第3話 猛煙の犬と死闘の末に

 まるで時間の感覚が掴めない。彼らは、ずっと走り続けて来た。由真が、手が痛いと言って、ようやく徹は彼女の手を放した。彼らは息を切らし、丘の坂の途中で足を止めた。冷たい霧の中を通って来たから、二人の顔は青ざめ疲労も甚だしかった。見通しは相変わらず悪かった。が、先ほどと比べればまだ増しだった。それで、辺りの景色が霧の中に漂って、どうかするとその家並みが出現したり、ふっと消えてしまったりして、まるで現実味の無い世界をさまようような感覚に襲われるのだった。

 それは、本当におかしな光景だった。雲の車だ。まるで自動車のように、路上を雲が流れて行く。高い山の頂なら、そんな事も有り得るだろうが、住宅地になるような海抜の低い丘で、そんな現象が起こるとは考えもしなかった。

「わあ!」

 由真は思わず、感嘆の声を上げた。大型バスくらいはある雲の塊が、彼女の体にぶつかった。由真はびっくりして水中に潜るときと同じに、慌てて息を止めていた。そうしないと、窒息するように思えた。雲は何の抵抗も与えず、彼女の身体をすんなりすり抜けて行った。地上から見上げる大空に漂う雲を眺めていると、それが酷く実体のある物のように見えた。誰もが一度でいいから、その雲の上に飛び乗ってみたい、乗れないまでも触れてみたいと考えたことがあるはずだ。が、実際には蒸気や霧とあまり大差無かった。全く実体の無い物のようだった。

 また霧の切れ間ができて、由真の目の前に「豊岡」と言う立派な表札が、ふっと浮かび上がった。その向かいの電信柱には「桜ヶ丘5ー10」と言う街区表示板が見え隠れしいる。それは、彼女が登下校のおりに、幾度も目にしていたものだった。それが示すことは、ここが紛れも無く彼女のよく知る桜ヶ丘だと言う証だった。由真はふと振り返って、今上って来た所を見詰めた。眼下は相変わらず霧に遮られ、その先がもう真っ白で何も見渡せなかった。そこを下れば、先ほど戸部の叫び声がした障壁に突き当たる。戸部は大丈夫だろうか。反対に坂上は霧が段々薄くなって、そこを上れば迷わず彼女の自宅にたどり着けるはずだった。

「今、戻っても仕方がないよ。僕たちの力じゃ何もできない。さあ、行こう!」

 徹が、後ろばかり気にする由真に向かって力強く声を掛けた。それから、二人は覚悟を決めて、丘の坂道を上り始めた。


 由真たちは、ある人家の門に掲げられた、雅な大理石の表札を前にして、そこに「大森」と彫られた黒文字をじっと見詰めていた。ここは彼女の自宅に間違いなかった。しかし、そこから見上げる家屋は、その全貌がうかがえないほど霧に包まれ、昔話にでも登場する屋敷に似て、如何にも怪しげな雰囲気を醸し出していたのだ。由真はその異様な光景に、戸惑いを隠せなかった。彼女がその朝まで居た家屋とは、とても思えないのだった。

「本当にここなのかな? ねえ、ここなのかな?」

「そうなんじゃない。……だって、由真ちゃんの名字って大森だろう。住所も合っているし、やっぱりここだよ。とにかく、この辺りを捜してみよう。元気出して! 犬が……。チョコが、まだどこかに隠れているかも知れない。きっとどこかに居るはずだよ」

 徹の言葉には何の根拠も見いだせなかったが、その時の由真の気持ちを慰めるには十分な言葉だった。

 二人は大森の門を潜って、庭を回ることにした。庭と言っても家屋と塀の間に躑躅つつじや椿の植わった小さな土地で、裏庭にどうにか洗濯物を干せる狭い場所があるだけの、一回りするにも五分程度あれば十分なくらいの所だった。しかし、思いのほか濃い霧に阻まれ、そこは由真の住み慣れた場所であるにもかかわらず、彼女の足元は妙に覚束無かった。それで、庭先に並んだ植木鉢を何度も蹴飛ばしたり、奇麗に植わった生け垣に踏み込みそうになったりした。そこは、コンクリート塀は家の正面だけで、あとは隣家の椿の垣に囲まれていた。彼らはその生け垣に沿って向かいの敷地ものぞきながら、小さな柴犬の姿を求めて歩いた。庭を一回りするにも、非常に苦労を強いられることになった。

 由真は大きな声で、チョコと名前を呼び掛け、慌てて口を塞いだ。ふと、戸部の言っていた「大声を出してはいけない」と言う言葉が脳裏を過ぎったのだ。彼女には、その言葉にどんな意味が込められているのか想像も付かなかった。ただ戸部の話しぶりからして、何か重要な意味があるのだと言うことは、彼女にも直感的に感じられた。しかし、大声で叫ばなければ、チョコに声は届かない。見つけられるわけが無かった。私がここに来たことも、この霧ではチョコは気付かないだろう。彼女の声が届きさえすれば、必ずチョコは走って来ると確信していた。

「大声出しちゃだめなのかな?」

 由真は声をひそめて、徹に顔を向けた。

「構うものか!」

 徹は、ぶっきらぼうに言うと、勢いよく「チョコ!」と叫んだ。由真は徹を横目に、知らない人が叫んでも来るわけないのにと思いながらも、彼に勇気付けられた。彼女も負けないくらいの声で、チョコと名前を呼んだ。

 しばらくして、声もかれて諦め掛けていたときだった。由真は、その顔にはべそをいたような腫れぼったい沈ん色を落としていた。

「今、家の中で何か動いた?」

 徹が東側の大窓の前に立って、家内を指差した。

「でも、家には鍵が掛かっているから、誰も入れないよ」

 由真は不審に思いながらも、すぐに徹の側に駆け寄ると、行き成り指先で窓ガラスを二三度たたいてチョコと呼んでみた。彼女は何かしていないと、落ち着かなかった。そこはリビングらしく、薄暗い部屋の中で白革のソファーが一際目立って見えた。室内は静かなままで、怪しい影はどこにも見つからなかった。

「本当に居たの?」

「嘘じゃないよ。確かに、さっきは見たんだけど……。おかしいなー、どこに行ったのだろう?」

 二人は窓ガラスへ無理矢理、顔を押し付け、家の中をじっとのぞいていた。彼らの心持ちは、先ほど隣の家を用心深くうかがっていたときと同じであった。まるで他人の家を盗み見するようだった。

「家に上がって調べて来れば」

「黙って来たから、家の鍵を持ってない」

「どこかに隠してないの? 植木鉢の下とか、郵便受けの中とかに……」

「そんな事しないでしょ。泥棒に入って下さいって、言っているようなものじゃない」

 彼らは、二周目の家の周囲を巡り始めた。今度はどこか鍵の開いているのを、窓か扉を確かめて歩いたのだ。

「こんな時に、戸部さんが居てくれればいいのにね。戸部さん、本当に大丈夫なのか知らん」

 由真はそう言ったまま、顔を暗くした。ある不安が呼び覚まされる気がした。――戸部の消息は、丘の障壁の内側に居る由真たちには、まるで知る手立てが無かった。彼らが耳にした状況から判断しても、ただでは済まないことは容易に想像ができた。由真の脳裏に浮かぶことは悪いことばかりだった。それで、あまりその事を考えないようにしていたのだ。

「あのオッサンなら大丈夫だよ。独りであんな抜け道を調べるくらいだからな。――ここも開かないなー」

 徹は気のない由真に代わって、最後の扉を押して確かめた。やはり窓はびくともしなかった。家の窓は、全てしっかりと施錠されていた。一カ所も入れそうな窓は無かった。二人は再び玄関の重厚な扉の前に来ていた。徹が鍵穴に顔を近づけ、解錠できないかと調べていたのだ。由真は心配そうに、彼のやることを眺めていた。徹は鍵穴に親指の爪を突き立てると、鍵を差し込む要領で回してみた。

「どう上手くいきそう?」

「うー、道具が無いとだめだね。どうすることもできないよ」

「道具って、ドライバーとか?」

「うん、あるの?」

「ドライバーなら、――階段下の押し入れあったと思うけど、でも家の中だから取って来られないね」

「そうなの。この扉は頑丈で壊せそうに無いし、無理だね」

「こ、壊す! 壊しちゃだめよ」

 由真は、さすがに「壊す」と言う徹の突飛な言葉に狼狽の色を隠せず、彼に詰め寄った。

「壊してないよね!」

「壊してないってば、――でも、そうでもしないと家の中に入れないよ」

 それで、由真たちは家の中へ入る策を巡らせながら、もう一度裏口に回った。その間も、窓越しに家内の様子を確かめることを忘れなかった。ついでに、徹が目にした黒い影の正体が分かれば幸いと思っていた。すると、ちょうどその窓から台所が見渡せる所で、また怪しい影が現れた。今度は、由真も一緒にその影を目撃して、激しく胸を突かれた。何か黒いものが、食卓の下を走り回るのが目に飛び込んで来たのだった。大きさも小犬くらいで、チョコと同じであった。しかし、一瞬の出来事だったために、確証は得られなかった。由真はそれで、先ほどとは気を変えて、どんな手段を使ってでも、その影の正体を突き止めたくなったのだ。

「できるだけ小さな窓にしてね。ガラス代、高いんだから」

 結局、彼らは窓ガラスを壊して、泥棒のように家の中へ進入することに決めたのだ。

「石で割るしかないんじゃない」

 二人は裏口に来ると、そこから見えるある窓に狙いをつけて、鋭い眼差しを向けていた。由真は庭から持ち出したであろう、彼女の小さな手の平には持て余すほどの大きな天然石を握っていた。その石を徹は彼自身が見つけた小石を隠すように捨てて、受け取った。彼は、すぐには石を打ち付ける決心が付かないらしい。

「やっていいんだよね。本当にいいんだよね」

 と、徹は何度も由真に同意を求めた後に、ようやく第一撃を振りかざした。彼は手にした石を、窓ガラスのちょうど真ん中辺りへ目掛けて打ち付けた。と同時に、大きな太鼓を打ったときのような張りのある響きを立て、徹の腕は石とともに弾き返された。ガラスだから簡単に粉砕できると高をくくっていた。彼は意外だと言う顔で、傷一つ付いていない窓ガラスを呆然と見詰めていた。

「これは、案外と丈夫なのかも知れないよ」

 徹は、にやつくように歯を見せた。再び徹が石を振りかざそうとすると、今度は自分がやると由真が言い出した。徹は「危ないよ!」と止めるのだが、由真は一度口にしたら、頑として彼の言うことを聞こうとしなかった。

「こうやって、石を打ち付けるんだ」

 徹は由真に向かって、手真似して見せた。――由真の一撃には、全くの躊躇ためらいが無かった。彼女が石をたたき付けるなり、石は窓ガラスを突き破って、鋭利な破片が崩れるように落ちた。それが、意外なほど甲高い音を立て辺りに響き渡ったから、二人は思わず身を縮こまらせた。

「血! 由真ちゃん、腕から血が出ているよ!」

 由真は徹の声で、正気に戻ったふうに、彼女自身の腕に焦点を合わせた。彼の言う通り、彼女の手の甲から鮮血が滴り落ちているのが分かった。

「ゆ、由真ちゃん。大丈夫!」

 徹の顔は青ざめ、唇も白く乾いていた。

「大丈夫、ちょっと切っただけだから平気……」

 由真は白地に花柄のハンカチで、傷口を押さえて止血した。すぐにその花が赤黒くにじんだ。ある程度血が広がると、血のにじみはそれ以上大きくならなかった。

「ここは、ガラスが散らばって危ないから……。すぐ裏口を開けて来るから、裏で待っていてね」

 由真はそう言うが早いか、怪我のことも忘れたように勢いを付けて、窓枠にしがみ付いた。中に入って、床に飛び下りると、そこに散らばったガラス破片を踏んで、ぎしぎしと不快な音がした。由真はそのまま土足で、いつ靴を脱ごうか戸惑いながら、ドタドタと床を鳴らして歩いて行った。普段の彼女なら、こんな行動は信じられなかった。丘にたどり着くまでに、たくさんの家の中を通って来て、最初こそ土足を気にし、一々靴を脱いでいたのが、脱いでいる時間も惜しくて、そのまま通り抜けることがあった。それで、多少は土足で上がることに抵抗を感じなくなってしまったのだろうか。それに鋭いガラスの破片で、足の裏を傷つけるのを恐れてのこともあった。裏口の扉まで来て、靴底を上にして確かめた。ガラスが底にくっ付いたままだと大変だと思い直すと、すぐ靴を脱ぐことにした。由真が裏口を開くと、徹の待ちわびたような顔が現れた。

「さあ、上がって」

 由真は昔からの親友のように、徹を自宅に招いた。ところが、徹はすぐには上がらずに、何かもじもじして、その態度は落ち着きが無かった。

「どうしたの? さあ、早くして扉を閉めるよ」

「うん、――女の子の家を訪ねるのは、初めての経験だから、ちょっと戸惑っただけなんだ」

 徹の声は、終わりの方が側に居る由真にも届かないほど弱々しかった。

「じゃあ、外で待っている?」

 由真は、徹の小さな声も聞き逃さなかった。

「分かったから……。今、入るよ」

 由真たちが一階の部屋を調べて回った限り、どこにも変わった所は見当たらなかった。台所も奇麗に片付いていたし、食卓の椅子も乱れていなかった。何か荒らされた形跡は皆無だった。彼女の記憶が確かだろうが、曖昧だろうが、特に異常は確認できなかったのだ。

「やっぱり何も居なかったじゃない」

 由真にそう言われ、徹は困ってしまった。窓ガラスを割ってまで家内に侵入し、何も成果が得られないのでは、ガラスを割っただけ損をしたことになる。由真は、先ほど怪しい影を目撃した。それが、愛犬のチョコだとは限らない。丘の状況から判断して、彼女が居ない間に、家の中で何か異変が起こっていても不思議は無かった。それにチョコなら、彼女が帰って来れば、必ず顔を見せるはずだ。しかし、それが無い。ここが彼女の自宅でありながら、家内の全ての部屋を確かめないうちには、彼女は少しも安心できないのだった。――彼らは階段の上り口に立って、薄明かりの階段を見上げていた。二階は恐ろしいほど静まり返っていて、何かが潜んでいると言う気配は、少しも感じられなかった。それが、かえって不気味であった。

 由真のところは、総二階で一階と同等の広さがある。部屋数が多く、扉を一つ一つ開けて回らなければならなかった。その上、室内には何が潜んでいるのか分からない。由真たちは、階段を上がった側から順番に部屋の扉を開いていった。由真の父の書斎、二階の客間、空き部屋、母の部屋、納戸、一番奥が由真の部屋だった。どの部屋も、しっかり窓は閉まっていた。何者かが侵入したと言う痕跡は認められなかった。由真は、最後に彼女自身の部屋に入って来て、ほっと息をついて机の椅子に腰を下ろした。

「さっきのは、どこに行ったんだろう?」

 徹は由真の部屋に入ると、室内を物珍しそうに見回した。それで、本棚に置かれたクッキーの缶が目に留まったらしく、思わず手を伸ばそうとした。

「中身は入ってないよ」

「なーんだ」

 徹は、がっかりしたようにつぶやいた。由真は、彼女自身の部屋が勝手にいじられる気がして、少し嫌悪を感じた。それが彼女の語調に自然と現れていたのが、その事に彼女自身の方が驚いていた。それも一瞬で現状を考えれば、それは取るに足らないことだった。

「何だ? あの煙!」

 手持ち無沙汰になって、窓外を見下ろしていた徹が、突然と頓狂な声で叫んだ。戸外は深い霧に包まれていて、その事を言っているのなら、先ほど散々目にして来たはずだった。由真は、おかしいな事を言うなと不審そうに、徹の側に近寄ったのが、彼の言った通りであった。その怪しい煙は、まるで純水の中に垂らした血の一滴に等しく、毒々しい黒煙が白い霧の中で蠢いていた。その煙は次第に勢いを増すらしく、あるいはこちらへ迫って来るからなのか、激しく燃え盛って見えた。すると、その中で犬のけたたましく吠え立てる鳴き声がした。それも一匹では無く、数匹が獰猛どうもうに威嚇し合う声が反響して恐ろしかった。由真は突然と酷い悪寒に襲われ、顔も青白かった。

「火事じゃないかな。この霧じゃ、どこなのか分からないけどね。ここまで火の手が回って来るのかな?」

「ちっともここからじゃ見えない。下に行こう」

 由真たちは、急いで狭い階段を駆け下りると、恐ろしい黒煙が彼女の家のすぐ側に迫って来ているのを、目の当たりにして驚愕した。彼らは表通りに面したリビングのガラス戸の前に立って、そこから外の有様を眺めていたのだ。先ほど見た石油かゴム製品が燃えるような黒煙は、既に庭の中まで及んで、もうもうと立ち込めるのが見て取れた。由真は思っていた以上に、火の手が迫っているので心配になった。隣家を幾度も確かめ見渡すのだが、霧が濃いために、炎の場所までは特定できなかった。

「ここまで来ないよね」

 由真が不安そうにしている間にも、眼前に新たな黒煙がもくもくと立ち上った。その瞬間、何かが激しくガラス戸にぶつかり、太鼓の響きに似た強烈な破裂音を立てた。二人は腰が抜けるほど驚いて、尻餅をつく格好で身を退かしていた。ガラス戸の間近でその黒煙が渦を巻いていた。由真も徹も呆然として、何が起こったのか分からなかった。――彼らはようやく立ち上がって、恐る恐る外の様子をのぞき込んだ。その途端に、猛然と吠え立てる犬の鳴き声に襲われた。由真は、こんなに敵意をむき出しにする犬の声を聞いたことが無かった。

「犬だ! あんな大きな犬が居るよ」

 徹が青ざめた顔をして、ガラス戸の向こうを凝視していた。しかし、猛煙が視界を遮っていた。由真は怖々とガラス戸に近づいて、彼の言う大きな犬がどこに居るのか確かめた。すると、再び何かがぶつかって来たと思うと、狂気に歪んだ犬の顔が由真目掛けて飛び掛かって来た。すぐにガラス戸に弾かれ、また黒煙に紛れ見えなくなってしまった。由真は、その鋭い牙が彼女の喉元を引き裂くのではないかと恐怖を感じた。その犬は黒煙の中から現れたのだろうか? 今はその姿は見つけられなかった。

「家の中にまで入って来ないようね」

 徹は、心配そうな表情を浮かべた。由真はまだ動悸が治まらず、何も答えることができなかった。彼女の家に火の手が迫っている上に、恐ろしい野犬が家の周りをうろついている。どうしてこうも悪いことが続くのだろう。

 凶暴な犬は荒々しく吠え立てて、幾度もガラス戸に飛びついて来た。由真たちを襲おうとしているのは明らかだった。幸いにも、その犬の力ではガラスを蹴破ることは不可能ならしい。しかし、由真はある一つの不安を覚えていた。大事なことを忘れている気がした。それが何だったか、あと少しで思い出しそうなのだが、肝心なところがはっきりとしなかった。

 またバンと激しい勢いで、犬がガラス戸にぶつかった。

「大丈夫だよ。コイツらじゃ。このガラスは壊せない」

 徹はそう言いながらも、戸の側には近寄らなかった。壊れないとは分かっていても、やはり恐ろしかった。

「壊せない?」

「あっ、ガラス! 壊した窓ガラスだ」

 徹も同じことに気付いたらしい。由真は、彼と目を合わせてうなずいた。

「急いでガラスの割れた窓を何とかしないと、そこから家の中に犬が侵入して来るんじゃない」

 由真は、徹がしゃべり終わらないうちに、もうその窓の方へ走っていた。

「でも、待って!」

「どうして?」 

 由真は、徹の突然の制止に、びっくりして足を止め振り返った。

「今行くと、外の犬まで追い掛けて来るから、壊れた窓までわざわざ案内することになるよ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

 由真は、チョコのこともあるが、次々と起こる奇怪なことに、冷静で居られなくなっていた。確かに徹の言う通りであった。彼女が壊れた窓まで行けば、外の犬も一緒に付いて来るはずだ。そればかりか、犬の方が由真より何倍も素早く、足も速い。彼女が窓にたどり着く前に、犬の方が先回りだってできてしまうのだ。徹は、額を手の平で慌ただしくたたきながら、何か考えを巡らせる格好を見せた後に、顔を明るくし、誇らしげにこんな事を言った。それは、一人がおとり役になって、犬の注意を引き付けている間に、もう一人がこっそり窓の所へ行くと言う作戦だった。

「ええ、それで行きましょう」

 由真も、その作戦に納得した。

「でも肝心の窓は、どうやって塞げばいいんだ?」

「取あえず雨戸を下ろせば、何とかなるんじゃない。でも物凄い音がするから、犬には気付かれるかも知れない」

「だったら、僕が行く! 由真ちゃんの力じゃ無理だし……。それに万が一間に合わなかったときは、格闘になるだろう。――そんな危険なことは、男の仕事だからね!」

「雨戸くらいなら、私にだって下ろせるよ」

 そう言いながらも由真は、徹の言葉にうなずいた。

 由真は再びあの狂気に満ちた犬と、向かい合うことになった。それが怖かった。今度は逃げるわけにはいかない。自分はおとり役なのだから、できるだけ犬の気を引き付けておく必要があった。しかし、自分にそんな事ができるだろうか。幾らガラス戸に守られて、直接的に襲われることは無いと言っても、その犬が恐ろしいことはまるで変わらないのだ。これだけの危険を冒すのだから、思慮深くなるのは当然だった。悪いように考えれば切りが無い。由真の不安を遮って、徹の声が聞こえてきた。

「由真ちゃん、準備はできた? 始めるよ!」

 どうやら、もうあれこれ迷っている暇は無さそうだ。徹は徒競走をするときのように身構えて、由真の合図を待っていた。由真はふうと息を吐くと、ガラス戸をのぞいた。そこからは黒煙がもうもうと立ち込めて、犬がどこに居るのか分からなかった。由真はガラスを軽くたたいてみた。しかし、先ほどの犬は、どこにも現れなかった。由真は振り返って、徹の方へ目を移した。彼はまだ先ほどの格好で、じっと辛抱強く待っていた。由真は、もう一度ガラス戸に向き直ると、今度は犬の鳴き真似をしてガラスをたたいてみた。

「ワンワンワン、ワーン! ワンワンワン、ワーン!」

 しばらく由真の鳴き真似が、虚しく辺りに響いた。と、突然とあの恐ろしい犬が、由真に飛び付いて来た。彼女は一瞬身をひるませたのが、今度は懸命に堪えて、その犬の顔をにらみ返した。凶暴な犬は、更に怒りを露わにして吠え立てた。由真も負けずに、ワンワンと応戦した。

 ガラス戸がまた激しく揺さぶられ、由真の顔は凍り付いた。今のは危なかったと思った。狂気になった犬が、ガラス戸を突き破って入って来そうだった。彼女はすっかり弱気になって、後退りするように後ろを振り返った。すると、そこに徹の姿は無くなっていた。どうやら彼の作戦は成功しそうだった。由真は、もうひと頑張りと気持ちを引き締めた。――そう思った矢先のことだった。

「由真ちゃん、逃げて!」

 徹のただならぬ叫び声が、廊下の奥で響いて、由真はぞっとした。作戦は失敗したのか。彼女は、しっかりと犬を引き付けていたはずだった。由真は、急いで徹の所へ駆けだした。廊下はわずかに煙って、何か物が焦げる不快な臭気が、彼女の鼻を突いた。その扉まで一息に走って、部屋の中に入れるなり、彼女は身動きが取れなくなった。それを目にした瞬間、室内に火の手が回ったのかと思った。もうもうと黒煙が渦巻いていたからだ。ところが、徹が立ちすくんで見詰めている先に、奇妙なものが居た。発煙しているのは、その体からだった。――大型の犬の姿だが、黒焦げした身体は獣毛が焼け落ち、皮膚がただれて引きつり、脂肪が溶解してグツグツと沸騰しているようだった。赤黒い網状の血管や煤でくすんだ骨が露出し、白濁した眼球が惨たらしく飛び出していた。犬らしきものは、無惨な姿に変貌していたのだ。が、それで身体が衰えると言う様子は微塵も無く、むしろ立ち上る黒煙の勢いが象徴するように凶暴さを増して、二人に猛然と吠え立て威嚇していた。

「由真ちゃん、来ちゃだめだ!」

 徹は、由真が来たことに声を上げた。その時、壊した窓から新たな一匹が現れ、そこに飛び付き、家内へ侵入しようとしていた。犬は一匹では無かったのだ。

「な、何なの? 何で犬から煙が出ているの」

「由真ちゃん、早く逃げて!」

 徹が、彼女に気を取られ、目を逸らせた途端に、目の前の犬が猛然と彼に飛び掛かった。彼は上着を噛み付かれたが、辛うじてそれをはぎ取られただけで済んだ。凶暴な犬は、執拗にその上着に噛み付き、荒々しく顔を振り動かした。その隙に、徹はどうにか由真の側まで退いた。と、もう一匹がその上着を奪おうとしたから、二匹の犬の間で争い合いが始まった。

「今のうちに、早くここを出よう」

 由真たちは転がるように廊下へ這い出て、勢いに任せに扉を閉めようとした。すると、その扉が途中で突き戻され、犬の身体が扉の間に挟まって閉められなくなった。由真と徹は、必死に扉を押さえたが、犬の力は思いのほか強く、そこから抜け出そうと激しく抵抗した。扉越しに、もう一匹が獰猛どうもうに吠え立てた。あまりの恐ろしさに、由真の戦意は喪失されそうだった。

「由真ちゃんだけでも逃げて! もう持ち堪えられないよ」

「でも、私が手を放したら、押し戻されるんじゃないの」

「このままじゃ、二人ともやられてしまう!」

 犬が挟まった扉の開いた透き間からは、黒々とした煙が漂って来て、二人は息苦しくなり、何度も咳き込んだ。

「一か八か二階に逃げよう。もし犬が二階に上って来たとしても、棒か何かで突けば防げると思うんだ」

「でも、棒なんて無いよ」

「あれは?」

 徹は、犬の抵抗に堪えながら、廊下を見回した。玄関の隅に置かれたゴルフクラブに視線を留め、指し示した。

「お父さんのクラブよ。高いんだから傷つけたら怒られる」

「今はそんなこと言っている場合じゃない! いいね。僕が合図したら、クラブを取って二階に走って、僕もすぐに追い掛けるから」

 由真は、徹の強い口調に、黙って彼に従うしかなかった。

「じゃあ行くよ。よし、今だ!」

 由真は扉から離れると、覚悟を決めて玄関口を目指した。板張りの廊下に滑って足を取られながらも、ゴルフクラブを掴んだ。その時、徹の方に一度視線を戻した。彼は必死に扉を押さえて耐えていた。扉が何度も押し戻されそうになり、少しずつ醜い化け物が体をねじ込んで来た。それは、既に黒煙と黒焦げの塊でしかなかった。由真は、目も当たられない光景に怯えて動けなくなった。

「由真ちゃん、しっかりして! 早く二階に行くんだ!」

 徹の叫び声に、ようやく我に返ると、由真は階段口へ駆け込んだ。階段の中程まで上ったところで、扉が蹴破られる激しい音がして、怒り狂った犬たちの唸り声が廊下で響いた。由真は、喉の奥から恐怖がほとばしるほど怯え、階下を見下ろしたまま動けないでいた。と、徹の悲鳴が廊下で反響しながら、由真の所まで駆け上って来たのと同時に、彼の青ざめた顔が上り口に現れた。

「由真ちゃん、クラブ、クラブ!」

 徹は勢いに任せ、階段を駆け上って来た。由真の手にしたゴルフクラブを何とか受け取ると、そのまま階下に向かって幾度も振り回した。その度に、床板をたたく鈍い音が鳴った。

「由真ちゃん、上がって、早く二階へ上がって!」

 由真は、徹に押し上げられ、ようやく階段を上り始めた。すると、階段内に黒煙が立ち込めるのと同時に、凶暴な犬の咆哮も間近に迫った。徹は「来るな! 来るなよ! この野郎、来たらこれだぞ!」と奇声を発しながら、何度も煙の中でゴルフクラブを振り下ろした。どうにかここで踏み止まらなければならない。階段を上り切られたら、終わりだと思った。しかし、由真たちは、じりじりと二階に追い込まれていった。煙が酷く、徹は激しく咳き込みながら、それでも抵抗し続けた。ここで諦めれば、彼らに待ち構えているのは死のみであった。

「窓を開けて来る」

 由真は、混乱のあまりその事にようやく気付いて、急いで二階に上がった側の窓を押し開けた。階段の黒煙が見る見る吸い寄せられ、窓から外へ出て行った。それで、どうにか階段内の視界が開けてきた。すると、そこに現れたのは先ほどの奇態な姿の犬では無く、犬のような格好をしたどす黒い煙だった。その煙は、まるで生きているかのように、彼らに襲って来た。徹は、ゴルフクラブをその煙に向けて振り下ろした。ところが、幾ら煙に殴り掛かっても、全く効き目が無い。何の手応えも無しに、ゴルフクラブは黒煙の体を突き抜けた。

「コイツ、何だよ! コイツ!」

 徹は、幾度もゴルフクラブを振り続けたが、それは無駄だった。すると、今度は徹がひるんだ隙に、黒煙の牙が彼の左腕をかすめた。彼の左袖が黒く焦げ、ジリジリと音を立てて燃え始めた。徹は慌てて、その炎をたたき消した。

「熱い、熱い、燃えているよ!」

 徹は、思わず悲鳴に似た声をもらしていた。尚も黒煙の犬は、容赦無く徹に襲い掛かった。低い唸り声を上げると、再び黒い牙をむいて来た。徹は、どうすることもできない。ゴルフクラブを幾ら振り回しても、犬の攻撃を防ぐことはできないのだ。彼の眼前で、恐ろしい黒煙が踊るように覆い被さって来た。

「もうだめだ!」

 徹の諦めのような声が聞こえた。

 カラン、カラン、カラン、カラ、ララン……。

 徹の脇を、何かが甲高い金属音を立てながら転げ落ちて行った。その音に驚いて、黒煙の犬はぱっと身をひるませると、すぐに音の行方を追い掛けて行った。徹は、間一髪のところで難を免れた。

「徹君、今のうちに早く上がって!」

 由真が機転を利かして、クッキーの空き缶を投げ付けたのだ。しかし、それで犬たちの攻撃が全て終わったわけでは無い。やがて、犬たちは空き缶が何でも無い物だと気付いたらしい。二匹の猟犬が獲物を見つけたときのように、犬たちは競うように階段を駆け上がって来た。三四段上って、その一匹が勢い余って足を踏み外して後れを取った。別の一匹は見よかし顔で、更に勢い付いた。ところが、その一匹も階段の途中で、黒煙の体を崩して倒れ込んでしまった。それが、この凶暴な犬の最期だった。その身体は燃え尽きたように、ただの煙になって消えてしまった。階段の途中には、無残な燃えかすだけが、わずかに黒い炎のようにくすぶっていた。よく見ると、その燃えかすに紛れて一塊の肉片がまだ形を残し、ドクドクと鼓動を繰り返していた。それが、犬の心臓のように思えた。その鼓動も次第に弱くなり、間も無く黒焦げに焼けて二度と動かなくなった。由真と徹は、その一部始終を無心に見下ろしていた。

「やっと終わったね」

 徹は、ほっと息をつき、ようやく由真に安堵の声を掛けた。ところが、彼女にはその声が届かなかった。眉を険しくつり上げ、口を固く結び、尚もその犬の残骸を見据えていた。彼女の内部で、何かグツグツと湧き上がるものがあった。今まで押さえてきた恐怖が、一息にあふれ出して来たのだ。――それは「死」の恐怖であった。燃えかすになった犬や、布団の上で独り冷たくなった四十代の男の死体、これまで無縁だったものが、つい先ほどまでそう言った死の危機に曝されて、それを間近に感じるようになった。みんな死んでしまった。チョコも丘に残された動物たちも、全て死んでしまった。由真の顔は、急に殺気立った色を呈していた。彼女は徹の手からゴルフクラブを奪うと、悲鳴を上げながら黒々とした犬の残骸をたたき付けた。

「こいつめ! こいつめ!」

 由真は、幾度もゴツゴツと打ち続けた。しかし、彼女の狂気は、それだけに留まらなかった。廊下に下りると、手当たり次第にそこら中をぶん殴った。花瓶が激しく音を立てて砕け、壁の絵画が無残に落とされ、鏡や扉のガラスがめちゃくちゃに破壊された。

「由真ちゃん、止めるんだ! もう終わったんだよ」

 止めようとする徹にも、由真は容赦無く殴り掛かった。徹は酷く頭を殴打され、額に一筋の鮮血が流れ落ちた。徹はもう一度「止めて」と叫んだが、後は無防備のまま打たれ続けた。彼はとうとう床に崩れて、ぐったりとうな垂れてしまった。それでも、由真は執拗に彼を痛め付けた。――と、この騒ぎを聞き付けたからなのか分からないが、玄関口で誰かが怒鳴った。大人の男の声だった。

「開けなさい!」

 玄関のすりガラス越しに、数人の人影が立っているのが見えた。

「そこに誰か居るのかね。さあ、早く開けないと、扉を壊すことになるぞ!」

 由真は反射的に、その声に怒りの矛先を移して走りだした。靴も履かないまま玄関扉を開くなり、ゴルフクラブを振りかざし、奇声を発して襲い掛かった。玄関口には、十人ほどの屈強な自衛隊員が身構えていた。飛び掛ろうとする由真は、彼らに呆気無く取り押さえられてしまった。彼女は「放せ! 放せ!」と幾度か罵声を浴びせながら、拘束された体をばたばたさせていたが、やがて大人しくなった。――

「由真ちゃんを放せ!」

 今度は、徹の怒鳴り声が廊下で響いた。必死の思いで、由真を助けに来たのだった。彼は拳を高く振りかざし、表に飛び出した。しかし、徹は自衛隊員を目の当たりにすると、彼らの威圧に屈服して降参の両手を上げた。

「ガスを多量に吸って、狂気になったのかも知れない。予備のマスクを……」

 隊員の一人が、由真の顔をのぞき込んで言った。それから、由真と徹は自衛隊のトラックに乗せられ、彼女の家を後にした。

 丘を覆っていた濃霧はすっかり晴れ渡り、いつもの景色が戻っていた。トラックは、丘の坂道をゆっくりと下っていた。あの巨大な障壁は完全に消滅したようだった。由真は荷台に揺られながら、生気の無い顔をしていた。まるで何事も無かったような静寂な家並みを、ぼんやりと見送っていた。

 坂の中腹に差し掛かったときだ。由真は犬の鳴き声を聞いたような気がして驚いた。それがチョコの声だと思えて、彼女は自衛隊員にその事を告げた。隊長らしい男がトラックを止めるように指示すると、素早く数名の隊員が降車して周囲を警戒した。手真似で合図を送って、彼らは機敏に散開して行った。しばらくして隊員たちが戻って来ると、頻りに何か報告し合った後に、そのうちの一人が状況をまとめて告げた。

「異常ありません」

「よし、出せ!」

 由真たちを乗せたトラックはゆっくりと走りだすと、再び丘の坂道を下って、夕暮れに染まる町並みの中に紛れて行った。――


 一匹の小さな柴犬が、ある家の台所に入り込んだ。その食卓には、まだ湯気の立ち上るマグカップが並んでいた。一番小さなカップの絵柄は、河童のカッちゃんだった。トーストに目玉焼きと言う献立から、今朝の食事に違いない。それが、三人分用意されていた。しかし、その家の住人らしい人影は、どこにも見当たらなかった。枯れ葉色の短い毛のその犬は、しばらく床に鼻をこするような格好で、椅子脚の間を歩き回っていた。卓上には、全く興味を示さないようだった。落ち着きの無いその素振りからして、どうも迷子らしい。

 柴犬は急に動きを止めると、何かを警戒して尖った耳を立てている。表の通りで、トラックのエンジン音が騒がしく響いた。しかし、窓からはそれらしい車両は、一台を見当たらなかった。すぐに、その犬は食卓の下を潜って、またどこかへ逃げ出してしまった。――


 玄関の物音は鍵を開けるそれで、この家の住人が帰宅したと言う様子だった。すぐに、そこから真っ直ぐ伸びる薄明かりの廊下を渡って、家族三人が次々に台所へ入ると、先ほどまでの疲れた体のことなど忘れて、照明を点して不意に現れた、食卓の有様に驚きの表情を隠せなかった。

「片付けなかったのか!」

 青島徹の父は、ようやく我が家に戻って来たと言うのに、行き成り機嫌を悪くした。徹は食卓の椅子に荷物を置いて、物珍しそうに室内を歩き回った。

「そんな暇ありました?」

 彼の母は両手に買い物袋と旅行鞄を提げて、一番後に現れた。その物言いは、普段に無いほど丁寧だった。母が言っているのは、三日前のことだった。――早朝から物々しいサイレンが、町中に鳴り響いた。役場の車が、急いで避難して下さいと呼び掛けながら、住宅地を駆け巡った。ビル建設現場で、戦時中に投棄された兵器が発見されたと言う。テレビニュースでよくある不発弾だろうと安易に考えていた。ところが、その翌朝に状況が一変した。発見されたのが、非常に危険な細菌兵器である可能性が高まったために、その町一帯が避難を強いられることになった。町は間も無く封鎖され、残った者は安全のために拘束されるらしい。それで、徹の家族を含め町中の人々は、朝食にも手を付けぬ間に飛び出したのだった。――

 徹は食器棚や出窓の上に置かれた、奇抜な格好の時計やクリスタル製のクジラなどを繁々と眺め回した。時計の針は止まっていたが、他はいつもと変わりは無かった。もう真夜中だと言うのに、徹はその針が八時十七分を指し示しているのを見て、にやついた。ところが、すぐに何か大事でも起きたように、大声を上げていた。

「ここ少し開いているよ!」

 裏側のガラス戸を閉め忘れていたと言うのだ。徹は戸を引いて、不審そうな顔を出していた。そこから庭と言うにはささやかだが、紅葉の植わった敷地に下りられた。

「ねえ、庭に小犬が居るよ。どこから来たんだろう。お出で!」

「小犬?」

「お父さんじゃないのですか? 戸を閉めなかったのは」

 父は、よくその前に陣取ると、新聞紙の上で爪を切った。切り終わると、それを庭へ捨てるのだ。父はうるさそうに少し眉をひそめた。が、気を変えてこう言った。

「そんな事より、泥棒が入ってないか見て来ないとな」

「お父さん、何か盗まれてないか見て来てくださいよ」

「犬なら食べるものを取って行くだろうな」

「犬のことはいいですから、早く見て来てください」

 母は食卓の片付けを口実に、奥の部屋を調べて来るように夫へ促した。――父が渋々奥へ行ってしまうと、母はようやく食卓の片付けに本腰を入れ始めた。しばらく台所で食器がカチカチ鳴っていた。ふと、母は手を休め、三日前の朝食をじっと見詰めた。見詰めたのは、どの皿もまだ箸を付けていないし、どうもそれが少しも痛んでないようなのだ。まだ肌寒い日が続くと言っても、三日も置いておけば食べ物は乾燥したり、傷んだりする。それが、まるで先ほど作ったばかりと言うふうに新鮮なのだ。匂いは問題無い。母はフォークを握ると、目玉焼きをすくって口へ押し込んだ。初めは恐る恐る口を動かし、のみ込んだ。食べられそうだ。そう思うと彼女はトースト、ハム、サニーレタスと次々に試してみた。どれも味は悪くなかった――はずだった。

 そこへちょうど戻って来た父が、泥棒の心配は無さそうだと言う前に、妻の様子を見て怪訝な顔をした。

「あなた、これまだ大丈夫そうよ」

「大丈夫って……」

 父は三日前の皿をのぞくなり、眉をひそめ声を大きくした。

「よく見てみろよ! 腐っているじゃないか」

 確かに先ほどは何とも無かったトーストが、今はすっかり硬くなって、青カビまで湧いていた。それを見て、母はすぐに流しで口をゆすいだが、どうも気分が悪くなったらしい。

「注意されたじゃないか。食べ物は悪くなっているかも知れないから、捨てて下さいってね」

「分かったわよ。具合が悪いのだから、そう怒鳴らないでよ!」

「怒鳴ってなんかいるものか!」

 母は、今にも苦い物が喉元まで込み上げて来そうだった。

「冷蔵庫の物は、全部捨てなきゃだめね」

 母はその中をのぞきながら、こちらも見ないで言った。

「中に入れてあるのは、大丈夫じゃないのか……」

「お父さん、試して下さいよ」

「ニュースで、何か言っているんじゃない」

 と、リモコンを取ったのは徹だった。テレビが点くと、お腹空いたと言う言葉が思わず口をついて出た。母はそうねと言ったきり、後は何とも答えなかった。

 不謹慎なことかも知れないが、その町の住民は、自分たちの住む町がテレビのニュースで取り上げられたことに興奮していた。県道脇の草原で奇妙な生物が目撃されたこと、町中の野鳥や養鶏場の鶏、川の魚が変死したこと、凶暴な野犬が現れたことなど、どれもその町で起こったことだった。しかし、そんなたわいの無い話題に紛れ、思い掛け無い事件が起きていた。警察官一名が危篤だと言うのだ。誰もが細菌兵器による感染を懸念した。が、その心配は否定された。それが、住民の不安を恐れて伏せられたのだと、疑いの目を向ける者も居ただろうが。どうも避難誘導の際に、何か騒動に巻き込まれて負傷し、それが病院に搬送されたのちに容態が悪化したのだと言う。重傷の警官には気の毒だが、細菌兵器で無いと分かると、皆がほっと胸をなで下ろした。

 徹は、この避難勧告が細菌兵器では無いことは知っていた。が、それを他言することは、固く禁じられていたのだ。町に無用な混乱を引き起こすからだと言う。どちらにしても、事実を言ったところで、変人扱いされ誰も信じてくれないだろう。それでも、この町はやはりどこかおかしい。町の住民は、次第にその事に気付き始めていた。


 数日後、由真と徹はちょうど戸部の見舞いに行った帰り、町の繁華街を歩いていた。

「戸部さん、元気そうだったね」

「一時は死んだんじゃないかって、心配していたけど、大事に至らなくて良かったよ」

 二人がこうして話をするのも、数日ぶりであった。街中は、すっかり混乱から回復して見えた。が、彼らは時々、あの恐ろしい出来事を鮮明に思い出して怖くなった。あの後、徹はチョコらしい柴犬を目にしたと、由真に告げた。しかし、由真は彼女を励ますためについた嘘だと思って信じなかった。――大通りにある交差点の信号機が変わって、由真たちは歩きだした。その時、彼女ははっきりと懐かしい犬の声を耳にした。しかし、周囲を見回しても、それらしい犬の姿はどこにも見当たらなかった。確かにチョコの声が聞こえたと、彼女は訝しげな表情を見せた。すると、また鳴き声がした。今度は、由真のすぐ側だった。その時、彼女ははっきりとチョコの存在を感じることができた。

「チョコ、そこに居るのね」

 由真に答えるように、チョコの鳴き声が聞こえた。やはり彼女の目には、その犬の姿は見えなかった。それで、もう決してチョコの姿を見ることができない気がした。どこか別の世界に迷い込んでしまったのだと分かったのだ。ところが、徹にはこれがチョコなのかなと、由真には見えない小犬を見下ろし、ぞっとした。犬は嬉しそうに、由真へしっぽを振っていた。その全身には、べっとりと血糊がついた。たった今どこかで獲物を捕らえたばかりの猛獣のように、まだそこが乾いていなかったのだ。

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消えた丘から不穏な風が吹くとき つばきとよたろう @tubaki10

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