一億円の雑誌を求めて

雪だるまのダルちゃん

 町外れには、森林の間を真新しい県道338号線が走る。今は真冬でその緑もどこか寒々としていた。――ロータリーの緩やかなカーブを上ると、山間から高架橋を露わにしたインターチェンジに突き当たる。それは、まるで山肌を貫いた巨大な肋骨のようだった。

 その田舎町に、小さな派出所があった。六畳の室に、事務机二脚を向かい合わせ、壁に沿った透き間を書類棚で埋めた窮屈な所だった。机の境にも書類が並んでいて、それが二人の巡査を気まずい雰囲気で見合わせない役割を果たしていた。永井はそこへ来て、まだ一年目の新米巡査だった。

 彼はちょうど書類の陰に隠れるように、スクラップ帳を広げ、その中で微笑の顔をうずめていた。開いたページには、新聞記事が貼り付けてあった。切り抜きは正確な四角形を成していた。雪だるまに似た奇妙な生物の記事、かまくらに閉じ込められた男の記事、鳥の毛に全身が覆われてしまった少年の記事などだった。どれもその町や近隣で起こった出来事である。彼はそれを熱心に眺めていた。

 しかし、どの記事も彼の本当に知りたいことは見つからなかった。事件の起因や真相と言ったものが欠落しているのだ。もちろん、これから解明されるものもあるだろう。が、彼の集めた記事は真実が不明のままで、いつの間にか人々から忘れ去られる類のもので、地方で起きたちょっとした不思議な出来事だったからだ。

 そんな時、永井は捜査官になったつもりで、彼なりに事件を推理してみるのだった。そうやって怪事を集めてみると、それぞれが独立した事件に取り扱われていたものが、全て深いかかわりがあるように思えてくる。永井は、その関係の中に謎が隠されていると考えるのだ。が、その真相までは、幾ら思案しても分からなかった。

 と、永井は突然のかしわ手に驚かされて、顔を起こした。書類の間から、先輩の佐伯巡査が何かに拝むような格好で、両手を合わせていた。

「宝くじ買ったんですか?」

「うむ、 一億円でも当たらんかな」

「でもって……、当たるわけが無いでしょ。そんな簡単に、一億円なんて」

「まあ、そうだけどな。――おい、また来ているんじゃないか」

 佐伯巡査が、角張ったあごを表へ向けて指し示していた。永井は不審そうな顔だったのが、それと分かると口元がほころんだ。派出所のガラス戸には、見覚えのある二人の小さな顔が見え隠れしていた。彼らはこの近所の中学生だった。気付かれないように、のぞいているつもりらしい。それがかえって、内側からはよく目立っていた。

「お巡りさん、大変なんだ! 僕たち、また行ってみたんだ」

 彼らは挨拶も忘れて、行き成りこんな事を言った。しかし、永井には彼らが何を話しているのか、大方の察しは付いていた。恐らく雪だるまの事件のことだろうと思った。中学生らは永井の返事も待ちきれずに、また話し続けた。

「そしたら、またあれに遭ったんだ! 大変なことだよ」

 ところが、永井が考えていることとはどこか違うらしい。その上、永井と二人の中学生の態度にはかなりの隔たりがあった。平生と変わらない永井に対して、彼らはその事を語る間も始終周囲を気にしているし、顔色も悪かった。何かに怯えている様子なのだ。

 永井は通りの先を眺めてみたが、別に怪しいものは何も見つからなかった。田舎でも日暮れ前には、下校途中のおしゃべりに忙しい学生や、タイムサービスのスーパーへ駆け付ける主婦などが通り過ぎて、派出所の前はにぎわっていた。

「あれって、何だね? 君たち、いつも三人じゃなかったかい。確か……」

「ノブオだよ! 信夫が電車から見えたって言ったんだ」

 中学生の一人が、永井の言葉を奪った。帽子のひさしを後ろにして被っている、ハンチョウと呼ばれている少年だった。彼は三人の中で、体が一番小さかった。

「初めは、全く気が付かなかったんだけど。やっぱりあれに間違いないって言うんだ」

「な、何の事を言っているのかな? 信夫君は、今日は居ないの」

「信夫は逃げたんだ! あれが怖くて逃げだしたんだ」

「ハンチョウ、そろそろ行こうよ」

 ハンチョウが話している間も、しきりに周囲へ目配せしているのは、圭ちゃんと呼ばれている少年だった。永井は彼のことはよく覚えていた。その少年もスクラップ帳を作っていたからだ。しかし、永井がようやく二冊目の半分と言うのに、彼は既に十冊以上の記事を溜め込んでいると言うベテランだった。

「お巡りさん、僕たちはもう行きます。早く信夫を捜さなきゃ。これから人に会う約束があるんです」

「君たち、信夫君を捜しにここに来たのか。それに、あれって、――まさか338号線沿いの雪原に現れた雪だるまのことかい?」

「それが、凄いことが分かったんです。詳しくは言えないけど」

 永井は不安な面持ちで彼らを見送ると、急に背後で妙な気配がして、身が縮んだ。先日彼らの話した得体の知れないものでは無いかと思った。それで、しばらく振り返ることができないでいた。

「おい、時間だぞ!」

 佐伯巡査が後ろに立って、腕時計の文字盤をこちらへ傾けていた。

「脅かさないでくださいよ」

 永井はほっとして、その安心感からこんな事を口走ってしまった。すぐに、済みませんと頭を下げるなり、慌てて支度を整えると、町の巡回へ出て行った。

 別段、永井が怠慢だったと言うわけでは無かった。勤務態度も真面目で、これまで仕事を休んだことも遅れたことも無い。しかし、彼は新人であったから、何かと佐伯が世話を焼いていたのだ。

 永井は自転車のペダルをこぎながら、先ほどのハンチョウたちの話を考えていた。一体何を言おうとしていたのか。彼らが遭遇した怪物絡みであるようだが。しかし、その怪物ですら、一二週間前までは、全然違う形でその町の人たちに親しまれていたのだ。この田舎町は、どこかおかしいと思うことがある。何か別のものが入り込んで、身を潜めている気がする。それが、凶悪事件の犯人なら彼の出番もあるだろう。が、得体の知れないものだとすると、永井はどうすればいいものか全く見当が付かないのだ。

 永井は、いつしか人通りの無い寂しい所を走っていた。その道を真っ直ぐ進むと、338号線へ出ることになる。しかし、そちらには人家も無く、巡回経路から大きく外れることになった。永井は道の先を眺めて、その奇妙な雪だるまのことを考えていた。それは二週間前のことだ。


 その頃、永井が熱心に眺めていたのは、町で噂になっている謎の生物の切り抜きだった。最初はこんな記事であった。

「謎の生物? 雪だるまのダルちゃん」

 その町で起こった怪事だった。338号線沿いの草原に、おかしな生き物が目撃され始めた。普段は車が走ることはあっても、町の外れにあるその道を訪れる人は、ほとんど居なかった。偶然、そこを通りか掛かった三人の中学生が見つけたのだ。――彼らは自転車をこいで、インターチェンジのもっと先へ上った山間の湖へ、魚釣りに向かう途中だった。その日は、朝から青空の澄み渡る良い天気になった。草原には、数日前の残雪が枯れ草を押し倒しているらしい。この辺りから勾配が厳しくなって、彼らは必死に首を振ってペダルを踏まなければ進めなかった。自転車は一列に並んで、先頭は追い付かれないように、真ん中は前に従って、最後は遅れないように懸命であった。後ろで、「おーい」と声が聞こえた。前の二人は、彼が待ってくれと言う意味で言ったのだと思い、地面に足を下ろして振り返った。やはり、最後を走っていた子が、ずいぶん離れた所で同じように片足をついてたたずんでいた。

「早く来いよ!」

 しかし、その子はこちらが叫ぶのも耳に入らないように、しきりりに道路脇を指差している。脇には枯れた草原が広がるばかりだった。何か発見した合図らしい。二人はそう悟ると、どんなものを見つけたのだろうと考えるが早いか、もう足を蹴っていた。自転車は心地よく走りだし、今度は二台が横へ並んで坂を下った。三人が一所へ集まった。

「どうした?」

 彼らの好奇心は旺盛だった。あれ、と指差した方をじっと眺めている。そこにもまだ雪が残っていた。

「あれか? ただの雪だるまだ。珍しくも無い」

 子犬ほどの大きさのものが、そこへ置き去りにされていた。一人が足元の手ごろな石を拾った。

「おい、そんな事していいのか?」

 石を握った男の子は、構わずに肩を振って投げ付けた。石は確かに真っ直ぐその雪だるまへ飛んで行った。しかし、当たって砕けることも、ただ雪玉を重ねただけの真っ白な顔面へ突き刺さることも無かった。雪だるまの脇を抜けて、もっと向こうへ虚しく転がった。狙いが外れたわけでは無い。その証拠に、誰一人として石を投げた男の子を嘲笑する態度を示さなかった。その代わりに彼らは皆、まるで雪だるまが動いて石を避けたと言うような当惑顔だった。

「今の見たか?」

 しばらく沈黙が訪れた。その間、彼らは一時もその得体の知れない雪だるまから目を離さなかった。いや、正確には目を離せなかったのだ。――三人はほぼ同時に、わーと大声を出した。生き物なら声を立てて、脅かせば逃げるに違いないと思ったのだ。しかし、小さな雪だるまは、ふてぶてしくこちらを向いて微動だにしなかった。やはりただの雪だるまで、動いたのは見間違えだったのかも知れないと思い始めた。

「行って、捕まえてみようか?」

 そう言ったのは、最初に雪だるまを見つけた少年だった。彼はそれを目にしたときから、どうも捕まえてやろうと思っていた節があった。彼らは腰を屈めて、そっと雪だるまへ近づいて行った。それでも、雪だるまはじっとたたずんで、逃げようともしない。

「何だ。ただの雪だるまだよ」

 もう手の届くところまで、歩み寄っていた。後は手を伸ばして、掴むだけだった。ところが、今度も目を疑うようなことが起きた。雪だるまは捕まるどころか、触れることすらできないのだ。まるで達磨が転がる有様だった。あっちこっちへ予想も付かない動きをして逃れる。三人がかりでも手に負えない。彼らはいつしか夢中になっていた。それは得体の知れないものに違いない。が、その事も忘れて、子犬でも追い掛けている気分ではしゃいでいたのだ。しかし、彼らが幾ら必死になっても、それを捕らえることできなかった。――やがて、疲れきった三人は、もういいと言う態度で雪だるまへ背を向けると、草原を去ろうとしていた。諦め切れない彼らは振り向いた。どうしたことか、先ほどまで散々逃げていたそれが、いつの間にか背中まで近寄っているのだ。しかし、彼らがじっと目を凝らしていても動く様子は無い。また背を向けて振り返れば、こちらへ近寄っている。それは「達磨さんが転んだ」と掛け声をする子供の遊びのようだ。

「わっ、また近づいている!」

 と、騒いでいた三人も、次第にそれがとても恐ろしくなってきた。彼らがそのまま、じっと背を向けていたならば、どうなるのだろう。「達磨さんが転んだ」のように彼らに触れると、猪突猛進で逃走するのだろうか。それなら面白いかも知れない。雪だるまが必死で逃げ去る姿は、愉快に違いない。しかし、そうで無いとすれば、どんな結末が待ち構えているのか未知なのだ。紛れも無く恐怖だった。彼らは、雪だるまから目を離さないように、後退りを始めた。顔を強張らせて、目をつり上げていた。自転車にまたがるが早いか、全速力で走りだしていた。三人は横に並ぶと言うより、競争している勢いだ。魚釣りのことなど忘れて、家へ急いだ。途中、何度か振り返ってみたが、雪だるまの姿はもう見えなかった。

 突然、遠くで騒々しい爆音が鳴り響いた。それは、チェーンソーで木を伐採するときのような音だった。山に囲まれた土地だから、珍しいことでは無い。が、彼らはどうも先ほどの雪だるまが居た草原から聞こえたような気がして、恐ろしかったと言う。

 ヒトは食物連鎖の頂点に居ると言うが、その時、優位に立っているのは、むしろそれらの方かも知れないと危惧の念を抱いたと言うのだ。

 その奇妙な雪だるまが町の噂になるには、ほとんど時が掛からなかった。三人の中学生が学校で触れて回ったのか、あるいは他の誰かが同じ場所で、偶然それを目撃したのか。しかし、それは三人が遭遇した得体の知れない生物とは、全く異なる形で広まっていた。まるで、どこかの河岸に流れ着いた珍獣のような扱いなのだ。誰も危険な存在だと疑う者は居ない。地方のテレビ局や新聞でも取り上げられ、「雪だるまのダルちゃん」とか、「ダルちゃん」と言う愛称で呼ばれた。そのお陰で、町の人にはすいぶん親しまれるようになった。人通りの無かった町外れの338号線には、ダルちゃん見たさに人集ひとだかりができていた。

 そのダルちゃんは、ただの雪玉を重ねたもので、雪だるまと何一つ変われない。目も鼻も無く、不気味であった。可愛らしく動き回ったり、こちらへ愛嬌のある仕草を振りまいたりもしない。それで、最初は物珍しさに集まった見物人も、日増しに減っていったと言う。どこかの人気動物とは違っていたのだ。しかし、不思議と小さな子には人気があった。黄昏時の雪原へ「ダルちゃん」と、可愛い声で手を振った親子連れは絶えなかったと言う。子供にせがまれた親たちは、どうしてこんな気味悪いものに興味を示すのかと当惑顔だったらしい。幼児の想像力には、真っ白な顔もちょっとした雪の窪みや出っ張りが様々な表情に映るのだと分析する学者も居たとか。――

 永井もその奇妙な生物に興味を持っていた。スクラップ帳の記事をたどりながら、ダルちゃんに会うことを切望していた。が、彼の職業柄、明るいうちは人目もあって、中々そこへ足を運ぶことは叶わないらしい。日没が来れば、街灯の乏しい草原は暗闇に包まれてしまう。第一、夜間は棲み処へ隠れて姿を現さないはずだ。

「佐伯さん。ダルちゃん、見たことありますか?」

「ダルちゃん。ああ、雪だるまの――この間、行ってみたよ」

 佐伯は訝しげな顔で、角張ったあごに手を当てていたのが、分かったと言う明るい表情を永井へ返した。田舎町の派出所で、普段は事件らしい出来事も無いから忙しくなかった。もし大事件でも起これば、彼らでは手に負えない。優秀な警官が派遣されて来るはずだ。今のところ、その町に出没した奇妙な生物は事件とは無縁らしい。

「どうでした。本物でした?」

「ホンモノ? ただの雪だるまと変わらない。実際に動いているところを目撃したわけじゃないからよく分からないけど、石でも投げてみればはっきりしただろうが、――まさか警官がそんなことはできないだろう」

 永井は、そう考え深そうに語る佐伯のことが、少しうらやましかった。永井自身も気兼ね無いにダルちゃんを見物に行けたらいいと考えていた。

「えっ、何です?」

 永井はその思いにふけていて、佐伯の言葉を聞きもらしてしまった。

「だから、入院している妹さんの調子はどうだと言っているんだ」

 佐伯は彼らの間を遮る書類を越えて、こちらへ体を乗り出す勢いだった。

「ええ、まあ」

 永井は、すっかり困ってしまった。佐伯がなぜそんな事をせっつくのかと言う事もあるが、その上、隣町に入院している妹と言うのは嘘で、本当は永井の恋人だった。恋人の見舞いに行ったなどと言うと、佐伯にまた小言でも言われはしまいかとついた嘘だった。もうやり過ごしたとばかり思っていたことが、不意打ちを食らってしまった。

「ええ、まあ。じゃ、分からないだろう」

 警察の取調べとはこんな具合に、凄みのある顔で迫られるのだろうか。永井は、まるで逮捕された犯人だった。

「ストーカー男はどうした?」

 そんな事まで口走ったのだろうかと、永井は眉の辺りをきながら、曖昧な記憶を手繰り寄せているうちに、会社の同僚と言う男に付きまとわれていると、佐伯に相談したことがぼんやりと頭に浮かんできたのだ。しかし、そんな永井の弱った様子には無頓着に、佐伯は続けた。

「言ってやったか……。それで」

「ええ、警官だって言ったら、警察なら敵わない。逮捕されたくないと怯えて逃げていきました」

「良かったじゃないか」

 それが全然良くないのだ。ストーカーの件が解決するなり、彼女はのんきにこんな事を言い出した。――

「モデルになって欲しい? 誰がそんなこと言ったの」

「カメラマンの何とか言う人」

「それ、きっと何か下心でもあるのだろう。それにカメラマンだって本物かどうか怪しい」

「考え過ぎじゃない」

「カメラ持っていたか。名刺もらったか。そう言うのは多いんだよ。名刺だって、カメラだって誰でも用意できるんだから」

 永井は、何だか刑事みたいねとベッドで苦笑する彼女に迫っていた。その顔色からも彼女の体は順調に回復していることがうかがえた。

「それで、返事したの?」

「断った」

「そうか。君はずいぶんともてるんだな」

 にやつく永井に、彼女はそうよと真顔で答えた。

 永井は学生の頃より交際の続く彼女に、どちらかと言えば振り回されているところがあった。それで警官になったおりには、少しは威厳でも出るのではと期待していたのが、全く変わらない。仕事で忙しくなって、会う機会が少なくなった分、倍返しを被っている気がするのだ。

「例の男はどうした。また来たか?」

「例の男? カメラマンの?」

「いや、そうじゃなくて、ストーカー男」

「ああ、野崎さん。見ないわね。いつも同じ服着ているから、居るなら直ぐに分かるはずなんだけど」

「少しきつく言ってやったからな」

 永井は、その時の男の怯え方を思うと、愉快になった。

「えっ、何て言ってやったの。僕の彼女に近づくな! 豚箱に入れるぞこら」

「おい、止めろ止めろ! 警官がそんなことするわけない。冗談にも程がある」

 と言う永井もまた、にやにやしているのだった。それで、今日は少しはしゃぎ過ぎだぞ、他の患者さんに迷惑だからと彼は小声になった。しかし、来週には退院できると言うので、彼女がはしゃぐのも無理は無かった。

 元気になったとは言え、以前と比べるとその顔は少しやつれてしまった。永井は、彼女が大きな瞳を丸くしたり、細めたりして小さな前歯を見せながら笑う横顔を見詰めていると、ようやく自分のところへ戻って来る喜びが湧いてきた。――

「おい、それで妹さんはいつ退院するんだ」

 どうも彼女の退院を待ちわびているのは、彼らばかりでないらしい。永井が顔を逸らしても、佐伯の尋問は容赦無しに降り掛かる。それで、巡回の時間を口実に席を立った。――今日は馬鹿に早いじゃないか、と口惜しそうな佐伯を後に、永井は街へ出て行った。確か、ダルちゃんの話をしていたはずなのだが、どうして思わぬ方へ話が向いたのだろうと考えながら……。


 再び怪事は起きた。ある雪降りの朝に、一体だったはずのダルちゃんが、三体に増えたと言うのだ。その日は二十センチメートルほどの積雪であった。ダルちゃんが雪に埋もれてしまったのでは無いかと、近所の住人が心配してのぞきに行ったところ、三体のダルちゃんを発見したと言う。最初は、誰かの悪戯では無いかと疑ったらしい。が、その人によると、雪の上に寒そうに並んでいる姿は、どれも間違い無くダルちゃんだったと言うのだ。

 すると、今度は「ダルちゃんに家族ができました」と話題にされた。それぞれが大きさの異なっていたことから、一番大きいのがお父さん、次がお母さん、そして、ダルちゃん。まるで一家で引っ越して来た狐や狸のような扱いだった。地方の放送局も新聞もこぞって紹介した。ところが、賑やかなのはテレビ局ばかりで、町の人たちの反応は冷ややかだった。338号線へ熱心に足を運ぶ人も中には居たが、どうもこの頃からダルちゃんへの疑念が強まっていたらしい。ダルちゃんブームは、終わってしまったのだ。

 その三日後に、草原で男物の衣服が脱ぎ捨ててあったと噂が立った。普段、見物に来た人たちは、ダルちゃんを驚かしてしまうので、沿道から眺めて草原には入らなかった。それが、ダルちゃんの現れる辺りで衣服が発見されたとなると、誰かが雪だるまを作って、謎の生物にでっち上げたと言う疑いが浮上した。偽物では無いかと、この頃の不審に追い討ちをかける形となった。

 当時は、地方の至る所で珍しい動物の話題が流行っていた。それに便乗して偽物を作ったのだろう。冗談のつもりが大きな騒ぎになり、悪戯では済まされなくなったのだと、ある番組の専門家がダルちゃんの真相を語ったらしい。それは、ダルちゃんがその日を境に忽然と姿を消していることからも判断できる。

 確かに、ダルちゃんは誰が見ても雪だるまその物だった。動いている姿を目撃した者も居るが、少数である。今まで疑わなかったのが不思議なくらいだった。すると、急に町の人たちは態度を変えて、その話題を嫌って避けるようになった。

 永井はいよいよ気が気で無くなった。いつか見に行こうと決心が渋っている間に、ダルちゃんが居なくなったと言うのだ。今朝の新聞にも、その事が載っていた。しかし、紙面の隅々まで目を通さないと見つからない程の小さな記事だった。

「例の雪だるまは偽物だったのか。やはりそうか」

 新聞を広げた佐伯は、どこか上機嫌だった。

「全く怪しからんやからも居るな」

「その脱ぎ捨ててあった衣服の写真があったぞ。見たか?」

 佐伯は机の並んだ書類を一つ抜き取って、永井の方へ突き出した。

「本当ですか?」

 永井はそれを受け取ると、スクラップ帳でものぞくように繁々と眺めた。ページを繰って該当する箇所を見つけると、思わず声を出した。

「この服、アイツですよ!」

「アイツ?」

「ほら、ストーカー男」

「入院している妹さんに付きまとっていると言う男のか。間違いないか?」

「ええ、間違いありません。いつも同じ服装だったので」

 永井は触れたく無い話題であったが、今はそれより犯人の手掛かりを得た驚きの方が大きかった。

「そのストーカー男は、今どうしている? まだ、妹さんのところへ来ているのか」

「あれ以来、姿を現さなくなったそうです」

 永井が佐伯の悪知恵を借りて、警察だと男へ脅しに近いことをしたのを言っているのだ。それが思いのほか効果があったので、不謹慎なことだと分かっていたが、まるで彼らは最善の手を尽くしたような錯覚に囚われていた。

「名前は聞いたのだろう。妹さんの会社の同僚だと言うのなら、調べればすぐに分かるな」

 そう意気込む佐伯の言葉に、永井の態度は曖昧だった。永井自身も佐伯と同じことを考えて、あの後、内密に調べてみたのだ。ところが、会社で尋ねたところ、そう言う名前の男は存在しないと言う。

「どういう事だ。それじゃあ、本物のストーカーだったってことか」

「ええ、恐ろしいですね。社員に成り済ましていたなんて、普通の人じゃできませんよ」

 しかし、謎の生物をでっち上げることが、男にどんな得があるのか見当が付かない。ただ、悪戯で町の人の騒ぎようを見て面白がっていたのだろうか。それに、なぜ男はいつも身に着けている大事な衣服を現場に脱ぎ捨てたのか謎だった。ストーカー男に、偽物騒動の犯人と、まさに理想的な悪役の登場だった。

 そろそろ飯にしようや、と話を切り上げたのは佐伯の方だった。机上の書類を片付けると、席を立った。奥で物音がして、コンロのカチカチ鳴るのがそこで響いた。まだ興奮の冷めぬ永井は、もう少しその中に浸っておきたかった。が、どうも佐伯の態度からは、ストーカー男の話題に飽きた素振りなのだ。

「お先に」

 と、佐伯はこちらへ顔をのぞかせると、すぐに奥の休憩室へ上がっていった。小さな派出所でも、二人がのんきに弁当を広げるわけにもいかないので、そうやって交代で食事を取ることになっていた。奥で妙な声がした。備品のテレビの音か、佐伯の独り言か、永井の所からは判別できない。しかし、それは、佐伯が弁当を始めた合図でもあった。こうなると、もう彼は何が起きても休憩が終わるまで姿を現さなかった。永井独りではまだ心許無いことが多かった。その間はどうか厄介な事件が起こりませんように、と祈りながら先ほどの書類を開いて、吐息をもらした。アイツの顔を思い出して不快になった。それは、彼の恋人に言い寄る男だからと言うこともある。その上、彼の見る限り、男は気弱で真面目そうだった。が、外見とは裏腹に、大胆な所業を起こしてしまう悪人なのだ。本当に厄介な奴に関わってしまったと気が重くなった。――

「こんにちは」

 と、表で小さな声がした。どうも子供の声らしいと、永井は不審な顔で振り向いていた。ガラス戸に三人の少年を見つけた。制服姿の彼らは、どうも近所の中学生らしい。戸の前で、代わる代わるこちらをうかがって落ち着きの無い様子だった。それが面白くて、永井の顔は思わずほころんでいた。永井は中へ入るように手で招いた。すると、彼らは躊躇ためらいながらも、ガラス戸を遠慮がちに引いた。しかし、中へ入って来たのは、三人の中で一番背の低い少年で、残りの二人は戸口へ立ったまま動かなかった。永井はもう一度、入るように促した。すると、背の低い少年がそれに従って、後の二人を半ば強引に引っ張り込んでしまった。三人はそれぞれ恥ずかしそうな微笑を浮かべ、永井を見上げていた。――

「佐伯さん、ちょっと」

 奥で何か声がした。が、それが佐伯の返事なのか、テレビの音なのか分からなかった。この分だと、あと十五分は出て来そうも無い。困ったな。こう言う場合はどうすればいいか、彼には経験の無い事だった。取りあえず詳しい話を聞こうかと、永井は三人の少年に向き直った。

 彼らの言う事は、永井にとって興味深い話であった。ところが、少年たちが帰った後で、休憩室から上機嫌で戻って来た佐伯は、急に顔色を変えた。またその話を蒸し返すのかと言う迷惑そうな構えだ。

「衣服はそのストーカー男で間違いないんだな」

「ええ、そう思います」

 永井は、気の無い返事をしていた。

「さっきとずいぶん違うじゃないか。それとも見間違えでしたとでも言うのか?」

「いえ、写真の服は男の物に間違いありません。しかし、彼らの話によると雪だるまのダルちゃんは本物だったと言うんです」

 佐伯は手にしていた湯飲みの中へ目を落とした。茶は湯気も立たないほど冷めてしまったらしい。それを一息に飲み干した。

「本物ね。お前はそんな子供の言うような作り話を真に受けたのか。大体そんなものが、実際に存在すると思っているのか?」

 確かに常識で考えれば、動く雪だるまなどは空想の世界だけの話である。しかし、彼らの話しぶりには、嘘をついている様子はうかがえなかった。

「でも、彼らは動いているところを見たと言っていましたし、近所でも妙な物音を聞いたと言うんです」

「妙な音?」

 佐伯は考え深そうに、あごと言うより口元を手の平で覆った。何か思案するときは、そうするのが彼の癖らしい。それから、呆れたと言う顔で、こう返した。

「この前だって、小学生が自転車を持って来ただろう。子供は純粋だからな。一生懸命になると、物事の真実を見失ってしまうのだろう」

「えーと、放置自転車の件ですか」

 それは先日、小学生の兄弟が落し物だと言って、自転車を押して持って来たことだった。彼らの話では、その自転車はずいぶん前から、彼らがよく遊び場にしている空き地の前へ置き去りにされていたと言うのだ。しかし、紛失するような小さな物で無い。止めておいたか、放置したか、あるいは盗まれた物かも知れない。古い自転車で防犯登録もされていなかった。それが二三日後に、同じ場所で自転車を無くしたと言う人が現れた。その自転車は駐車場から、少し離れた自宅までの足にしていたと言う中年の男の物だったらしい。――

「せっかくの善意も報われませんね」

「その妙な音だって、悪戯かも知れない」

「悪戯……」

 永井の声は、最後が溜め息混じりになっていた。今の彼にはストーカー男の残した衣服も、自転車を持って来た小学生も関心が無かった。――ハンチョウが石を投げたんだ。三人がかりで追い回したんだ。それでも捕まえることができなかった。背を向けると、いつの間にか忍び寄って来るよ。ただの雪だるまじゃない。永井は先ほどの中学生の言葉を繰り返しているうちに、諦め掛けていた雪だるまのダルちゃんを一目見たいと言う思いが甦った気がした。しかし、その願いはどうも叶いそうに無い。ダルちゃんは既に居なくなったと言うのだ。が、姿を見せないにしても、一度はダルちゃんが居たと言う現場を訪れておこうと考えていた。それも早いうちに、もしかすると戻って来ているかも知れないと、永井はわずかな望みを抱いていた。


 永井はいよいよ懸命になって自転車をこいだ。その日は書類を片付けるのに、すいぶんと手間取ってしまった。既に日は暮れていた。しかし、ダルちゃんに会いに行くのはその日しか無いと決めていたのだ。巡回の道を外れて、真っ直ぐに338号線へ向かった。こんな事は初めてだった。通りには、永井の慌てた様子に振り返る人もあった。が、彼はそれには目もくれずに自転車を急がせた。白い息を弾ませながら。――

 ブレーキを鳴らして自転車を止めた。その音は妙に大きく、薄明かりの雪原に響いた。沿道には人影もそこを通り過ぎる車も無かった。永井は懐中電灯を取ろうとして、指が思い通りにならないと気付いた。深呼吸をして、気持ちの高ぶりを静めようとしていた。すると、急におかしくなった。雪だるまのダルちゃんは、もう現れないと分かっていたのに、ここに来て妙な緊張にまで陥って、体の震えている自分がおかしかったのだ。それで、ようやく楽になった。

 永井は懐中電灯の明かりをくさむらの辺りに伸ばし、目を凝らした。雪原はただ静まり返り、動くものは無い。電灯の届く所は一通り巡ったが、何も見当たらない。彼は明かりを落とした。――体は冷え切って、今度は本当に手足の先がしびれてきた。ダルちゃんはもう居ない。永井は重くなったペダルを踏み込んだ。

 突然、背中に電動ノコギリの唸り声と鋼の悲鳴を浴びた。振り返る間にも、黒い塊が彼の眼前を覆おうとしている。危ない! 永井はとっさに腰のピストルを探るなり、銃口を突き立てた。銃声は二度轟いた。

 翌日、こんな事件の新聞記事が届いた。一件は巡回中の警官が何者かに襲われ、携帯していた拳銃を発砲したこと、発砲は適切だったのかと言う非難めいた記事だった。もう一件は、ある小さな新聞社の記事で、その事件現場に得体の知れない昆虫の脚に酷似した物体が一本発見されたこと、それが昆虫にしては大き過ぎる――全長二十センチメートルにも及んだと言う。ところが、警察はこの件に関して事実関係を調査中のため、コメントはできないとしている。永井は病院のベッドに居て、この二つの記事をまだ知らなかった。

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