第9話 裏通りの迷子たち

「そろそろ撒いたか……?」


 どれだけ走ったでしょうか。大通りからそれて、裏通りの細い道を何度も曲がって。

 息を吸うたびに胸が裂けるように痛み、足の踵もつま先も――今日履いていたのはおろしたてのブーツで、まだ硬かったのです――じんじんと疼き始めた頃、ダニエルはやっと立ち止まってリリー・メイの腕を離してくれました。ずっときつく握られていた腕をさすると、少し痛みがあります。跡がついてしまったかもしれません。でも、リリー・メイがここまで走ってこられたのはダニエルが引っ張ってくれたおかげです。一人だったら、こんなに長く走ることはできなかったでしょう。


「大、丈、夫……?」


 膝に手をついてぜいぜいと荒い呼吸をするダニエルが心配で、リリー・メイはそっと顔をのぞき込みます。リリー・メイも息が苦しくて切れ切れにしか話せないのですが、小柄な女の子とはいえリリー・メイを引きずって走ったダニエルはもっと苦しいに違いないのです。


「大丈夫だ!」


 さっきもらったハンカチで額の汗を拭ってあげると、ダニエルはしゃんと立ち上がりました。まるで女の子に心配されるのが悔しいとでも言いたげです。そして、辺りを見渡すとちょっと顔をしかめました。


「早く大通りに戻らないと。裏通りは治安が悪いそうだから」

「ええ、でもどこだか分かる……?」


 リリー・メイも周りの様子を眺めて、さっきの男の人と向かい合ったのとは別の怖さを感じました。


 金鶏ジンジー大路ダールーとは違って、裏通りは木でできた家々が並んでいます。石造りの町並みと比べるといかにも頼りなくて、風でも吹いたら倒れてしまうのではないかと思うほどです。見るからに古い上に、壁に色も塗っていないようなみすぼらしい家ばかりだからということもあるでしょう。

 いつの間にか石畳ではなくむき出しの地面になっていて、空気もどこか埃っぽい感じがします。足元を見下ろすと新しいブーツがすっかり汚れてしまっていて、リリー・メイは悲しくなりました。

 歩く人はほとんどいなくて、寝転がったり何か箱に掛けている人ばかりなのですが、路上に見える人は皆華夏フアシア人でした。さっきの人とは違って、みんな色あせて擦り切れた華服を着ています。そして、誰も彼もリリー・メイとダニエルを不躾にじろじろと睨んでいます。二人とも本国風の服装だし、ダニエルの杏色の髪とミルクティの瞳はここの人たちにはとても珍しいものなのかもしれません。

 それでも、細めた目でこちらを窺いながら訳の分からない言葉でひそひそとささやき合っている人たちを見ると、単に珍しいというだけではなく、何か悪いことを言われているのではないかと不安になりました。女の人や小さな子は全然いなくて、大人の男の人ばかりなのも怖い感じがします。


「そうだな」


 ダニエルも眉を寄せた厳しい顔をしていました。でも、口調はリリー・メイほど弱々しくはなかったので、少し安心することができました。


「引き返すのは、良くないと思う。あいつと鉢合わせてしまうかもしれないから。金鶏大路は多分あっちだから――」


 ダニエルはそう言うと、ある方向を腕で示しました。続けて、通りの方を指します。


「もう少しこっちに行ってから曲がれば良い。それで大通りに戻れるはずだ」




「足、痛かったら言えよ。おぶってやるから」

「ありがとう」


 二人はゆっくりと――ダニエルがリリー・メイの足を気遣ってくれたので――歩き出しました。ダニエルの申し出はとても嬉しいのですが、甘えることはないと思います。ダニエルはリリー・メイよりは背が高いですが、身体はまだまだ細くて、おぶってもらうなんてとてもじゃないけどお願いできそうにないのです。

 それに、何度も何度も熱を出したり寝込んだりしたリリー・メイは我慢強いのです。足は確かに痛いけれど、高い熱が出た時のだるさや何もかも嫌になるような気持ち悪さに比べれば遥かにマシです。


「租界の外国人に手を出せば、総督閣下が許さない。あいつらだって分かってるはずだ」


 華夏人たちのささやきが怖くてきょろきょろと辺りを見回して落ち着かないリリー・メイに、ダニエルが声をかけます。


「そう、なの?」


 総督閣下なんて、リリー・メイはお会いしたことがありません。道端に座ったり寝転がったりしている人たちだってそうでしょう。そもそも、あの人たちは総督閣下のことを、本国の法律のことを知っているのでしょうか。あんなにぼろぼろの服を着て、荒んだ目をした人たちに平和で落ち着いた租界の常識が通じるのでしょうか。リリー・メイはどうしても心配になってしまいます。


「ああ。だから堂々としてれば大丈夫だ」


 ダニエルの声は自信に満ちていて、リリー・メイを落ち着かせてくれました。恐ろしい視線にさらされるのを少しでも避けるため、リリー・メイはさっきよりも近く、ダニエルの腕にぎゅっと掴まったのでした。


「ここの人たち、総督閣下のことを知ってるかしら?」


 リリー・メイが気がかりなことを口に出すと、ダニエルはしっかりとうなずきました。


「条約があるんだ。ウィリアム三世の時に戦争があって、本国が勝った。だから、華夏は逆らっちゃいけないんだ。まだ習ってないのか?」

「この前チャールズ四世のことを教わったわ。まだ追いついていないのかしら」


「王冠を賭けた恋」のモデルになった王様の、次の王様です。次の歴史の授業で、お兄様からさらに次の王様のことを教えてもらえるはずでした。無事に帰れたら。リリー・メイは、馴染んだお屋敷の部屋が無性に懐かしくなりました。


「チャールズ四世の次がウィリアム三世なんだ。……女の子なのに、ちゃんと勉強してるんだな」

「お兄様が先生だもの。それに寝ていたらお勉強以外にやることもないし」


 リリー・メイもダニエルもよく喋りました。他愛のないお喋りで、慣れない裏通りをやり過ごそうとするかのよう。それでも、突き刺さる視線を無視することはできません。




 それも、痩せてはいるけれど身体の大きな男の人たちに道を塞がれては、なおさら。立ちはだかる壁のように、二人の向かう方に進むにはその人たちをすり抜けなければならない格好です。


「なんだ、お前ら。どけよ」


 リリー・メイをかばったダニエルの声も、少し震えているようです。リリー・メイはと言えば、何か言うどころではありません。ダニエルの陰に隠れて、でもそれも申し訳なくて。何をすれば良いのかさっぱり分からなくて、縮こまるだけです。


「……――――」

「――!」


 恐ろしい姿の人たちは、相変わらず華夏の言葉でささやき交わしていて、何を言っているのかリリー・メイたちには分かりません。後ろを振り向くとそこにもやはり険のある目をした人たちが逃げ道を塞いでいます。囲まれてしまったことに気づいてリリー・メイの心臓がどくどく痛いほどに高鳴りました。


「……! 止めてよ!」


 ふいに横から伸びた手にスカートを捲り上げられて、リリー・メイは悲鳴を上げてダニエルにしがみつきました。ダニエルも受け止めて抱きしめてくれたものの、スカートを持つ手は離れず、無残な音を立てて生地が裂けてしまいます。


「――」

「――――!」


 あまりのことにものも言えないリリー・メイと、身を挺してリリー・メイを庇うダニエルをよそに、異国の言葉が交わされます。首を振る人と、何か強い口調で言う人と。何がダメなのか何を怒っているのか、分からないということがとてつもなく恐ろしく感じます。


「離せ……っ!」

「ダニエル!」


 あちこちから大きな手が伸びてきて二人を引き離します。握り締めたダニエルのジャケットまで破けてしまいました。助けて、と叫ぼうと開いた口に汚い布を押し込まれて声が出せなくなってしまいます。お腹の辺りに腕をまわされて、持ち上げられて。足が宙にうきました。離して、ともがいて足をばたばたさせても、リリー・メイを持ち上げた人はぴくりともしません。

 ダニエルを探して首だけでも必死に巡らせると、ダニエルも同じように抱え上げられています。リリー・メイ以上に暴れるに違いないのに、なぜか手足をだらりとさせてぐったりとしています。殴られた? 殺されてしまった? ダニエルの青白い顔色に、リリー・メイも死んでしまいそうに手足が冷たくなって、視界が霞んでしまいます。


 このまま港の荷物のようにどこかへ運ばれてしまうのでしょうか。お姉様はきっと二人のことを心配しているでしょう。でも、大通りからでたらめに走ってきたのです。二人がどこをどう通ったか、見つけてくれるでしょうか。見つけてくれた時、二人はどうなっているのでしょう。


 お兄様にも、もう会えないのでしょうか。もがいたはずみに見えた空がお兄様の瞳の色で、リリー・メイの頬を涙が伝いました。


「…………!?」


 その時でした。強い衝撃を受けたと思った瞬間、リリー・メイの身体が地面に投げ出されます。半身を打った痛みに一瞬動くことができません。そこに何かが強くぶつかるような音が耳に届きます。華夏語の怒鳴り声と悲鳴も。

 ようやく衝撃をやり過ごして、口に押し込まれた布を吐き出しながら見上げたリリー・メイは、驚いてぽかんと口を開けたまま固まってしまいました。


 華夏人が増えています。でも、リリー・メイたちを攫おうとしたようなぼろをまとった人たちではありません。紺色の地味な、でも清潔できちっとした服を着た人が、二人。

 リリー・メイが顔を上げたのは、がっしりとした体つきに目つきも鋭いその人たちがダニエルを抱えていた男の人を蹴り飛ばしている時でした。沢山の人に囲まれていると思ったのに、裏通りにはもう誰もいません。逃げてしまったのです。蹴られている人が最後でした。その人も、何か華夏語で吐き捨ててよろよろと去っていきました。




「間に合って良かった」


 一体何が起きたと言うのでしょう。地面に半身を起こした状態で戸惑うリリー・メイの耳に、変わった抑揚アクセントが届きました。どういう訳かリリー・メイに声をかけてきた、あのフロックコートの華夏人です。

 助かった、と素直に思うことはできませんでした。この人だって何を考えているか分からないのです。リリー・メイの心臓はまだどきどきしています。ダニエルはまだぐったりと地面に転がされています。


「よりにもよってメンジンルーの裏通りに迷い込むとは。もう少し遅かったら売り飛ばされてしまうところだった」


 紺色の服の人たちがフロックコートの人の後ろに付き従いました。この人はご主人様なのね、とリリー・メイは思います。地味な色のコートではなくて、豪華な刺繍の華服の方が似合いそうです。


「総督閣下が許さないって……」


 さっき教わったばかりのことをつぶやくと、その人はバカにしたように唇の端を上げて笑いました。初めて会った時のダニエルみたいです。


「あの男の目に留まればそうだろう。しかし、ワイライフー大鯨ダージンの全てを把握することなどできはしない。娼館の屋根裏、阿片窟の隅、貨物の二重底。人を隠すのは簡単なことだ」

「わいらいふー?」


 男の人の言うことはリリー・メイにはよく分かりませんでした。多分、とても危なかったということなのでしょうけど。中でも意味の分からない華夏語を繰り返すと、


「よそ者、ということだ」


 その人は今度はにっこりと笑いました。さっき金鶏大路で会った時と同じように。そして、コートが汚れるのも構わずリリー・メイの前に跪きました。


「本当に、間に合って良かった」


 真っ黒い――リリー・メイと同じ――瞳に間近で見つめられて、落ち着かない気分になります。華夏の人は年齢も表情も分かりづらいのです。きちんとした身なりの人なのに、どこか得体の知れない感じがします。お兄様よりは歳上で、お兄様のお父様よりは若い……と思うのですが、リリー・メイには何とも言えません。口元は笑っているけれど、夜のような目に吸い込まれそうで、少し怖い。

 視線から逃れたくて、リリー・メイは顔を背けようとするのですが、両肩をがっちりと掴まれてその人に向き合わせられます。さっきの人たちのような乱暴さはありませんが、今の方が追い詰められた感じがします。

 その人は、土で汚れて擦り傷だらけのリリー・メイを頭のてっぺんからつま先までじっくりと眺めて、少し眉をひそめました。


「だが、まったくの無傷とはいかなかったか。私の屋敷に来なさい。手当をしよう」


 そして言われたことに心底ぞっとして、リリー・メイは思い切って叫びました。租界に住む華夏人はいないはずです。これ以上遠くへ連れ去られてしまうのは絶対に嫌でした。


「いらないわ! お兄様のところに帰して!」


 するとその人の眉間の皺がますます深くなりました。


「お兄様、というのはラドフォード商会の次男のことか? 確かエドワードとかいった」

「――! お兄様を知ってるの!?」

「少しだけ。……そんなにあの男を信頼しているのか」


 思いもよらず大好きな名前を聞いてリリー・メイは顔を輝かせましたが、その人は正反対に嫌そうに顔をしかめました。そして、立ち上がってコートの汚れを払います。


「ならばエドワードも呼ぶことにしよう。久しぶりに話がしたい。それなら来てもらえるか?」




 紺色の華服の人たちが気絶したままのダニエルを抱えてしまうと、リリー・メイもついていかない訳にはいかなくなりました。ダニエルはリリー・メイを庇って殴られてしまったのですから。


 リリー・メイが乗せられた馬車は、あの男の人の服装と同じように本国風でした。御者をつとめるのは華服の人なのでちょっと不思議な感じがします。


「ダニエル……」

「大したことはない。生意気な子供には良い薬だ」


 リリー・メイはダニエルの頬にかかる髪をそっと撫でました。心配でたまらないのに、フロックコートの華夏人はとても冷たい言い方をします。本当にお兄様と会わせてくれるのか、リリー・メイは不安でたまりません。


「私はジュ威竜ウェイロンという。あなたの名は? まだ聞いていなかった」


 それに、この人――じゅ・うぇいろん――の話し方は遠慮というものがなくてとても偉そうです。リリー・メイが答えないなんて夢にも思っていないのでしょう。黒い瞳に問い詰められるように、口を開いてしまいます。


「……リリー・メイよ……」

莉麗リリー莉美リーメイ


 聞いた瞬間、朱威竜は微笑んで、そっと、宝物のように幾つかの音を発しました。リリー・メイは華夏語を知りません。でも、その音の連なりは人の名前のようでした。リリー・メイという響きに少し似ている。


「…………?」

「女の子だったらそう名付けると、翡蝶フェイディエは言っていた」


 怖くも偉そうでもなく、ひたすら優しい――それこそお兄様のような――微笑みでした。けれど、どんなに音が似ていても、大事そうに呼ばれても、じゅ・うぇいろんが言ったのはリリー・メイの名前ではありません。

 早くお兄様に会いたい。リリーって呼んでもらいたい。

 そう思いながら、リリー・メイは見知らぬ風景が流れる窓の外に目を向けました。不安な気持ちを押し殺して。

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