恋は苦い味がするとか

悠井すみれ

リリー・メイとお兄様

第1話 恋は苦い味がするとか

 大鯨ダージンの港は、名前のとおり大きな鯨が何頭も入れそうな大きな港です。毎日のように世界中のあちらこちらから色々な品物を載せた船が何隻も到着しては出発していきます。

 南の国からは珍しい香辛料や果物、色鮮やかな鳥や輝く真珠。東の国からは漆器や繊細な木や紙の細工物、金細工。そしてここ華夏フアシア国からはお茶や絹や陶磁器が。本国からの船は金や銀、火薬や阿片でいっぱいの船倉を大鯨で空にして、代わりにそれらの品々を詰め込んで帰るのです。

 様々な髪や肌や瞳の色をした人々が行き交い、様々な国の言葉が飛び交う大鯨。華夏国の一部でありながら、世界中の文化が入り交じった世界でも指折りの港町。望めば何でも手に入る夢の町。何でも起きる魔法の町。世界中の人が憧れる町なのです。


「お兄様、今日は何か面白いものをご覧になった?」

「象という動物が到着したよ。暑い国の動物でね、鼻が長いんだ。想像できるかな。今度新聞を持ってきてあげよう」


 とはいえリリー・メイは大鯨の港を自分の目で見たことがないのですが。黒い肌の人たちも、変わった形に髪を結い上げる東の国の人たちも。絹や刺繍やドレスを扱う商会の後継ぎである、エドワードお兄様からお話で聞くだけです。

 リリー・メイが暮らしているお屋敷は租界の一角にあります。租界は港の喧騒とは隔てられていて、まるで本国のような閑静で上品な家々や通りが並んでいるのです。


「リリーも見てみたいわ。新聞は色がついていないから嫌よ。象、ってどこにいるの? お兄様、リリーを連れて行って頂戴」

「ダメだよ。港も動物園もとても汚くてうるさいんだ。リリーはまた咳が出てしまう。絵では不満なら――そうだ、置物を探してこよう。南の国のもの凄く派手なやつだ。王様が乗る象は金銀宝石で飾り立てるという、その様をそのまま小さくしたようなのを」

「本当? ありがとう、お兄様!」


 リリー・メイは租界の町並みも知りません。もちろん本国のそれも。知っているのはこのお屋敷だけ。四季折々の花が咲く庭と、可愛らしい家具で調えられた部屋。お兄様が持ってきてくれる本やお菓子やお人形。お兄様が聞かせてくれる港のお話。そんなものがリリー・メイの世界の全てです。


 それでもリリー・メイは幸せです。お屋敷での日々に辛いことなんてなくて、毎日楽しく暮らしているからです。


「お兄様、大好きよ」


 何より、リリー・メイは優しくて格好良いエドワードお兄様が大好きなのですから。




「じゃあ、お薬の時間だ。良い子のリリー・メイ、今日もちゃんと飲むんだよ?」

「…………」

 

 リリー・メイは上目遣いでお日様みたいなお兄様の笑顔を見上げました。蜂蜜みたいな金色の髪に、晴れた空みたいな青い瞳。やっぱり今日も素敵です。でも、お薬はどうしても嫌なのです。もしかしたら、お屋敷の中でただ一つ、リリー・メイが嫌いなものかもしれません。


 二人が囲む丸いテーブルの上にはたくさんのお菓子がならんでいます。バターたっぷりの焼き菓子に、ナッツがたっぷり詰まった華夏風の点心。スコーンにはジャムやクリームを添えて。珍しいチョコレートまで揃っています。どれもリリー・メイの好きなものばかり。

 でもリリー・メイの一番近く、目の前にあるのは濁った緑色のお薬のお椀です。お薬を飲んだら好きなだけお菓子を食べて良いよ、という。お兄様のいつもの作戦なのです。


「ねえ、お兄様」


 恐る恐る、リリー・メイはお兄様に訴えます。


「リリーは、最近はあまり熱を出したり寝込んだりしてないわ。もうお薬はいらないんじゃない?」


 お兄様は変わらずにこにこと笑っています。リリー・メイは心の中でがっかりしました。大抵のおねだりなら聞いてくれるお兄様ですが、お薬についてだけは決して諦めてくれないのです。


「うん、とても良いことだ。きっとお薬を飲んでるおかげだね。だから、絶対に欠かしてはいけないよ」


 とても悲しい気持ちで、リリー・メイはお薬のお椀を眺めました。華夏の秘伝と言われる薬草を煎じたもので、まだ湯気が立っています。その臭いだけで、もう苦い。高価な薬草を惜しみなく用意してもらっているリリー・メイは幸せ者だと、召使のジェシカたちは言うのですが。でも、ジェシカたちはお薬を飲んだことなどないのです。


「お兄様……」

「リリー・メイ、飲まないとお薬はなくならないよ。お菓子だけじゃ嫌なら花も贈ろう。君の名前の通りに真っ白な百合の花を」


 どうあっても飲まなければならないのです。リリー・メイは意を決してお椀を手に取りました。少しずつ飲んでいたら飲みきれなくなってしまうのは分かっています。だから、できるだけ舌に触れないように、一気にお椀を傾けました。


「にが……」


 それでも口の中には苦い後味が残ります。最後の一滴まで飲み込んだリリー・メイが涙ぐんで俯くと、髪に何かが触れる感覚がします。お兄様がそばに来て頭を撫でてくれているのです。


「良い子だ、よく頑張ったね」

「お兄様!」


 リリー・メイはまだお薬の後味のせいで顔がぎゅっと真ん中に寄ってしまっています。ひどい顔を見られたくなくて、お兄様に抱きつきました。お兄様がいつもつけている爽やかな香水の香りで、気持ちが少しすっとします。

お兄様はリリー・メイの気持ちを分かってくれるのでしょう。顔を伏せたリリー・メイを黙って見下ろし、髪を梳いてくれます。絹糸のようだと褒めてくれる、夜のように真っ黒な髪を。


「ご褒美に好きなのを取ってあげよう。何が良い?」


 やっと苦味が落ち着いたリリー・メイは、顔を上げてテーブルの上のお菓子を一つ一つ見比べました。


「……スコーン」

「つけるのはジャム? クリーム?」

「両方」

「仰せのままに、お姫様」


 お兄様はスコーンを手に取ると二つに割り、ジャムとクリームをたっぷりと乗せてくれました。そして、それをリリー・メイの口元に差し出します。


「美味しいわ……」


 スコーンの香ばしさと苺のジャムの爽やかな甘さ、こってりとしたクリームの味。大好きなお菓子の味で、リリー・メイはやっといつもの顔に戻ることができました。


「それは良かった」


 お兄様は笑うと、リリー・メイの唇についたクリームを指先で拭ってくれました。まるで子供みたいな扱いで、リリー・メイは恥ずかしくなります。もう十二歳になるというのに。

 お兄様から目を逸らしながら、リリー・メイは残りのスコーンを頬張りました。二つに割ったスコーンのもう片方は、お兄様が何もつけずに食べています。半分こ、も何だか恥ずかしいことです。


「お茶は、ジャスミンで良い?」

「ええ、ありがとう、お兄様」


 ジャスミンのお茶は甘くはないけれど、さっぱりとして華やかな香りで、リリー・メイのお気に入りです。お兄様が淹れてくれるからなおさら。

 花の香りを楽しみながら、リリー・メイはまた一つお菓子をつまみます。こんなに甘くて美味しいのに、どうしてお薬はあんなに苦いのかしら。


「ねえ、お薬にお砂糖を入れたら少しは美味しくなるかしら」

「うーん、それはどうだろう」


 お兄様は困ったように笑いました。


「薬は苦いものだから。砂糖を入れても苦味が際立ってしまうかもね」

「そう……」


 良い考えだと思ったのに残念です。


「それに薬の味が苦いのは――」


 お兄様が言おうとしていることはリリー・メイにも分かりました。今まで何度も繰り返されたことだから。


「恋の味だから。恋は苦い味がするから」


 だから、二人の声はほとんど重なりました。何だかおかしくて、リリー・メイは笑ってしまいます。


「だから、恋なんてしてはいけないよ」


 微笑むお兄様に、リリー・メイもにっこりと頷きます。


「ええ、苦いのは大嫌い。それならリリーは恋なんていらないわ」

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