらって。すると、リリー・メイはそれ以上何も言えなくなってしまいました。
リリー・メイが頷いたのに安心したのでしょうか。微笑んだお兄様は、表情だけならいつも通りの優しいお兄様でした。
ベッドの上で蜂蜜を入れたポリッジ、ゆで卵、豆の煮込みの朝食を済ませると――お兄様はそれにトーストとベーコンもつけていました――お兄様は着替えるから、と一度リリー・メイの部屋を後にしました。
「リリーも支度が済んだら離れにおいで。お茶の準備をしておくから」
お兄様が離れに誘うなんて、初めてのことでした。あの
リリー・メイは、行かなくても良くならないかしら、と憂鬱な気分で着替えをします。どんなにゆっくり手を動かしても、髪を梳いていつものブラウスとスカートを纏うのにそう時間は掛かりませんでした。
リリー・メイが離れへと向かう足取りは、重いものでした。晩夏の庭は、木々の青さが弱まっているかわりに日差しもやや柔らかで、過ごしやすいはずです。なのに、リリー・メイの心を明るくしてはくれません。
離れの前に立つと、また一つため息がこぼれます。色鮮やかなオレンジ色の瓦や朱色の柱も、やはり前に来た時ほど素敵なものには思えませんでした。
「待っていたよ」
「ごめんなさい、遅くなって」
お兄様の微笑みに答えるのも、ぎこちない言い方になってしまいます。
二人がいるのは、リリー・メイが前に探検をしていて、刺繍の靴を見つけた部屋です。小さな
「ジャスミン茶で良い?」
「ええ」
お兄様が勧めたのは花の香り高い華夏茶。それを注ぐ茶器も縁起物だとかいう華夏の模様の、小さな青磁のもの。並べられているのも、
「ここは、兄が――アルバートが
「フェイディエ、ってリリーのお母様なのでしょう? 華夏の人だったのね」
リリー・メイはお茶をいただくのもそこそこに、早口で言いました。ちゃんと察しているのよ、と伝えることで、お話を早く終わらせたかったのです。
「リリーは、華夏について何を知っている?」
けれど、お兄様が言い出したのは思いもよらないことでした。どうして今、この時にお勉強の復習のようなことを聞くのでしょうか。
「……この
「他には?」
「華夏の言葉と文字があって、着るものや建物も本国とは全然違うわ。それに、華夏の人は黒い髪と目、黄色っぽい肌をしているし、顔の造りも違うみたい。王様じゃなくて皇帝がいるの。あとは……あとは、お菓子や食べ物がとても美味しいわ」
「よくできたね」
思いつくままに知っている限りのことを並べると、お兄様は満足そうに頷きました。そして、花を象ったお菓子を小さく割ると、ご褒美とばかりにリリー・メイの口に運んでくれました。
「今までリリーに教えたことだったらそれで十分だ。だが、本国と華夏に関してはもっと色々と複雑なんだ。歴史の授業ではまだ追いついていないところだし、どう言ったものか悩んでもいたんだが――」
濃厚な餡が口の中で絡んで、リリー・メイは相槌を打つこともできません。ただ、お兄様が難しい顔で庭を眺めながら続けるのを見つめます。
「私も生まれる前のことだが、戦争があって華夏は負けた。租界ができたのも、本国さながらの街並みもその結果だ。それだけでなく、交易や法の上でも
お菓子をお茶で流し込みながら、リリー・メイは、ダニエルが華夏人は召使だと言っていたのを思い出しました。それに、戦争に負けたから、とも。
「リリーは、見た目だけなら華夏人に見える。でも、お茶会の席で、それもベアトリスの前ならおかしなことも言われないだろうと思っていたんだが――ダニエルは素直過ぎた。周りがいつも言うことをさして考えないで言ってしまったんだろう。
私の考えが甘いせいで、嫌な思いをさせてしまった。すまなかった」
そう言うと、お兄様は軽く目を伏せました。お兄様が悪いだなんて、思ってもいなかったことです。リリー・メイが慌てて茶器をテーブルに置くと、磁器が高く澄んだ音を立てました。
「そんなこと、ないわ。ダニエルとは仲良くなれたもの。お茶会に行って、良かったと思っているのよ」
リリー・メイはベアトリスお姉様と約束しているのです。お茶会でのことはお兄様には言わないと。それに、ダニエルがお兄様に嫌われたくないのも分かっているし、お友だちになれたと思っているのも本当です。大したことではなかったように振舞わなくてはなりません。
「リリー・メイは優しくて、素直だね。それも私の罪の一つではあるが」
お兄様はリリー・メイの方に手を伸ばしましたが、頭を撫でたり髪を梳いたりすることはしないで、引っ込めてしまいました。まるで、リリー・メイに触るのをためらうかのように。
「罪……?」
お兄様の態度に、そして、聞きなれない単語の不吉な響きに不安になって、リリー・メイの全身からすっと血の気が引きました。指先も冷たくなってしまったので、熱いお茶の入った磁器を握って暖めようとします。
どきどきと高まる鼓動に、お兄様の声が重なります。
「嘘や偽りに触れさせず、疑うことを教えなかった。だから、悪意に触れてもどうしたら良いか分からなくなってしまった。本当ならもっと怒ったり泣いたりして――私に言いつけても良かった。ひどいことを言われた相手を悪く思ってしまうのは、とても自然で仕方がないことなのに。君はそれができなかったんだな。
リリー・メイ、私は君にとてもひどいことをしてしまっていたんだ」
いよいよ本題に入るのです。リリー・メイはしゃんと背筋を伸ばすと、お兄様の目を真っ直ぐに見つめました。ベッドでも言ったことを、もう一度念押しします。
「リリーは、絶対にお兄様を嫌いになったりしないわ」
「ありがとう」
お兄様は穏やかに微笑みました。けれど、嬉しいという訳ではなくて、ただ表情を動かしただけのように見えます。信じてくれていないのね、とリリー・メイは悲しい気持ちになりました。
しばらくの間、お兄様は何も言いませんでした。ただ、沈んだ表情で庭の方を眺めています。何から始めるか、悩んでいるということなのでしょうか。それなら言わないで済ませれば良いのに、と思うのですが。
かといってリリー・メイからも何か言い出すことなんてできません。ただ、手持ち無沙汰にお茶をいただくだけです。
「ああ、空いてしまったね」
ふとリリー・メイに視線を戻したお兄様は、茶器の底が見えているのに気づいてそう言うと、新しく熱いお茶を淹れてくれました。
湯気と共にジャスミンの花の香りが漂う頃、お兄様はぽつりとつぶやきました。
「翡蝶も、ジャスミンの香りが好きだった。彼女は
お兄様が華夏語を発音するのを、リリー・メイは不思議な気持ちで聞きました。そういえば、確かにジュ・ウェイロンの屋敷でも華夏語を喋っていたのですけど。でも、普通に喋っている中に異国の響きが混ざるのは、一際浮き上がるようにおかしな感じがします。
「思えば、全てそういうことだったのかもしれない。私もアルバートも私たちの言葉で彼女と話して、彼女も同じ言葉で返して。通じているつもりだったが、翡蝶は結局、華夏語で考えていたのだろうな」
お兄様はリリー・メイの顔を見ながら話しています。でも、目が合うことはありません。リリー・メイを通り抜けて、どこか遠くを見ているみたい。ジュ・ウェイロンは、リリー・メイがフェイディエに似ていると言っていました。リリー・メイと話しているのに、お兄様はフェイディエを見ているのでしょうか。
そうだとしたら、それはとても嫌なことです。お薬を飲んだ時のように、苦い味がリリー・メイの口の中に広がりました。お茶は爽やかな風味だというのに。
「リリー、君の考えていることは当たっている。翡蝶は君の母親で、兄のアルバートが愛した人だ」
リリー・メイではない誰かを見ながら、お兄様は続けます。
「だが、翡蝶はアルバートを愛していなかった。兄もそれには気づいていたんだろうが、認めることはできなかった。兄は彼女をここに閉じ込めていたんだ。
アルバートはもういないから、私が代わって詫びなければならない。許してくれとは言えないが……リリー・メイ、君の不幸は兄の妄執から始まったんだ」
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