消えた丘から不穏な風が吹くとき

第1話 避難勧告が発令されたら

 雲雀野ひばりの由真ゆまたちが自宅を出発したのは、夜明け前だった。丘の坂道は混むどころか、ときどき対向車にすれ違うことはあっても、前を走る車はほとんど見当たらなかった。それで、由真の父はわざわざ早めに出る必要も無かったと笑った。彼らの車は、薄明かりの住宅地の狭い坂道を順調に下った後に、数台の車が立ち往生している所へ出くわした。直に丘の坂道を抜けると言う辺りだった。

「どうしたのかしら?」

「渋滞かな? やっぱり道が混んでいるんだよ。早めに出て正解だったな」

「そうね。あら、でも変ね。あの車、引き返して行くみたいですよ」

「本当だ。まさか忘れ物して、今更取りに戻るわけでも無いだろう」

 彼らの車がそこへ近寄ると、紺色の制服を着た男たちが、その縦列した車の間でせわしく働いているのが分かった。どうやら検問をやっているらしい。

「ねえ、何かあったの?」

「分からないよ」

 由真たちが不審そうにしている間に、一人の警官が車の側にやって来て、運転席の窓を開けるように促した。その警官は腰をかがめて車内をのぞき込むと、父としきりに話していた。ところが、二人の様子からは、別に深刻な話とは思えなかった。それよりも、由真は後部座席で、柴犬のチョコが怯えて吠えださないかが心配だった。――その警官が言ってしまうと、父はハンドルを切りながら言った。

「車は、だめなんだってさ」

「だめって?」

「みんなが車で避難したら、渋滞になるとかで、車じゃで出られないらしい」

「だって、旅行なのにね。――じゃあ、どうやって行くの?」

 その警官の話では、最寄りの交通機関までは臨時のバスか、自衛隊の輸送トラックが送ってくれると言うのだ。由真の父はそう話しながらも、狭い道に気を取られ、車を方向転換するのに必死だった。

「ねえ、チョコのこと何か言ってなかった?」

 由真は、先ほどの警官が口にしていたことが、妙に気になった。その上、動物の変死や野犬狩りなど、物騒なことがこの界隈で続いていたから、何か事件にでも巻き込まれているのではと不安になったのだ。

「ああ、ペットの管理は十分注意してくださいって。残された動物は、安全のために処分することがあるらしいよ」

「どうして処分されないといけないの?」

 由真は思わず声を高くした。

「大丈夫だよ。連れて行くのだからね」

 実際に、チョコが処分される心配は無いはずだが、由真は納得がいかない様子で、不機嫌な眼差しを車外へ移した。彼らの車は、ようやく先ほど通った道を戻り始めた。帰りの道は上り坂だから、出発した時よりもエンジンが激しく唸り、走行は遅いように思えてもどかしかった。道幅の狭い場所では対向車に出会うと、こちらが上りだから車は道を譲ってくれた。しかし、由真たちは引き返しているのだから、何だか後ろめたい気がしてならなかった。由真の父は、向かいの運転手に軽く会釈をしていた。

「車じゃ出られないって、伝えなくていいのかしら?」

「そんなこと言っても、行ってしまったよ。それに一々そんな事やっていたら、こっちが間に合わなくなる。どうせすぐそこだし、ここまで下りて来たんだから、手間は同じさ」

 物々しいサイレンが丘の住宅地を包んだのは、彼らが自宅へ到着したときだった。と、由真が後部座席のドアを開いた途端に、怯えた小犬のチョコが車外へ飛び出した。

「チョコ待って!」

「チョコを放さないで」

「だって、逃げちゃったんだもの」

 不穏な空気の漂う中で、車外を見回した由真の母にも、走り去る柴犬の後ろ姿が目に入ったようだ。由真は慌てて車を降りたが、その姿はとうにどこかへ隠れてしまった後だった。


 ――灰色の作業着の男たちを見掛けたのは、半年以上も前だった。彼らは町中の野良犬を追い回し、捕まえているのだと言う。子供たちの間では、何か恐ろし実験を行うために、捕獲するのだと妙な噂が広まっていた。もちろん全て噂であった。だが、彼らの胡散臭そうな格好や、野良犬に対する異常な執着を恐れ、誰かがそう言い始めたのだろう。

「ありゃ、保健所の人だね」

 駄菓子屋の老婆が、店にやって来た女の子たちの噂に口を挟んだ。彼女らは、その制服姿から近所の中学生らしい。

「ホケンジョ?」

 老婆はレジスターから釣り銭を拾って女の子へ渡した後に、悪い病気を持った犬を駆除しているのだねと、その老いた容姿には似合わない子供のような可愛らしい声で言った。

「この頃は妙なのが、うろついているからね。道草せずに、明るいうちに帰りな」

 女の子たち二人は顔を見合わせると、笑いを堪えるような表情を浮かべ、小声でしきりに何か話しながら店を出て行った。


「ちょっと、そこの君たち。あのね。僕は、こう言う者なんだけど……」

 女の子たちは先ほどから、見知らぬ大人の男に声を掛けられていた。が、全く相手にしなかった。それで、男は古びた上着のポケットを探りながら、一枚の名刺を差し出したのだ。彼女たちは、これには少し興味を持ったらしい。

「何だろうね? スカウトだったら、どうしよう」

 女の子たちは黄色い声ではしゃぎながら、その名刺をのぞき込んだ。見るとがっかりしたようにまた歩きだし、男のことなど無視して行ってしまいそうだった。

「ちょっと、君たち……」

 男は雑誌か何かの記者らしい。彼女らの通う中学校で、校庭の隅にある飼育小屋のニワトリが、変死したことについて取材に来たと言う。最近この町では、そう言ったやからが増えていた。それは、単にニワトリの事件だけならば、こんな騒ぎにはならなかった。しかし、この事件を切っ掛けに、町では似たような動物の変死事件が起こっていたからだ。

 女の子たちは諦めようとしないこの男に、うんざりした様子だった。

「それなら、あの子が詳しいよ」

 と、女の子の一人が、ずっと後ろを歩いていた由真を見つけ、ずるそうに指差した。

「そうそう、かなり知っている」

 男は苦笑しながらも、後方の由真へ目を移して当惑をした。由真は制服こそ同じであったが、彼女たちと比べるとずっと体が小さかった。その隙に、女の子たちはその男から離れてしまった。


 由真は、全く男と目を合わせようとしなかった。それで、男の方も声を掛ける機会が掴めないらしく、その態度もどうも曖昧だった。しかし、その男の前を越えるまでは安心できなかった。――

「怖かった。今、ちょっと変な人が居たの」

 由真は帰宅するなり、彼女を出迎えに来た誰かにそう言った。玄関口には、柴犬のチョコが尖った耳先を立てて、行儀良く座っていた。その小さな犬は、まだ一歳にも満たないと言うのに妙に大人びていて、小さな執事と言う感じがした。

「今日は、早かったのね」

 由真の母が奥の部屋から、怪訝な顔をのぞかせた。由真は、ただいまと言う代わりに、不発弾が見つかったとかで、学校の授業が途中で終わりになったことを母へ矢継ぎ早に告げた。

「お母さん、大丈夫なの?」

 母は、えっと聞き返し、再び不審そうな顔色を見せた。

「近所なんでしょ? 爆弾が発見されたのは……」

 それで、母はやっと要領を得たと言うように、昼間のことを話し始めた。――不発弾が発見されたのは、近所のスーパーの辺りであること、家はちょうど避難区域に入っているから、自分たちも逃げた方がいいのだろうかなど次々に口にした。

「お父さんも、今日は早く帰って来るって」

「お父さんも!」

 由真は驚いた。彼女が思っている以上に、深刻な事態になっているらしい。

「何だか、急に妙な事になったでしょ。お母さん、どうしようかって独りじゃ心配だったの。――心配だし、旅行って言うでしょ。準備もしないといけないし、そう言うのが、一遍に来たから、どれをどうすればいいのか大変だったのよ」

「旅行? お母さん、旅行に行くの?」

 由真は思わず母の言葉を奪った。いつそんな話が飛び出して来たのだろうか。別に由真が母の話を聞いてなかったと言うわけでは無かった。

「それでね。土日は外出できなくなるから、その間に旅行へ行こうって、お父さんは言うのだけど……」

「チョコはどうするの。置いて行くの?」

 母は足元に居た柴犬を見詰めた。チョコは大人しく座ってじっと由真を見上げ、どうも自分の名前が呼ばれたから喜んでいるらしい。

「置いて行くわけにもいかないわね」

 と、母はチョコの両脇を抱えて持ち上げると、その丸々と肥えた白いお腹が露わになった。母は、チョコが後ろ足を真っ直ぐ伸ばして、まるで無抵抗になっているその様を、楽しんでいるようだった。

 早く帰って来ると言った由真の父が帰宅したのは、その晩ずいぶん遅くなってからだ。父は、この二三日は騒動が治まりそうに無いから、その対応で忙しかったと話した。

「朝早くに出ないと、明日は通行できなくなるぞ!」

 父は、楽な格好のシャツに着替えて、食卓に着くと、母がわざわざ駅の売店で買って来たその日の夕刊に、熱心に目を通していた。

「混むのでしょうかね?」

 母はまだ不安そうな表情を浮かべ、心配事でも考えるのか、時々ぼんやりすることがあった。が、父が帰って来たことで、母は幾分か落ち着きを取り戻していた。彼ら、由真も含めて家族三人は居間に集まって、明日の出発のことなど相談していたのだ。

「混むだろうね。何せ、町一つの住民が一度に避難するからな。もうこれは大移動だよ。大変な騒ぎになるんじゃないかな」

 父の口調は、どこか興奮気味で楽しそうだった。由真は心配そうに、二人の会話へ耳を傾けていた。

「今日はもう寝ないとな。明日、寝坊したら大変だ」

「それじゃあ。避難に遅れたら、どうなるんですかね?」

「きっと、最後は一軒一軒確認するだろうね」

「確認に来るんですか?」

「するだろう。まだ人が残っていて、万が一爆発にでも巻き込まれたら大問題だかな。新聞に大きく取り沙汰されて、担当者の責任問題にも発展しかねないからね」

「そうですね……」

 母は、またぼんやりとしていたようだった。

「おい、大丈夫か? お茶漬けでいいよ」

「食べるんですか? もう遅いから食べて来たのかと思って……。じゃ、今から用意します」

「早く頼むよ」

 由真の父が言うように、明日になればこの町から誰も人が居なくなる。もちろん不発弾を除去する作業員などは残っているだろうが、それを除けば町はもぬけの殻になる。それは一体どんな世界であるのかと、つい先ほどまで普通に生活していた人々が、突然と姿を消してしまう、まるでどこかの異次元にでも迷い込んでしまったような異様な風景に、この町は変貌するのだ。由真はふとそんな事を考えて、急に恐ろしくなった。


 ――物々しいサイレンが丘の住宅地を包んだのは、由真たちが車では避難できないことを知らされ、再び自宅へ戻って来たときだった。と、由真が後部座席のドアを開いた途端に、怯えたチョコが車外へ飛び出した。

「チョコ待って!」

「チョコを放さないで」

「だって、逃げちゃったんだもの」

 不穏な空気が漂う中で、車外を見回した由真の母にも、走り去る柴犬の後ろ姿が目に入ったようだ。由真は慌てて車を降りたが、その姿はとうにどこかへ隠れてしまった後だった。

 しばらくして由真は一人で戻って来ると、家の前には見慣れない大型トラックが止まっていた。

「早くしなさい! もう荷物は載せてあるから」

 母はもうトラックに乗り込んで、その荷台の入り口から心配そうな顔をのぞかせ、由真を見つけてそう叫んでいた。父は慌ただしく手招きをして、その側には深緑の作業服を着た男が見えた。

「でも、チョコが……」

 由真は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。家の周りを見て来たが、愛犬のチョコの姿はどこにも見当たらなかった。

「いいから、急ぎなさい!」

 由真は、母の普段には無い強い口調に驚いて走りだした。それから、二人は自衛隊員に誘導され、無骨なトラックの荷台に乗り込んだ。その時も、由真はいつチョコが塀の陰から出て来はしないかと、そこから目を離さなかった。しかし、彼女の期待も虚しく、最後まで小犬の姿は現れないままだった。

 由真の顔はどこかまだ熱を帯びて、腫れぼったかった。今はどうにか平静を取り戻し、トラックの荷台に揺られていた。――チョコを残して来てしまった。今頃ひとりで寂しく鳴いているだろう。お腹を空かせているかも知れない。せめて家の扉を開けて、エサを用意しておけば良かった。そうすれば……。由真は丘の自宅から遠ざかるに連れて、そこに置き去りにして来たチョコへの思いがますます募るのを感じ、突然と嵐のように泣きじゃくったのだ。薄暗いトラックの荷台には、由真の家族の他にも二十人以上の住人が同乗していた。その中には、由真の顔見知りもあった。普段は話などしなくとも、通学の途中で顔を合わすこともあったはずだ。しかし、彼女は恥ずかしいのも忘れて子供のように、わあわあと声を立てた。誰もが、由真に気の毒そうな視線を向けたが、何か慰めの言葉は一言も無かった。むしろ泣きたいのは、彼ら自身も同じだった。どうしてこんな大げさに避難するような事態に陥っているのか、全く理解できないと言いたげだった。皆、沈んだ顔で壁際に腰を落ち着け、揺られていた。由真に感化されてか、すすり泣く声さえ聞こえてきた。――彼女の母でさえ、どうしていいのか当惑して、隣で由真をなだめるのに必死であった。


 由真たちは愛犬のチョコが心配で、手近の安価なホテルに身を落ち着いたところだった。既に家族旅行どころの騒ぎでは無くなっていた。由真の父は、手当たり次第に電話を掛けてみた。どこも通話中なのか繋がらないらしい。彼らの町は思いのほか混乱の様相を呈していたから、高が小犬一匹に構っている余裕は、微塵も残されていないのだ。まさに父の言った通り、町民の大移動が起こった。それで、この界隈は一時的に街中が混乱によって麻痺していた。

「それにしても、酷い渋滞だな。ほら、車で来なくて正解だっただろう」

 父は物珍しそうにホテルの部屋から、階下を眺めていた。そこからは、ちょうど繁華街の大通りを見下ろすことができた。四車線の通りは、一方の車線がどこも縦列した自動車であふれ、まるで動く気色が見られない。他方は比較的順調らしいが、そちらは由真たちの住む町へ戻る方角で、道の先は通行止めになっていた。丘は完全に封鎖され、関係者以外は誰も入ることができなくなってしまった。

「ああなったら、身動きも取れないな」

「ずっとここに閉じこもることになるのかしら」

「犬が見つかるまでの辛抱だよ。それに二三日中には、避難勧告も解除されると言う話じゃないか」

 父はまだ窓際から離れずに、窓の外をうかがっていた。いつしか、空には恐ろしいほどの黒雲が広がって蠢いて見えた。それは、ちょうど嵐の前触れを思わすような情景だった。そう思っているうちにも、窓ガラスにさっと白い筋が走って、瞬く間に雨粒が現れた。父はその様子をじっと見詰めていた後に、これは荒れそうだぞと振り向きざまに言った。


「ホテルの外には出ないでね」

 由真は、母にそう言われて部屋を抜け出して来た。彼女の決意は、少しも揺るがなかった。チョコはきっと誰も居ない丘の家で、寂しく鳴いている。それが心配で、由真はこれから丘へチョコを迎えに行くつもりだった。徒歩でどれくらい時間が掛かるか分からない。知らない町では無いし、どうにかたどり着くことはできるだろうと考えていた。もちろん、父と母には内緒にして来た。それには、多少後ろめたさを感じていた。彼女はまるで泥棒のように、こっそりと静まり返ったホテルの長い廊下に現れた。

 由真が部屋の扉を閉じると、また彼女と同じように、誰かが出て来て扉を閉めるところを目にして、少し気まずくなった。ホテルなのだから、由真たち以外にも大勢の宿泊客が滞在している。特にその日は避難勧告のために、この界隈のホテルならどこも満員だったはずだ。偶然であれ、外出のときに鉢合わせになることもあるだろう。しかし、ホテルの廊下と言うのは、両側の壁が迫って不案内な扉が並んでいたから、何とも落ち着かない空間だった。その上、現れたのが彼女と同じ中学に通う男の子だった。それで一層そう感じたのかも知れない。名前こそよく知らないが、男の子の顔にはどこか見覚えがあった。

 二人がしばらくじっと息の詰まるときを過ごした後に、ようやくホテルのロビーに下り立ったエレベーターの扉は開いた。彼らの強張った表情も自然と緩んでいた。由真が降りるのを待って、男の子も続いて出て来た。ホテルと言っても安価な建物で、ロビーは飾り気の無い内装の上に、あまり広く無い。正面のフロントには、この騒動で訪れた宿泊客が数人集まり、慌ただしい様子だった。それは、由真にとって好都合だった。気まずい思いをせずに、その脇を素通りすることができた。ところが、先ほどの男の子が彼女の後をどこまでも追って来るのだ。立ち止まるわけにもいかない。二人はやがて同じ方へ向かっていると互いに気付いて、入り口の自動ドアに近づいた。その時、突然こんな妙なことを口走っていた。それも同時に、相手に向かって言ったのだ。

「ホテルの外に、出ちゃいけないんじゃないの!」

 二人は今まで気になっていたことが、つい口をついて出てしまったようだ。互いに面食らった表情を見せて、見詰めていた。――最初に男の子が、友達に借りていたゲームソフトを、家に取りに戻るのだと話した。男の子はずいぶん体格が良く、体の小さな由真とは対照的であった。

「そんな事で、家に帰るの?」

「悪いか! 高木の奴が、早く返せってうるさいんだよ」

「だって、二三日待てば避難勧告も解除されるのに、それからでもいいじゃないの!」

「そんなこと言ってもさ……。お前だって同じだろう。帰ろうとしていたじゃないか」

「私は……。チョコが、――うちの犬を探しに行くのよ」

「犬? 迷子になったのか?」

 男の子は青島 とおると言って、今年中学三年の由真より一つ学年が下だった。

「付いて来ないでよ!」

 由真は彼女の後ろを歩く徹へ、振り向きもせずに言った。

「別に付いて来ているわけじゃないよ。行く方向が同じなんだから、仕方が無いだろう」

 徹も負けず、ぶっきらぼうに答えた。

「じゃあ、少し離れて来てよ」

「そんな事言っても、どうせ同じ方向なんだから、一緒に行けばいいじゃないか。じゃあ、僕が前を歩くから、その後に来ればいい。それなら、追い掛けることにならないだろう」

「嫌よ。そうしたら、今度は私が後を付けているみたいじゃない」

 しばらくそんなやり取りを繰り返した後に、二人はそんな些細なことで言い争っている彼ら自身が、何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。少しは不満をぶつけ合うことで、張り詰めた気持ちが和らいだのだろう。それで、互いに帰る方向が同じだから、休戦協定を結んで、行動を共にすることにしたのだった。

 二人はようやくホテルの外に出て来た。空は依然と黒々とした雨雲が低く張り出していて、今にも嵐になりそうだった。と、急にどっと強い風が吹き付け、二人の体をホテルの方へ押し戻した。

「傘持ってくれば良かった」

 由真はまだ空模様を心配して、じっと雨雲を仰いでいた。

「こんな強い風が吹くようじゃ、傘なんて何の役にも立たないよ。かえって邪魔になるだけさ」

 徹は顔をしかめ、風が吹いて来た方を見詰めた。

「そうなの……。とにかく急ぎましょう」

 ホテルのある繁華街は酷い混雑ぶりで、殊に道路の渋滞は一向に解消される兆しが見えない。至る所で殺気だった警笛が鳴り響いた。ところが、二人が丘に近づくに連れ、通りの様子も一変した。そこは、避難地区まではまだ幾分離れていたのだが、先ほどの景色とはまるで別の世界だった。街中と言うのに、人の気配が全く感じられない。直に昼前と言うのに、商店はシャッターを下ろしているか、あるいは戸締りした扉にブラインドが掛かって、どこも留守のようだった。道路脇には、渋滞で身動きが取れなくなった自動車が、乱暴に乗り捨ててあった。由真は道すがらその光景を目の当たりにしているうちに、次第に背筋が寒くなるのを感じた。――人が居ないと言うことに、これほど恐怖を感じるのだと初めて知らされた。それは彼女たちだけが、その場所に取り残されたと言う錯覚に襲われるからだろうか。由真は、きっとチョコもそんな辛い思いをしているに違いないと心配になった。また、どっと激しい風が、彼女の体を包み込むように吹き抜けた。しかし、それがかえって街中を騒がせて行くから、少しは増しなのかも知れなかった。もし突風が無ければ、彼らは完全な静寂な街をさまようことになるのだ。それがどれほど心細いことか、由真には想像できなかった。


 徹は行き成り交差点の真ん中に飛び出すと、何か探すように、道路のずっと先の四方を眺め回した。

「どっちの方角かな」

「迷ったの?」

「えっ、何か言った?」

 由真の声は、徹の耳には届かなかったようだった。それがこの突風のせいなのか、それとも、彼女が元気を失ったせいなのかは分からなかった。それで、由真は今度は少し声を張って、徹に聞き返した。

「迷ったのって聞いてるの!」

「多分、――こっちだと思うのだけどね。ここら辺りは、歩いて通らないからよく知らないんだ」

 由真も道路の中央に立つと、目を細めて遠方を見渡した。視界は広がったが、風が裸眼へ直に飛び込んで、酷く刺激される気がした。――真っ直ぐに伸びた道路には、その左右の並木が奇麗に整って列を作っていた。普段なら見られない場所からの眺望に、彼女は多少機嫌を良くした。この道路を走り抜ける車は、一台も見当たらない。由真は先ほどから緊張し通しで、凝り固まる体をほぐすふうに、大きく両手を上げて伸びをした。その時、彼女の体をまた強風がぶうぶう鳴ってすり抜けた。それが、体が宙を舞って風を切るような体感と同じにさせるから爽快だった。と、由真は風上に目を移すと、何か閃いて顔を明るくした。

「ねえ、徹君。こっちじゃない!」

 由真は、徹が慌ただしく駆け寄るのを待って、また言った。

「こっちじゃない? ねっ、また吹いた」

 由真が言っているのは、先ほどから彼らの間をどっと吹き抜ける風のことで、その風上は道路の進行方向であり、それらは不思議と一致していた。

「きっと、丘の方から吹いて来るんだと思うよ」

「それじゃあ、風上を目指せばいいってことだね」

「ええ、きっとそう。間違いないよ」

 二人は多少明るくなった心持ちで、再び帰るべき丘を目指して歩きだした。空は相変わらず真っ暗なのだが、ここまでは激しい雨に見舞われることも無かった。小雨ぐらいは、ぱらつくこともあるが、それはときどき吹く強風に、着衣の雨染みすらさらわれていった。彼らは周囲を警戒しながらも、風の来る方角へ急いだ。それに連れ、次第に吹き付ける風も強くなっていった。まるで台風の目に向かって進むようだった。


「ねえ、あれ。人が居るよ。行ってみようか」

 由真が人影を見つけたのは、風向きが変わって通りを脇道に入った所だった。そこからは、入り組んだ路地が彼らの前に立ちはだかっていた。と同時に、誰か男がそこへ立っていることに気付いた。由真は、ちょうど道を尋ねるのに、都合がいいと思って走りだそうとした。

「だめだよ!」

 徹は声を潜めていたが、それでも由真を制するのは十分だった。徹はじっと男をにらむようにしながら、こっちへと由真を物陰に隠れるように促した。

「どうしたの? 早くしないと、あの人どこかに行ってしまうんじゃないの?」

 由真は不審な顔をしたが、徹に釣られて小声になっていた。

「いいんだ。それでいいんだよ。きっとあの男は警備の人だよ。ちゃんと制服も着ていたからね」

「じゃあ、ちょうど良かったじゃない。案内してもらおうよ」

「しっ、静かに! だめだよ。見つかれば捕まってしまう。今、丘は避難勧告が下りているんだから、立ち入り禁止になっているはずだからね。帰るって言ったら、すぐに拘束されてしまう」

 徹が思わず語調を強めたから、由真は一瞬怯えたような表情を見せた。徹は直ぐにそれを取り繕うような苦笑いを浮かべ、また言った。

「さあ、ここからは慎重に行動していこう。たぶんもっと警備の人が待ち構えているだろうからね」

 由真は黙ってうなずいた。


 二人はここに来るまでに、物々しい警備の様相を目の当たりにして来た。――丘に近い小学校には、隣接して歩道橋が架かっていた。そこに大きな道路が走っていて、生徒が渡るためのものだった。が、今はそこを上がって渡る小学生も、歩道橋の真下を猛スピードで駆け抜ける自動車も居なかった。徹はその階段に近づいたとき、警備の男を認めた。男はちょうど歩道橋の上に陣取って、周囲に監視の目を向けているようだった。

 その道は、ちょうど丘に上る坂道に向かっていたから、どうしてもそこを通らないとならない。しかし、この付近の警戒ぶりは異常なほどで、どこも警官や自衛隊らしい人影が、二人の進路を阻んで立ち入る隙が無かった。彼らは無駄な時間ばかり費やし、いよいよその顔に焦りの色が濃くなってきた。

「こっちも見張られていて、だめみたい」

「困ったな。このままじゃ、いつまで経っても家に帰れないよ。――でも、どうしてこんなに警備が厳しいんだろう? きっと近くに何かあると思うんだけど」

「何か? 何があるの。小学校があるだけじゃない。――小学校か、懐かしいね……」

「でも、ここからじゃ、運動場も見えないな」

 彼らの所からは、校舎の高い建物が現れているだけで、その敷地内がどうなっているのか全く分らなかった。

「中の様子が見たいの? それなら、どこかビルの屋上とか、高い所に上がればいいんじゃないの」

 と、由真は振り返るように、辺りを見回した。道路を挟んで立ち並ぶ建造物は、どれも人家や個人の商店が軒並みを揃えて、見晴らしのいい建物はそう簡単には見つからないものだった。それでも、しばらく近辺を探し歩いた後に、少し後戻りすることになったが、数棟の隣接したマンションのビルを見つけた。その上階なら小学校の校庭もうかがえるだろうと、二人は早速そのエレベーターで最上階に昇って来た。マンションに人の姿は見えなかったが、電灯は点いたままであった。

「ちょっと遠いなー」

 徹はそう言いながらも、運動場の有様に目を奪われていた。そこからの眺めで十分に状況は分かった。肌色に近い土の運動場が、深緑の塊で埋め尽くされていた。それは規則正しく整列して見えた。どうも由真たちを輸送して来たトラックで、数十台は並んでいて、他にも特殊な車両が止まっているらしい。近くには簡易テントが設置され、その周りにときどき人が動いているのも辛うじて分かった。どうもそこが、この避難活動の拠点に当たるようだ。それで、小学校付近は警備が厳重だったのだ。由真も徹の隣で、その光景に圧倒されていた。

「あんなに大勢居たんじゃ、近づけるわけないよ。――ねえ、これからどうしよう?」

「どうしようって……。あともう少しなんだから、どうにかならない?」

「そう簡単なことじゃないよ」

「ねえ、あれ!」

 由真はその時、何かに気が付いたのだが、それを考える間も無く、マンションの長い廊下の向こう側で物音がした。誰かが、エレベーターで昇って来たらしい。しかし、部屋の並ぶ廊下はエレベーターの所まで真っ直ぐに伸びていて、隠れるような場所はどこにも見当たらなかった。もはや万事休すだ。由真と徹はそちらをじっと見詰め、もう成り行き任せにするしか、選択の余地は無かった。すると、向こう側に男が現れた。どこか胡散臭そうな風貌の大人で、男も二人を見つけたらしい。急に、わざとらしいような愛想笑いを浮かべて近づいて来た。

「由真ちゃん、逃げて! 僕がこのオッサンを押さえているから、その隙に逃げて!」

 徹はそう叫ぶが早いか、その男にしがみ付いた。男は不意を突かれたせいで、完全に身動きが取れないでいるらしい。

「でも……。徹君はどうするの?」

「早く! 今のうちに行って、僕も後からこのオッサンをやったら、追い掛けるから」

「おい、おい。待ってくれ! あのね。別に君たちを捕まえに来たわけじゃないんだから……。おい、よく見てくれ!」

 男は堪らず声を上げた。

「あっ、この人知っている。確か、不審者よ!」

「やっぱりな。この不審者!」

「あ痛たた。乱暴は止してくれ。誤解だから……」

 間も無くして、男は解放された。男は先日、由真たちの学校の周辺で取材をしていた雑誌の記者で、戸部と言った。

 彼らは、実におかしな組み合わせであった。親子ほど年の差のある雑誌の記者と二人の中学生が、マンションの上階の廊下に並んで、遠くの景色を眺めていた。戸部は肩に提げた黒い鞄から、小型の双眼鏡を取り出してのぞいていたが、それを由真や徹にも見るように寄越した。――恐る恐る双眼鏡をのぞくと、微小な人物も驚くほどに鮮明になった。そこには、自衛隊員の他にも医師か、科学者風の白衣姿の人も見られた。不発弾の除去にしては、少々大げさなように感じられた。一通り見渡すと、戸部は方角を変えて別の所を指した。徹は不審に思ったが、すぐに奇妙なことに気付いて、何度も双眼鏡をのぞいたり、目を離したりしてみた。が、やはり同じであった。――そこには、彼らが目指すはずの丘が、どこにも無いのだ。ずっと平地が続いて、丘の起伏が全く見当たらない。そればかりか、そこに点在する人家の様子もどこか狂っていた。建物が全て押し倒されたように、向こう側に傾いて見えた。

「どう言うことなんです? 丘が無くなっているんだけど!」

 戸部は、徹の驚いた顔に満足そうな微笑を見せた。

「やっぱりそうか。君たちにも丘が見えないかね。ああ、そうだろう。僕も初め気付いたときには、自分の目を疑ったよ」

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