一億円の雑誌を求めて

 永井はベッドに横になって、病室の天井を気のない顔をして眺めていた。その白い天井にある照明には、二本の蛍光灯が並んでいた。一本は真新しく発光していたが、もう片方はその端が煤けて直に点滅しそうだった。永井は数日前に退院した彼の恋人と入れ替わりに、二駅離れた隣町の病院へ運ばれて来たのだった。幸いにも、彼は検査で異常が見つからなければ、すぐに退院できると言うことだ。

 永井はぼんやりとしながらも、頭の中では例の338号線での出来事が目まぐるしい勢いで駆け巡っていた。――彼は町で一番強い格好をしていた。ピストルも持っていた。が、その得体の知れないものに、全く敵わなかったのだ。それと格闘して、やっとの思いで発砲したのだった。彼の背後から電動ノコギリに酷似した轟音とともに、黒い塊が襲って来た。それは何かの影と言うより、薄明かりの中に、そこだけ闇が存在すると言う具合だった。目を凝らすと、昆虫らしい動きのものが蠢いていた。大きさは子犬ほどだっただろうか。

「何暗い顔しているのよ」

 ベッドの脇には、恋人の美鈴が立っていた。永井はようやく明るい顔を見せた。

「ヒロちゃん。お客さんが来ているわよ」

 笑いを堪える彼女の後ろで、三人の中学生が恥ずかしそうにしているのが分かった。どうも彼らはわざわざ電車に乗って、見舞いに来てくれたらしい。と言っても、彼らと面識はあっても特別に親しい間柄ではないから、どうして彼らが来たのか心当たりが無い。大方、事件のことが気になって、野次馬根性で事情を尋ねに来たのだろうと、永井は考えていた。

 ハンチョウと呼ばれている小柄な中学生は、彼らの一番後ろに居る信夫から何か紙袋を奪い取って、永井へ差し出した。お土産でも入っていそうな紙袋で、中身は別の品らしい。

「これ、お見舞いのプラモデル。お暇な時にどうぞ」

 ハンチョウは永井の怪訝な顔を察したらしく、信夫のところ、玩具店だからと付け足した。

「妙なのに好かれたわね。お巡りさんが子供に慕われるなんて、本望じゃない」

 美鈴は永井の困惑した様子に、遂に苦しくなって噴き出してしまった。彼女の笑顔は、元気であった頃と何一つ変わらない。すっかり元の通りになっていた。――永井が病院へ駆け付けた時には、由真の変わりようは想像を絶していた。怯える彼女は、永井が誰なのかも認識できないほど酷い有様だった。彼女は帰宅途中の電車で倒れたと言う。ストーカー男や会社のことで、精神的にかなり参っていたから、その心労が原因らしい。しばらく入院が必要だと言うことだった。しかし、永井は、彼女が何か事件にでも巻き込まれているのではと疑った。彼女の変わり様を目の当たりにすれば、そう考えるのは当然だった。それに、警官の彼ができるのは、こんな事くらいだからだ。が、彼の苦労も虚しく、今のところ何も掴んでいなかった。――

「じゃあ、オレ代わりに作ってやるよ」

 ハンチョウは永井から紙袋の中身だけ奪うと、ベッドの上にそれを広げ始めた。最初からその気であったらしい。信夫も加わって、プラモデルの部品と説明書を熱心に見比べていた。

「お巡りさん、これを見て欲しいんです」

 圭ちゃんと呼ばれるやせた眼鏡の少年だった。その少年は事務用のファイルを手にしていた。永井はその厚みと重量感から、すぐに彼も見慣れたスクラップ帳だと分かった。表紙に手書きらしいナンバー10の文字が目に入った。10と言うことは十冊目だろうと驚いて、「ヘー」と言う声が口をついて出ていた。

 最初に圭ちゃんが開いて見せたのは、338号線で警察官が何者かに襲われ、発砲したと言う記事だった。これには、永井は思わず表情を硬くしていた。当の本人ですら、何者に襲われたのかはっきりしない。それで、内容は警官が発砲した事実ばかり強調しているようにうかがわれるのだ。次の記事は、奇妙な生物の脚が発見された事件だった。

「お巡りさんも、これと同じ奴を見たんですね!」

 プラモデル作りに夢中だったハンチョウと信夫もそれを置いて、スクラップ帳を囲んでいた。由真だけは、何が始まったのかしらと遠目に眺めているだけだった。

「雪だるまの中身は、別のものに変わったんです」

「別のもの? 入れ替わったってことかい?」

 永井は険しい顔になると、続けて口を開いた。

「それに、巨大な昆虫の脚なんて、警察は知らないぞ! 報告も受けてないし。――大体この記事だって、本当かどうか怪しいものだ」

「違うんです。中に居た奴が、別のものに変わったんです」

「変わった? 言っていることが、よく分からないなー。変身したとでも言うのかね?」

「変身?」

 圭ちゃんは、何か物思いにふけるように視線を逸らした後に、「そうかも知れません」と、うなずいた。

「お巡りさん。他にも同じような事件は、この町や近隣でも起きているんだよ」

 ハンチョウが、スクラップ帳に手を伸ばして言った。永井は彼らの開くページを眺めていたが、あるページに目を止めて指差した。

「ほら、この記事をごらん。こんなでたらめな事が書いてある」

 永井が指差したのは、十年以上も前の記事だった。ダム建設で水没する村に、河童が出没したと言うのだ。その上、行方不明者もあるらしい。永井は河童など居るはずが無いと笑った。が、三人は顔を強張らせたままだった。

「でたらめじゃないよ!」

「ええ、もちろん世間で言う河童とは違うかも知れませんが、それに見間違えるような何か恐ろしい存在が現れたんです」

「恐ろしい存在って……」

 永井は、既に彼らの熱心な話しぶりに引き込まれていた。常日頃から、そう言う怪事を綴った記事を収集していたから、興味を引かれるのも仕方が無い。が、どうも話はそれだけに留まりそうに無かった。永井はただそう言った記事を眺めて、机上で楽しんでいるのに対して、この三人の少年らはその熱心さのために、何か事件そのものに関わっているように思えてきた。

 圭ちゃんは次のページを三枚めくって、手を止めた。そこにも不可解な事件が並んでいた。永井は、これはと思って記事に忙しく目を走らせていた。そのうちの一件は、彼のスクラップ帳にも貼り付けてあるものだった。そこには、カメラマンがかまくらで生き埋めになり、救助されたことが記されてあった。

「よく集めたね」

 この事件は、救出されたときのカメラマンの状況が不審だったと言う記憶があった。何日も遭難していたように全身やつれて、憔悴し切っていたらしい。明け方近くに雪崩が起き、それに巻き込まれたのだが、幸い日の出とともにスキー場の敷地内で発見されたと言う。永井の記憶が正しければ、その程度の情報しか掲載されていなかった。永井は、どこの新聞社だろうと考えた後、すぐこう言った。

「これ、どうしたんだい。どこの新聞社? 教えてくれないかな」

 圭ちゃんは黙っていた。こんな詳細な事実を記載している新聞社があるとは、全くの初耳であった。圭ちゃんのスクラップ帳の記事には、雪崩の前にそのカメラマンが何か恐ろしいものに遭遇したと言うこと、その事で精神を患うような衝撃を受けたこと、それがカマクラと呼ばれるものであること、その記事には「カマクラ」と言う言葉が頻繁に出て来た。永井は、この「カマクラ」が妙に気になった。それは雪中にかまくらを作る大型の生物で、そこで変態を行うと言う。この時、餌を捕捉してかまくらの中に蓄えるらしい。しかし、そこに書かれている内容は、永井の理解できる範囲を超えていた。もちろん、ただでたらめが綴られているなら、わざわざ気に留める必要も無いのだが、それは永井の知るどの新聞記事よりも、核心を得ているように思えた。彼が知りたい情報は、大体網羅していた。それが、永井を興奮させて、無性にその記事が欲しくなった。うらやましくなった。

「本当に、これどうしたんだい? 他にも同じような記事はあるの?」

 圭ちゃんは返事する代わりに、首を横に振った。それから、こんな事を言い出した。

「一億円あったら、何でもできると思いますか?」

 永井はその突拍子な質問に、少し興ざめしてしまったが、彼ら三人の真剣な表情から何か理由があるのだろうと思い直してみた。

「一億円かー。何でもってわけじゃないけど、ある程度のことならできるんじゃないかな」

「そうですか……」

「まさか、法律に触れることをするって話じゃないだろうね。でも、犯罪なんて、大概お金が絡んでくるわけだから、一億円もあれば、その必要も無いからな。その一億円を稼ぐ方が、大変だろう。――何かしたいことでもあるの? しかし、おかしな事を聞くよね。その記事とどんな関係があると言うんだ。もしかして、この記事が一億円するのかい?」

 三人は落ち着かない様子だったが、ゆっくりうなずいた。

「それが、お巡りさん。僕たちは色々と新聞記事を探しているうちに、知ったんです。そう言った怪事を扱っている、雑誌のようなものがあると言うのです。それは、とんでもなく高価な雑誌らしく、僕たち子供ではどうすることもできない値段なんです。いや、大人だって自由に買える人は、ごく限られた人しかいないでしょう。でも、その値に相応しい価値があるんです」

「それが、一億円と言うのかい。――馬鹿馬鹿しい、ただの雑誌じゃないか」

「最初は、そうだったんですけど……。その一億円と言う価格がある方が、より現実みがあると思うんです。これが、ただ何だか分からない、得体の知れないものだったら気味悪がって近づかなかったでしょう。が、大金を掛けて何者かが調査しているとなると、本当にそうなのかなと好奇心が湧いてくるんです」

「何者か? 誰がそんな事を……、さっき見せてもらった記事を考えても、書いてある内容はどう見ても真面まともじゃない。真面どころか、それを知り得ることなど不可能じゃないのかな……。誰が作っているって……、そんな話聞いたことも無いよ」

「それは、すぐに分かります。その存在を知ってしまったから……」

「どう言うことなんだよ!」

 と、永井はずいぶんと興奮している彼自身に気付くと、急に恥ずかしくなって、冷静になるつもりで美鈴へ振り返った。ところが、彼女の顔は酷く青ざめていて、様子がおかしい。突然、それが恐怖に耐えられなくなったふうに悲鳴を上げて、倒れてしまった。永井はベッドの上のプラモデルが床へ散乱するのも構わずに、彼女の元へ駆け寄っていた。圭ちゃんらも驚いた顔で、その側に集まった。

 翌日、永井は気分の晴れないままで、退院することになった。――美鈴は大きな精神的な衝撃を受けて、卒倒したと言うことだ。彼女は再入院することになるのかと思われた。幸いその心配は無いようで、しばらく通院して症状を診るだけで良いと言う担当医の説明だった。彼女の病は完治していたはずだったのが、思わぬ不安を残す形になってしまった。しかし、彼女が一体何に怯えていたのか、全く分からなかった。


「三番線に、間も無い列車が参ります」

 病院帰りの永井は、アナウンスの鳴り響く周囲を眺めましていた。昼下がりで乗客の疎らなプラットホームには、彼の乗る電車はまだ入って来なかった。永井はぼんやりとたたずんでいる間に、幾度か昨夜の圭ちゃんが残した言葉が頭の中で、まるで幻灯のようにチカチカと明滅するので歯痒はがゆかった。

「それは、すぐに分かります。その存在を知ってしまったから……」

 彼らの身の回りで、世間の常識では説明の付かない事態が起きている。それらを全て明確に記述する不可思議な雑誌が存在すると言う。それは「予言の書」と言った怪しい代物では無い。何者かが大金を掛けて、怪事を追い掛けているらしいのだ。永井には、そう言う圭ちゃんの主張が容易に受け入れられなかった。一体何があると言うのか。何もあるはずが無い。しかし、永井自身も実際に怪物と言う名に相応しい未知のものに遭遇し、怪我まで負っていた。それに、億単位で経費を掛けられれば、どんな調査もできるのかも知れない。永井は、いつの間にかその雑誌を一目見ることができれば、彼の不審も微塵も無く消し飛ぶだろうと思っているのだった。

 電車は悠々と現れ、プラットホームに大きな車体を横たえた。その車内もやはりがらがらであった。永井は長椅子の前へ来て、隣駅までだから腰掛けようか迷っているうちに、ふと妙な男を向かいの座席に見つけた。男の上着は黒くなるまでくすんで、所々にほころびがあるらしい。それが本当に衣服なのか、ただの布切れなのか区別が付かないくらいだった。みすぼらしい風貌からホームレスだと眉をひそめた。永井は不愉快だった。彼はいつもきちんとした制服を着て、警官と言う立派な職務を全うしていた。なぜこんな男と同乗せねばならないのだろう、と考えるだけで目を背けたくなった。永井はできるだけ視界から遠ざけるように、窓の景色へ目を移していた。それでも、男の仕草などは嫌でも分かってしまう。男は先ほどから落ち着かない様子でごそごそしている。どうも体がかゆいらしい。そんな格好だから仕方が無い。風呂にも入ってないのだろうと蔑んでいた。

 しかし、永井がそんな不快な男にときどき視線を向けるのは、男が何か膝の上へ開いて熱心に眺めているからだ。それが、妙に永井の心を揺さぶるのだった。雑誌のようであるが、そこらのコミ箱で拾えるような物では無いらしく、もっと値段の張る物で、その男には不釣合いだった。――盗んだ物だろうか? そうなると、犯罪を見過ごすわけにはいかない。しかし、確信が持てない上に勤務外であったから、永井はそれとなく男の様子を探る間に、いい手立てを考えるのが得策だと考えていた。

 永井は、先ほどと全く反対の行動を取っていた。彼の鼓動は、電車のゴトンゴトンと快走するのと共鳴するかのように高まった。もし、男が永井の素振りに気付いていれば、不審に思うに違いない。しかし、男は依然として開いた雑誌の中に居るらしい。永井は思い切って男の座る側に移ろうか、それとも止そうか迷っていた。男の手にした雑誌が気になって仕方が無いのだが、あまり大胆なことをしては、怪しまれてしまう。そうなれば、今までの苦労が元も子もない。永井は散々悩んで、まだ決めかねていた。ところが、そうやって決心が渋っている間に、男は無情にも雑誌を閉じてしまった。次の駅で下車するように立ち上がった。直に電車はキーと物悲しいブレーキの音を響かせ、簡素な駅に停車した。永井は安堵と後悔の念との間にさいなまれながら、どうせ駄目なら早く消えてしまえ、全く目障りな奴だと男のくすんだ背中を見届けていた。


 前田は、永井が入院した間に本部から代わりに派遣された巡査だった。五十歳を既に越えていると言うが、肉体的な衰えを全く感じさせない肌の焼けた男だった。

「大事に至らなくて、良かったですね」

 前田は挨拶も程々にして、後片付けに忙しそうだった。やれやれ、これで向こうへ戻れると言う、前田の態度はどうも曖昧だった。

「あっ、後は私がやりますから……」

 いつも威張っている佐伯は、今はぺこぺこ頭を下げていた。その上、前田とばかり話して、永井にはどこか他人行儀であった。昨日の電話では、無理をせずにゆっくり静養して、体が回復してから来いと、永井を気遣う様子がうかがわれたのが、今日は、いつまでも新人気分で俺を当てにしているのでは困るからなと、釘を刺すのだ。

「済みませんね。勝手に使って」

 永井の机には前田が居て、彼の居場所は無かった。永井は派出所を離れたのは、三日間だった。それでも、ずいぶんな変わりようだ。

 永井が昼食から帰ると、そこに前田の姿は無かった。彼が席を外しているうちに、前田は本部に帰ったらしい。永井は自分の素っ気無い態度に、前田を邪魔者したようで、気の毒なことをしたと悔やんだ。永井は事務机の前に腰を下ろすと、一番下の引き出しを開いた。そこにスクラップ帳を納めていた。開くと、すぐに顔色を変えた。誰か触った形跡がある。彼はいつも背表紙の向きを、手前が下に来るように揃えていた。それが違っていたのだ。佐伯は普段からそれに興味を示さなかった。すると、思い当たるのは前田巡査だけだが……。永井はそう考えると、スクラップ帳へ手を伸ばして躊躇ためらった。


 永井はあの日、奇妙なものに襲われて以来、どうも巡回に出るのが怖い気がして仕方が無かった。佐伯に「おい、時間過ぎているぞ!」と催促され、ようやく重い腰を上げた。例の現場である県道338号線に向かうわけでは無いのだが、どの道も全て繋がっているから、こちらが赴かなくとも道伝いにそれがやって来て、暗がりのアスファルトの道路先に突然と現れないとも限らない。その恐ろしい黒い影が再び襲い掛かるかも知れない。そう考えていると、永井の自転車をこぐ足も硬直して、なかなか前に進まなかった。せめて、あの影の正体でも分かれば、少しは気分も落ち着くのだが、永井はそう思いながら人通りの疎らになった街道を走った。

 永井が再びその男を目にしたのは、やはり乗客の疎らな電車の中であった。列車はどこも真新しさの漂う新型車両で、紺のビロードが鮮やかな縦長の座席に男は平然と座っていた。その場に最も不調和なみすぼらしい身なりであるから、すぐにそれだと目に付いた。しかし、永井は不思議と、以前この男に抱いた激しい嫌悪感が湧き上がらなかった。男の手にした雑誌の方が気掛かりで、もうそんな事はどうでも良かったのだ。電車は車体を左右に激しく揺らすこともあったが、男は全く動じず、ちょうどいい具合に雑誌を耽読しているようだった。

 永井は、その男がここに現れることを期待していた節がある。更に、男があの不可解な雑誌を携帯していることも期待していた。そんな風貌だから、男が肌身離さずに持ち歩いていてもおかしくは無かった。男の唯一の財産が、その雑誌のように思えた。それほど大切な物のようだ。ますます永井を魅了していった。男は相変わらず熱心に雑誌を眺めていた。永井は思い切って、男の側に移った。吊革を握って、窓の景色でも眺める素振りをした。――上手く行ったと思った。男の態度に変化は無かった。今度は大胆に男の方へ体を曲げて、のぞき込んだ。もちろん、永井は細心の注意を払うことを惜しまなかった。

 それは何とも不気味な雑誌で、表紙は漆塗りのように真っ黒であった。ページは普通の物と変わりは無く、見慣れた活字に、所々に白黒の写真がうかがわれた。男が熱心に眺めているのは、何か事件の記事らしい。――期待通りで無いにしても、永井はスクラップ帳を作っていたから、その雑誌がどんな記事を扱っているのか興味が湧いた。それで、しばらく男の挙動から目が離せないでいた。永井が再び男の雑誌を盗み見たところ、偶然にも338号線の記事を見つけて驚いた。あまり触れたくないことで、永井は少し躊躇ためらったが、未解決の事件に何か新たな進展があるのではと言う期待も誘って、彼はそのまま記事に目を戻した。ところが、それに記載されている事柄は、彼のよく知る記事とは全くの別物で、目を疑うような内容であった。彼は驚愕とともに思わず声をもらしそうになった。と、そこで男が永井に気付いたように顔をもたげたから、どうも気まずくなってしまった。こう言う時に、警官の格好なら何とも言い訳が立つのだが、それも永井の方が圧倒的に優位な姿勢を保ったままでだ。


 永井は派出所の机に座って、気のない様子でその日の報告書に目を通していた。すると、眼前に立て並べられた書類の壁から、何とも言えない三十路の哀愁が漂う溜め息がした。書類は向かいが見えないほどに詰まっていて、佐伯の顔はそこから分からなかった。

「佐伯さん、どうしたんですか?」

 永井は手を休めて、向かいをのぞかずに書類に声を掛けた。そうでもしないと、いつまで経っても佐伯の落胆が書類の堰を越して、こちらへ押し寄せて来て堪らなかった。しかし、書類から何も返答は無かった。

「どうしたんですか? 宝くじ当たらなかったんですか」

「夢破れるだよ。全部外れると分かっていれば、買わなかったのにな」

 ようやく書類が答えた。

「はあ、でも買わないと当たらないんじゃなかったんですか」

 それは佐伯が、宝くじに関心を示さない永井に向かって、よく口にしている言葉で、その事を言うときは、決まって宝くじを買って来た後である。――佐伯は少し気が晴れた様子で、「そうだろう、そうだろう。買わなきゃ、何も始まらないんだよ。さん、さん、三億円!」と勝手に盛り上がって、テレビCМを真似て歌っているらしいのだ。永井は心配しただけ損をしたような心持ちで、再び仕事に取り掛かる気分になれなかった。それから、ぼんやりし始めた。

 あの時、電車が駅に着くと、永井は扉を開くなり、例の男から逃げるように降車して行った。その男は、確かにこちらを見て不気味に微笑していた。それから、膝の上の雑誌を閉じてしまった。永井は、その表紙に記された金文字を見て息をのんだ。一億円だと言う。馬鹿げていると、普段の永井なら思うだろう。ところが、その雑誌の記事には、それ相応の価値があるのだ。彼には、ようやくそれが分かった。圭ちゃんの言った通り、誰も知らないような事件の真相が綴られていた。

 野崎卓のざきすぐるは死んでいた。永井の恋人に付きまとっていた男だ。ダルちゃんの現れた雪原で、殺されたと言う。雪だるまの騒動は、野崎の捏造だと思っていたのが、どうも事実とは食い違いがあるようだった。野崎は殺された。彼を殺したのは、今までこの世に存在していなかった生物だと言う。その上、永井を襲った怪物と酷似していた。彼しか知らない怪物の特徴と一致した。――電気ノコギリに似た轟音、巨大な昆虫の形、黒い煙のような形態と、全て同一であった。それらは、数ヶ月前にこの近隣で起こった異常気象が切っ掛けで出現したらしい。しかし、その詳細や、野崎の遺体の行方などは、あの電車の男が永井に気付いてしまい、その先をのぞき見ることができなかった。彼はどうしても、その続きが知りたくなった。

 永井は疲れた体をいたわりながら、帰り支度をしていた。佐伯は、「お先に」と定刻になると、早々と帰っていった。永井は、ぼんやりしながら、先ほどの一億円のことが脳裏に甦っていた。男の手にしていた雑誌が、圭ちゃんたちの話していた物と同じだとすると、他にも誰かそれを手に入れようと必死になっている者がいるかも知れない。中学生はどうあがいても、そんな大金を用意できるはずが無い。と突然、前田のひょうひょうとした表情の顔が浮かんだ。永井は愚図愚図している間に、二度も大事な機会を逃してしまった。急がなければならない。しかし、一億円である。一億円! ――頑張れば何とかなるかも知れないと、永井は急に何か名案でも見出したように考えを改めた。不気味に微笑する彼の顔が、壁掛けの鏡に映っていた。彼は町で一番強い格好をしていた。ピストルも持っていた。――この町、どこかが狂っていた。

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