第2話 リリー・メイの宝物

 リリー・メイは今日も苦いお薬を飲み干します。


「お兄様、見て!」


 ちゃんと全部飲んだのよ、と。空になったお椀の底をお兄様に見せると、エドワードお兄様はにっこり笑ってリリー・メイの頭を撫でてくれました。


「よく頑張ったね」


 季節の変わり目というのは困ったもので、ここ何日か暖かくなってはまた寒くなるお天気が続いています。身体の弱いリリー・メイはそれについていけなくて、少し体調を崩してしまっていたのです。おかげでしばらくはベッドに寝たきりを命じられてしまいました。本とお兄様のお話があればベッドに寝たきりでも退屈することはありませんが、お薬の回数が増えるのは本当に嫌なことです。


「じゃあ、ご褒美だ」


 リリー・メイの気持ちはお兄様にはお見通しです。だから、毎日のように違った種類のお菓子や果物を口直しに持って来てくれています。

 ベッドに半身を起こして、寝間着のままで食べるのはだらしないこと。普通ならやってはいけないことですが、お兄様はこういう時なら良いだろう、と言ってくれます。甘いものが楽しみなのはもちろん、お兄様の気遣いや特別扱いしてもらえるのが嬉しくて、リリー・メイは苦いお薬も我慢して飲むことができるのです。お兄様の作戦なのでしょうけれど。でも、嬉しいから良いのです。


 今日のご褒美は、ガラスの器に盛られた果物でした。オレンジ色で、小さな四角形に切られていて。リリー・メイが見たことのないものです。


芒果マンゴーといって、南の国の果物だよ。珍しいだろう?」

「ええ。とても甘いのね……美味しいわ。お兄様、いつもありがとう!」

「気に入ってくれて良かった。ついでに授業につなげようと思ってね。今日は南の国のことを教えよう」


 お兄様はリリー・メイの先生でもあるのです。

 普通なら男の子は寄宿舎のあるスクールに行きますし、女の子も家庭教師の先生をお招きするのだそうです。でも、リリー・メイはしょっちゅう熱を出したりだるくなったりするので、日にちと時間を決めて授業をお願いするのが難しいのです。リリー・メイとしても知らない人に教わるよりは、大好きなお兄様の授業の方が楽しそうだと思うのでした。


「ほら、この前約束した象の置物だよ。これが鼻。芒果は象の国から運ばれて来たんだ」

「まあ、綺麗」

 

 お兄様が取り出した置物を見て、リリー・メイは歓声を上げました。

両手で持てるくらいの大きさで、太い四足に扇のように大きな耳の動物をかたどっています。頭の先に長い管のようなものがついているのが鼻だというなら、とても鼻の良い動物なのでしょうか。口元から一対の牙がにょきっと生えていて強そうなのに、黒いオニキスの目はつぶらでちょっと垂れていて優しそうです。

 屋根のついた小さな東屋あずまやのようなものを背に乗せていて、中には頭に布を巻いた茶色い肌の人が座っています。東屋はエナメルと宝石で、中の人もきらきらとした刺繍とビーズで細かい装飾がほどこされています。リリー・メイはお兄様が以前言っていたことを思い出しました。


「乗っているのは王様? 馬よりもずっと大きな生きものなのね」


 お兄様はよく覚えていたね、と言うように微笑むと頷きました。


「そうだよ。馬のように象は荷物を運ぶのに使われるが、馬のように車を引かせるよりも背中に荷物を載せるそうだ。王様のように豪華な輿ではないけれど、人を何人も一遍に乗せることもできるとか。南の国の港では、何頭もの象が行き交っているそうだよ」


 地図を広げて港の場所を示しながら、お兄様が語ります。今いる大鯨ダージンの場所は知っているので、リリー・メイには芒果がどれだけ遠くからやって来たのか分かりました。地図の上ではリリー・メイの掌で隠れてしまうくらいの距離なのに、実際には船で何日も航海しなければならないのです。


「牙? が生えているけど。危なくないのかしら」

「港で使う場合は牙は切り落としてしまう。この前見たのも牙はなかったな。以前象牙のブローチをあげただろう? あれは象の牙を磨いたものだよ」

「そうだったの! 宝石だと思っていたわ。あんなに綺麗になるのね……」


 それからお兄様は南の国の文化や風習を教えてくれました。

 女の人たちが染める綿は眩い太陽の赤や黄色、温かい雨に艶めく森の緑、そこに舞う蝶の青い模様に染められていて、商会でも人気の品だそうです。 他には香辛料や王様の鉱山から採れる宝石が運ばれてくるとか。何よりも、一年中暖かくて美味しい果物が食べられる、というところにリリー・メイは目を輝かせました。


「ずっと寒くなることはない、ということ? なんて素敵。大鯨もそうだったら良いのに」


 リリー・メイは季節の変わり目ごとに寝込んでしまうのに――そしてお薬を増やされるのに――うんざりしているのです。ずっと春か夏の気候なら、リリー・メイだって元気に過ごせるに違いないのです。


「素敵なことばかりかな? 暖かいと虫がたくさん出るらしいよ。こんなに大きな蛾が出るって」


 言いながら、お兄様は両手の掌を組み合わせてリリー・メイの首筋を撫でました。まるで本当に大きな蛾がとまったようで、リリー・メイは身震いしてしまいます。


「止めて! 虫なんて嫌いよ!」


 お兄様は手をほどくとおかしそうに声を立てて笑いました。


「どの国も良いところと悪いところがあるものだ。

 南の国は暑さと湿気のせいで熱病が怖い。華夏フアシアは伝統ある国だがその分新しい思想を取り入れるのに苦労しているようだ。本国は――街並みは美しいし技術の進歩はめざましいが、工場の煙で空は茶色に染まって、粉塵で肺がやられてしまう。

 あえて言うならこの大鯨はかなり良いところと言えるかもしれないが」

「そうかしら……」


 確かに、リリー・メイは何かというと熱を出したり倒れたりで、遠くへお出かけしたことはありません。それに、お兄様はリリー・メイの倍よりも歳上で、色々な場所で色々な人に会っています。だから、お兄様の言うことは本当なのでしょう。でも、考えが甘いと、子供っぽいと言われているようで、何だか面白くありません。


「そうだとも」


 軽く唇を尖らせたリリー・メイを軽くいなして、お兄様は本の頁をめくります。そこに描かれていたのは、南の国の色鮮やかな鳥たちでした。花や果実の色にも負けないような、赤い嘴や黄色い脚、青や緑の羽で目が痛くなりそうなほど。


「工場で空気が悪いということはないし、気候もそう極端ではないしね。租界では本国の先進的な文化と法が通用する一方で、華夏を始めとした異国の品々と雰囲気を楽しむことができる。リリーの身体を考えるとちょうど良かった。

 ――リリー、南の国は本物の楽園ではないかもしれないが、生き物や花々は確かに美しい。象はさすがに飼えないが、鸚鵡オウムはどうかな? いろんな色のが毎日のように入荷しているよ。結構懐くらしいし、簡単な挨拶くらいは覚えるとか」


 リリー・メイはますます唇を尖らせます。これで機嫌をとっているつもりなら、お兄様はリリー・メイのことを馬鹿にしているのだと思います。


「ひどいわお兄様。リリーの相手を鳥に任せようというのね。

だいたい、籠の中に閉じ込めるなんて可哀想じゃない。大鯨じゃお友だちもいないのに」


 するとお兄様は音を立てて本を閉じ、リリー・メイの顔をじっと見つめました。


「それは、リリー・メイのこと? リリーも外に出たり友だちを作ったりしたい?」

「そんなことないけど……何でそんなことを言うの?」


 あまりに真剣な顔で、問い詰めるように言われて、リリー・メイは戸惑ってしまいます。

 友だちと別れて遠い国から来た鸚鵡が、飛ぶこともできないで狭い鳥籠に閉じ込められてしまうのは可哀想です。でも、リリー・メイは生まれた時からずっとお屋敷にいます。無理矢理つれてこられた訳ではありません。鳥のように空を飛ぶこともできないし、すぐに体調を崩してしまうので、お出掛けしたいとも思いません。お兄様がいれば他にお友だちなんていりません。

 なぜ鳥の話なのにリリー・メイのことだと思ったのか、さっぱり分かりませんでした。


「いや、考えすぎだったな。すまなかった」


 首を傾げていると、お兄様は表情を緩めて笑ってくれました。


「リリーの望むことなら何でも叶えてあげたいから。今の暮らしに何か不満でもあるのかと思ってしまった」


 言いながら、お兄様はリリー・メイの頬を両手で挟んで、熱を測る時みたいに額と額をくっつけました。優しい青の瞳が間近で微笑んでいて、リリー・メイを吸い込んでしまいそうです。


「外に出たくなったら言ってくれ。私が鬱陶しくなった時も」

「そんなこと、あるはずないわ! もしお外に出かけるとしてもお兄様と一緒が良い」


 リリー・メイはお兄様が大好きなのです。鬱陶しくなるなんてありえません。お兄様がそんなことを考えていることの方が悲しいことです。


「嬉しいことを言ってくれる。でも、欲しいものがあったら遠慮せずに言うんだよ」

「うーん、ならお薬はなしにして欲しいわ」

「それはダメ。リリーの身体のためだからね」

「やっぱり?」


 そう言われるだろうと思ったので、がっかりすることはありません。むしろ、リリー・メイを大事にしてくれているのが分かって嬉しくて、くすくす笑ってしまいます。

リリー・メイは軽く首を振ってお兄様の手から逃れると、耳元に口を近づけておねだりをしました。


「じゃあ、本を読んで頂戴。お勉強のじゃなくて、物語を。お兄様が前にくださったお伽話が良いわ」

「ああ、取っておいで」


 リリー・メイはベッドからぴょんと飛び降りると、部屋の隅に置いた「宝箱」へ向かいます。木の箱を鉄で補強したそれは、もともとは船で貨物を運ぶのに使われるもの。お兄様が綺麗に洗って、色を塗って、内側を赤い天鵞絨びろうど張りにして、大きな宝石箱のようにしてくれたのです。

 宝箱の中から両手を使って大判の本を取り出すと、リリー・メイはベッドの枕元で待つお兄様のところへ戻ります。


「どのお話が良い?」

「どれでも。お兄様が開いたところからにして」


 リリー・メイは再びベッドに潜り込みながら答えます。その時に、象の置物が目に留まりました。これもあとで宝箱にしまわなくちゃ。もぞもぞと動いて本を見やすい位置を探しながら、リリー・メイは考えます。

 象牙のブローチ。孔雀の飾り羽。内側に水の入った瑪瑙。外国の切手や押し花入りの便箋、絵葉書。リリー・メイの宝箱の中身はみんなみんなお兄様にもらったものです。

 お兄様はリリー・メイのために何でもしてくれます。誰よりも大事にしてくれます。そのお兄様を嫌いになることなんて、どうしてできるでしょう。


「お兄様、大好きよ」


 リリー・メイはそっと囁くと、お兄様に寄り添って本を眺めました。

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