第6話 妹だから

「今……何て言ったの……」


 リリー・メイが呆然としてつぶやくと、ダニエルはますます唇の端を吊り上げました。笑っているはずなのにとても嫌な感じがして、怖い。お兄様もお姉様もジェシカたちも、こんな表情をするのは見たことがありません。


「何って? 言ったとおりだけど。

 黒髪黒目は華夏フアシア人の証、華夏人は召使。戦争で負けたから使ってやってるんだ。エドワード兄さんは優しいからお前を家においてやってるだけだ。調子に乗るなよ」


 ダニエルの言うことは、リリー・メイには訳が分かりません。さっきまで奥様たちが話していたことと同じです。でも、ただ一つ分かることがあります。


「エドワードお兄様はリリーのお兄様よ! あなたのお兄様じゃないわ!」


 ダニエルは憎たらしく胸を張ると顎を持ち上げて答えます。


「姉さんと結婚したら僕の兄さんになる。その時はお前は屋根裏か地下室に閉じ込めてやるからな!」

「そんな……」

「ダニエル!」


 ひどいことを言われてリリー・メイが言葉を失っていると、お姉様が勢いよく立ち上がって口を挟みました。


「やめなさい! 失礼でしょう、リリーにも、お客様にも! 礼儀を守れないならここから立ち去りなさい」


 お姉様の怖いお顔と声は初めてでした。今日は本当に初めてのことばかり。

 自分に対してのものでなくてもリリー・メイは恐ろしくて竦んでしまうのに、ダニエルは全く怯みませんでした。それどころか、お姉様にもあの嫌な笑いを向けます。


「何で? 本当のことを言ってはいけないの? 姉さんだっていつも言ってるじゃないか。エドワード兄さんが変な黒髪の子ばかり可愛がってて気味が悪いって!」

「そんなこと言ってない!」

 

 ダニエルもお姉様も、お互いに負けまいとするかのように声を張り上げます。リリー・メイはお兄様が大好きなのに、ダニエルとお姉様は仲が悪いのでしょうか。リリー・メイのせいで二人は喧嘩をしてしまうのでしょうか。リリー・メイは顔に血が上って頭がぼうっとするのを感じました。


「リリー、何てこと。今にも倒れそうよ。ダニエルは嘘つきなの。私は、いつもあなたの黒髪を神秘的だって言ってるの。この子が言葉を知らないのよ!」


 そしてお姉様はお客様の方に顔を向けます。頬がざめていて、お姉様の方が倒れてしまいそう、とリリー・メイはぼんやりと考えました。


「それに、気味が悪いなんてとんでもない……。リリーは身体が弱いから、エドワードがずっと面倒を見るつもりなんです。だから大変で心配ねって言ってるだけなのに、弟が悪く取ってしまって――」

「ベアトリス」


 お姉様が息を吸い込んだところで、ある奥様が言いました。ダニエルやお姉様と比べるととても穏やかな口調なのですが、どういう訳か二人ともを黙らせてしまいました。リリー・メイに至っては、怖くてもう何か言うどころではありません。


「そちらのお嬢さんは確かに顔色が悪いみたい。あまり長居をしても良くないでしょうから、私たちはそろそろ失礼させていただくは。さ、皆さん」


 その奥様の目線に応えて、お客様たちは次々と立ち上がりました。

 お姉様は、そしてダニエルもとても驚いた顔をして、目を見開きます。お姉様はお客様たちを引き止めようとするかのように、おろおろと手を差し伸べました。


「そんな、皆さま、もう……?」

「いいえ、お嬢さんの体調が第一ですもの。見苦しい真似なんてできませんわ」


 奥様はにっこりと、けれど有無を言わせない口調で言いました。お客様たちが口々にお辞儀をして去っていって、飲みかけのカップや手をつけられないままのお菓子が寂しくテーブルの上に残っています。

 お姉様とダニエルはそれぞれお客様に何か声をかけているようでしたが、リリー・メイは何一つ、お見送りの挨拶でさえ口にすることができませんでした。

 お客様が帰ってしまったこと。お姉様とダニエルが目を吊り上げて怖い顔をすること。皆、リリー・メイのせいなのです。リリー・メイには分からないことがたくさんあるけれど、自分のせいでお茶会が失敗してしまったことだけは分かったのでした。




「リリー・メイ! 何があった? 髪はどうしたんだ?」


 お屋敷に戻ったリリー・メイを見るなり、エドワードお兄様は叫びました。あの後やはり気持ちが悪くなってしまったので、髪を解いてもらったのです。

 リリー・メイを抱き上げようと手を伸ばすお兄様を制して、ベアトリスお姉様は唇の前で人差し指を立てました。


「大きな声を出さないで。病人の前よ」


 お兄様は一瞬眉を寄せて唇を引き結びましたが、大きく深呼吸すると――あるいはため息をつくと――お姉様に顔を寄せてささやきました。


「何があったんだ? 無理をさせるなと言ったはずだ」

「疲れただけよ。知らない方にたくさん会ったから。ずっと楽しそうだったのよ。ねえ、リリー?」


 心配そうなお兄様と、微笑んだお姉様。でも、お姉様だってさっきまでリリー・メイと同じくらい疲れて倒れそうなお顔をしていました。心の中では笑ってはいないのに違いないのです。

 それに、お姉様は帰りの馬車の中で言いました。


『ダニエルのことを許してね、リリー・メイ。もっと早くに紹介するか、せめて話しておけば良かった。

 あの子もエドワードのことが大好きなの。だからあなたに焼きもちを焼いてるだけなの。さっき言ったことも素直になれないちょっとした意地悪のつもりなのよ。ありのままを伝えてエドワードに嫌われたら、きっとあの子は悲しむわ。エドワードも嫌な思いをするし。

 だから、今日のことはエドワードには内緒にして、リリー・メイ。お姉様との約束よ』


 そして、お姉様の膝に頭を預けたリリー・メイに冷やしたお水を飲ませてくれたのでした。

 お姉様との約束。それに、お兄様に嫌われたらリリー・メイだって悲しくなります。たとえあのダニエルだって、そんな思いをするのは可哀想です。

そうです、確かにあの子もお兄様のことを兄さんと呼んでいました。お兄様は外でお姉様と会うこともあるから、その時に知り合ったのでしょうか。ダニエルもお兄様を好きで――でも実際にはお兄様はリリー・メイのものなのです。それなら確かに面白くないものなかもしれません。リリー・メイはもう大人ですから、許してあげなくてはいけません。

 

「そうなの、お兄様」


 お兄様とお姉様を安心させようと、リリー・メイは無理に笑顔を作ります。


「リリーはちゃんとご挨拶もお話もできたわ。本当に少し疲れただけよ」

「……本当に?」

「本当よ」


 リリー・メイは繰り返すとお兄様の腕にもたれかかりました。疲れているのは本当なので、しゃんと立っている気力がありません。お兄様の手が額を覆います。


「少し熱がある。薬を用意するよ。良いね?」

「……はあい」

 

 お薬を飲んでも良い時なんて今までも、これからも絶対にありません。でも、お兄様に嘘をついた後ろめたさから、リリー・メイは大人しく返事をしたのでした。




 リリー・メイはそれからしばらく寝付いてしまいました。暑い季節なので、元気だったとしてもそうお庭に出ることはなかったでしょうが、青々とした木々を窓から眺めるだけというのは寂しいものがありました。お兄様が毎日様子を見に来てくれるので、退屈ということはなかったのですが。それに、リリー・メイはベッドにいることに慣れているのです。


 ある日、お兄様はお見舞いの茘枝ライチと、何やら本を携えてリリー・メイの部屋を訪れました。


「預かりものだ。覚えがあるだろう?」


 そう言って渡された本の題名は、「王冠を賭けた恋」。お兄様は、恋は苦いものだといつも言っています。こんなものを持ってくるはずがありません。


「例のお茶会で一緒だった令嬢から言付けられた。――色々あったんだって?」


 何なのかしら、とぽかんとするリリー・メイに、お兄様が少し険しい声で問いかけます。それでやっと思い出しました。恋のお話を貸してくださると言っていた令嬢がいたこと。それに、いくらリリー・メイが黙っていても、お茶会のお客様たちからダニエルのことがお兄様に伝わるかもしれなかったということ。


「どうして黙っていたんだ? ベアトリスも何も言っていなかった」

「それは……」


 リリー・メイは一生懸命に考えました。お姉様との約束を破ってはいけません。そんなことをしたら、お姉様や――嫌な子だったけど――ダニエルまで怒られてしまいます。


「忘れていたのよ。大したことじゃないもの」


 本当は、一時たりともダニエルの言葉が頭を離れたことはなかったのですが。お姉様は否定してくれたけど、お兄様はいつもと変わらず優しいけど、もしも、万に一つでもリリー・メイを嫌っているとしたら。リリー・メイはもう生きてはいけません。


「ダニエルとも会ったんだね」

「ええ」


 本を貸してくれた令嬢は全て話してしまったのかしら、と思いながらリリー・メイは頷きます。慎重に、口に出すのは一言だけ。自分から何もかもさらけ出してしまうことのないように。


「あまりレディの扱いに慣れていないようだったと聞いた。失礼なことは言われなかった?」

「いいえ!」


 どうやらお兄様はダニエルが何を言ったかまでは聞いていないようです。安心しつつ、でもお兄様に納得していただかなくては、とリリー・メイはベッドから跳ね起きながら言いました。


「あんまりたくさんは話していないけど……ダニエルはお姉様にそっくりだったわ。多分優しい子だと思うの。男の子と話すのは初めてだからびっくりしたけど、本当に、何でもなかったわ」


 そういえば、とリリー・メイは今になって不思議に思いました。お姉様とダニエルは同じ髪と瞳の色をしていて、だから姉弟なのだとよく分かったのです。でも、お兄様は金色の髪に青い瞳。リリー・メイは黒い髪に黒い瞳。全然似ていません。お兄様はずっとリリー・メイのお兄様だったから、疑問に思ったことなどありませんでした。本当は叔父様だから、同じ色にはならないのでしょうか。


「なら良いんだが」


 お兄様はそう言うと枕元に腰を下ろしました。ベッドが沈んだ分、リリー・メイはお兄様の方へ傾きます。お兄様はリリー・メイを抱き寄せると、そっと頭を撫でました。いつもの香水の香りが鼻に届きます。やはり落ち着く香りです。


「ベアトリスがお茶会の埋め合わせをしたいと言っていてね」

「ええ」

金鶏ジンジー大路ダールーで点心の美味しい店を紹介する、と。彼女はどうしても君を外に連れ出したいらしい」

「リリー、点心は好きよ」


 リリー・メイはお兄様の香りにうっとりしながら答えました。金鶏大路に出かけるのはお茶会ほど心配なことではありません。お姉様と美味しいものを食べに行くなんて願ってもないことです。


「――ダニエルも一緒に」

「え?」


 顔を上げると、少し眉を寄せたお兄様のお顔がありました。


「仲直りしたいと言っているらしい。もちろん嫌なら断るが……」


 どうしよう、とリリー・メイはお兄様の温かい手に髪を梳かれながら考えを巡らせました。

 ダニエルとまた会うのは、正直に口に出せるならちょっと怖いです。でも、そう言ったらお兄様はお茶会で何かあったと思うでしょう。いえ、今の言い方からして、もう疑っているようです。リリー・メイは、お兄様にウソツキと思われるのもお姉様との約束を破るのも嫌でした。


「あら、そんなことないわ!」


 リリー・メイが明るく見せようと頑張って声を張り上げたので、お兄様は驚いたように身体を引いてしまいました。お兄様の、良い香りの温もりが遠ざかってしまって少し寂しく感じましたが、後には引けなくて同じ調子で続けます。


「お茶会でお出かけするのは楽しかったもの。今度は租界からも出てみたいわ! 出来立ての点心なんて素敵。ダニエルだって、仲直りしてくれるんでしょう? きっとお友だちになれるわ!」

「……無理はしてないね? もう返事をしてしまうよ」


 お兄様はまたリリー・メイの髪を撫でてくれます。リリー・メイは青空の瞳をしっかりと見返して、力強く頷きました。もう後には引けないのです。


「ええ。いつになるのかしら。とても楽しみだわ」


 すると、お兄様はほんの少し口元を緩めて笑いました。


「リリーはどんどん大人びていくね。置いていかれそうだ」

「お兄様の方がずっと大人じゃない……?」


 リリー・メイは再びお兄様の腕の中。馴染んだ香りと温かさに包まれて安心しきって、けれど耳元に優しく囁かれることに首を傾げて、お兄様を見上げます。


「そうかな」


 お兄様はさらに笑うと、腕に力を込めます。ぎゅうと抱きしめられたリリー・メイは、苦しいわ、くすぐったいわとくすくすしながら訴えるのでした。




 お兄様はリリー・メイのために茘枝を剥いてくれています。昔の華夏の王様が、お妃様のために遠くの国から取り寄せさせたんだよ、と言いながら。その時代、新鮮な果物を何百マイルも向こうへ届けるにはお金も人でもとんでもなく掛かったのだそうです。王様は、お妃様のために国のお金を使い過ぎて、最後には戦争が起きてしまったということでした。


「これだから恋というのは厄介だ。まあ、今ではそこまで高価なものではないんだけど――」


 言いながら、お兄様はぷっくりとした白い果肉をリリー・メイの口元に運びます。まるで親鳥が雛に餌を与えるよう。リリー・メイは中心の種を避けて甘いところだけを齧りとります。


「私だって君のためなら何でもするよ」


 甘い果汁を堪能したリリー・メイはお行儀悪く唇を舐めると、図々しくおねだりしました。


「じゃあ、ずっとそばにいて欲しいわ」

「そんなことだけで良いの? 君が望む限り、ずっと一緒だよ」

「ベアトリスお姉様とケッコンしても?」


 リリー・メイが思った以上に意地悪な――あるいは必死な言い方になってしまいました。お茶会やダニエル、お姉様のことを話したからでしょうか。あの日のことが蘇ってそんなことを言わせるのです。お兄様がリリー・メイのお兄様でなくなってしまったら。ダニエルやお姉様のところに行ってしまったら、リリー・メイはどうしたら良いんでしょう。


「そんなことまで話したのか……」


 お兄様はまた一粒、茘枝をリリー・メイの口に押し込みました。あふれる果汁と種を持て余して、リリー・メイは頬をふくらませてしまいます。


「私の口から言えれば良かった。私とベアトリスは近く結婚すると思う。彼女は素敵なレディだから、光栄なことだとは思っている。

 でも愛している訳ではない。愛とか恋とか、そんなものは私にはあまりに苦々しい。私が愛しているのは君だけだ、リリー・メイ。絶対に今の暮らしが変わることはないと約束する」


 お兄様、お姉様のところに行ってしまうのね。リリー・メイの胸がちくりと痛みました。でも――


「リリーを愛するのは苦くないの? ずっとそばにいてくれる?」

 

 絶対に変わらない、とお兄様が言ってくれたのは痛み以上に嬉しいことでした。あまりに嬉しいので、もっとちゃんと確かめたくて、リリー・メイは重ねて問いかけます。


「そうだな。君は私の大切な――」


 お兄様は皮を剥いた茘枝をつまんだまま、考え込むかのようにたっぷりと間を開けました。


「妹だから」

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