第7話 言えない想い

 リリー・メイは窓辺に椅子とテーブルを寄せて本を読んでいます。お勉強の本でもお伽話でもありません。「王冠を賭けた恋」という題名の本です。お茶会で会った令嬢に貸してもらったものです。


 物語は、何代か前の本国の王様を題材にしているようです。歴史の授業でお兄様が教えてくれました。決められた婚約者を断って、外国の身分の低い女性と結婚した王様がいたそうです。その王様は、その人のために王様ではなくなってしまった――何だか分かりづらいです――ので、次の王様や周りの人たちがとても大変だったそうです。

 使っている単語に難しいものはなく、ところどころ挿絵も入っているので読み進めること自体は簡単です。


「…………」


 でも、どうしても楽しいとは思えなくて、ページをめくる手はゆっくりになってしまいます。読み終わったら感想とお礼の手紙を添えてお返ししなくては、とエドワードお兄様に言われているのですが、正直に書くことはできなさそうです。リリー・メイはまたウソツキになってしまうのでしょうか。


「お嬢様、一休みなさったらいかがですか? あまり進んでいらっしゃらないようですが」

「ジェシカ」


 こつり、という硬い音に顔を上げると、それは召使のジェシカがテーブルにお茶のポットを置いた音でした。今日のお茶は華夏フアシア産のもののようで、手際よく並べられていくお菓子のお皿もカップも、華夏風に細い線で牡丹の絵柄が描かれた磁器でした。


「今日のお菓子は月餅ユエピンですよ。かなり重いから一つだけにしましょうね」

「はあい」


 リリー・メイは本に栞を挟むと一旦本棚に戻しました。本の扱いは丁寧に、借りてきたものならなおさら、というのがお兄様の言いつけです。とてももっともなことだと、リリー・メイも思います。

 本棚にしまってしまったら、次に読むまで間が空いてしまいそうですけど。やっぱりリリー・メイにはお伽話なんかの方が楽しいのです。あとは、お兄様にいただいた宝物を眺めたり。この前見つけた刺繍の靴なんて、どんな人なら履けるかしら、どんなところを歩くのかしら、と想像しながら見ているだけで時間が経つのを忘れるくらいです。


「今日は、お兄様は……」

「お仕事です。寂しいようでしたらジェシカがご相伴にあずからせていただきますよ」

「そうして!」


 リリー・メイはジェシカがお茶を淹れる様子を何となくじっくりと眺めます。

 ジェシカはリリー・メイが小さい頃からずっとお屋敷にいる人で、髪には白いものが混ざって目元にも皺があります。朗らかなお姉様よりも落ち着いた雰囲気で、お母様がいたらこんな感じなのかしら、と思います。といってもジェシカは栗色の髪と瞳なので、やはりリリー・メイとは似ていないのですが。黒い髪と瞳というのは、華夏の人でなければ珍しいのでしょうか。租界の外に出たことのないリリー・メイには分からないことです。今度お姉様やダニエルとお出掛けする時に分かるのでしょうか。


「さあ、どうぞ」


 湯気を立てるお茶の器は二つ。それに対して、月餅のお皿はリリー・メイの前にしか置かれていません。


「ジェシカは食べないの?」

「中身は甘く煮た豆を潰したものでしょう。どうもジェシカの口には合わなくて。お嬢様は、甘いものに関しては好き嫌いがありませんものね」

「……リリーは好き嫌いなんてないわ……」


 食が細いとお兄様やジェシカを困らせているリリー・メイは、ちょっと唇を尖らせました。身体のためにももっと食べないと、とは言われているのですが、お腹が空いているように思っていても食べ始めるとすぐにいっぱいになってしまうのです。お菓子を食べた後でも、食事の前にはちゃんとお腹が空いているのだから関係ないはずです。お兄様たちにも何度もそう言っています。

 それでも、万が一にも取り上げられたりしないように、とリリー・メイは急いで月餅に齧りつきました。濃厚な甘味の餡の中に、月を模した卵の黄身が入っています。華夏の人は月を眺めながらこのお菓子を楽しむのだと、教えてくれたのもお兄様でした。

 一つだけでも胸もお腹もいっぱいになりそうな濃い味のお菓子に、華夏茶のさっぱりとした味がよく合います。


「ねえ、ジェシカ」


 卵の黄身を半分まで齧ったところで月餅をお皿に置いて、リリー・メイはジェシカに話しかけました。


「はい、お嬢様」

「結婚、って好きな人とするものなの?」


 リリー・メイはそこが気になって「王冠を賭けた恋」を楽しむことができなかったのです。お兄様には結婚とは家と家のためのもの、血筋や商売を後の世代に伝えるためのものだと教わりました。だから、結婚する相手というのは一緒にお仕事をする人のようなもので、しっかりした人や――お兄様の場合だったら――商会のためになる人を選ぶものだということでした。

 なのに、このお話の中では、王様は誰もが反対する人、王様のお妃には相応しくない人と結婚しようとするのです。王様というのはとても大事な、決して間違ってはいけないお仕事とも教わりました。なのに、どうしてそんな人王様がおかしなことをしてしまうお話が人気なのか、さっぱり訳が分からなかったのです。歴史の授業で元になった王様のことを教わった時も、お兄様はあまり褒められたことではない、というような口調だったのに。


 ジェシカはそうですね、と言ってしばらくの間考え込むように中空を見つめていました。


「多くの方は――特に上流の方々はお家や商売のために結婚すること場合がほとんどなのでしょう。けれど、嫌な相手よりは好きになれる相手の方が嬉しいものですので――お話の中では愛する相手と結ばれるのが好まれるのではないでしょうか」

「愛する、って良いことなの? 好き、とはどう違うの?」


 リリー・メイはさらに首を傾げてしまいます。恋とか愛とかはあのお薬のように苦いものだとお兄様は言います。嫌な相手よりは好きな相手の方が良い、これはもちろん分かります。ですが、愛する、と言うとリリー・メイには何だか怖くて嫌な感じがするのです。愛のために悲しいことになった逸話の数々を、お兄様はリリー・メイに教えてきてくれたのです。


「愛は――好き、の上位の表現といったところでしょうか……」

「大好き、ではなくて?」


 お兄様はリリー・メイを愛していると言いました。家族に対してのことだから苦くはないのだと。お兄様と一緒にいるのはひたすら暖かく優しく心地良いこと。苦いものではないのは分かります。けれど、「王冠を賭けた恋」の王様や相手の女の人、王様の元の婚約者は苦しんだり悩んだりばかりで、とても辛そうだったのです。

 愛している、と大好き、の違いはいったいどこにあるのでしょうか。


「お嬢様は――」


 ジェシカは一度言葉を切って言いよどみました。


「エドワード様のご結婚のことを心配なさっているのですか?」

「お兄様の?」


 ただ、物語が納得いかなくて聞いたことだったのに。思いもよらないことを問われてリリー・メイは目を瞬かせます。


 お兄様とベアトリスお姉様が結婚するかもしれないそうです。結婚すれば奥様のことを大事にしなければならないそうです。

 でも、お兄様がどこかへ行ってしまうのならとても悲しくて寂しくて耐えられないことですが、お兄様は今の暮らしが変わることはないと言ってくれました。それに、リリー・メイはお姉様も大好きです。結婚する、というのが商会のお手伝いをする、ということなら、お姉様と会える機会が増えるのかもしれません。それはリリー・メイにとって喜ばしいことです。


「心配するようなことは、ないと思うのだけど……」


 それを聞いたジェシカは、重々しく頷きました。心配していないのはおかしなことなのかしら、とリリー・メイが不安に思うほどに、真剣な表情です。


「それはよろしゅうございました」

「心配は、ないのよね?」

「もちろんでございます」


 ジェシカがお茶のおかわりを淹れるため、しばらく沈黙がおりました。


「ベアトリス様はしっかりしたレディです。ご実家は本国の貴いお家とも縁のある方ですし、商会を切り盛りするのに必ず力になってくださるでしょう」


 お兄様がこの前言ったことと大体同じことだったので、リリー・メイは黙って頷きました。


「それに、ベアトリス様はエドワード様の条件を呑んでくださいました」

「条件?」

「お屋敷にお嬢様がいらっしゃるのを受け入れてくださること、それに、結婚の後もお嬢様のことを最優先するということです」

「それは普通ではないことなのね?」

「……身体が弱くて結婚が難しい方がずっとご実家にいるのは仕方のないことかと。ですが、その方を奥様より優先する、というのは、まあ、珍しいことだとは思います」


 少し目を逸らして心もとない口調で応えるジェシカに、それは確かに常識外れのことなのだろうと、リリー・メイにも分かりました。ジェシカがリリー・メイを気遣ってくれているということも。お兄様が何も言っていなかったのも、そういうことなのでしょう。


「お兄様、リリーのために苦労なさったのかしら。リリーなんていない方が良かった……?」


 残しておいた月餅を齧っても、あまり味がしませんでした。さっきまであんなに、舌に絡みつくように甘かったのに。


「いいえ!」


 ジェシカが慌てたように身を乗り出します。


「エドワード様はお嬢様を本当に、心から大事になさっています。幸せにしたいと、願っていらっしゃるのですよ。お兄様のアルバート様の忘れ形見ですもの、当然のことです。

 それを受け入れられないレディはあの方の奥様になれないというだけ。失礼な言い方をすれば、ふるいにかけられてしまったのです。

 ベアトリス様はエドワード様もお嬢様も好いてくださっているようですから、何の心配もいらないと、ジェシカは思いますわ」

「そうね……」


 リリー・メイは月餅の最後のひと欠片を口にいれてしまいました。やはり粘土を噛んでいるような気がします。


「リリー、ベアトリスお姉様も好きよ」

「そうでしょうとも」


 安心したように微笑むジェシカには言えないことがありました。お姉様は好き。でも、お兄様はもっと好き。リリー・メイのためにお菓子やお土産を持ってきたり、お話したりするようなことを、お兄様はお姉様にもするのかしら。リリー・メイを優先するとは言っても、今まで通りとはいかないんじゃないかしら。今日みたいに、ジェシカや他の召使とお茶をすることが多くなるのかしら。


 とてもおかしなことでした。お兄様と一緒にいるのはとても嬉しくて幸せなことなのに。お兄様とお姉様と、三人で過ごすところを思い浮かべると、なぜか気持ちが沈みました。月餅が美味しくなくなってしまったように、その情景は何だか色あせて嫌な――苦いお薬を目の前にしたときみたいに――感じがするのです。

 お茶で口の中をさっぱりとさせながら、リリー・メイは思います。ジェシカには口に出して言えないことを。大好きなお姉様に対して、後ろめたいことを。


 お兄様は、リリー・メイだけのお兄様でいてほしい。お姉様にも、渡したくない。

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