第2話 丘の障壁を目指して

 雑誌記者の戸部は、その奇妙な現象には、ちゃんとした科学的な説明が付くと言った。それは、光の屈折が関係しているらしい。例えば水中の物体が実際とは異なって近くに見えたり、あるいは全く姿を隠してしまったりすることがある。そう言った現象と同じだと言う。しかし、どこをどうすれば、こんな不可思議な屈折を起こすのか、肝心なところはまだ解明できていないらしい。

「じゃあ、実際に僕らの丘が、消滅したと言うわけでは無いのですね」

 徹は、戸部の話す間も何度もうなずく仕草を見せていたし、彼の驚きや感嘆の表情からもその奇妙な話に何とか付いて行っているようだった。

「そうなんだ。しかし、丘で何か異変が始まっていることには間違いはない。あのね。これは想像なのだが、恐らくそこでは非常に気温が上昇したとか、逆に低下してしまったとかで、例えば蜃気楼なんかがいい例さ――そう言った自然現象が発生していると思うんだ。それで、実際には有り得ない風景が出現したのだろう」

「何か凄いことになっているんですね!」

 徹はそう言って、驚嘆の声をもらした。由真は、戸部の言葉はよく分からなかった。とにかく、丘は大変な事態に遭遇しているらしく、ますますチョコが気掛かりになった。こうして、手をこまねいて、虚像ばかり眺めていても仕方が無いと思った。それで、由真は何度も徹の方に目を移すのだが、まだ熱の冷めない彼は依然とその景色に心を奪われていた。と、急に徹がこちらに視線を戻して情けない声を上げた。

「じゃあ、僕たちこれからどうすればいいんだ。ただでさえ、警備が厳しくて丘に近づけないのに。あれじゃあ、どこへ行ったって迷子になるな」

「君たちは、丘に向かうつもりだったのかい――何か忘れ物でもしたのかね?」

 戸部には、その事が意外だったと言う様子であった。

「まあ、そんなところです。由真ちゃんは、あっ、この子は柴犬が迷子になって、捜しに帰るんです」

「柴犬が……。――それは心配だね」

 戸部は少し間を置いて下唇をなめると、今度は困ったと言う態度で話題を戻した。

「あのね。それが、どうも丘にはまだ入れそうにないんだよ」

「だから、警備が厳重だってことは、僕らだって知っています」

 戸部は、徹が話し終わるのも待たずに続けた。

「そうじゃないんだ。説明しようが無いが、とにかく丘に入ろうとしても、何か目に見えない障壁に邪魔され、その先に進めないんだね」

「障壁? それも警察がやったことなんですか?」

「いや、違うだろうね。とても人力でなせるような代物では無いんだよ。これも一種の自然現象だと思うんだがね。詳しいことは不明だが……」

「それも不明ですか」

 徹はそう言って苦笑した。すると、戸部は上着の内ポケットに手を突っ込むと、しきりに何か探ってから、余ほど年季の入った黒皮の手帳をめくって、当惑顔の二人に言った。

「現物を見た方が早いだろう。案内するよ」

「そこに行けるんですか?」

 由真も徹もにわかに表情を明るくして、顔を上げた。これまで手詰まりだった状況が、ようやくここに来て動きだした気がした。


 「こっちだ」と、戸部に誘われるまま、二人は後に従って行った。彼の秘密の抜け道なのだろうかと疑心を抱きながら、彼の後ろ姿を必死に追い掛けた。寂れたアーケード街を暗い所へ曲がった頃から、ちょっと怪しくなってきた。それが、次第にどこか穴蔵に潜るような地下へ下りる階段に入ると、たちまち飲食店の並んだ地下街だった。電灯は点っていた。が、左右は陰気なシャッターばかり下りていて、由真たちは落ち着かなかった。やたらと天井が低く、小柄な彼女でも跳ね上がれば、上に手が届きそうだった。戸部と徹は体を曲げて、頭をぶつけないように用心しながら歩かなければならなかった。しかし、その地下街は通り過ぎただけで、別の出口へ向かうようだった。次に狭い路地が現れると、そこはどうも商店の裏側に当たる場所で、雨染みに錆のついた扉が幾つか見えた。戸部はその一つの扉の前に立つと、躊躇ためらわず取っ手を引いて、また「こっちだ」と言った。二人は顔を見合わせた。そう言われても、今度は素直に従うわけにもいかず、本当に入っていいのか迷っていた。他人の家に侵入するのと変わらない。恐らく戸部自身とも無縁な店だろう。

「早く、中へ!」

 二人は、半ば強引に押し込まれた。薄暗い室の明かりは、窓から差し込むわずかな外光だけであった。テーブルと椅子がきっちり収まっていて、そこは古風な喫茶店らしい。戸部は由真たちが戸惑うのも気にせず、そのテーブルの間を器用に縫って、どんどん暗い奥へ押し入った。その奥が調理場になっていて奇麗に片付いて、洗ったグラスや食器は全て棚に整えられていた。由真は店内を繁々と見回しながら、ここは空き家では無く、やはり誰かが営んでいる店であると思うと、また不安が増してきた。彼らは、明らかに犯罪を犯しているのだ。

 戸部は、迷わず調理場の隅にある窓を半分ほど開き、顔だけのぞかせ用心深く確かめた後に、窓がガタガタ言うのも構わず大きく引くと、こちらも見ずに外へ出るように言った。由真はこうなったら、何でもやるしかないと、ようやく覚悟を決めて、窓枠に足を掛け、外に小柄な体を乗り出した。乗り出すと、狭く窮屈な所から一息に抜け出せる気がして、気分も楽になった。それからも、彼らは商店や人家に侵入し、その店の中を通ったり、台所や風呂場を抜けたり、泥棒もしないような大胆な所業を繰り返し、他人の敷地をまたいで丘を目指した。

 他人の家屋に侵入することは、普通なら何らかの目的があってするはずだ。それは、どう考えても好ましくない目的で、金品を盗むのが一番のそれで、物品を持ち去らなくとも、家主の私生活を暴くなど、個人の情報を得るために進入することもあるだろう。ところが、彼らの行為は、ただそこを通過するために仕方なくお邪魔するのだ。多少の後ろめたさはあっても、その罪の意識は次第に薄れていった。それよりも、彼らは他人の家内の有様を垣間見ることで、様々な衝撃を受けていた。


「土足で上がってもいいのかな」

 由真は、ある人家の上がりかまちを前にして、靴を脱ごうか、どうしようか迷っていた。そこは邸宅と呼ぶに相応しいほど豪勢な家造りで、広い玄関に木目の美しいヒノキの廊下が奥まで続いていた。印象的な湖の風景を描いた絵画が壁に飾られ、雅な赤絵の花瓶には大輪の百合が咲き誇っていた。どこを取っても立派であったから、そこを汚して歩くのは悪い気がしてならなかった。

「あのね。どうせ気付きはしない。何が起こっても、不思議は無い事態が起きているんだ。かえって、泥が上がっていた方が有り難がるよ」

「それにしても、立派な屋敷だね。一体どんな人が住んでいるのかしら?」

「さあね。どうせろくでも無い奴だろう。金持ちなんて、みんな同じさ」

 そう言って、戸部は汚れた靴のまま踏み込んで、家内へ上がって行った。すぐ奥の一室に忍び込んだ。そこは、こぢんまりとした六畳の和室で、イ草の鮮やかな緑とその香りが室内を満たしていた。しかし、そこには何一つ物が置かれていなく、まだ誰も使ってないようだった。その真新しい畳の上を、さすがに土足で踏みにじるのは多少気が引けたとみえ、戸部は部屋の前でこちらを見ながら、苦笑して靴を脱いでいた。由真は玄関口で靴を脱いでしまったから、同じであった。

「靴、脱いだんだ」

 徹が由真にそう声を掛けた。彼も戸部を習って靴のまま来たから、戸部の二の舞だった。しかし、由真は澄ました顔で、何も返事をしなかった。彼らは両手に靴を提げて、「お邪魔しました」と窓から出て行った。――


 彼らは、ある暗がりの外階段を恐る恐る上っていた。二階のベランダから屋根を伝って、隣の部屋に忍び込む計画だった。敷地の狭い長屋だから、階段がかなり急だった。その上、建物自体が非常に古く、床板がギシギシときしんで、如何にも危険そうであった。徹は臆病に一歩一歩足を揃え、階段を上がって行った。

「大丈夫かな。僕、高所恐怖症なんだ」

「私は平気」

 二階の高さにすっかり怯え切った徹を尻目に、由真はきっぱりと言った。そこから、更に足場の悪いベランダへ出て、高い所を渡って行かなければならない。徹はもう顔を真っ青にして、口数も減っていた。

「さあ、しっかり支えてやるから、大丈夫だよ」

 戸部の呼び掛けにも、徹はまるで上の空だった。戸部の言葉が、真面まともに耳に届いているのか疑わしいほど混乱した様子で、「僕のタイミングで行きますから……。行きますから、ちょっと待って下さい」と繰り返した。

「まだ地に足が着かないような気がする」

 徹はようやく隣の部屋にたどり着くと、すっかり床に座り込んでしまった。もう一歩も動けないと音を上げてしまった。

「大丈夫かね。少しここで休んで行くかね」

「ちょっとしっかりしてよ。まだ全然、丘に近づいていないんだからね。早くしないと置いて行くよ」

「待ってよ! まだ僕、足が言うことを聞かないんだから、そんなに急いで行かないで」

 徹が由真に急かされ、ようやく立ち上がった。どうにか二人を追い掛けた。――

 

「あ、痛たた! 痛いよ」

「そんなに押すな。狭いんだから」

「戸部さん、窓なら他にもたくさんあるじゃない。わざわざこんな場所から出る必要があるの?」

 由真たちは、ある家屋のトイレに入って、便器を前に並んでいた。その向かいの小さな窓から、外へ出ようとしていた。

「それで、誰から先に行く?」

「私、最後にする。だって、パンツ見えちゃうもん」

 由真は、口をとがらせて訴えた。

「あのね。最初に僕が手本を見せるよ。靴を脱いだ方がやり易い。こうやって、両壁へ足を突っ張って登って行く。それから窓枠にしがみ付く。後は壁を蹴りながら、体を外に押し出せばいい。あまり壁は強く蹴らないでね。便座には上がらないで、壊したら後が大変だから」

 戸部は器用に体を曲げ、小さな窓から外に乗り出した。次に徹、由真と続いた。ところがその時、由真がうっかり窓際に置いてあった陶器製の蛙の置物を落としてしまった。

「これ、どうしよう」

 由真が困っていると、戸部が「構わない」と言って、彼女の手から割れた置物を奪うなり、植木の陰に投げ付けてしまった。由真の方が驚いて、思わずあっと声を立てていた。戸部は「さあ、片付いた」と何食わぬ顔で、たちまち彼女の手を掴んで引っ張り出した。由真の体は難無く、トイレの小窓から抜け出すことができた。由真は庭に降り立つと、一度先ほどその置物が投げられた植木の辺りに目を向けた。しかし、そこからでは完全に茂った植木に隠れて、蛙の置物はどこにも確かめられなかった。ただわずかな罪悪感だけが残された。それも、すぐに忘れてしまうだろう。それほど、由真たちには驚く出来事で一杯だった。

――


「何だこりゃ! 何だこりゃ! 何だこりゃ!」

 徹はピンクの縫いぐるみで満たされた一室を目の当たりにして、はしゃぎだした。彼が興奮するのも当然なのだ。小さな部屋であったが、そこがピンク一色に染まるほど縫いぐるみが、所狭しと飾られていた。玩具店でも、これほどの数を揃えている所は恐らく無いだろう。一度にこれだけの数が見られることすら、珍しいことだった。それは、由真も徹もよく知っている犬のキャラクターだった。ゲームの景品くらいの手頃な大きさの物から、子供の背丈くらいの大型の物まで、様々な種類が集められていた。ピンクの縫いぐるみは、まるで雛壇に似て何段にも積み重なって並んでいて、何とも形容し難い独特の雰囲気を醸し出していたのだ。ところが、しばらくじっと眺めていると、全く同じ物がたくさん並んで見えた。同じ物を何個も集めたかったのか、それともゲームの景品だから、別の種類の物を得るために、同じ物が被るのは仕方が無いことだったのか。どれもただでは無いのだから、これだけ集めるのに相当なお金を費やしたはずだ。それなら、別の物を買った方がいいだろうにと普通は考えるだろう。徹はまだ何だこりゃと叫びながら、部屋中を小躍りし続けていた。

「何だこりゃ、うるさい!」

 とうとう由真が怒りだした。それで、ようやく徹は口をつぐんだ。――


 その部屋の異常さに気付いたのは、ある住宅の裏口から重厚な扉を押し開いたときだった。由真は顔をのぞかせるなり、異臭が鼻に付いて思わず顔をしかめた。どこか生臭いわずかな臭気が漂っていたのだ。それで、三人は皆、同じように緊張した面持ちで室内へ上がると、辺りを見回した。そこは、コンロや流しがあって調理場のようだった。窓のカーテンはどこも閉じられていたから、部屋は薄暗く静かであった。

 「これだな」と、徹が流しに立って言った。調理台の白いまな板に、どす黒い血の痕が残されていて、それが解凍した肉から出た物なのか、誰かが魚をさばいた後にそれを放置してしまった物なのかはっきりしない。使った包丁はどこにも見当たらないし、その肉や魚もまるで見えない。その台所には、どこか不気味な所が多かった。他は完璧に片付けられているにもかかわらず、まな板だけが血で汚されていた。何だか慌てて処理したと言う有様だったからだ。それで、彼らがここに入ったときに、緊張したのも部屋の中が血生臭かったからと知れた。

 突然と、彼らの背後で冷蔵庫が不気味な機械音を立て始めて、みんな強張った表情で振り向いた。それは、人間でも丸々納まりそうな業務用の冷蔵庫だった。

「僕、吐きそう」

「ここは気味が悪いな。早く、こっちだ!」

 由真たちは、足早に不穏な台所を出て行った。願わくば、この部屋には二度と戻って来たくないと思いながら……。――


 由真はある食卓の上に四人分の食事を認めて、その部屋に入るのを留めた。まだ誰かが家の中に残っていると思い、一瞬肝を冷やしたのだ。しかし、改めてそれらをのぞいてみれば、食事はどれもすっかり冷え切っていた。――食べかけのオムレツ、硬く乾燥したトースト、湯気も立ち上らないコーヒー、味噌が底に沈んでお澄ましになったような汁椀もあった。食べる時期を逃したものは、どれも美味しそうに見えないのだった。やはりそれは、ずいぶんと以前に作られたようだった。

「僕のところも慌てて出て来たから、朝ご飯の途中だったんだ。どこも同じだね。――突然大きなサイレンが鳴って驚いていたら、すぐに迎えのバスが来たよ。片付ける余裕も無かったんだ。支度もまだ終わらないうちに、出ないといけなかったんだ。大変だったよ。それで、高木のゲームソフトのことも、すっかり忘れてしまったよ……」

 徹はまる弁解でもするふうに、その時の詳しい状況を説明した。由真の家族は、朝早くに準備を終えて出発していたし、戸部に関しては何をしていたのか定かでは無かった。それで、二人は徹をじっと見詰めて黙っていた。彼の言うように、食卓の箸やフォークはどれも放り投げたふうに散らばっていて、大慌てであった様がうかがわれた。そう考えれば、この状況はその日、この町ではどこにでもある一風景だったのだろう。由真たちは先ほど異様な景色を目撃していたから、食べ物を見ただけで嫌気が差した。――


 それは、ある和室の間を通り抜けようとしたときだった。家屋は全て雨戸が閉まって、陰気でばかに湿っぽかった。その雨戸の透き間から外光が、室内を照らすようにもれていた。窓の少ない半開きの襖の向こうは暗がりで、部屋の真ん中には、まだ布団が敷かれたままになっていた。そればかりか、その布団が不自然に盛り上がっているのを見つけた。徹がそれに最初に気付いて、声を震わせた。

「ねえ、ねえ。誰か寝ているよ!」

 徹の驚いた声にも、その布団からは誰も起き上がる気配を見せなかった。

「まさか、死んでいるんじゃないの?」

 由真が、ぼそりと言った。そんな事は無いと否定しながらも、万が一誰か具合が悪くて避難できずに寝ているのだとすると厄介なことになる。このまま見殺しにしておくわけにもいかない。とにかく人命に関わることだからと、彼らは隣の様子をうかがいに、静かに襖を開いた。。襖を開くと同時に、彼らは驚愕した。「わあ!」と大きな声をもらして退いた。――ようやく彼らはその異常さをのみ込んで、再び布団の側に引きつった顔を並べ、恐る恐るそれを見下ろした。そこには四十代ぐらいの男が行儀良く仰向けになって、目を閉じていた。男の顔には、まるで生気が感じられなかった。

「本当に、死んでいるんじゃないよね」

 由真と徹が見守る中で、戸部がそっと男の首元に手を伸ばして脈を調べた。

「死んでいる」

 戸部は、すぐに落ち着いた声で、きっぱり言った。

「どうするんですか?」

「あのね。どうすることもできない。気の毒だけど、このまま放置しておこう。さあ、こっちだ」

 それは、生きた人間とは明らかに違って、異質なものだった。それが死体だと言われて、由真も徹もすぐには実感できずに、ただ何か得体の知れないものを見詰めているような、驚いた表情を浮かべていたのだった。――


 ずいぶんと酷い所を通って来たから、彼らは疲れ切っていた。まさか、こんな事をして警備の包囲網をい潜るとは、誰も考えていなかったようで、この奇抜な行動は(途中で思わぬ出来事に遭遇したとは言え)何とか上手くいった。戸部はこの狂気染みた経路を、一つ一つ調べて回ったのだろうか。どの家屋も建物も避難する際には、戸締まりくらいはしたはずだ。それなのに、戸部の示す窓や扉はどれも鍵が開いているか、彼が一瞬で施錠を解いてしまった。この戸部と言う男は、本当に雑誌記者なのか疑わしくなった。彼のこそこそとした動きや用心深さは、まるで泥棒であった。由真は別として、戸部と徹はあまり背丈が変わらない。体付きの良い徹の方が大きく見えるほどで、戸部はその態度も行動も小さかった。そのためか彼の動きは機敏で、こう言った隠密の行動に適しているように思えた。皮肉にも彼の本領は、こう言った犯罪めいたことに発揮された。しかし、戸部が何であれ、由真たちが丘に順調に近づけたのは、またこの男のお陰なのだった。――


 三人はとある屋敷の庭先をまたいで、狭い通りに出て来た。その途端に、どっと強風に突き飛ばされ、由真の体は押し戻された。

「いやー、二人ともよく頑張った。ここまで来れば、もう大丈夫だ。警察の監視も、この辺りには及ばないはずだ」

 戸部は、ほっと息をつく暇も無く、懐の黒手帳を手に、何か熱心に書き込み始めた。由真は戸部の様子を見ると、ようやく安堵した。体の緊張も自然と解けていた。すると、彼女は体のどこかに違和感を覚え、思わず両手で耳を覆った。耳の奥が詰まったふうに、おかしな感じがした。徹は、彼女の仕草で何が起きたのか、すぐに察しが付いたらしい。

「あー、あー。耳が変だ!」

 徹は耳の穴に指を突っ込んでみたが、あまり変わらないと言った。

「耳が痛くなったんだね。あのね。それなら、唾を飲み込めばいいよ。すぐに治るからね。心配しなくてもいい。どうもここら辺は、気圧が異常に低くなっていてね。耳抜きをする必要があるんだよ」

 戸部は手帳の手を休め、こちらに微笑の顔を向けていた。由真はこれまでの緊張から、喉が引っ付いて唾が上手く出なかった。しばらくこのまま我慢するしか無かった。耳が痛くなるのは、気圧の急激な変化によるものらしいが、どうしてこの近辺で気圧が低いのかは、まるで分からないと言う。この町は、分からないことだらけであった。それら全てが、異常気象で片付けられることなのかも知れない。

「あのね。もう丘の近くだから、これからが重要だ。よく聞いてくれ」

 と、戸部がこれまでに無いほど神妙な面持ちで、何か意味ありげな事を口にし始めた。

「この事だけは守って欲しい。ここからは、絶対に何が起こっても大声を出してはいけないよ。――あのね。いくら警備が居ないからと言っても、大声で叫べば、どこで誰が聞いているとも知れないからね。もう一度言うよ。何があっても、大きな声を出しちゃいけないよ!」

 戸部は、大きな声と言うところを妙に強調したように思われた。しかし、今まで警備の包囲を潜り抜けて来たときも、彼らはできる限り声を押し殺して来た。それを今更、言う必要があるのか、二人にはよく理解できなかったのだ。

 その時、再び疾風が巻き起こって、由真たちは顔をしかめた。彼女は不意に上空を仰いで、その光景に目を奪われた。驚きで思わず声をもらしそうになった。――この辺りから丘全体に、ぽっかりと空に穴を開けたふうに雲間ができていて、そこから積乱雲のような分厚い雲の群れが、この町に停滞しているのが見渡せた。それは、台風の目に似ていて、丘の上空だけが奇妙に、からっとした晴天の色をのぞかせて見えた。由真も徹も、まるで真夏を思わせるその眩い日差しに目を細め、じっと空を見上げていた。

「よく見てごらん。ほら、分かるかい? 雲がちょうど、そこを避けて通るだろう。雲ですら、丘の上空を通過できないんだ。さあ、障壁はすぐそこだ。こっちだ!」

 それから、彼らは間も無く、丘へ上る坂道を前にしていた。その坂は、その朝も由真が家族と車で通ったばかりで、一見何の変哲も無い景色だった。戸部は、どこで拾ったのか小石を手にしていた。

「今そこへ石を投げるから、ちゃんと向こうを見ていてね」

 と、彼がそう言う間に、どっと突風が駆け抜けたから、皆は思わずそこへ伏せた。戸部はもう一度仕切り直しだと、「じゃあ、やるよ」と声を掛けた。小石は彼の手を離れ、弧を描いて飛んだ。何か起こる様子は無かった。それがまだ勢いを失う前に、何かに当たって跳ね返ると、彼の足元に転がって来た。目の前には、やはり何も存在しないようだった。

「どう分かった? 今度は、君たち向こうに歩いて行ってみてごらん」

 そう言われて、二人は戸惑った。が、戸部が大丈夫だと、何度もうなずいて見せるから、やがて徹が一歩一歩と足を踏み出し始めた。

「どう?」

「おかしいなー。どうしても、ここから先に進めないや。由真ちゃんもお出でよ。危険は無いから」

 それは、強風に押し戻されるような、あるいは何か磁石が反発し合うようなもので、目に見えない何かの力が働いて、彼らの体を押し戻すように、そこから先に進めなかった。徹は、今度は勢いを付けて体当たりを試みてみた。が、やはりある所を境にその勢いを失って、いつの間にか押し返されているのだ。それで、由真も用心深く歩いて近づいてみたが、やはり徹と同じであった。戸部は、二人のはしゃぐ姿を見て笑っていた。

「でも、見えない壁が邪魔するのなら、ここからどうやって丘に入ればいいの?」

「あのね。それが色々調べてみたんだけど。その障壁と言うのも、このままずっと存在しているわけでは無いんだ。恐らく一時的なもので、直に消滅するだろう。しかし、それがいつ消えるかは予想が付かないから、それまでどこかで身を潜めておこうと思うんだ。警察や自衛隊なんかも、その頃には現れるはずだから、今見つかれば、これまでの苦労が水の泡になってしまうからね」

「でも、おかしいじゃないですか。確かテレビでは、不発弾が発見されたから、非難することになったと発表していたと思うんですけど。その話はどうなったんでしょう?」

「それが細菌兵器だと言うから、こんな大げさな避難勧告が施行されたのだけど……。でもどうだ。彼らは今、何もしようとはしていない。いや、自然の驚異に何もできないのかも知れないね。あの障壁は誰も通過することができないからな。それで、きっと壁が消えるまで待機しているのだろう。すると、その細菌兵器も不発弾も本当なのか疑わしい。ひょっとしたら、この異常気象が起こることを事前に知っていて、住人を避難させたのだとすると……」

 戸部は、考え深そうに話した。それは、彼自身がこれまで調べてきたことを総括しているようだった。

「でも、どうしてそんな嘘をついたんでしょう?」

 熱心に戸部の話を聞いていた徹が、そう問い掛けた。

「それは、恐らくあれだ。こんな異常気象が起きると警告しても、誰も信じないと思ったんじゃないかな」

「確かに、実物を目の当たりにした僕たちですら、目を疑ったくらいですから、そうかも知れません」

 由真たちは、丘の障壁が消えるにしても、それまではまだ時間があるだろうから、この付近をしばらく探索しながら、身を落ち着ける場所を探すことにした。それに、ひょっとしたら柴犬のチョコが由真の後を追い掛けて、障壁の外側に出て来ていれば幸いだと考えていたのだ。隠れる場所と言っても、心当たりがあるわけでは無いわけだし、だからと言って、他人の家屋を勝手に占拠して荒らすのは、極力避けたかった。避難勧告は二三日中に解除されるのだから、後々面倒なことになるのは困るのだ。


 ここに来て頻繁に強い風が吹くようになり、由真たちは移動するのも非常に困難になってきた。コンクリート壁や家の塀を盾に風を避けながら、彼らは足を進めていた。風は常に障壁から吹くようであった。障壁と言っても、実際は何も見えないから、丘の上から風が下りて来るようなものだった。ここらは住宅地の真っ直中で、身を隠すために都合のいい場所と言っても、人家くらいしか見当たらない。丘の麓には小学校がある。そこは今、自衛隊の拠点になっていた。丘の上には病院があった。が、そこは完全に障壁の内側になっていた。

「あの壁は、一体どこまで続いているんだろう」

 徹はこの厄介な強風に、うんざりしたと言うような浮かない顔でつぶやいた。

「雲間を見れば、大体の想像が付くと思うよ。ほら、ちょうど丘全体を取り囲むように続いているだろう。かなり大規模なものだから――その障壁が消滅する時には、どんな事態が生じるか分からない。今の均衡が崩れて、凄まじい嵐を引き起こす可能性もあるだろう」

「僕たち、こんな所に居て大丈夫なんですか?」

「そうだね。万が一と言うこともあるから、早く安全な場所を見つけないといけないんだけど……。まあ、いざと言う時には、そこらの住宅を拝借すればいい」

「またですか」

「でも、早くしないと警察が到着してからじゃ、チョコを捜せなくなるでしょ」

 由真は心配だった。彼女の自宅までは、目の前の坂道を上るだけで、あと少しと言うのに、何もできない歯痒はがゆさがあった。せめて障壁の側から声を高くして叫ぶことができれば、チョコが現れるかも知れないと思うのだが、その事は戸部に固く禁じられていた。

「まあ、焦らなくても大丈夫だよ。壁が消えても、すぐに警察や自衛隊が押し寄せて来るとも限らないんだ。まずは安全を確保するために、数時間の猶予があると思う。あのね。それに障壁が消滅するにも、一瞬と言うわけではないんだよ。これだけ巨大だと、かなりの時間が掛かるだろうね」

 戸部の話では、障壁が消えるときには、はっきりとした兆候が現れるらしい。動きだすのは、それからでも遅くないし、じっと腰を据えて待つことも大切だと言った。その後も、何か彼自身の身の上話を語り始めたが、由真には戸部の言葉など聞こえていなかった。


 その兆しが始まったのは、ちょうど一時間後のことだった。風がますます激しくなるのか、どっと言う突風が吹き付ける音とともに、建物全体が大きく揺さぶられた。樹木の枝葉が強風にあおられるらしく、その恐ろしいざわめきが家内まで届いて来た。由真たちは、ある空き家を見つけ、その一室から嵐の前触れを思わせるふうに、見る見る暗がりに包まれていく景色を無心に眺めていた。

 丘の天候は、最悪だった。突然に深い霧が現れたと思うと、完全にその視界を遮ってしまった。ときどき中で放電が起きるらしく、雷に似た閃光が走った。丘で何か起きているのか、まるで計り知れない。障壁の外と内では、全くの別世界が展開されているのだ。

 由真はこれまで胸の内に抑えていた思いが、とうとう限界に達していた。彼女はチョコのことが心配で、早く丘に行きたいと嘆いた。しかし、障壁の中に入る手段も分からないし、その内側で何が起きているのか見当も付かない。そんな危険な状態では、仮に壁を通り抜けたとしても、こちらへ戻れなくなるかも知れないと、戸部は何度も彼女を説得した。徹はその側で二人のやり取りを黙って見守っていた。徹も由真と同じで、丘に向かうことに賛成のようだった。それは、彼の友達に借りたゲームソフトが、この丘の異常な荒れ具合を見て、壊れてしまうと心配したからだ。

「ああ、もう分かった。分かった。とにかく、壁がどうなっているか確かめに行こうじゃないか。それから決めよう。――だけど危ないと判断したら、ちゃんと言うことを聞くんだよ」

 戸部は、とうとう由真の強情さに折れたふうに、少々投げやりな態度を見せた。それで、彼らは丘に入る手立てを講じるために、再び障壁の前に近づくことにした。


 障壁のある付近は、一時間前とは全く様子が異なっており、それも刻々と変化を遂げていた。壁の向こう側は、濃霧が完全に視界を奪っているために、一見すると白い壁が立ちはだかっているような景色であった。しかし、その霧は流動的で、急に濃くなったり、薄くなったりした。あるいは、どっと潮流が押し寄せて来るように、障壁を無視して、こちらへ霧があふれ出すことがあった。それは、一定の周期で訪れた。内部の変化に障壁が付いて行けないようだった。それでどうかすると、丘に入れるのではないかと言う結論に至ったのだ。

「タイミングさえ間違えなければ……」

「中に入れるんですね!」

 由真は明るい声をもらして、戸部のその後に続けた言葉など耳に入っていなかった。

「――もし誤れば、大変な事態が待ち構えているだろうが……」

 戸部は、どうも乗り気がしないようだった。もっとも中へ踏み込めば、貴重な情報が得られるかも知れないが、命を懸けてまでするような仕事では無かった。それに、障壁が消えて安全が確保されてからでも十分なのだ。それで、戸部が愚図愚図している間に、由真が一番に入ることを決意した。その後に徹、戸部は最後までその態度は曖昧だった。彼らは強風の中で、自然と声が大きくなっていた。

「じゃあ、気を付けて。あまり無理をしないように」

「すぐ追い掛けるからね。待っていてね。由真ちゃん!」

 由真はゆっくりとうなずくと、次の霧が押し寄せるのを見計らって、勢いよく飛び込んだ。たちまち彼女の体は冷気に包まれ、霧の真っ直中に立っていた。眼前は白一色で、視界はゼロに等しかった。彼女の足は、今にも不安と恐怖とで動かなくなりそうだった。しかし、ここで立ち止まってはいけない。そう瞬間的に悟った。もしここに留まれば、巨大な障壁の中に閉じ込められ、二度とそこから出られなくなるか、それとも、障壁によって体を引き千切られてしまうだろう。彼女はどうにか弱る気持ちを奮い立たして、重くなった足を必死に運んだ。障壁はどこまで続いているのか分からない。とにかく先へ進むしか無かった。

 間も無くして、由真の背後で徹の上擦った声が響いてきた。どうやら障壁の中へ上手く入り込めたらしい。由真はこのまま先に進もうか、徹を待った方がいいか迷っていた。早くチョコに会いたいと言う気持ちもあったが、この霧では彼を待っても確実に見つけられるとは限らない。その上、ここは障壁の内側なのか、安全な場所なのかもはっきりしなかった。

 彼女が態度を決めかねているうちに、また声がした。今度は戸部の番になったようだ。もう直に彼も追い付いて来る。由真は少しくらい待っても変わらないと思い直した。と同時に、男のうめき声が彼女の背中を追って来た。紛れも無くそれは戸部の声だった。彼は障壁に飛び込む機会を見誤ったようだ。怪我を負ってしまったのだろうか。また遠くで声がして、私には構わず先に行ってくれと、それは途切れ途切れの声だった。気付けば、由真のすぐ近くで霧が奇妙に巻き上がって、隣に徹が立っていた。二人は危うくぶつかりそうになった。すると、突然と霧の向こうで激しい炸裂音とともに、男の悲鳴が響いた。由真も徹も思わず顔を見合わせた。由真は戸部の所へ戻ると、体を傾けようとした。が、その時には、徹にしっかりと手を引っ張られて走りだしていた。ここに居ては危ない。彼らは直感的にそう思ったのだ。

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