第12話 不安と疑問は渦巻くけれど

「そうはいかない、だって?」


 数秒の張り詰めたような沈黙のあと、お兄様はゆっくりと言いました。あまりに冷たい言い方だったので、リリー・メイは驚いてお兄様の顔を見上げてしまいました。ジュ・ウェイロンが何度か見せた表情ですが、笑っているのに全然嬉しくも楽しくもなさそうな――そう、相手を馬鹿にしているような笑い方をしています。あの優しいお兄様が。


「私は別に華夏フアシア人に対して偏見がある訳じゃないが。だが、立場を分かっていないようだな、ミスタ・朱。私がここに来ていることは、当然商会の者にも伝えている。私が帰らなければあなたであっても無事では済まない」


 ジュ・ウェイロンもお兄様と同じ種類の笑顔を作りました。お兄様の表情には、驚きました。それに対して、この華夏人の知らない人の表情は、とても怖く感じます。どちらも笑っているはずなのに、おかしなことです。


「偏見はなくても驕ってはいるようだ、エドワード。華夏の者にも矜持はあるのだ。好き好んで踏みにじられたままなのだと、ワイライフーに教化していただいていると感謝しているなどと、心の底から信じているのか?

 この辺りの者は朱家へ恩義がある。外国人が来たが何事もなく帰ったと、口を揃えてくれるだろう」


 堂々と言い切ったジュ・ウェイロンが暗に示したことに気づいて、リリー・メイはぞっとしました。ここは租界ではなく華夏という異国なのだと、昼間この屋敷に連れてこられたときに思い知ったばかりです。例えばリリー・メイたちを閉じ込めたり――あるいはもっとひどい目に合わせたりしたとしても、租界に伝えてくれる人がいないのです。


「僕たちを脅すのか、黒犬!」


 ダニエルもリリー・メイと同じ怖さを感じたのでしょう、顔を引きつらせて叫びました。


「ダニエル」


 怒鳴られたジュ・ウェイロンよりも、どういう訳かお兄様の方が驚いた顔をしました。ジュ・ウェイロンは怖い笑いをますます深めます。


「その子供はさっきも私を黒犬と呼んだ。外来戸に何と呼ばれようと気にすることではないが、お前は承知していたのか? 承知した上でその子の姉を妻にしようとしていたのか? 莉麗リリーがどのように扱われるか、想像もしなかったのか?」

「この子はそんな名前じゃない……リリー・メイだ……」


 お兄様がつぶやきます。リリー・メイも思っていたことを言ってくれたのは嬉しいのですが、どこか上の空で、不安を取り除いてはくれません。


「ダニエル、ベアトリスもそんなことを言っているのか?」


 問いかけられたダニエルは、紅潮した頬を今度は青ざめさせてうつむきました。


「姉さんはリリーとは仲良くしろって。リリーは華夏人じゃないし。華夏人は――スクールでは戦争で負けたし、野蛮な奴らだって。それでいきなり話しかけたりするから、悪い奴かと思って……」

「ベアトリスも、同じ考えなのか?」


 何か悪いことをしたのを打ち明けるようなダニエルも、咎めるような口調のお兄様も。リリー・メイには理由が分かりません。ダニエルとのことをお姉さまが取りなしてくれたなら嬉しいことだし、ジュ・ウェイロンが突然現れて驚いて恐ろしかったのも本当のことなのに。


「父親代わりのつもりなら失格だったな、エドワード。それとも翡蝶フェイディエに似た従順な娘が欲しいだけだったか? アルバートが翡蝶を閉じ込めたように、莉麗も閉じ込めるつもりだったのか?」

「違う!」


 下を向いたままのダニエル、呆然とした様子のお兄様に対して、ジュ・ウェイロンの追求だけが強い力を持っています。違う、と言い返した声もどこか弱々しくて自信がなさそうです。


「この子は身体が弱いから、無闇に外に出す訳にはいかない。私がずっと面倒をみるつもりだった。閉じ込めるとか――邪な思いなんてない。ベアトリスはそれを受け入れてくれたから結婚するつもりだったが、話次第では考え直す。

 両親のことは――どちらも悲しいことだったから、敢えて教える必要はないことだ。隠していたつもりはない。リリー・メイが知りたいというならいつでも教えるつもりだった」


 お兄様はずっとリリー・メイを抱きしめたままです。でも、それは守っているというよりもすがりついているような感じがします。離れてしまったらお兄様が倒れてしまいそうな気がして、リリー・メイは一層お兄様の傍に寄り添いました。


「信じられないな。疑問さえ抱かぬように育てているように見える。第一、その子の親は――」

「私が伝える! この場で言うことじゃない。私は兄やあんたとは違う! 誓って、リリーを意に反して閉じ込めたり偽りを吹き込んだりしない」


 声を荒げたお兄様に、リリー・メイはびくっと震えてしまいました。まるでリリー・メイの知らない人のようだったのです。

 ジュ・ウェイロンは、驚きも怯みもせずに夜の色の目を細めました。黒い刃物のように鋭い視線を、お兄様はしっかりと受け止めます。リリー・メイが近くにいるのが、励ましになっていれば良いのですが。


「本当に? どのように誓う?」

「本当だ。私が信じる神、あるいは翡蝶、リリー・メイにかけて誓う」

「私のことはどう伝える気だ?」

「私が知る限りのことを。

 ――ジュ威竜ウェイロン、この子の顔色を見ろ。この前も出かけた後に熱を出した。これだけのことが起きてこれだけのことを聞かされたからにはいつ倒れてもおかしくない。リリーには休息が必要だ」


 もしかしたらお兄様が来てから初めて、ジュ・ウェイロンはリリー・メイの方を見ました。そして軽く眉を寄せます。


「病弱なのは本当か」


 ひと目で分かるくらいひどい顔色なのかしら、とリリー・メイは思いました。それはきっと疲れたからでも怪我したからでもなくて、お兄様とジュ・ウェイロンが、二人とも怒った風なのが怖くてたまらないからです。早くおうちに帰りたい、と心の中で何度も繰り返します。


 黒い瞳を避けたくて、ジュ・ウェイロンに背を向けてお兄様にくっついていると、華夏語のやり取りが聞こえました。ジュ・ウェイロンとシャンランです。シャンランはずっとお人形のように微笑んで黙っていたと思います。こんな怖い空気の中で笑っていられることが不思議で、今も優しい声なのに何だか怖い気さえします。

 華夏語が途絶えると、背中越しに足音が近づくのが聞こえてきました。恐る恐る振り向くと、ジュ・ウェイロンがリリー・メイと目線を合わせて跪いています。さっきまでと違って優しい表情をしているのですが、どうしたら良いか分からなくて、リリー・メイは顔を背けてしまいました。


「驚かせてしまったのは本当に本意ではないのだ。屋敷に招きたかったのもあなたと話がしたかったのも真実だ。エドワードを呼んだことで、少しは信用してもらえただろうか」


 問いかけられても、何て答えたら良いかなんて分かりません。お兄様にぎゅっと抱きついて、目を閉じて――それでも、耳をふさぐことはできません。慣れない抑揚アクセントの優しく気遣うような声がリリー・メイを戸惑わせます。


「必ずエドワードに尋ねておくれ。あなたの両親のこと。翡蝶のこと、アルバートのこと。そうすれば、私がなぜこのようなことをしたか分かってくれるだろう」


 今度の沈黙は、さっきのような張り詰めたものではありません。ジュ・ウェイロンがリリー・メイの返事を待っているのです。でも、そうと分かっていても、リリー・メイは何も言えませんでした。ちゃんとお兄様と会わせてくれたからには多分悪い人ではないとは思うのですが、それでも怖いものは怖いのです。初めて会った人だというのに、なぜこんなに――何と言ったら良いか分からないのですが――大事そうに、熱心に、リリー・メイに語りかけるのでしょう。


「……引き止めてすまなかった。早く帰って休むと良い」


 衣擦れの音がして、ジュ・ウェイロンが立ち上がったのが分かりました。返事がないのにがっかりしたような声音で、リリー・メイはひどいことをしてしまったような気持ちになりました。




「また遊びに来て欲しいわ」


 場違いに優しくて穏やかなシャンランの声に見送られて、リリー・メイたちはお兄様の馬車に乗り込みました。


 お兄様を真ん中に、リリー・メイとダニエルが両側に座っています。話をしているうちに外はすっかり暗くなっていて、馬車から吊るしたランプと星明かりが華夏の通りをぼんやりと照らしています。思えば夜になっても外にいるのは初めてのことで、暗闇の中から何かが襲ってきそうで怖くて、リリー・メイはお兄様にぴったりとくっついています。


 しばらくの間、車輪が土の道を削る音、馬の蹄の音、馬車の車体が微かにきしむ音だけが響いていました。お兄様はリリー・メイの手を握ったまま黙っていたし、リリー・メイは何か言う気力もないほど疲れきっていました。

 眠くなってしまってもおかしくなかったのですが、今日見たり聞いたりしたことが頭の中でぐるぐると渦巻いていて、変に目が冴えてしまっています。異国の町並み、異国のお屋敷。ジュ・ウェイロンのこと、フェイディエという名前、見たことのない怖い顔のお兄様。目蓋は重いのに最後まで落ちきってしまうことはなくて、リリー・メイは目をこすっては瞬きを繰り返しています。


「エドワード兄さん……」


 疲れているのはダニエルも一緒だろうと思ったので、ダニエルが絞り出すような口調で切り出した時、リリー・メイは驚きました。お兄様越しに様子をうかがうと、ダニエルはとても真剣な眼差しでお兄様を見つめています。


「謝らなきゃいけないことがある。僕は、初めて会った時、リリー・メイにひどいことを言った。黒い髪と目で召使みたいだとか、閉じ込めてやるとか!」


 その時のことを思い出して、リリー・メイはぴくりと身体が強ばってしまいました。そこへお兄様が背中を撫でてくれたので、どうにか力を抜くことができました。


「兄さんがリリーのことばかり話すから面白くなかったんだと思う。なんでまた華夏人みたいな子を、って思ってた。だから……でも、今なら恥ずかしいことだったって思う。

 リリーは言葉も振る舞いも、ちゃんとしてて可愛くて、華夏人なんかとは違ってた。

 これからは絶対にひどいことは言わないし、レディとして扱うから。今日みたいに危ない目には遭わせないから。

 だから、姉さんを嫌いにならないで!」


 最後の一言に、リリー・メイの心臓が跳ねました。確かにさっきお兄様は言いました。ベアトリスお姉様と結婚するつもりだったけど考え直す、と。


「リリー、何で黙っていた?」


 暗いところで見るお兄様の瞳はいつもと全然違う色に見えました。お兄様の口調は静かなものだったけれど、嘘をついていたことを知られてしまったのです。叱られてしまうかしら、と思いながらリリー・メイは恐る恐る答えます。


「お姉様と約束したから……ダニエルもお兄様を好きだっていうから、怒られたら可哀想だと思って。それに、ダニエルは今日は優しかったから。もう本当に気にしてないの」


 お兄様は目を閉じると深々とため息をつきました。


「リリーは優しいな。優しすぎるくらいだ」


 そして、ダニエルに向き直ります。どんな表情をしているのか、リリー・メイのいるところからは見えません。


「言いづらいことを打ち明けてくれてありがとう。今日リリーを守ってくれたことも。どちらも勇気のいることだった。

 だが、ベアトリスのことは、君がしたこと言ったこととは関係ない。私が彼女と話して決めることだ」

「兄さん……!」


 ダニエルの悲痛な声に、リリー・メイの胸も痛くなります。お兄様に嫌われること、いらない子とか嫌な子だと思われることは、リリー・メイにとっても何より悲しくて辛いことです。こんなに冷たい言い方をしなくても良いのに、と思うのです。


「お兄様、リリーは本当に気にしてないのよ……? リリー、お姉様もダニエルも好きよ?」


 リリー・メイの方を向いたお兄様は、微笑んでいました。でも、安心させてくれるような表情ではありませんでした。それ以上は言わせない、とでもいうように。なぜだかリリー・メイの舌を凍らせる力のある表情でした。


「優しいリリー・メイ。君が気に病むことじゃない。ダニエル、繰り返すが、君のせいでもない。これは私とベアトリスの問題だから。

 どのみち今日はもう遅い。彼女と話をするとしたらまた別の機会ということになる。今日は君を送っていくだけだ、ダニエル。心配しているだろうから元気なところを見せてあげれば良い。

 ――租界までもうしばらくかかる。二人とも目を閉じて休んでいなさい」


 それきりお兄様は何も言いませんでした。

 リリー・メイは言われた通りに目を閉じてお兄様にもたれかかりましたが、やっぱり眠ることはできませんでした。多分、リリー・メイを迎えにくるためにあちこち走り回ったからでしょう、お兄様からはいつもの香水の香りがしませんでした。埃っぽくて、少し汗の臭いがします。でも、決して嫌な感じではありません。

 怖いことも驚いたこともたくさんあった一日でしたが、なんとか無事にお兄様のところに帰ってくることができたのです。お兄様の温かさとお兄様の匂いをすぐ傍に感じて、リリー・メイはようやくそれを実感しました。

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