第3話 ベアトリスお姉様
今日はお客様が来るのでリリー・メイは朝からおめかしをしています。
そうは言っても、お出かけすることのないリリー・メイはあまりたくさんの服を持っている訳ではありません。袖のふくらんだ白いブラウスに、ペチコートを重ねた紺色のスカート。暑くなってきたから素材はさらっとしたリネンで。いつもの格好です。それでもおろしたてなので、何だか気持ちが楽しくなります。
黒い髪は丁寧に梳いてもらいます。夜の川の水面のように――これもリリー・メイは見たことがありません。お兄様がそう言っていたのです――滑らかに輝くまで。仕上げにお兄様が持ってきてくれた白い百合を飾れば出来上がりです。
召使のジェシカが掲げてくれた鏡の中のリリー・メイは完璧でした。ここ最近は体調も良くて、顔色が青ざめていたり隈ができていたりということはないのです。食事も残さずお薬もきちんと飲んでいるので頬は薔薇色でふっくらとしています。
「とても可愛いよ、リリー・メイ」
「ありがとう」
お兄様の言葉は総督閣下の保証状みたい。これさえあれば大丈夫、ということなのだそうです。だからリリー・メイは安心してお客様を待つことができるのです。
「ごきげんよう、リリー・メイ! 今日も黒い瞳が小鳥みたいで可愛いわ。顔色も良いようね?」
「ありがとう、ベアトリスお姉様。お兄様のおかげなの。お会いできて嬉しいわ」
リリー・メイをぎゅっと抱きしめて挨拶するのは、ベアトリスお姉様。エドワードお兄様のお友だちで、リリー・メイにもよく会いに来てくれます。
杏色の髪とキャラメルみたいに柔らかい茶色の瞳。その印象のままの、とても優しい人です。いつも租界で流行りのお菓子を持ってきてくれるので、リリー・メイはお姉様と会えるのをとても楽しみにしています。
気持ちの良い木陰に椅子とテーブルを並べて、召使のジェシカにお茶を淹れてもらって。一通りの挨拶が済むと、お姉様はさっそく今日のお菓子を広げて見せてくれました。
「今日のお菓子は焼きメレンゲよ。卵白を泡立てて焼いたの。それぞれ色で味が変わっていて――これはレモン、オレンジ、ピスタチオ。ね、おもしろい食感でしょう?」
ベアトリスお姉様が並べてくれたお菓子は、見た目は絞り出しのクッキーのようなのにつまみ上げるととても軽くて、齧るとサクサクとしているのに口に入れるとふわふわと溶けてしまいます。
「本当……とても軽くて食べている気がしないくらい。ね、こういうの、雪みたいって言うのでしょう?」
問いかけたのはお兄様に対してです。リリー・メイだって雪を見たことはありますが、身体が冷えるといけないので手で触れたことはありません。でも、綿のように軽くてすぐに溶けてしまうものだということは知っています。
「そうだよ。よく覚えているね。賢い子だ、リリー」
「相変わらず過保護ね、エドワード」
いつものようにお兄様は微笑んで褒めてくれます。一方、お姉様はなんだか呆れたような表情をしています。
「リリーのことをお屋敷に閉じ込めて何も見せないなんて。それに、その服も! ラドフォード商会の令嬢がそんな時代遅れの服ばかり着ているなんて、可哀想だと思わない? 綺麗な黒髪に黒い瞳ですもの。どんな色のどんなデザインでもきっとよく似合うわ。
ねえ、リリーだってもっと可愛い服が着てみたいでしょう? 外に出たいでしょう? お洒落して、話題のお店を物色しながらお喋りするの。楽しそうだと思わない?」
「え、ええと……」
お姉様が身を乗り出して流れるように問いかけるので、リリー・メイは困ってしまいます。リリー・メイは自分が可哀想だなんて思っていません。 今の格好でも可愛いと言ってもらえるし、お菓子を食べて本を読んで、お兄様のお話を聞くことさえできれば、これ以上何も欲しいものなどないのです。それは、できればお薬はなくなって欲しいのですけど。
お兄様の方を横目で見ると、ほんの少しですが眉を寄せて唇をまっすぐに結んでいて、リリー・メイが何と答えるかをじっと見守っています。お兄様がこんな顔をするなんて、お日様が雲に隠れてしまったようです。
どうやらお姉様のお誘いはお兄様のお気に召さないみたい。そう思うと余計にどう答えれば良いのか分からなくなってしまいます。
「でも、お姉様。リリーは外に出たいなんて思っていないし、服だってお兄様が選んでくださるから――」
「あとは、焼きたてのお菓子ね。いつも私が持ってくるのは冷めてしまっているもの。できたてをお店でいただくのはまた格別よ。お店によっては作っているところを見ることもできるの。ガラス張りの厨房の中で、クリームを塗ったり飴細工を作ったりする職人さんたちに手を振ることもできるのよ」
「お兄様! 焼きたてのお菓子ですって!」
リリー・メイは思わず勢いよく顔を上げてお兄様を見上げました。お姉様のお菓子はいつもとても美味しいのです。それができたてなら、もっとずっと美味しいに違いありません。
お出かけしては、駄目かしら? リリー・メイは目をきらきらさせてお兄様に訴えます。でも――
「それならジェシカに焼いてもらえば良いだろう」
お兄様の声が冷たくて、お顔が怖くて、リリー・メイはそれ以上何も言えなくなってしまいました。
「変なことを吹き込まないでくれ、ベアトリス」
お兄様はお姉様にも険しい声で続けます。
「リリーが身体が弱いのは知っているだろう。最近は安定しているとはいえ、あちこち連れ出されて熱を出されるては困るんだ」
「そうね、軽率だったわ。ごめんなさい」
お兄様に怒られてもにっこり笑ったままのお姉様は、すごい。リリー・メイが感心していると、お姉様はまた口を開きました。
「でも、ずっとこのままのつもり? リリーだってもう少ししたら社交界にデビューしなければならないじゃない。ええ、病弱だからできるかどうか分からない。でも、できるかもしれないでしょう? 流行りも分からない、お友だちもいないじゃそれこそ困るでしょう。どんなに好きでもあなたはリリーと結婚できる訳じゃないのよ?
過保護なのもほどほどにした方が良いんじゃないかしら。リリーのためよ」
「…………」
お兄様の眉間の皺がますます深くなり、口の両端が下がってしまっています。それなのにお姉さまは全然気にしてないみたい。リリー・メイは二人の間ではらはらしています。
「……礼儀作法も勉強も私が見ている。リリーは賢いから心配いらない。お洒落や流行は……子供にはまだ早い」
「お勉強、ね」
唇を曲げたままのお兄様とは対照的に、お姉様は余裕の表情です。でも、いつもの優しい笑顔ではなくて、何かおかしな雰囲気です。苦い、というのではないけれど。味に例えるなら多分美味しいものではなさそうです。
「そうなの、お姉様。リリーはお勉強も頑張っているから、今のままで何も悪いことなんてないの。お兄様はもう立派なレディだって」
「ええ、リリーは賢いものね。じゃあ、今は何を読んでいるのかしら? 歴史や地理の本は別よ」
「華夏の王子様が魔法の馬に乗って世界中を冒険するお話よ。とてもおもしろいの」
この前お兄様に読んでもらった本のことです。世界中の国の衣装や動物、草花を色鮮やかに描いた大判の本です。布張りに金の型押しで表題を描いた装丁も豪華なもので、お兄様にもらったリリー・メイの宝物の一つです。もちろんもう自分で全部読めるのですが、お兄様の低くて落ち着いた声で読んでもらうのも大好きです。
だから、リリー・メイは胸を張ってお姉さまに答えたのです。でも、どういう訳かお姉さまは声を立てて笑いました。やっぱり変な感じがします。口元を手で隠した、レディの上品な笑い方ではありましたけど。
「本当にお子様ね! ねえ、リリー、あなたくらいの年頃の女の子は皆、社交界の噂話を載せた雑誌やお芝居の脚本、物語を読むのよ。もちろんどれも恋の話ばかり。恋の駆け引きを知らなくては、本当のレディにはなれないのよ」
「お子様……」
大事な本を笑われて、リリー・メイはしゅんとうなだれてしまいます。そんな彼女を慰めるように、お姉様は手を伸ばして髪を撫でてくれます。ちらりと見上げてみれば、いつものお姉さまの優しい顔で、リリー・メイはほっとしました。
「ごめんなさい、馬鹿にした訳ではないのよ。
リリー、今度私の家でお茶会を開くの。あなたくらいの小さなレディも何人か呼ぶつもりよ。あなたも来てみない? お伽話ばかりじゃなくて、恋の話も良いものよ」
「恋の、話?」
リリー・メイは恋の話なんてしたくはありません。恋は苦いものだと言います。リリー・メイは苦いものは嫌いなのです。
「ええ。さっきの本も冒険ものだなんて。エドワードはあなたが子供のままが良いのかしら。年上のお姉様や小母様たちもいらっしゃるのよ。大人の世界を覗いてみない?」
苦いのは、嫌。でも、子供扱いされるのも嫌です。苦いお薬を飲んだらお兄様は良い子だねって褒めてくれる。お茶会に特別行きたい訳ではないけれど、我慢して行ったら大人のレディになれるかしら?
「お兄様……」
「行ってみたいの?」
まだ苦いものを食べたような顔をしているお兄様。リリー・メイはこくりと小さく頷きます。本当は、行きたいというよりは大人になりたいということなのですが。お兄様の様子がいつもと違うので、細々と説明するのが少し怖いのです。
「そう遠出という訳じゃないでしょう。馬車に乗ってしまえばほとんど歩くことさえないし、港あたりの汚れた空気を吸うこともない。心配なんていらないわ。それに、私がいるもの」
そうです。知らない人と会うのは怖いけれど、お姉様と一緒なら安心です。お兄様が来てくれれば一番良いのですが、お仕事があるからリリー・メイにばかりついている訳にはいかないでしょう。
「急いで大人になることなんてないのに」
ふう、とお兄様はため息をつきました。
「分かった。ベアトリス、君を信じよう。リリー・メイ、熱があると思ったらすぐに帰してもらうように」
お姉さまは満足そうに微笑んで頷きました。お腹いっぱいに美味しいものを食べた時のようです。
「すぐに招待状を送るわ。流行りの可愛い服を用意してあげてね。ラドフォード商会なら容易いでしょう」
「そうだな。どうせならどの令嬢にも負けないようにしなくては。リリー、今度布地を持ってこよう。色と模様からよく選んで――本物のお姫様のようにしてあげよう」
口ではそう言いながら、お兄様はまだ苦い顔をしています。やっぱりお断りした方が良かったのかしら、とリリー・メイは心配になりました。リリー・メイはお日様みたいなお兄様が大好きなのです。曇ったお顔は悲しくなってしまいます。
「お兄様」
リリー・メイは立ち上がってお兄様のそばに行くと、そっと袖を引っ張りました。
「リリー、良い子にするわ。お薬も飲むし、お茶会でもちゃんとレディの振る舞いをするわ」
だから、怖いお顔はやめて? リリー・メイは一生懸命訴えます。するとお兄様はまたふう、とため息をつきました。
「君のせいじゃない。そう、確かに私は過保護だな。笑って送り出そう、リリー。行って楽しんでおいで」
そう言うとお兄様はリリー・メイに微笑みかけました。少しぎこちない微笑みではありましたけれど、やっといつもの優しいお兄様に戻ってくれました。
「ありがとう、お兄様!」
だから、リリー・メイも心の底から笑い返すことができるのでした。
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