第11話 再会と対決

 ジュ・ウェイロンが供してくれた食事はとても美味しいものでした。

 とろりとした瓜のスープに始まって、青菜の炒め物や、海老の入った辛いあんかけ、豚肉の塊を柔らかく煮込んだもの。もともとベアトリスお姉様たちと食べるはずだった点心も、様々な色の皮と餡、包み方のものが揃っています。


 本で見た華夏フアシア人が器用にしていたように、リリー・メイにも箸子ジューズとかいう一対の細い棒を使うことができるか心配だったのですが、本国風にナイフやフォークといったカトラリーも用意してくれたのでリリー・メイたちもいつものように食べることができました。


「十二歳にしては小さいのではないか。遠慮しないで食べなさい」

「嫌いなものは残して良いのよ。好きなものだけ食べれば良いわ」


 ジュ・ウェイロンとシャンランが正反対のことを言うので、リリー・メイはフォークを握った手を止めてしまいました。遠慮しているつもりも好き嫌いしているつもりもないのですが、テーブルの上に並べられた料理の全てを食べきることはとても無理そうです。大体、なんでリリー・メイが十二歳だと知っているのでしょうか。


「リリーは身体が弱いんだ。だからあまり食べられないし小柄なんだって姉さんが言ってた。でもお菓子とか甘いものは大好きだって」


 困っているとダニエルが助け舟を出してくれます。まるでわがままな食いしん坊みたいな言い方で、少し恥ずかしくもありますが。


「病弱? 莉麗リリー、本当に?」

「そうなの。いつも熱を出したりしてしまうから、お兄様にお薬をいただいているの。お兄様はお仕事を休んでついていてくれるのよ」


 ジュ・ウェイロンはまたリリー・メイのことを似た響きの華夏語で呼びましたが、リリー・メイは文句を言うことはしませんでした。こんなに沢山の料理を出してくれたのですから、お客様らしくお行儀良くしなくてはなりません。代わりに、今度こそお兄様のことを良く思ってもらおうと頑張って言い募ります。

 けれど、ジュ・ウェイロンは軽く眉を寄せるとダニエルの方を向きました。


「お前の姉とは? 莉麗と親しいのか?」


 お前呼ばわりにダニエルは一瞬むっとしたようでしたが、お客の立場であることを思い出したのでしょう。冷静な口調で答えました。


「僕の姉――ベアトリスはラドフォード商会のエドワードさんと結婚するんだ。だから、リリー・メイとも家族ぐるみで仲良くしてる」

「……そうか」

「リリーもベアトリスお姉様が大好きよ。いつもお菓子を持って来てくださるの。今日も、本当はお姉様とお食事するはずだったの」


 ジュ・ウェイロンが険しい顔のままだったので、リリー・メイはお姉様のことも褒めてみました。それでもジュ・ウェイロンの表情は和らぎません。


「莉麗は甘いものが好きなのね。食後には何が出しましょう。厨房にあるものでできると良いのだけど」


 ぴりっと張り詰めた空気を、今度はシャンランが助けてくれました。リリー・メイが言えたことではないかもしれないけれど、シャンランの言葉遣いはちょっとたどたどしくて子供っぽくて、怒ったりきつい表情をしたりしていてはいけないと思わされるのです。

 シャンランは使用人に呼びかけると、華夏語で一言二言ささやき交わしました。そして、リリー・メイに向かってにっこりと笑いかけました。


蛋糕ケーキ奶油クリームを添えたものが出せるそうよ。それで良いかしら?」




 デザートの蛋糕ケーキを食べ終えて、食後のお茶が運ばれてきても、お兄様はまだ来てくれませんでした。丸い窓の外から見える景色はまだ明るいのですが、もうすぐ夕方になりそうに太陽の輝きが陰っているのが分かります。


「お兄様、まだなのかしら……?」

「連絡したって、本当なんだろうな!?」


 不安で不安で仕方なくて落ち着きがないリリー・メイとダニエルを他所に、ジュ・ウェイロンは静かにお茶を啜ります。流れるような優雅な動作。一本の筆で山や川や雲を描く、華夏の絵画を思わせます。


「本当だとも。お前たちのことを伝えるだけでなく、日没までに来なかったら莉麗は当家にもらうとも書いた。聞いた通りに莉麗のことを大事にしているなら、もうすぐにも来るだろう」

「そんな……」


 お兄様はリリー・メイがもういらないのでしょうか。こんな身体の弱い子は邪魔になってしまったのでしょうか。リリー・メイは目の前が真っ暗になって気が遠くなってしまいました。


「大体、なんでリリー・メイをつけ回したんだよ! この人攫い!」


 ダニエルが噛み付くように声を荒げるのを聞いて、リリー・メイはやっと我に返りました。

 それでも、ジュ・ウェイロンの冷たい表情は動かなくて、恐ろしさに胸がきゅっと痛みます。お兄様が来ても帰してくれないのではないのかしら、とか。実はもう来てくれたのに追い返されてしまったのではないかしら、とか。嫌な想像ばかりが膨らみます。


「それはお前には関係ない」

「リリーになら教えてくれる?」


 恐る恐る問いかけると、ジュ・ウェイロンは一瞬考える素振りを見せました。


「……今は止めておこう。念のためにエドワードの言い分を聞いてからにする」

「お兄様のことを知っているの? どうして?」


 あの裏通りでも尋ねたことを、リリー・メイは繰り返しました。初めて会った人なのに、リリー・メイを追いかけて。お屋敷に連れてきて着替えをくれたり食事を出したりしてくれて。世の中のことを知らないリリー・メイでもおかしいと分かります。ジュ・ウェイロンはお兄様とどこかで何かあったに違いないのです。


 ジュ・ウェイロンはまたお茶を口元に運びました。どう答えるか、考えている感じがします。空いたカップ――お屋敷で紅茶をいただくような取手のついたものではありません、小さなお椀のような形の青磁の器です――に、シャンランが新しくお茶を注ぎます。


「知っているのはアルバートの方だ。エドワードはついでだった。アルバートのことは……」

「知ってるわ。リリーのお父様よ。もうずっと前に亡くなったけど」

「そう聞いているなら、そうなのだろうな」


 正しく答えたはずなのに、ジュ・ウェイロンは不機嫌そうに黙ってしまいました。リリー・メイとダニエルは首をひねって視線を交わす他ありません。

 今度も気まずさを救ってくれたのはシャンランでした。リリー・メイの好きなお菓子やお気に入りの服のこと。簡単に答えられることを聞いてくれて、どうにか会話をつなげることができたのでした。




「お兄様、まだなのかしら……」


 リリー・メイはだんだん赤く染まっていく空を見てどんどん不安になっていきました。シャンランの問いに答えるのも黙りがちになってしまいます。


「遅くなったら泊まっていけば良いわ」


 シャンランは笑って蛋糕ケーキのお代わりを勧めてくれますが、手をつける気になれません。食べ過ぎたという訳ではなくて、怖い想像で胸が締め付けられているのです。

 お兄様が迎えに来てくれなくて、ずっとこのお屋敷に閉じ込められたらどうしよう、と思うのです。知らない人ばかりで、言葉さえ通じなくて。ジュ・ウェイロンは険しい顔をしてばかりだし、シャンランは、優しいけどリリー・メイの本当のお願いを聞いてはくれません。


「きっと、すぐ来るよ」


 ダニエルが励ましてくれる声も不安げで、リリー・メイを安心させてはくれません。


「帰りたい……」


 つぶやいて俯いた時、広間の外からざわめきが聞こえました。すり足でジュ・ウェイロンに駆け寄った使用人が、華夏語で何かささやきます。リリー・メイとダニエルの方をちらちらと見るので、二人に関わることなのだろうと分かります。


「来たか」

「お兄様!?」


 ジュ・ウェイロンの言葉に、リリー・メイは飛び跳ねるように立ち上がりました。椅子が床をひっかく音が広間に響きます。隣に座っていたダニエルも勢いよく席を立って、リリー・メイの背中を軽く叩きました。


「良かったな、これで帰れるぞ!」

「うん!」


 手を取り合って喜ぶ二人を横目に、ジュ・ウェイロンも長い華服の裾をさばいて立ち上がりました。シャンランも、旦那様の手を借りて腰を上げます。


「もう少しで日没だったというのに惜しいことだ。すぐに通すから待っていなさい」


 意地悪な口調も、もう怖くはありません。お兄様が来てくれて、お屋敷に帰ることができたなら、この人と会うことはもうないでしょうから。お兄様と一緒の、いつもの暮らしに戻れば、今日のこともきっと思い出話になるでしょう。




翡蝶フェイディエ……?」


 でも、お兄様が真っ先につぶやいたのが華夏語だったので、リリー・メイは一瞬竦んでしまいました。待ちわびていたお兄様まで外国の人になってしまったようで。


「リリー・メイ!」


 けれど次の瞬間、お兄様はリリー・メイに駆け寄って抱きしめてくれました。いつも寝る前とかにするような軽いハグではなく、息が詰まりそうなほどの強さです。髪も乱れていて、お仕事を急いで終わらせて駆けつけてくれたのだと分かります。いらない子ではなかったと分かったのが嬉しくて、リリー・メイも強くお兄様にしがみつきました。


「遅くなってすまなかった。本当に、無事で良かった……」

「ううん、来てくれてありがとう、お兄様!」

「この格好は? 華夏の子供かと思った」

「服が破れてしまったから……着せてもらったの」

「そうだったか……」


 腕の力を少し緩めると、お兄様はダニエルにも微笑みかけました。


「ダニエル。よくリリーを守ってくれた」

「……兄さんと約束したことだから」


 ダニエルはリリー・メイほど嬉しそうではなくて、何だか辛そうな顔をしているのでリリー・メイは首を傾げました。さっき着替えた後に再会した時にも、何か言おうとしていたようなのですが。


「お兄様、ダニエルはリリーのことを――」

「久しぶりだな、エドワード・ラドフォード。アルバートの葬儀の時に顔を合わせて以来だ」


 ずっと守ってくれたのよ、と言おうとしたリリー・メイをジュ・ウェイロンが遮りました。お兄様の腕の中から首をひねってそちらを見ると、ジュ・ウェイロンはこれまでよりもずっと冷たく険しい顔をしていて、リリー・メイはますますしっかりとお兄様にしがみつきました。


ジュ威竜ウェイロン……」


 お兄様の声も。こんなに怒っているような、絞り出すような言い方は聞いたことがありません。そして、お兄様が次に言ったことに、リリー・メイはたくさんのことが起きた今日の中でも一番驚きました。


「――、――――。――――!」


 お兄様がまくし立てたのは華夏語だったのです。ただでさえ知らない言葉なのに、怒った口調で、早口で言われると一層怖い感じがします。でもそれを言っているのはいつも優しいお兄様の声で。リリー・メイは訳が分からなくなってダニエルの方をうかがいましたが、ダニエルも目を丸くして固まってしまっていました。


「――――?」


 シャンランがジュ・ウェイロンの傍らに寄り添います。仙女のように穏やかな人が初めて心配そうな顔をしていて、お兄様は一体なんて言ったのかしら、とリリー・メイは大人たちの表情を順番にうかがいました。

 見上げたお兄様は、声と同じに怒ったように眉を吊り上げて口元にも力が入っています。

 対するジュ・ウェイロンは表情を変えません。氷のように冷たい顔のまま、口を開きます。


ワイライフーが無理をするな。お前の華語フアユーは聞くに堪えない。私がお前に合わせたほうがまだマシだろう。――子供たちに聞かれたくないのでなかったらな」


 お兄様は下を向くと、リリー・メイの頭を撫でてくれました。一瞬合った目はすこし和らいでいて、やっぱりお兄様だわ、と少し安心できました。


「ミスタ・朱。子供たちを保護してくれたことには感謝する。だが、あなたの屋敷に連れて行く必要はあったのか? ベアトリス――この少年の姉もこの子たちを探していた。近くに保護者がいるとは考えなかったのか?」


 お兄様が問い詰めるのに対して、ジュ・ウェイロンは口元だけで笑いました。


「なぜ言うことを変えた? さっきは私を罵り脅していたではないか。租界の子供を拐かした咎で総督に訴えると。まあ別に気に留めはしないが。

 ……その子たちを見かけた時、周囲に大人はいなかったぞ。裏通りで不埒者どもに攫われそうになっているところを助けたのだ。二人とも怪我をしていたし少年の方は気絶していた。ああいう場所に子供連れで長居できるものではないと分かるだろう。屋敷に招くのが一番早かったのだ」


 攫われそうだった、と聞いてお兄様の腕にまた力がこもりました。


「裏通り? なんでまたそんなところに……!」


 お兄様にきっと睨まれたダニエルは、慌てたようにジュ・ウェイロンを指差しました。顔が赤くなっているのは、気絶したことを言われて悔しいか恥ずかしいのでしょうか。


「お前がいきなり声をかけてきたから! だから逃げなきゃって思ったんだ!」

「朱威竜……」


 声を荒げて責めるダニエルと、疑わしげなお兄様。二人の視線を受けたジュ・ウェイロンは、顔色を変えずにただ軽く肩をすくめました。


翡蝶フェイディエに良く似た黒髪の少女を見つけたのだ。気にかかるのは仕方あるまい。驚かせたのは確かに私に非があるから、手当して食事も供したのだ。第一、本気で攫うつもりならお前に知らせたりなどしない」

「それは、確かに」


 お兄様は渋々といった様子でうなずきました。


「お兄様、早く帰りたいわ……」


 リリー・メイはお兄様を見上げて訴えます。ジュ・ウェイロンはもちろん、ダニエルやお兄様が怒ったり大きな声を出すのも怖くて嫌なのです。


「そうだな、早くこんなところから――」

「そうはいかない」


 ジュ・ウェイロンの鋭い声に、和らいだお兄様の表情が一瞬のうちに険しいものになりました。いつもは空を思わせる青い瞳なのに、今は冷たい氷のようです。リリー・メイは空が凍る瞬間を目のあたりにしてしまいました。


「お前を呼んだのは莉麗を返すためだけではない。

 なぜその子を閉じ込めている? 親のことを教えない? お前には聞きたいことが山ほどある」

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