第4話 刺繍の靴
リリー・メイの一日はいつもあまり変わません。
お勉強。本を読む。お茶とお菓子をいただく。これは一人だったりエドワードお兄様とだったりジェシカたちと一緒だったりします。もちろんお喋りも。ジェシカには刺繍や編み物を教わることもあります。
挙げてしまえばそれくらいです。
でも、お屋敷には本がたくさんあるし、お兄様はお仕事で色々な場所に行くのでとても面白いお話をしてくれます。刺繍の図案や編み物の模様は数え切れないほどあって、リリー・メイがおばあさんになるまで頑張っても全部覚えることはできそうにありません。
だから、リリー・メイは毎日楽しく過ごしているのです。
「今日は何をしようかしら……」
でも、今日に限ってはやることがなくてリリー・メイは困っています。
今日の分のお勉強は終わってしまいました。お兄様はまだお仕事です。ジェシカたちは何だか忙しそう。お兄様が帰ったらリリー・メイがお茶会に着ていく服を仕立てるために布を選ぶのです。畳んだままでは生地の持ち味が分からないので、一つ一つ広げて光を当てた時の艶や色の出方を見るのだそうです。商会の在庫をそれはいっぱい持ってきてくれるそうなので、応接室を片付けて場所を作らなくてはいけないそうです。
そういうことなので、リリー・メイは一人で時間を潰さなくてはいけないのです。
「退屈だわ……」
リリー・メイは黒髪をくるくると指に絡めては解いてつぶやきます。ジェシカたちがお手入れをしてくれる髪はとてもしなやかで、リボンで結んでもすぐに解けてしまうくらいです。指をくるりと回すと、髪のひと房が逃げるように手から離れていきます。
いつもなら本を読んで過ごせば良いのですが。でも、お気に入りの本はベアトリスお姉様に子供っぽいと笑われてしまいました。もう大人なんだから、と思うとお伽話を読む気持ちにはなれません。かといって難しい本を読むのも眠くなってしまうからいけません。お兄様が帰った時にはれぼったい顔では恥ずかしいですから。
「そうだわ」
何度目かに髪がするりと解けた瞬間、閃きました。
「探検しましょう」
お屋敷はとても広いのですが、リリー・メイは全部の部屋を見たことがないのです。例えば、お兄様のお父様、買い付けでほとんどお屋敷にいることがないラドフォード会長のお部屋は、大事な書類がたくさんあるから入っていけないと言われています。火や刃物を使う厨房も、危ないからダメだそうです。リリー・メイはお兄様の言いつけを破るつもりはありません。行ってみるのは他の場所です。
「離れに行くわ」
庭の片隅にある
でも、今なら。本を読む気にもなれなくて、話し相手もいない今なら。お屋敷の中で行ったことのない場所を探検してみようという気にもなるのです。
リリー・メイは離れの扉の前に経つと、端が少し反り返った瓦葺きの屋根を眺めました。オレンジに近い茶色の瓦と落ち着いた朱色の木の柱が庭の緑にとてもよく映えます。石造りの本館とは全く違うたたずまいは本で見た華夏の宮殿にそっくりでわくわくします。もっと早く来てみれば良かった、とリリー・メイは思いました。
屋根の上には魚の彫刻が載せてあります。水の生き物を飾るのは、火事を避けるためのおまじないなのだそうです。
図鑑で見るどの魚にも似ていないので、リリー・メイには何の彫刻か分かりませんでした。華夏の画家や彫刻家には世の中がどう見えているのか分からない、とお兄様が肩をすくめていたのを思い出します。
「開くかしら……」
リリー・メイはそっと扉に手をかけました。ジェシカたちがよく掃除をしているのでしょう、扉には塵ひとつ積もっていません。きちんと鍵もかけているのだとしたら、リリー・メイはまた時間の潰し方を考えなければなりません。
幸いにも、扉には鍵がかかっていませんでした。ジェシカたちのお手入れは完璧です。蝶つがいは音を立てることもなく、リリー・メイは屋内に滑り込むことができました。
「素敵……!」
リリー・メイは興奮してつぶやきました。
離れは、中の部屋も華夏風に統一されていました。壁紙は色鮮やかな唐草模様。隅に置青磁の壺が置かれています。天井を見上げれば牙を剥いて笑う
華夏の
お姫様気分を堪能すると、リリー・メイは探検を始めました。部屋の中もあまりに綺麗に整えられているものですから、あまり色々なものに触ってしまうのは良くない気がします。だから、リリー・メイは胸の前で両手を組んで、息をひそめて忍び足で進みます。部屋から部屋へ、廊下を渡ってあちこちを覗き込みました。
そして、ある部屋でリリー・メイは見つけました。
キャビネット、と呼んで良いのでしょうか。綺麗な飴色に磨かれた木材でできた、小さな戸棚です。横に四つ並んだ取手が四段――合わせて十六個の
「何か入っているのかしら」
リリー・メイは首を傾げてじっと戸棚を眺めます。抽斗には鳥や花の透かし彫りが彫られていますが、内側から布を張っているので中の様子は見えないのです。金古美の取手には黒真珠のような光沢の
これなら触っても手の跡をつけてしまうことはないわ。そう思ったリリー・メイは右上の取手に手を伸ばしました。少し引っ掛かりを感じましたが――ジェシカたちはいちいち抽斗を出し入れしてまで手入れをしていないのかもしれません――左右に揺らしながらゆっくり引っ張ると、ちゃんと引き出すことができました。
完全に引っ張り出した抽斗を、落とさないように両手で支えます。するとからり、と音がしたのでリリー・メイの心臓がとくんと高鳴りました。まるで宝物を見つけたような気持ちになったのです。
「これって……」
リリー・メイは今まで読んだ本の中からそれ、の名前を探します。華夏の物語によく出てくるもの。寝台にだらりと寝そべった人や、窓辺の貴婦人の手にあるもの。立ち上る煙と一緒に描かれる、これは――
「
管の部分は象牙。お兄様からもらったブローチと同じ、柔らかく艶やかな白です。先の部分は翡翠。こちらは本物を見たことがないので、リリー・メイには多分、としか言えませんが。手にとってしげしげと眺めると蝶の模様が刻まれていて、とても手の込んだものだと分かります。
「お兄様のお父様のものかしら?」
お兄様は煙草も阿片も嫌いだと言っていました。お兄様のお父様、ラドフォード会長にはほんの何回かしか会ったことがないので、リリー・メイは何がお好きか知らないのです。
とにかく、煙管が誰のものでも何のためのものでも、今までに見たことがない
煙管はもとの抽斗に収めて、足元に置いて。リリー・メイはひとつひとつ抽斗を開けていきます。降誕節の前にお兄様にもらった仕掛けの暦のことを思い出します。絵の中に扉が隠れていて、開けると小さなお菓子が入っているのです。リリー・メイはもらったその日に全部開けて食べてしまおうとしたのですが、一日にひとつだけ、と止められてしまったのです。
今はお兄様もジェシカもいません。好きなように全部の抽斗を開けても止められることはないのです。
手鏡。最初に考えた通りの刺繍道具――針山や糸巻き。大小様々な大きさの筆。空の抽斗もありましたけど、見つけた品々はどれも華夏風の珍しいもので、リリー・メイの手は止まりません。次は何が出てくるかしら、と次々と抽斗を開けては閉めていきます。
「まあ……!」
とうとう最後の抽斗を開けた時、リリー・メイは感嘆のため息をつきました。
入っていたのは、赤い絹に金色の蓮の花が刺繍された靴でした。小さな抽斗に入っていたのだから当たり前ですが、とても小さな靴です。小柄なリリー・メイだって履くことはできそうにありません。かといってもっと小さな子供のためかというと、それも違うようです。
靴のつま先は三角形に尖っていて、人間のつま先が入りそうにはなかったのです。きっとお人形さんのための靴ね、とリリー・メイは思いました。絵本で見た華夏の公主様がそのまま小さくなったようなお人形を思い浮かべて、リリー・メイはうっとりしました。羽根を広げた孔雀のように沢山の
「ここにいたのか、悪戯っ子め」
あまりにうっとりしていたので、背後からいきなり話しかけられたリリー・メイは文字通りに飛び上がりました。
「お兄様!?」
慌てて後ろを振り向くと、しかめっ面で腕組みをしたお兄様が立っていました。
「
ここのところ、お兄様の怖いお顔ばかりを見ている気がします。これではレディなんて言えません。リリー・メイは靴を抱えたままうなだれました。
「ごめんなさい……」
「早く戻ろう、皆君を待っている。――まったく、埃だらけになって」
言われて見下ろせば、深緑色のワンピースには白く埃が積もったようになってしまっています。綺麗に掃除してあるようで細かい塵は残っているのか、それとも抽斗を開け閉めしていたのが良くなかったのかもしれません。
お兄様にもらった服を汚してしまったのが申し訳なくて、リリー・メイは言い訳を探します。無理もないことなのよ、と訴えたかったのです。
「綺麗なものがたくさん入っていたから、つい夢中になってしまったの。特にこの靴は素敵。こんなに小さいのに細かい刺繍の模様が入っていて。お人形のかしら、人間が履けるはずがないもの。お兄様、持ち主のお人形はいないの?」
靴を差し出して見せると、お兄様は一層怖い顔になりました。
「人形。人形か……」
「お兄様?」
綺麗だねと言ってくれると思ったのに。お兄様の空色の瞳は雲に隠れてしまったかのようにくすんだ色をしています。すぐそばにいるのに見てくれてはいないようで。リリー・メイは途方に暮れて、お兄様に寄り添うように、胸のあたりに頬を寄せました。するとお兄様はその感触に驚いたように、目を大きく見開きました。そして、やっとリリー・メイに向かって話しかけてくれました。
「そう、とても綺麗な人形だった。でももういないんだ。壊れてしまったから、燃やしてしまった。天に還ったよ。服やなんかも、処分したと思っていたんだが……」
燃やしてしまった、なんて。もったいなくて可哀想で、リリー・メイは思わず大きな声を出してしまいました。
「そんな、もったいないわ。この靴、私の宝物にしても良い? 大事にするから」
言った瞬間、失敗してしまった、と思いました。勝手に離れに入ったこと、姿を消してしまったことをまだ許してもらっていないのです。おねだりなんてしてはいけないことでした。
お兄様はしばらく苦い顔をしていましたが、やがてゆっくりとうなずきました。
「……良いだろう。それは君のものになるはずだった」
よく意味が分からないのですが、どうやら許してもらえたのでしょうか。いつものように甘えて良いのでしょうか。困って固まってしまったリリー・メイに、お兄様は手を差し出します。手をつないで帰ろう、ということのようです。
リリー・メイはようやく安心して、お兄様の手を取りました。
離れからの帰り道、お兄様は一言もしゃべりませんでした。握った手は普段と変わらず温かいのですが、まだ怒っているのかしらと不安になってしまいます。
本館に入る時、リリー・メイは恐る恐る自分から口を開きました。
「お兄様、私、服を作るなら華夏風の生地が良いわ。この靴みたいにお花の刺繍が入っているの、あるかしら?」
手を握る力がぎゅっと強くなりました。
「さあ、あったかな。まずは色々見てごらん。実際見れば気も変わるかもしれない」
気が変わるとは思えませんでした。珍しい異国の意匠だからか、それとも探検の高揚が特別な思い出になったのか。いずれにしても、リリー・メイはこの靴がすっかり気に入ってしまったのです。でも、お兄様はそんなことを聞きたくないだろうと、なぜかよく分かってしまいました。だから、リリー・メイは、お兄様が気に入りそうなことを一瞬のうちに一生懸命考えました。
「そうね。お兄様、流行りの生地をたくさん持って来てくださったのよね。楽しみだわ」
そしてそれは間違いではなかったようで。お兄様はリリー・メイを見下ろすと、お日様の笑顔を見せてくれたのでした。
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