第14話 これだけは伝えたい

 リリー・メイの顔を見るなりダニエルは目を丸くして声を上げました。


「なんだ、まだ具合が悪いのかよ!?」


 ダニエルに会うのはあの日――ジュ・ウェイロンのお屋敷からの帰りで別れて以来でした。

 最近かまってあげられなくて退屈しているだろうから、と、お兄様が招待してくれたのです。ダニエルに会えるのは確かに嬉しいのですが、リリー・メイはどうも誤魔化されているような気がしてなりません。ダニエルは、ダニエル。お兄様は、お兄様。お互いに代わりになんかならないのです。


「別に、そんなことないわ。ちょっと眠れてないだけ」


 それでも、ダニエルにそうと言うのはただの八つ当たりと分かっていたので、リリー・メイは笑ってみせました。リリー・メイはレディですから、社交辞令というやつもできなくてはなりません。

 寝ないでお兄様を待つ作戦は失敗続きです。毎晩のように夜ふかしできるものでもないし、熱っぽいからと押し込むようにベッドに入れられてしまう日もあります。今日は起きていられそう、と思っても、最初の夜のように温かいミルクで眠くなってしまったり、目が疲れるから本を読んではダメと言われて退屈してあくびが出たりしまうのです。


「なら良いけど。ちょっとは運動したほうが良いんじゃないか?」


 信じてくれたのかくれないのか、ダニエルは少し眉をよせて心配そうな顔をしましたが、すぐに満面の笑みを浮かべました。


「これ、やるよ」

「わあ、綺麗……」


 ダニエルが差し出したのは丸い形に整えた花束ブーケでした。赤や黄色の明るい色の花々。花びらがくるりと丸まっていて、花の一つひとつも丸く可愛らしい形をしています。まるで余った毛糸で作ったポンポンみたい。


「鞠咲きのダリア。そろそろ華夏フアシア重陽チョンヤオ節だからさ。ダリアに似た品種の花を飾るんだってさ。だから」

「ありがとう!」


 リリー・メイは色とりどりの丸い花をうっとりと眺めます。


「こんな感じの飴玉があったら、もったいなくて食べられないね」

「本当に甘いものが好きなんだな」


 呆れたように笑われて、リリー・メイは少し顔が赤くなってしまいました。


「可愛いものも好きよ。食べられないって、言ったじゃない」

「また今度何か食べに行こう。今度こそはぐれないように、エドワード兄さんも一緒で。租界の中にも良い店はあるし、その方が安全だ」

「素敵ね」


 ダニエルと話しているうちに、リリー・メイも気分が明るくなっていくのを感じました。お兄様がダニエルを呼んでくれて、やっぱり良かったのかもしれません。ジェシカは優しくても丁寧な態度を崩してくれません。誰かと同じ目線でお喋りをするということがとても楽しく思えて、最近の悲しくさみしい気持ちを和らげてくれました。


「ベアトリスお姉様も一緒が良いわ。今日はお姉様はいらっしゃらないの? お元気なのかしら」

「……兄さんとは話してないのか?」


 ダニエルの表情が少し曇ったので、リリー・メイは嫌な予感を覚えました。


「最近お仕事が忙しいって。お姉様は――」

「ああ、元気は元気だ。おかしなくらいに」

「どういうこと……?」


 ダニエルはすぐには答えずに、クッキーをつまみました。つられてリリー・メイも一つ。ココアの生地に砕いた胡桃を入れたのは香ばしくて大好きなのに、どうも飲み込みづらいと感じます。


「兄さんは、姉さんのことを怒ったんだ。子供から目を離したって。でも姉さんは無事だったから良いじゃない、ってあんまり気にしてないみたいで」

「そう、なの……」


 ダニエルは顔をしかめて一気にお茶を飲み干しました。ジェシカの淹れたお茶ですから、苦いなんてことはあるはずないのですが。


「でも、はぐれてしまったのはリリーのせいだし。あの人も……悪い人ではなかったし。お姉様の、言う通りじゃない?」


 言ってから、お兄様はリリー・メイのことも怒っているのかしら、とふと不安になりました。のろのろしていてはぐれてしまって、勝手に知らない人のお屋敷にお邪魔してしまって。お兄様には心配も迷惑もたくさんかけたに違いありません。

 駆けつけてくれたのもリリー・メイが大事だからではなくて怒っていたからで、だから避けられているのかしら、と今更ですが思い至って、さっきまでの明るい気持ちもしぼんでしまいました。


「ああ、泣くなって」

「泣いたりなんか……」


 ダニエルが焦ったように半ば立ち上がります。それが申し訳なくて、リリー・メイは頑張って微笑みを作ってダニエルのキャラメル色の瞳を見返しました。

 ダニエルは、しばらく何か考え込んでいるようでしたが、やがて目に力を込めて、身を乗り出してリリー・メイにささやいてきました。


「リリー、これは兄さんに黙っていて欲しいんだけど、それでも聞いてくれるか? 約束してくれるか?」


 あまりに真剣な顔をしているので、リリー・メイはとまどってしまいます。でも、ダニエルが本気なのはよく分かったので――お兄様には悪い気がしたのですが、リリーを放っておくお兄様もひどいわ、と思ったし――恐る恐る、うなずきました。


「分かったわ。お兄様には絶対言わない」


 ダニエルはカップを手に取って――飲み干してしまっていたことを思い出したのでしょう、ソーサーに戻すとリリー・メイをまっすぐに見つめてきました。


「姉さんは……」


 キャラメル色の瞳が一瞬宙にさまよい、またリリー・メイに戻ります。


「姉さんは、金鶏ジンジー大路ダールーをしばらく二人で散歩したら良い、って言ってたんだ」

「二人って? リリーと、ダニエル?」

「そう。エドワード兄さんは過保護すぎるって。子供二人で仲良く過ごせるって分かったら、もっとリリー・メイを外に出せるでしょう、って」

「お茶会の時も、そんな感じだったわ」


 呆れたようなお姉様と、苦い顔をしたお兄様のことが思い出されます。お姉様はリリー・メイを心配してお茶会にお招きしてくれたのです。でも、それが悪いことと、お兄様に内緒にしなくてはいけないことだとは思えません。


「お兄様も、最後にはお出かけさせてくれたのよ?」

「お茶会はうちに来ただけじゃないか。外で子供だけなんて、やっぱり良くなかったんだ」


 不思議に思って首を傾げたリリー・メイに、ダニエルは少しきつい口調で言いました。そしてすぐに眉を下げます。


「――ごめん。君は何も悪くない。

 僕も、大通りから離れなければ大丈夫だって思ってた。姉さんもそうだったんだろうとは思う。でも、実際にあいつから逃げるうちに裏通りに行ってしまったし、そのせいで危ない目にあってしまった。なのに無事だったから良かったって、変じゃないか? 素直に謝らない姉さんが――僕は、すごく嫌だ」

「そんなこと――」


 リリー・メイは必死に言葉を探しました。リリー・メイはお姉様も大好きなのです。ダニエルも今では友だちだと思っています。嫌だとか、そんなことは聞きたくありません。


「リリーも、ダニエルも予想できなかったことでしょう? ダニエルは怪我をしてしまったけど、帰りは元気だったから大したことないって、お姉様は思ってしまったのかもしれないし……」


 ダニエルはリリー・メイをはねつけるかのように激しく首を振りました。


「多分、姉さんもまずいことをしたって分かってるんだと思う。でも、認めたくないんだ。兄さんに嫌われたくなくて――それこそ大したことじゃないって思おうとしてるみたいだ。

 ……それで余計に兄さんは怒ってるのに」

「お兄様、お姉様とはお話してるのね……」


 リリー・メイが真っ先に思ったのはそれでした。お仕事で忙しいからと、リリー・メイには構ってくれないのに!

 でも、それは悪い子の考え方だと思います。お姉様がお兄様に嫌われたくない、と思うのはよく分かります。リリー・メイと一緒ですから。思いもかけず大変なことになってしまって、きっとお姉様も困っているのでしょう。そして、それを見ているダニエルも辛い思いをしていると思います。

 それなのに、リリー・メイは最初に自分のことを考えてしまいました。我が儘な嫌な子です。


「え、聞いてないのか?」

「お兄様、最近はお仕事が忙しいって、あんまりお話してくれなくて……」


 ダニエルはよほど驚いたようで、リリー・メイの表情が曇ったのにも気付いていないようです。


「じゃあ、あいつのことも聞いてない? あの華夏人のこと――」

「そんなことどうでも良いの! もう会わないと思うし……今までお兄様が教えてくれなかったことだもの、きっと大したことじゃないわ」


 必要以上に険しい言い方をしてしまって、誰よりリリー・メイが驚きました。目を丸くしたダニエルの表情に、ひどい言い方をしてしまったわ、と胸がちくちくしました。


「……そうだな。きっと大したことじゃないと思う」


 しばらく黙った後にそう言ってくれたダニエルは、多分とても優しいのでしょう。




 それからは、リリー・メイとダニエルはぽつりぽつりとおしゃべりしました。二人とも、触れてはいけないところをそっと避けながらではありましたけど、時に声を立てて笑ったりして楽しい時間を過ごすことができました。


「今日は、ありがとう。また会いたいわ」


 そろそろお別れという時になってリリー・メイが言うと、ダニエルは困ったように笑いました。


「もう休暇が終わるから、しばらく会えないな。スクールの寮に帰るんだ。次は降誕節の休暇になる」

「そうなの……」


 眉を下げたリリー・メイの頭を、ダニエルはちょっと手荒くかき乱しました。


「手紙、書くよ」

「手紙?」


 髪を整えながら、リリー・メイは聞き返します。


「そう、姉さんにも親にも、何かと書かされるんだ。勉強も兼ねて、ってことで。だから、リリーにも手紙を送る。裏庭に林檎が生るんだ。その色でも教えてやるよ」

「リリーを食いしん坊だと思ってるのね! 次に会う時までにはもっと大人になってるわ」


 唇を尖らせたリリー・メイは、ダニエルに笑われてしまいました。ほんの少ししか歳は違わないのに、子供扱いされているようで面白くありません。


「兄さんにも手紙を書けば良い」


 続けてそう言ったダニエルの表情は、それこそお兄様みたいに優しくて大人っぽい微笑みでした。リリー・メイは、自分が本当に小さな子供になったみたいで、一瞬ぽかんとしてしまいます。でも――


「そうね。そうだわ」


 手紙。その単語に、リリー・メイの目と胸が晴れたような気がしました。

 何も直接会って話さなければいけないという訳ではないのです。とにかく、リリー・メイの気持ちをお兄様に伝えられれば良いのです。


「ありがとう、ダニエル。そうしてみる!」

「やっと明るい顔になったな」


 ダニエルふいとそっぽを向いてしまいました。でも、それは怒っているとか意地悪では決してないのです。頬が林檎みたいな色になっていますから、照れくさいのでしょう。リリー・メイにも、男の子の表情が分かってきました。


「手紙だと直接は言えないようなことも書けるんだ。僕も姉さんに分かってもらいたい。ちゃんと兄さんと仲直りしてもらって――次の休暇には四人で出かけよう」

「ええ、きっと」




 ダニエルを見送って、食事を済ませて、くつろいだ格好になったリリー・メイは、手紙を書きます。お兄様からいただいた、可愛らしい花の透かし模様が入った便箋に書くのです。机にはダニエルからもらった花束が飾ってあります。

 まだ香りも鮮やかな生花と、便箋を彩る繊細な模様の花。素敵なものに囲まれて、とても幸せな気持ちになれます。インクの染みを作ったりこすったりしてしまわないように、少しずつ乾かしながら、文面を考えながら綴っていきます。

 リリー・メイがお兄様をどれだけ好きかということ。いつもお喋りをしてくれるのがとても楽しいということ。色々なお土産をくださるのや、リリー・メイのためにお薬を――苦いけど――用意してくださるのをとても嬉しく思っていること。朱威竜のお屋敷に駆けつけてくれたことへのお礼。

 そして、何より伝えたいのは、リリー・メイはお兄様に嫌われたくないということ。お兄様が嫌がることを知りたがったりしないということ。だから、今まで通り優しくして欲しいということ。リリー・メイも良い子にするし、お薬もちゃんと飲むから。元気になったら、色んなところに連れて行って欲しい、ということ。どこへでも、どこまでも。


 ずいぶん時間を掛けて手紙を書き上げたリリー・メイは、最後にもう一度書きました。お兄様、大好き。

 手紙を読み返したリリー・メイは、昼間のダニエルみたいに赤い顔になってしまします。本当に、手紙だと言葉では言えないようなこともすらすらと書いてしまうことができました。こんなこと、直接お兄様の顔を見ながらではとても口に出すことはできないでしょう。


「これで、お兄様にも分かってもらえるわ」


 リリー・メイの寝ている間に読んでいただくのもとても恥ずかしいのですけど。でも、口に出して言うことで、思い切ることができました。お兄様にはリリー・メイの気持ちを分かってもらわなくてはなりません。


 お兄様が見落とすことのないように、ベッド脇のテーブルに手紙を水晶の文鎮ペーパーウェイトで留めると、リリー・メイは横になりました。久しぶりに大人しく寝間着に着替えたので、ジェシカもほっとした様子です。


 お兄様、明日は前みたいに優しくしてくださるかしら。


 本当に、久しぶりに。リリー・メイは安らかな気持ちで眠りに就きました。




 翌朝目が覚めると、リリー・メイは何か変だわ、と思いました。

 部屋の明るさがいつもと違います。お寝坊してしまったのか、早く目が覚めてしまったのか――


「お兄様?」


 理由は、すぐに分かりました。

 お兄様がベッドの横に掛けていたので、日差しを遮っていつもと違うように感じられたのです。


「リリー。おはよう」


 お兄様の微笑みを久しぶりに間近に見た気がして、リリー・メイは頭から寝具を被りました。髪も乱れているし、目やにもついているでしょうに。恥ずかしくて仕方なかったのです。


「手紙を読んだよ」


 寝具で真っ白になった視界が陰ります。お兄様がリリー・メイを抱きしめているのです。それも、強く。


「嬉しかったよ、優しいリリー・メイ。でも――」


 リリー・メイをくるんだ寝具が優しく取り払われます。お兄様の青い目がすぐそばにあって、リリー・メイは心臓がどきどきするのを感じます。嬉しいからだけではありません。お兄様の、口元は笑っているのに目元は笑っていないのです。何か、とても嫌な感じがしました。

 ジュ・ウェイロンの屋敷で再会して以来、お兄様のいつもと違うお顔をいくつも見てしまっています。怒ったり、嫌な笑い方をしたり。今みたいに、何かを微笑みで隠しているようなお顔をしたり。いつも優しいお兄様でいてほしいのに。


「私は育て方を間違えた。真実から目を背け耳を塞いではいけない。

 君に嫌われる覚悟をするのに時間が掛かってしまったが――今こそ言わなければならないだろう」


 真剣な顔でリリー・メイに語りかけるのは、まるで知らない人のようでした。

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