知らない家族

第13話 すれ違い

 リリー・メイの日々はまた元通りになりました。お薬と、ご褒美のお菓子。お勉強。ジェシカとのお喋り。その繰り返しです。

 お兄様がジュ・ウェイロンに言った通り、あの後何日か体調を崩してしまいましたが、それもまあよくあることです。

 借り物の「王冠を賭けた恋」も読み終わりました。あまり楽しめなかったけどお礼状には何て書いたら良いかしら、とお兄様に相談したら、良かったところを探しなさいと言われました。なので、王様が下町で食べた料理が美味しそうでした、ということを書きました。

 何人かお茶に誘ってくださる方もいるそうですが、体調が安定していないので、ということで断ってもらっています。

 だから、何もかも元通りのはずなのですが。




「お兄様は今日も遅いの……?」


 寝る支度を終えてベッドに横になったリリー・メイは、ジェシカに訪ねました。ジェシカは、お母様のような歳の召使は困ったように微笑むとリリー・メイに寝具をかけてくれました。


「近ごろお忙しいようですので。でも、お帰りになるとお嬢様の寝顔をご覧になっていくんですよ」

「そうなの」


 起きてる時に会えないなら同じだわ、と思うのですが。お仕事が遅くなって、寝る前にお兄様に会えないのは今までもあることでした。でも、こんなに何日も続けて、ということはなかったのに。ジュ・ウェイロンの屋敷から帰った日からずっとこうなのです。


「ジェシカでよろしければお話を読みますよ」

「大丈夫よ、一人で眠れるわ」


 リリー・メイだって、物語を聞きながらでなければ眠れないほど子供ではないのです。ただ、お兄様の声はすごく落ち着くというだけ。お兄様が見守っていてくれるというのがすごく安心するだけ。

 ジュ・ウェイロンの屋敷にいるあいだは、自分の部屋が懐かしくてたまりませんでした。無事に帰る以外の望みなんてなかったのに、いざいつもの暮らしに戻ってみると、お兄様がいなければ嫌、だなんて。自分でも不思議なくらいの我が儘です。


 ジェシカが灯りを消して扉を閉めると、リリー・メイは目を閉じました。夢でお兄様に会えたら良いわ、と思います。

 最近はお勉強の時も素っ気なくて、前のように色々な話をしたり珍しい外国のものを持って来たりしてくれないのです。別にお土産が欲しいという訳ではありません。ただ、お兄様がリリー・メイを避けているようなのがとても悲しいのです。


 ジュ・ウェイロンのお屋敷で待っていた時のように、お兄様はリリーがいらないのかしら、と不安に思うことは、今はありません。だって、あんなに慌てた様子で駆けつけてくれたのですから。

 お兄様が最近冷たいのには、他に思い当たることがあります。お兄様はリリー・メイに質問させたくないみたいなのです。


 ――リリー・メイが知りたいというならいつでも教えるつもりだった。


 あの日、お兄様が言っていたことです。それは、逆に言えばリリー・メイが知りたいと言わなければ教えなくても良いということです。

 リリー・メイは暗闇の中でごろりと寝返りを打ちました。しんと静まり返った部屋。頭の奥から華夏フアシアの不思議な抑揚アクセントがある低い声が聞こえます。


 ――必ずエドワードに尋ねておくれ。あなたの両親のこと。翡蝶フェイディエのこと、アルバートのこと。


 ジュ・ウェイロンの声です。

 ふぇいでぃえ。華夏の人の名前です。リリー・メイが似ていると言っていました。それに、リリー・メイのお父様だというアルバート――お兄様のお兄様の名前。

 ここまで揃えばリリー・メイにだって分かります。フェイディエという人はリリー・メイのお母様なのでしょう。

 別に改めてお兄様に聞かなくても分かることです。むしろ、リリー・メイが黒い髪に黒い瞳を持っていることに納得がいきました。華夏人がお母様だからなのでしょう。お屋敷の中に華夏風の離れがあるのもフェイディエのためなのかもしれません。

 今まで知らなかったのは聞かなかったからというだけ。それも、本当に気にならなかったからというだけ。お兄様も言った通り、お兄様がわざわざ隠し事なんてする必要はないのです。

 でも。


 ――私がなぜこのようなことをしたか分かってくれるだろう。


 ジュ・ウェイロンがまた頭の中でささやきます。フェイディエはリリー・メイのお母様。アルバートはリリー・メイのお父様。それならジュ・ウェイロンは? どうしてあんなにリリー・メイを追いかけてきたのでしょう。

 お兄様がリリー・メイを避けてまで知らせたくないことなのでしょうか。


 リリー・メイはまた寝返りを打ちます。


 知りたくない、気にならない。そう言えば嘘になります。でも、お兄様が教えたくないというなら無理にねだろうとは思いません。覚えていないお父様やお母様よりも、お兄様の方が大事です。お兄様に避けられるのは寂しくてたまりません。

 寂しい気持ちのまま寝るのは嫌でした。おかしな夢を見てしまいそうで。でも、だんだんと目はくっついて、頭の中もぼんやりとしてきました。


 明日お兄様に会ったら、リリーは何も聞かないから今まで通りにして、って言ってみようかしら。


 最後にそう思いながら、リリー・メイは眠りにつきました。




 翌朝、リリー・メイはいつもより早く目覚めました。

 いつもより涼しい空気、いつもより暗い空。小鳥のさえずりも賑やかです。お兄様のお出かけに間に合うかもしれない、と気づくと、眠気は一気に冷めました。寝る前にお兄様とお話しなくちゃ、と思ったので心のどこかで気になっていて目を覚まさせてくれたのでしょう。


 顔を洗って、髪を梳かして。大急ぎで身支度を整えると、ちょうどお兄様が帽子を手にして出発するところでした。

 昨日、寝る前に考えたことを伝えなきゃ、とリリー・メイはお兄様に駆け寄ります。


「お兄様!」

「リリー、今日は早起きだね。まだ目が眠そうだよ」

「お兄様、あのね――」


 開こうとしたリリー・メイの唇は、お兄様の指先でそっと塞がれました。ついで、リリー・メイの頬に優しくキスが降ってきます。


「今日も遅くなりそうだから先に眠っていなさい。勉強の課題は置いておいたから」

「おにい――」


 食い下がる隙もあればこそ。颯爽と、振り返ることもなく、お兄様は去ってしまい――後には、唇を尖らせたリリー・メイだけが残されたのでした。




 お兄様がいない他は、今日もいつも通り。

 だから、お勉強を終えたリリー・メイはジェシカとお茶をいただいています。ジェシカの淹れるお茶は美味しいのです。ポットの中でお茶の葉が開いて踊るのが見えているみたい。どれだけ蒸らせば飲み頃なのか、ジェシカに任せておけば間違いありません。でも、今日に限っては――


「もっと、もっと濃くして!」


 ジェシカがカップにお茶を注ごうとするのを、リリー・メイは止めました。ジェシカは困ったように首を傾げて笑います。


「でも、苦くなってしまいますよ」

「良いの。ミルクをたくさん入れるから」

「眠れなくなってしまいますよ」

「そのために濃くするのよ」


 リリー・メイはお兄様に対して少しだけですが怒っています。リリー・メイはお兄様を困らせたりなんてしたくないのに、勝手に避けて、寂しい思いをさせて。ひどい、と思います。今日こそ、絶対に、きちんとお話をしたいと思うのです。

 お兄様は今日もリリー・メイが眠った後に帰るつもりなのでしょう。思い通りにはさせません。


 カップの底が見えないくらいに濃く淹れたお茶がほとんど白くなるほど、ミルクをたっぷり入れます。ついでにお砂糖もスプーンに山盛り。すっかりぬるくなってしまったけれど、どうにか飲める苦さになりました。


「おかわりも、お願いね」

「……お食事が入る隙間は残しておいてくださいね」


 呆れた様子のジェシカを横に、リリー・メイは濃いお茶をあと二杯も飲みました。お腹がたぷたぷになってしまったおかげで、少し気持ち悪くなってしまったのですけど。お菓子もあまり食べられなかったのですけど。今日こそお兄様ちゃんとお話をしよう、そのためにずっと起きていよう、と。リリー・メイは固く決心したのでした。




 ジェシカはため息を吐きながらベッドに入ろうとしないリリー・メイを見下ろしました。


「もうお休みの時間ですよ……?」

「お兄様にご挨拶してからよ。それまで絶対に眠らないから」


 リリー・メイは断固としてジェシカを見返しました。寝間着に着替えたのだって譲歩なのです。断固として、譲歩しない。今日、歴史のお勉強で読んだ表現フレーズです。横暴な王様に対抗した市民たちのことです。お兄様もリリー・メイにひどいことをしています。だから、断固として権利を要求するのです。寝る前のハグやキス、楽しいお喋りやお茶の時間を要求するのです。


「今朝は早くお目覚めだったのに。もう眠いでしょう?」

「そんなことないわ」


 お兄様に怒っているからでしょう。リリー・メイの目はぱっちりとしていて、ちっとも眠くなんかありません。


「ちゃんと眠らないと。また寝込んでしまいますよ。そうなったらまたお薬ですよ?」

「……今日だけだもの。お兄様とお話したらちゃんと寝るわ」


 お薬と聞いても頑として聞かないリリー・メイに、ジェシカは一段と深くため息を吐きました。


「では、冷えないようにひざ掛けをお持ちしましょう。温めたミルクに蜂蜜を垂らしたものも。それから、本を読んではいけません。目が冴えてしまいますからね」




 そろそろ秋が近づいているので、夜ともなれば少し冷えます。毛織物のひざ掛けを腰から下に巻きつけて、両手でミルクのカップを持って。リリー・メイは画集を眺めます。リリー・メイが行ったことのない本国の景色を描いたもの、やはりお兄様がくれたものです。苔むしたお城や、花咲く農村。


 金鶏ジンジー大路ダールーでダニエルと話したことを思い出します。リリー・メイがもっと元気で丈夫になれば、お兄様とお出掛けができるかもしれません。いつか、お兄様と深い森や古いお城に行ってみたい。そのためにも、早くいつも通りに仲直り――別に喧嘩をしたという訳ではないですけど――しなければなりません。

 絵を眺めているだけというのは、物語を読んだり刺繍や編み物をしたりするよりは退屈でした。でも、お兄様がいつ帰るか分からないから、それまで起きているためには何かしていなければならないのです。


「……そろそろお休みになったらいかがですか? さっきから同じ頁を見ていますよ」


 ミルクのカップを下げに来たジェシカに言われて、リリー・メイは慌てて頁をめくりました。見ていた頁も次の頁も、まったく覚えがないもので、目を開けたまま寝てしまったのかしらと不安になります。


「そんなことないもの。今次にいこうとしてたもの」

「船を漕いでいらっしゃいましたよ」

「そんなことないもの……」

「エドワード様がお戻りになったら起こして差し上げますから」


 しつこいくらいに寝かせようとするジェシカは、リリー・メイを心配してくれているのです。それくらいはリリー・メイにも分かっています。でも、だからこそ、お兄様が帰ってきても起こしてくれないだろうと思います。お兄様はリリー・メイと話したくないから寝顔を見れば十分なのかもしれませんが、リリー・メイにとっては会ったうちに入りません。


 あくまでもふるふると首をリリー・メイに、ジェシカはまたため息を吐きました。優しいジェシカを困らせる悪い子になったみたいで、ちくりと胸が痛みます。


「ごめんなさい。でも、どうしてもお兄様とお話したいの」


 何だか乾いてきた目を瞬かせながら訴えると、ジェシカは笑ってリリー・メイの頭を、それから肩から腕を撫でました。


「やはり冷えてきていますね。ブランケットを増やしましょう。ミルクのおかわりも」


 そうしてジェシカが持ってきてくれたミルクはさっきよりも甘くて良い香りがしていました。


「ほんの少し、リキュールを入れましたから。温まりますよ」

「ありがとう」


 リリー・メイは画集をめくりながら、熱いミルクを少しずつ飲みました。遠い遠い本国の風景、お屋敷のある大鯨ダージンよりもずっと涼しくて、港町の喧騒とは違って静かで深い森に霧が立ち込める風景を眺めて、そこに棲む妖精に思いをはせて――そこまでは、覚えていたのですが。




 リリー・メイは目蓋に光を感じて目を開きました。目を開く? 起きて、お兄様を待っていたはずなのにおかしなことです。


「なんで……!?」

「本を広げたまま寝ていらしたのですよ」


 思わず声を上げると、枕元にはジェシカが着替えを持って微笑んでいました。カーテンを開けたのもジェシカなのでしょう。だから目が覚めたのです。


「ずいぶん頑張っていらっしゃいましたけれど。少し目を離したらテーブルに突っ伏していらっしゃったのですよ」

「お兄様は――」


 言いかけて、リリー・メイは気付きました。ふわりと、リリー・メイを抱きしめるように漂う香り。お兄様のいつもの香水の香りです。


「エドワード様が、お嬢様をベッドまで運んだのですよ」


 教えられるまでもなく分かることでした。満面の笑みで告げるジェシカは、リリー・メイが喜ぶと思って言っているのでしょうか。


「お兄様……」


 香りは抱きしめるようなのに、お兄様はいませんでした。リリー・メイを起こさずに行ってしまったのです。

 そのことが、リリー・メイには無性に寂しくて悲しくて仕方ありませんでした。

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