広がる世界

第8話 金鶏大路

 金鶏ジンジー大路ダールーの喧騒は、リリー・メイが初めて経験するものでした。

 この大通りは租界の外にあるのですが、本国や他の先進国の上流の方々がご贔屓のお店が並ぶ、お洒落で品の良い界隈だそうです。店員はともかくお客はほとんどが租界の紳士淑女なので、治安が良いのも、お兄様がお出かけを許してくれた理由の一つでしょう。


 建物自体は石造りのものが多くて、リリー・メイが暮らしているような本国風のお屋敷と似た雰囲気がありますが、通りに面したお店には華夏フアシア風に赤や緑、黄色に塗られた派手な装飾が施されています。複雑な華夏の文字の看板は、リリー・メイはどれ一つとして読むことができません。お屋敷からほんの少し移動しただけなのに、まるで遥か遠い国に来たみたいです。


 幅の広い石畳の通りを行き交うのは馬車だけではありません。大柄な華夏人が曳く人力車も混ざっています。上半身をほとんどむき出しにした男の人が堂々と、いっそ誇らしげに歩き回る様があまりに衝撃的で、リリー・メイは思わずまじまじと見つめて足を止めてしまいました。ダニエルに腕を引っ張られて、ようやく歩き出すことができたのですが、はしたないことをしてしまったわ、と顔が熱くなるのを感じました。


「お前、歩くの遅いな。絶対に手を離すんじゃないぞ」

「ご、ごめんなさい」


 リリー・メイはダニエルの腕にしっかり掴まると、慌てて足を前に動かしました。




 今朝、ベアトリスお姉様と一緒にお屋敷に迎えに来たダニエルは、お茶会の時とは違ってとても良い子に見えました。


「この前はすまなかった。今日は顔色が良いようで安心したよ。

 ――その服、似合ってる。この前のよりも。華夏人の真似をするよりずっと可愛いよ」

「こちらこそこの前はごめんなさい。お客様にお別れの挨拶もちゃんとできなくて。

 ――褒めてくれてありがとう、とても嬉しいわ」


 今回のお出かけのために、リリー・メイはまた新しく服を仕立ててもらっていました。

 今度は租界で流行りの淡い黄色の、カスタードクリームみたいな色の生地です。髪も一部をバレッタで留めただけで後は下ろしたスタイルで、お茶会の令嬢たちと同じような格好です。リリー・メイはこの前ダニエルに華夏人みたいだ――召使みたいだと言われたことが怖くて悲しかったのです。


「二人とも、仲良くしてくれよ。ダニエルはリリーのエスコートを、くれぐれも頼む」


 リリー・メイとダニエルが交わした挨拶はややぎこちないものではあったのですが、それでもエドワードお兄様は安心したようでした。


「リリーは、ベアトリスとダニエルから絶対にはぐれないように。裏道に入るのもいけない。大通りから離れてはいけないよ。

 ……外を歩かせるのは初めてだから、どうも心配だな」

「大丈夫ですよ、僕がちゃんと案内します。人にぶつかったり転んだりしないように」


 ダニエルはお姉様とそっくりなことを言いました。姉弟というのはやはり似てくるもののようです。

 リリー・メイはというと、ダニエルとずっとくっついていなければならないのかしら、と少し憂鬱になったのですが。


「頼もしいな」


 ダニエルとは違って、お兄様は笑いませんでした。怒っているのとは違うけれど、眉が少し寄っています。この前のお茶会の後寝込んでしまったから、すっかり信用をなくしてしまったのでしょうか。今度こそ元気に帰ってこなくちゃ、とリリー・メイは決心したのでした。




 ……決心したものの、金鶏大路の熱気に飲まれて、リリー・メイは早くもぐるぐると世界が回っているような目眩を感じ始めていました。


 お店の軒先から下がる、変わった飾り。華夏人の見慣れない服装。目に入るものは何もかも新鮮で、あまりにきょろきょろしてしまうので、ダニエルに掴まっていなかったらリリー・メイは街灯か何かにぶつかってしまっていたでしょう。鳥や魚、何だか分からない動物が店頭に並べられているのは、怖いけど通り過ぎるまで目が離せませんでした。

 周りから聞こえてくる話し声や叫び声には、リリー・メイの知らない言葉のものも多くて落ち着きません。特に華夏の言葉はどこまでが一つの単語なのか分からなくて、車夫の怒鳴り声などは自分が怒られているのかといちいち振り向いてしまいます。

 そして、刺激を受けるのは目と耳ばかりではありません。鼻に届く匂いもリリー・メイを混乱させます。料理やお菓子の香ばしい香りや甘い香りだけではありません。何かを燃やす煙い臭いや、馴染みのない香辛料の香りは鼻だけでなく目も刺激してくしゃみや涙が出そうです。そこへどこかから漂うお香の匂いも混ざって頭が痛くなりそうです。


「まっすぐ歩けよ。気分が悪いのか? なら掴まってろ」

「う、うん」


 前から来る人とぶつかりそうになったのを、ダニエルが引っ張って避けさせてくれました。お兄様の前とは違って乱暴な言葉遣いになったけど、それでもちゃんとリリー・メイをエスコートしてくれているので、最初に会った時ほど怖いとは思いません。


「ありがとう」


 だから、素直にお礼を言うことができました。するとダニエルは照れくさそうな顔をしてふいとそっぽを向きました。リリー・メイより歳上だというのに何だか子供っぽくて、嫌だと思っていた気持ちがどんどん消えていきます。


「エドワード兄さんの頼みだからな。姉さんにも叱られたし……」


 この前は、悪かった。喧騒に紛れた小さなつぶやきが耳に届いて、リリー・メイは思わず目を瞠ります。何だか、この前とは別人のようです。


「ダニエルは、お兄様もお姉様も大好きなのね」


 お姉様とお付きの人たちは、何人か人ごみを隔てた前の方を歩いています。はぐれてはいけないと早足になりながら、リリー・メイは言いました。少し馴れ馴れしかったかもしれないけれど、お兄様に嫌われたくないのはリリーと同じね、と思うと親しみがわいたのです。


「そりゃ、格好良いからな」


 ダニエルはリリー・メイの方を振り向くと、目を輝かせました。


「見た目だけじゃなくて、頭も良いし、礼儀正しい紳士だし。スクールを卒業してすぐ、父君を手伝って商会の大事な仕事を引き継いでる。すごい人なんだ」

「そうなの」

「僕にもいろんなことを教えてくれるんだ。学校の勉強だけじゃなくて、商売のこととか、外国のこととか。子供扱いしないから、兄さんと会うのはいつも楽しみなんだ」

「そうだったの」


 流れるようにまくし立てるダニエルとは逆に、リリー・メイの答えは短くそっけないものになってしまいます。お兄様がいろんなことを教えてくれるのはリリー・メイに対してだけではなかったのです。知らないところでお兄様を取られてしまったようで、何だか嫌な気持ちがするのです。


「そういう話、しないのか? 家族なのに」

「ええ……」


 ダニエルは意外そうに首を傾げました。リリー・メイの暗い気持ちには気づいていないようです。きょとんとしたその表情に、お兄様と仲が良いのはあなただけじゃないのよ、と悔しい気持ちがわいてきます。


「でも、リリーだってお兄様からいろいろなお話を聞いたり、お土産をいただいたりするのよ。お仕事のことを言わないのは――リリーは外に出られないから仕方ないわ」


 強い口調で言ってから、またやってしまったことに気づきます。自分のことを名前で呼んでしまうのは子供のすることでした。


「私だって……」


 小さな声で言い直すと、今度は悲しくなってきました。ジェシカは大丈夫だと言っていたけれど、お兄様は実は身体の弱いリリー・メイが嫌になっているのかもしれません。だから最近は外に出かけさせようとしたり、お別れする話をしたりするのでしょうか。


「な、泣くな。泣くなよ! また叱られる!」


 ダニエルの慌てたような声が聞こえます。表情は――下を向いているので見えません。ダメだわ、早くお姉様たちに追いつかなくちゃ。そう思うのにどうしても前に歩くことができなくて、リリー・メイはうつむいて足を止めてしまいました。人の流れを遮る二人を、通りすがる人たちが邪魔そうに睨みつけていきます。

 辺りを見渡したダニエルはリリー・メイの肩を抱くと、道の端へ引っ張っていきました。優しい――それだけでなく、今までで一番心のこもった声で、リリー・メイに言い聞かせます。


「病弱だから外に出られないなら、丈夫になれば良いだろ? そのために薬ももらってるんだろ? 姉さんだってお前のことが心配なんだ。少しずつ遠出して、だんだん元気になれば良いって。そうすれば、エドワード兄さんと一緒に出かけることだってできる」

「そう、かしら……」


 空気が汚いから、とか危ないから、とか。お兄様は何かと理由をつけて外へ出てはいけないと言います。だから、お兄様はリリー・メイに外に出て欲しくないのだと思っていました。倒れてしまうのは嫌なので、リリー・メイもそれを不満に感じたことはありませんでした。

 でも、お姉様やダニエルのことを知った今、お屋敷で待っているだけなのは嫌、という気持ちが生まれてしまいました。でも、ずっとお薬を飲んでいてもリリー・メイの身体はあまり変わらないのです。こんなことで、お兄様とお出かけなんてできるのでしょうか。


「そうだって。まずは今日、無事に楽しんで帰ろうよ。これくらい大丈夫だって、兄さんに見せるんだ。それで、今度は兄さんと一緒に行きたいって言えば良い」

「お姉様やダニエルも一緒?」


 優しい言葉にすがるように顔を上げると、ダニエルの顔が滲んで見えました。涙をこぼさないように乾かそうと、リリー・メイはせわしなく瞬きをします。


「そうだな、兄さんに見てもらうんだ。ちゃんとエスコートのできる紳士だって」

「リリーも、立派なレディだってお兄様に見せたいわ」


 やっと晴れた視界の中、ダニエルはハンカチを差し出して恥ずかしそうに笑っていました。リリー・メイも笑ってハンカチを受け取ります。初めて、今日お出かけして良かったと思えた瞬間でした。そして、初めてダニエルを好きだと思った瞬間でした。




 二人が立ち止まっているうちに、ベアトリスお姉様たちはすっかり見えなくなってしまっていました。


「はぐれちゃダメって言われてたのに……」

「大丈夫、店の場所は知ってるから。ゆっくり追いつけば良いさ。きっと待っててくれてる」


 また失敗してしまったわ、と落ち込みかけたところに、ダニエルが自信たっぷりに言ってくれました。その頼もしい様子に、リリー・メイは少し安心することができました。

 差し出された腕にそっと手を添えて、二人は大通りを歩き出します。まるで小さな紳士とレディのように。


 ダニエルがさっきよりもゆっくり歩いてくれるので、リリー・メイも通りの様子をもっとよく眺める余裕ができました。湯気を立てる蒸籠から点心が次々と出てくるのには目が釘付けになってしまいます。店先で大きな包子バオズに齧りつく車夫が、羨ましくてたまりません。


「美味しそうね。あのお店ではないの?」

「レディは立ち食いなんてしないぞ。もっと良い店だから我慢しろよ」

「お姉様は、できたてが美味しいって言ってたわ」

「ちゃんとできたてを出してくれるって。もう少しだから頑張れ」


 そんなことを話しながら歩くのはあまりに楽しくて。

 だから、リリー・メイはその人が二人をじっと見ていることにしばらく気づきませんでした。きょろきょろと見回す中に目が合う人がいても、ただの偶然だと思ったのです。知らない人と目が合ってしまった気まずさでお互いにすぐ逸らすものと、すぐにすれ違ってしまうものと、そう思って片付けたのです。


「…………?」


 けれど、もう一度そちらを向いたとき、その人とまた目が合いました。それも、最初よりも近い距離で。通り過ぎるのではなく、リリー・メイたちと同じ方向についてきているのです。


「…………!」


 そのことに気づいたリリー・メイは――本当は失礼なのですが――その人の顔をまじまじと見つめてしまいました。華夏の人でした。黒い髪に黒い瞳の、大人の男の人。車夫のように伸ばした髪を括ったり三つ編みにするのではなく、お兄様やダニエルのように短く整えています。服装も、裾の長い華服ではなく、本国風の仕立ての良さそうなフロックコートでした。

 何秒間か見つめ合ってしまったでしょうか。不躾に気づいて目をそらそうとした瞬間、リリー・メイは心臓が止まりそうなほど驚きました。嫌な顔をするどころか、その人はにっこりと笑いかけてきたのです。

 リリー・メイはあまりに驚いたので、ダニエルの腕を強く引っ張ってしまいました。


「どうした? 気分でも悪いのか?」

「ダニエル、あの人ついてきているみたい」

「何!? どいつだ?」

「あっち……華夏の人」


 恐る恐るその方向を見たリリー・メイは、小さく悲鳴を上げるとダニエルにしっかりとしがみつきました。その人が人波をかき分けて二人のすぐそばまで近づいてきていたのです。


「何の用だよ」


 リリー・メイをかばってダニエルがその人と向かい合います。守ってもらえるのが嬉しくて、でも近くで見るその人は背が高い大人の――リリー・メイにはよく分からないのですが、お兄様よりも年配の人でしょうか――人でダニエルでは敵いそうになくて。リリー・メイは気が遠くなりそうなのを必死に我慢しました。


「突然、失礼」


 その人の口から出たのは本国の言葉でした。少し変わった抑揚アクセントはあるものの、言葉が通じる人だと分かって、リリー・メイは少しだけ安心しました。


「そちらのお嬢さんと話したい。――知人にとても似ているもので」


 でも、その人が続けた言葉に、また怖くなりました。リリー・メイは華夏の人と何の関わりもないのです。話したいと言われても困ります。

 どうする、と尋ねるように振り向いたダニエルに、リリー・メイは激しく首を振りました。


「レディが嫌がってる。さっさと帰れ、黒犬!」

「……お前に聞いているのではないのだが」


 顎を持ち上げてわざわざ怒らせるようなことを言うダニエルも、目を細めて見下ろしてくる男の人も、リリー・メイには怖くて仕方ありません。


「リリーは……あなたとお話したくないわ……」


 だから、早く行ってしまいたくて、勇気を振り絞って小さな声で伝えます。でも、その人は引き下がってくれません。一歩、リリー・メイたちに近づきながら次々と問いかけてきます。


「あなたはラドフォード商会の令嬢ではないのか? 翡蝶フェイディエの娘だろう? ラドフォードからは母親のことをどう聞いてる? 私のことは――」

「知らない! リリーは何も聞いてない!」


 その人が更に一歩進んだ分、リリー・メイは後ずさりします。そうやって広げた距離は、すぐにまた縮められます。今にも手を伸ばして捕まってしまうのではないかと思うと、足ががくがくと震えてきました。

 そんなリリー・メイの腕を、ダニエルがしっかりと掴みました。


「走るぞ。絶対止まるなよ!」


 言うと同時に、ダニエルは走り始めました。馬車のすぐ前を横切って、通りの反対側、裏通りへと。腕を強く掴まれて、走るというより半ば引きずられるように。リリー・メイも必死に走ります。走ったこともほとんどないので、すぐに息が上がって胸が痛くなります。

 でも、止まることはできません。


「どこ見てるんだ!?」

「危ないぞ!」


 馬車の御者や、危うく二人にぶつかりそうになった人の怒鳴り声。


「――――!」


 それに混ざって聞こえた華夏語の叫び声は、あの男の人のもので。リリー・メイたちを追いかけてくるに違いないと思ったからです。

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