犬の医者

犬の医者

 青島 とおるは、何かに怯えて身構えた。また来ると思いながら、彼は顔をもたげ、素早く人混みの間に目を走らせた。電車の中は通勤時間で、サラリーマン風のコートを着た人や、紺のスポーツバッグを手にした制服姿の学生たちで、互いの肩が触れるほど窮屈だった。皆やっとの思いで自分の場所を確保し、どうにか落ち着いたところであった。しかし、その足音は軽快にこちらに近づいて来る。独特の音で、爪が床をカシャカシャと引っくからすぐに分った。それは、まさしく犬だ。

 青島徹と言うのは、丘の団地から一駅離れた県立中学へ通う少年だった。彼が最初にその奇妙な犬を目撃したのは、乗客の疎らな午後の電車のことであった。

「ええっ? 犬だ」

 犬が電車に乗っている。誰もが驚くことだが、どこか微笑ましい光景で、徹も思わず顔をほころばせ、その挙動に目を奪われていた。が、その外見は酷いものであった。どぶ川でもさらって来たのか、体中にべっとりとどす黒いものが張り付き、それが乾いて固まっていた。どう見ても野良犬に違いなかった。

 しかし、車両間の扉は閉じられていたし、この車内に居たのなら気付かないはずが無いから、どこから現れたのだろうと、徹は長椅子に腰掛けながらその汚い犬を眺めていた。その犬は後部車両の方からこちらへ向かって、ゆっくり歩いて来た。と、急に立ち止まると、犬は四肢を踏ん張り、体を反るように鼻先を上げた。車内を探って鼻を利かせ始めた。徹はどうするのだろうと、その一部始終を不審そうに見詰めていた。

 犬の体はぴたりと静止した。それも一瞬で、すぐに獲物を見つけたときのように荒ぶる勢いで走りだした。先ほどののんきな犬とは思えないくらい機敏な走りは、別物だった。徹はもう夢中で、その犬の後を追っていた。すると、向こうの座席に、胸に抱いた赤ん坊とは不釣合いなほど、派手な服装の若い女を見つけた。と同時に、徹ははっと息をのんだ。その犬は歯をむき出し、低く唸るような声を吐くと、他には目もくれずに真っ直ぐに走った。野良犬が、その赤ん坊に飛び掛ろうとしている。小型の犬だが、赤ん坊なら十分に食い殺すことが可能な体格だった。徹は、とんでもないところに出くわしてしまった。今まさに、襲おうとする瞬間を目の当たりにしたのだ。犬はその軟らかい所を食い千切った。――丸々と肥えた腕か、まだ形の整っていない顔面か、腹を引き裂いたか、ふっくらした太ももに噛み付いたか、徹のところからははっきりしない。が、その途端に、赤ん坊がけたたましい泣き声を上げたのは当然だった。激しい血しぶきは、犬の口吻こうふんを赤々とぬらしていた。

 徹は、恐怖と興奮とで体が震えだした。ひざがわなわな動いて、どうにも治まらないのだ。赤ん坊はまだ泣いていたから、生きているようだが、出血の具合からも相当の深手を負っている様子だ。放っておけば、絶命は避けられないだろうと察しが付いた。

 その時、赤ん坊の母親が意外な行動を取り始め、徹の頭を混乱させた。

「あばばばばー、あばばばばー」

 まるで、赤ん坊をあやすような仕草に、徹はその母親があまりの衝撃に気でもふれたのかと思った。車内に響く母親の明るい声は、かえって不気味であった。彼女には、子供の惨劇を受け入れられないのか、その現実を直視できないために、そうした逃避行動を取ったのだろうか。どう見ても、あの血塗りの光景が現実である。現に、その犬はまだ口の中に何か肉片をくわえ、そしゃくしているようだ。

 おかしいのは、彼女だけでは無かった。この車両には数人の乗客が散らばっているが、その皆がこの大事に無関心なのだ。徹の他は誰一人、顔色を変えていなかった。異常であった。同じ車両とは言え、座席はがらがらで彼女の所と離れていたから、わざわざそちらに注意を払わないと分らない。電車はいつもガタガタ言っていたし、誰も気付かずに、こんな恐ろしいことが起こりうるのだ。きっと事後に新聞記事や他人から間接的に知らされ、顔が青ざめるのだろう。――

 ところが、今度は徹が嫌な汗をいていた。追い詰められているのは、彼の方だった。どこまでが現実で、どこからが幻だったのか全く区別が付かなかった。それは、あの母親や乗客の態度にもはっきりと表れていた。――電車が次の駅に近づくと、彼女は何事も無かったように腰を上げ、扉に立った。徹はいつその母親が絶叫するのか、あるいは発狂して体を躍らせるのかと期待していた。が、彼女は胸の赤ん坊に笑顔を振り向けて、あの「ばー」と言う仕草をやったのだ。徹には、それが狂気じみていると感じてならなかった。その上、赤ん坊はまるで怪我を負っている気色が見られない。確かに、野良犬が赤ん坊を襲うところを目撃した。しかし、今はその犬はどこにも居なく、行方知れずであった。血の痕もどこだか分らない。その座席の黒い染みが血痕と言われれば、そうかも知れない。全く自信が無いのだ。

 徹は彼自身が狂っていたのか、その親子連れがおかしいのか混乱していた。どちらにしても、恐ろしいものを目にしたことには違いなかった。間も無く、電車は徹の住む駅に停車して、彼は興奮の冷めやらぬ面持ちで駅に降り立った。

 それからも、徹は恐ろしい光景に出くわすことがあった。それは必ず決まって、ある前触れから始まった。また来ると思いながら顔を上げると、あのカシャカシャと言う嬉しそうな犬の足音が近づいて来る。徹は初めこそその恐怖に怯えていたが、この頃は慣れてきたせいもあるが、その前触れを少し楽しむようになった。幾ら残虐なことが、徹の眼前で展開されたとしても、それには悲惨な結末は絶対に訪れないので、彼もなんとか我慢できたのだろう。映画や小説を見ている感覚だった。もし、それに誰かの心を酷く苦しめるような残酷な結末を迎えるとすれば、彼も消して耐えられなかったはずだ。その上、どうしたわけか犬は、徹を襲おうとはしなかった。彼自身は獲物の対象にならない。その事が彼を死の恐怖から解放し、かえって残虐な行為を楽しむ傾向に進展させたのかも知れないのだった。

 徹はいつしかその犬にある親しみを感じていた。その犬が、彼に会いに来てくれているのだと思えるときがあった。あんな汚らしい格好でも、そう思うと心が和んだ。徹のところはペットなど飼ったことが無いから、帰宅したときに喜んで出迎えてくれる愛犬の話を聞くと、うらやましくて、尚一層その犬に好意を抱いた。と言っても、その後の惨劇は相変わらず目を覆いたくなるものだった。――犬は歯をむき出しにするなり、座席にうなだれたサラリーマン風の男に飛び乗り、その勢いで男の肩口にかぶり付いた。鮮血がほとばしって、見る見るうちに男のコートが赤黒い血でにじんでいくのが分かった。犬は尚も狂乱に噛み付き、肩が千切れんばかりに頭を左右に振っている。男の上着は無残に裂かれ、肌がえぐれて血液のどくどくあふれる真赤な肉塊が露出していた。犬は執拗に男の肩口をかみ砕いた。人肉はそぎ取られ、不気味なほどに潔白な肩骨が露わになった。

 徹は思わず手で口を覆い、喉元まで込み上げて来る不快感を押さえた。耐えがたいほどの残虐な光景が、彼の眼前を塗りつぶしていた。――犬は青年の片耳を引き千切った。千切れた耳は、床の上で鮮血の痕を引きながら、車輪が転がるようにコロコロと転がった。犬は夢中でそれを追い回し、食らい付いた。それが生きて暴れたのだと思ったのか、耳の端を噛むなり、激しく床へたたき付けていた。何度も何度もたたき付けた。その度に、血しぶきが床に広がった。その時、徹は耳がまだ動いているような錯覚にとらわれて恐ろしかった。――ただ顔面をなめていた犬が、行き成り鼻を噛み付いたり、指をかじり取ったり、あるいは少女の眼孔をえぐるように、前足の爪でガリガリと骨を引っ掻き、少女の顔半面を血みどろにすることもあった。まさに、野獣の本能をむき出していた。しかし、どういうわけか、当人はもちろん、現場に居合わせた誰もが皆、それらのおぞましい光景に気付いていなかった。無反応な彼らに、徹はどこか現実みの無さを感じていた。それが、徹は妙なことに気付いた。どうも犬が食べているのは体の悪いところで、その証拠にその悪い部位を食べてしまうと、病やケガが治っているらしい。徹がそう思ったのは、ある日の出来事だった。

 これも帰宅の電車で、三十歳くらいの体格の良い婦人を目にした。どこにでも居そうなありふれた人物だったが、彼女は片足が悪いらしく、引きずるように歩いた。それで徹の目に留まったのだ。思った通り、婦人は電車に乗り込むなり、早々座席を求めた。重い体を長椅子に預けると、ようやく落ち着いたようだった。すると、またあの野良犬の足音がしだした。犬はすぐに彼女の片足に食い付くと、残虐の限りを尽くした。しかし、それもいつもの光景で、徹は横目でやり過ごしていた。やがて、その婦人は腰を上げると、扉に向かうようであった。電車はまだ走っていたから、誰もが覚束無い足取りになった。まして、彼女は足を悪くしているのだから、一層頼り無いはずだ。ところが、先ほどの不自由さは微塵も見せないで、確かな足取りで扉の前に立ったのだ。扉は間も無く開いて、彼女は悠々と下車して行った。彼女自身、体の変化に全く気付いていないようだが、あの惨劇を目にした徹には、彼女の変貌は不思議でならなかった。体の悪いところが治るのだろうか? そう考えると、徹には幾らでも心当たりがあった。サラリーマン風の男も、怖そうな兄ちゃんも、大人しそうな女の子も、どこか彼ら自身の体に悩みを抱えているようだった。それが、犬に襲われた後には、不思議と先ほどより元気な様子なのだ。彼らは深い眠りから、爽快に目覚めたと言わんばかりに立ち上がって下車して行った。誰も皆、気分が良さそうだった。それも、あの妙な犬のお陰と言うのだろうか。徹はそう思うと、嬉しくなった。

 ただ、その食べている様があまりにも残虐で、その風貌も酷いから、どうしても目を背けたくなる。しかし、その様子は、徹以外の者には見えてないようだ。きっと見えていたら、大事になっている。――また始まった。腹を裂いて、そこから腸を引っ張ると、中の臓物が一気にあふれ出した。それが座席の下の床にまでぶちまかれ、真赤な血溜まりが広がり、その中で毒々しい臓物の肉塊が散乱していた。ぞっとして、徹は全身の節々が痛くなるのを感じた。見るもおぞましい有様だった。――眼帯の男には、目玉をかっぽじって、「ちゅーちゅー、くちゃくちゃ」卑しい音を立てながら、顔面にかじり付いて、しつこく離れないのだから、妙な誤解を招いても仕方が無かった。

 その犬が人間の悪い部位を食べることで、病を治している。徹はその事を知ってからは、この残虐な光景に直面しても、これは良くするために必要な行為で、手術や治療と同じであると思うようになった。犬のお医者さんなのだ。


 ある日曜日に、徹は買い物に訪れた繁華街で、見通しのよい街道を歩いていた。そこに並んだ街路樹は、枝葉が皆枯れて、幹ばかりが太くどこか寒々としていた。と、突然と恐ろしい轟音に、驚かされて身をひるませた。彼の動揺はなかなか治まらず、その音が百貨店や大型電気店などのビル群の間で、まだ反響しているように思えた。通行人は向かいの大通りへ目を向けて、誰も彼も不審そうな表情を見せていた。徹は妙に気になって、方向も同じだからと落ち着かない足を進めた。――ますます恐ろしくなってきた。いつもあんな惨い光景を目の当たりにしていたのだが、その時はまだ何一つ分からずにいたから、徹は恐怖を感じたのかも知れない。大通りに出てみても、どこが現場なのか不明のままであった。悲鳴に似た激しいタイヤのスリップ音が、まだ徹の耳から離れなかった。と、そんな彼の張り詰めた心中を和らげてくれたのは、意外にもあの野良犬だった。その犬は、彼よりも少し前方を歩いていた。電車の他で、目にするのは初めてのことで、普段は車内にふっと出現し、いつの間にか居なくなっていた。その犬は一体どこから来て、どこへ帰って行くのか分らない。

 徹は慌てて犬の後を追ったのだが、人出のある休日の上に、事故を知ってか見物に来たらしい人垣も現れていて、間も無く犬の姿がどこだか分らなくなっていた。犬は人の間をすり抜けるように歩いた。徹にはそんな芸当は到底できないから、見失っても仕方が無かった。――確かに、その犬が向かった先は、事故が起きた方角だった。徹はその時、ある事を思い付いて顔を明るくした。――犬がそこへ向かうのは、何か事故が起きて、そこで負傷した人を助けるためでは無いかと言うことだ。きっと現場で、あの残虐な行為を繰り返しているのだ。そう考えると、徹は自然と笑みを浮かべていた。

 急に、遠くで救急車の物々しいサイレンの音が聞こえてきた。すぐにそれがはっきりと繁華街に鳴り響き、徹の眼前を白い車体が、赤色灯を点灯させて通り過ぎた。通り過ぎると向かいの交差点を越え、その路肩に寄って停車した。徹の所からはよく見えないが、その辺りが事故現場らしい。交差点の周囲にも、数人の人集ひとだかりができていた。――交通整理に立つ制服の警官が見えた。心配そうな気色の人、興味深そうに交差点を見回す人、凍り付いたようにじっと動かない人、しきりにその時の状況でも語るように隣の人に話し掛ける人、それぞれ態度は異なっていたが、彼らの動揺はしっかりと徹にも伝わって来た。その交差点は、騒然とした空気に包まれていた。

 徹は、思わず立ち止まってしまった。それ以上、交差点に近づく気がしなかった。あの犬はどこに行ったかもう分らなかった。が、先ほどの音は、交通事故であったことは、はっきりした。それで、十分なのだ。――

 徹は興奮した所為せいか、多少の疲労感とともに駅へと足を向けていた。それは、何とも気だるい疲労だった。先ほど通った道を後戻りすることになるが、来た時とは、まるで別の景色が展開した。通りを挟むビル郡はどこか寂れていて、徹を物悲しい気持ちにさせた。彼はもう家に帰るつもりで歩いていた。

 その時、徹はまたあの足音に気付いた。歩道はアスファルトで舗装されていたから、いつもと変わっていたが、あの足音に間違いなかった。徹は思わず振り返った。その瞬間、彼は急に顔色を変えた。犬は、無残にも引き千切られた人間のものらしい片腕をくわえていた。それは、先ほどの交通事故で負傷した人のものだろう。徹は身動きもできずに、その犬が彼の脇を通り過ぎるのを見ていた。犬は嬉しそうな表情を浮かべていた。徹には、その犬の残酷な行動が病気や怪我を治すための行為では無いと、その時はっきりと分った。もちろん、偶然ではあるが犬の行動で、病気や怪我が治癒していることは疑いも無いのだが……。

 人はよく自然の摂理などを、何かの役割があると捉えがちである。それは人にとって都合のいい考え方で、もっと世界は単純に働いているのかも知れない。それは善悪など無関係に作用しているものだ。自然にとって大切な役割を果たしているとか、重要な役割があるとか、そう言った都合のいい概念が、この野良犬の行動を理解する妨げになっていたのだ。至って単純なことだった。――その犬はただ人間の悪くなった部位を好んで食べていたのだ。

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