第10話 異国の風景
馬車は租界近くの本国風の通りを抜けて、次第に昔ながらの華夏の街並みを走っていきます。舗装されていない、むき出しの道。でこぼこもあるのでしょう、たまに車体ががたんと揺れます。追い抜く人たちは黒髪の人ばかり。建物も木でできた瓦葺きのものが多くなります。
リリー・メイはお屋敷の離れを思い出しました。薔薇が咲くお庭の中にたたずむ離れは、今思えば
「この辺りに来たのは初めてか?」
目を瞠って窓に釘付けになっているリリー・メイに、ジュ・ウェイロンと名乗った華夏人は問いかけました。
リリー・メイは馬車の片側の壁にダニエルをもたれさせて、その肩越しに外を覗いている格好です。ジュ・ウェイロンはひとり分くらい間を空けて、反対側の窓際に座っていました。すぐ隣に掛けようとはしなかったので、リリー・メイはほっとしています。
「租界を出たのも初めてだったの。ほとんどお屋敷にいるから」
だからどうにか受け答えもできるのです。リリー・メイはただでさえ知らない人は苦手なのです。これでまたあの黒い瞳に間近で見つめられたら何て言ったら良いか分からなくなってしまうでしょう。
「閉じ込められているのか」
でも、ジュ・ウェイロンが顔を顰めて吐き捨てたので、リリー・メイはやっぱり怖くなってしまいました。閉じ込められてる訳じゃないのに、お屋敷の中で幸せなのに。そう言わなければ、と思っても舌が動いてくれません。
それきりジュ・ウェイロンは何も言わず、眉を寄せたままだったので、リリー・メイは顔を背けて窓の外に夢中になっている振りをしました。本当は、黒い瞳がじっと見ているのを、首筋にちりちりと感じていたのですが。
馬車はやがて一際大きなお屋敷の門をくぐりました。華夏の様式のお屋敷に、本国風の馬車が入っていくのは何だかとても似合いません。
馬車を降りて辺りを見渡すと、場違いな思いは一層強くなります。このお屋敷の瓦屋根も壁や柱も、使い込まれたような落ち着いた色をしていて、リリー・メイの明るい色の服は浮き上がるように目立ってしまっています。
お出迎えなのでしょう、ぱらぱらと屋敷の中から出てくるのもお揃いの――多分お仕着せなのでしょう――華服を着た黒髪黒目の華夏人たち、その人たちが話す言葉も聞きなれない華夏語です。まるで異国の物語に迷い込んでしまったようで、ダニエルは早く目を覚ましてくれないかしら、とリリー・メイは強く思いました。
ジュ・ウェイロンは出迎えた人たちに何か命じました。言葉が分からなくても命令だとはっきり分かります。本国風の服を着ていても、どういう訳か華夏の庭とお屋敷に馴染んでいます。やはりこの人はこのお屋敷のご主人様なのでしょう。
「待って! どこへ連れて行くの!」
ダニエルが男の人に抱えられていくのを見て、リリー・メイは悲鳴を上げました。離れまいと走ってついていこうとするのを、朱威竜が留めます。
「客として迎えた以上は危害を加えることなどしない。鼻持ちならない
ただ、着替えさせるところを若い娘に見せるものではないということだ」
「でも……!」
知らない人が怖い、なんて言っている場合ではありません。リリー・メイは必死に食い下がります。知らない世界でたった一人にされるのが、何より恐ろしかったのです。
「あなたも手当と着替えが必要だ。――
ジュ・ウェイロンが顔を向けた方を見ると、上品な深緑色の華服をまとったレディがいました。外の通りを行き交う人が着ていたような動きやすいものではなく、足元を覆う裾の長い意匠で、お伽話に出てくる仙女さまみたい、と思います。華夏人の例に漏れず、若いようにも歳を取っているようにも見えるのですが、とにかくおっとりとした微笑みを浮かべた綺麗な人でした。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
「ああ。
「まあ、なんて可愛らしい。翡蝶の子ならわたくしも歓迎します。さあ、こちらへ」
お伽話の仙女さまが、変わった
「私の正妻だ。優しい女だから安心しなさい」
ジュ・ウェイロンの手がそっとリリー・メイの背中を押します。仙女のような人――しゃんらん? ――も微笑んで手を差し伸べます。異国の風景の中、当然のことのように目線で促されて、リリー・メイは魅入られたようにその人の白い手を取ったのでした。
シャンランという女の人の歩き方は租界のレディとはまったく違いました。とても小さな歩幅でゆっくりと、左右にゆらゆら揺れながら歩きます。しっかりとした地面ではなく雲の上を歩いているようで、結い上げた髪に挿した銀の飾りがきらきら光って、それがまた夢の中のような気持ちにさせます。
「――、――――」
「――」
長い廊下をゆっくりと歩きながらシャンランは静かな声で何かつぶやきます。静かに現れては短く答えて去っていく使用人たちは影のようで、リリー・メイは少し怖くなりました。香蘭の手をぎゅっと強く握ると、優しい黒い瞳が振り返ってほんのわずか首を傾げました。
「言葉が分からないのね……?」
リリー・メイが黙って頷くと、シャンランはふわりと笑いました。心配ないわ、と言っているかのように。微笑みよりも手の温かさよりも、言葉が通じる人だというのが何より心強いです。
「お湯と着替えを用意させるの。わたくしがついているから怖がらないで。欲しいものがあったら言ってちょうだい」
「おうちに帰りたいわ……」
それ以上に欲しいものなんてありません。なのにシャンランは不思議そうに首を傾げるとまた前を向いてしまいました。
「ずっといても良いのに。でも、旦那さまが良いようにしてくれるでしょう」
シャンランに導かれるまま、リリー・メイは小さな部屋に案内されました。シャンランが言っていた通り、湯気の立つ桶と木でできた
「――――」
シャンランが何か言うと、使用人たちが一斉にリリー・メイに群がってきました。裏通りでのことを思い出して身をすくませてしまいそうになります。でも、すぐに気付きました。この人たちは怖いことをしようとしているのではないのだと。
髪が濡れないように括り上げる人。服を脱がせて身体を拭いてくれる人。靴擦れの様子を見てくれる人。
どの人も手つきは丁寧で、リリー・メイは身体の力を抜くことができました。少し年配の女の人ばかりで、お屋敷の召使のジェシカを思い出させるのも安心できる理由でしょう。リリー・メイのためだけに何人もの人にお世話されるなんて、恥ずかしくて落ち着かないことではありましたけど。
「痛……」
すっかりされるがままになっていた頃、足に痛みを感じてリリー・メイは声を上げてしまいました。見下ろすと、足元にひざまずいた人が何かどろっとしたものを靴擦れに塗っていました。
「華夏の女に伝わる薬よ。
小さな丸椅子に腰掛けたシャンランが言いました。手を出すことはしないでゆったりと見守る姿は、旦那さまのジュ・ウェイロンとそっくりに堂々としていて、このお屋敷の
「ちゃんずー?」
鸚鵡返しにつぶやいたリリー・メイに、今度は服が着せられていきます。破れて、汚れてしまった元の服ではありません。赤い地に蓮の花の模様が入った華服です。離れで見つけた刺繍の靴とよく似た模様でした。
ゆったりとしたズボンに、丈の長い上着を帯で結ぶと、リリー・メイはまるで華夏人のような格好になりました。ブーツを履いたら似合わないしまた痛いわ、と思っていると、布でできた柔らかそうな靴を差し出されたので、リリー・メイはほっとして足を通しました。
「本当に、可愛い」
シャンランは立ち上がると、リリー・メイの目の前に来て全身をしげしげと眺めました。そして、括っていた髪を下ろすと指で梳いて、バレッタを留め直してくれました。あんなに暴れたのにバレッタがどこかへいってしまわなかったのはとても幸運なことでした。
「……ありがとう」
リリー・メイは初めて着た華服のあちこちを触ったり引っ張ったりします。着心地は良いのですが、ちょうど良く子供の服が置いてあったというのが不思議でした。まるでリリー・メイが来るのが分かっていたようで、ちょっと怖いのです。
「娘の服なの。取っておいて良かったわ」
「女の子がいるの?」
リリー・メイの考えを読んだようなシャンランに驚いてしまいます。華夏の人は魔法が使えるのかもしれません。
「ええ。今は別の屋敷にいるけど小さい頃はここで育てたの。
――男の子も目を覚ましたそうよ」
「ダニエルのこと!?」
使用人のささやきに耳を傾けたシャンランが告げたことに、リリー・メイは目を輝かせました。
「ええ。
また香蘭に手を引かれてお屋敷の中を歩くことしばし。リリー・メイは今度は大きな広間に通されました。
広々とした空間を見渡すと、複雑な華夏の文字の額がかかっています。部屋の中央には彫刻を施した椅子とテーブルが並べられ、奥の丸く切り取られたような窓からは、ピンク色の蓮の花が咲く池が見えます。
絵のような情景に見とれながらもダニエルはどこかしら、ときょろきょろしていると、後ろからぱたぱたという足音が聞こえました。そして、男の子の澄んだ声も。
「リリー・メイ!」
振り向いてダニエルが走ってくる姿を認めると、リリー・メイは心の底からの安堵を声に出して叫びました。シャンランの手を振りほどくようにして、ダニエルに駆け寄ります。
「ダニエル! 無事で良かったわ!」
「こっちの台詞だ」
女の子に心配されるのはやっぱり悔しいようです。ちょっと嫌そうな顔をされてしまいました。
「ダニエル、あまり似合ってないわ」
「うるさいな」
ダニエルも華服を着せられていました。黒一色と見えて、濃い緑で確か竹とかいう木を刺繍したもので、洒落ていて格好良いです。色使いだけなら本国風のジャケットやコートと似たようなものなのですが、ダニエルの顔立ちだと華服はあまり合いません。杏色の髪が浮き立ってしまうようです。
「本当に……無事で良かった。ごめん、僕のせいだ」
服のことを言われて顔をしかめたのも一瞬のこと。ダニエルはキャラメル色の瞳に真剣な表情を浮かべてリリー・メイに謝ってきました。でも、再会できたのが嬉しくてたまらないリリー・メイには何のことだか分かりません。
「何が? どうして謝るの?」
「姉さんたちとはぐれたから、こんなことになってしまった。あの時もっと急いでいれば――」
「でも、それはリリーが早く歩けなかったからよ。ダニエルはリリーを守ってくれたじゃない!」
裏通りに行ってしまったのは、ジュ・ウェイロンが怖かったから仕方のないことです。ちゃんと二人とも手当してくれたのだから、悪い人ではなかったのかもしれないけど、あの時はそんなことは分かりませんでした。ダニエルは、口ではきついことを言っていましたがリリー・メイを励まして庇ってくれたのです。
リリー・メイがそう言うと、ダニエルは辛そうな顔で唇を噛みました。
「そうじゃなくて……僕は……」
ダニエルが何かを吐き出そうとした時、それを遮る低い声が響きました。
「いつまで客人を立たせたままにしている」
ジュ・ウェイロンでした。この人も華服に着替えています。シャンランの服に合わせたような深緑色で、襟元と裾のところに落ち着いた赤で模様が入っています。さすがに華夏人だけあって、このお屋敷の主人なだけあって、さっきまでのフロックコートよりもよほど似合っています。
「申し訳ございません、旦那さま。この子たち、あまりに仲が良さそうだったものですから」
シャンランが穏やかに答えると、ジュ・ウェイロンは仕方ない、とでも言うように頷きました。
「まあ良い、座りなさい。食事を出そう」
言われて初めて、リリー・メイはお腹が空いているのに気付きました。もともとはベアトリスお姉様たちとお昼をいただく予定だったのです。それが色々あって、馬車で移動したり着替えたりしているうちに、すっかり午後の時間になっているに違いありません。
「でも……」
「エドワード兄さんを呼んでくれるって言ったじゃないか! 早く帰してくれよ」
戸惑うリリー・メイの気持ちを、ダニエルが代わりに言ってくれます。けれどジュ・ウェイロンも引きません。
「既に連絡はしたがすぐに来ることができる訳でもないだろう。ただ座って待つつもりなのか? 客にもてなしもしなかったと言われるのは耐えられない」
「でも……」
「私の詫びでもあるのだ。驚かせた上に怪我をさせてしまったから。受け入れておくれ」
言葉ではお願いしているのに、ジュ・ウェイロンの表情も口調も絶対に断らせないと言っているかのよう。やっぱりこの人はとても偉そうです。
リリー・メイとダニエルは不安そうに顔を見合わせながらも、テーブルにつかせられました。
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