ニワトリ人間 第2話
田舎では、夜が早いのを取り返すかの如く、朝は日の出前から騒がしいのだが、その日は恐ろしく静かだった。養鶏場の騒動で皆、暗い家の中に身を潜めているのだろうか。どこもぴしゃりと戸を閉ざして、まだ周囲に立ち込める石灰の臭いや消毒臭いのが入らないようにして、戸外に人影は見られなかった。村全体が、まるで死んでしまった。
その日、武のところの朝食は、いつもと違っていた。珍しく家族四人の顔が揃った。この時間には鶏舎に出ていた祖父の姿があったからだ。母は台所に立って、忙しくして働いていたが、ときおり箸が茶碗を鳴らすのや椀を替えるわずかな音、汁をすすったり、飯をくちゃくちゃさせたりするのが、虚しく部屋に聞こえるだけで、誰もが黙って食べ続けていた。それで、妙に静かだった。他にも、普段は卵をふんだんに使った献立が、その朝から姿を消していた。卵は貴重になってしまったのだ。白ご飯に、食卓の誰もが何か物足りなさを感じていた。もちろん、祖父の養鶏場が閉鎖されたことに比べれば、それは些細なことだった。
「今日、学校は休みなのか?」
武は祖父の問い掛けに、こくりとうなずいて一言もしゃべらず、また箸を動かした。普段はこんな調子では無かった。ピピの事で、祖父とはしばらく口をきかないでいたが、その上、これまでは鶏舎に出て朝食の席に居なかったのが、急に祖父が一緒に食べるようになった。いつもと勝手の違う朝に、武はどこか居心地の悪さを感じていた。――
それが、ハムとレタスの平皿に箸を伸ばすなり、怯えたように手を引っ込めた。武は、緑の鮮やかなレタスの葉の上を、恐る恐るのぞき込むと、そこに妙なものを見つけるなり、火の付いたように騒ぎだした。
「虫! 虫が居るよ!」
武は、虫の居る所を必死に指差して訴えた。母は彼の皿に顔を寄せると、不審そうにその葉っぱを摘んで繁々と見詰めていた。
「どれー? あー」
母は何か言い掛けたが、すぐにそれを流しへ持って行き、流水へさっと潜らせると、武の皿に戻した。武はその葉を念入りに確かめた。先ほどのわずか一センチにも満たない黄緑色の幼虫は見当たらなかった。それでも、彼の不安は拭えないらしく、レタスの葉を何度も翻していた。虫は流されたらしいが、それを食べる気がしなかった。武は、虫など平気な方だった。よく畑に行って、野菜についた蝶の幼虫を捕ったりもしたが、それが食卓に出されるとなると別である。身震いさえ感じた。――武はレタスの葉を食べようか、どうしようか迷った挙句に、どうにか口に押し込んだ。もう味など不味いのか、苦いのか分からなかった。
どうしたことか、それからも武は食事の中に、虫を目にすることがあった。多くは、レタスなどの葉野菜に虫が潜んでいたのだが、ある時は、煮物の器にサトイモとレンコンに交じって、何か昆虫の残骸を発見することがあった。
「もう、ちゃんと洗ってよ!」
武は、その度に母をののしった。
「気を付けているんだけどね」
彼の母は、弱ったと言う生気の無い表情で、その器をじっとのぞいていた。気を付けているなら、虫など入るはずが無い。武はますます不審になって、ほら母のは大丈夫じゃないかと言わんばかりに、自分と母のものを見比べた。
そんなことが頻繁に続くので、ますます武の不満は募っていた。それが、次第に誰か故意に虫を混入しているのではと疑心さえ生まれてきたのだ。不審な事は、虫ばかりでは無かった。ある日は、武のアサリ汁の椀に、中身の無い貝殻だけが注がれていたし、おかずの分量だって、他の家族の皿と比べれば、明らかに不平等だった。洗面台がすぐ使えないように、何か物が放置されてあることもあったし、揃えておいたはずの靴が、ばらばらに散らかされていたこともあった。武のよく使う物がいつもの場所に無くて、まるで隠すように仕舞われていたこともあった。些細なことではあるが、誰か家族の者から意地悪をされているように思えてきた。
武はとうとう我慢できなくなって泣きだした。突然のことに皆、戸惑いながら、代わる代わる武が泣く訳を尋ねた。武はあえぎながら、途切れ途切れに、自分の不注意で鶏舎のニワトリを全部死なせたことで、皆から酷い仕打ちを被っているのが辛いと話した。家族の皆は驚いて、口を閉ざした。母は彼の側に駆け寄ると、彼を抱きかかえて、優しく慰めた。
「そんな事無いよ。武の
「ワシがちゃんと話していなかったから、余計な心配を掛けた。悪かった」
祖父も、武の頭をさすった。
「それに、武が鶏舎に来る前から、どうもニワトリの調子が悪かった。あれこれ手を尽くしていたが、近所の鶏舎でニワトリの大量死があったから、仕方が無いことだ。誰の
「雛、ピピの事? ピピがどうかしたの?」
「そうピピ、ピピには、可哀想なことをしてしまった。許してくれ。――ニワトリの様子がおかしくなったのは、ピピの
武はその時、雛たちの様子がおかしいと感じていた。一所に密集して、餌をあさっていると思っていた。しかし、祖父の話を聞いているうちに、どうもそれがとても恐ろしいことに思えてきた。雛たちは確かにいつもより興奮していた。近づけないほどの狂気が、そこにあったのだ。武はもう何か叫びたいような衝動に駆られていた。
それからも、武の周囲で奇妙な出来事は続いた。それは家族に訴えることもあれば、不審に思うだけで仕方無いと諦めることもあった。しかし、度重なる不可思議な出来事に、武は薄々それが家族の仕業では無いと気付き始めていた。食べ物に虫が混入するにしても、彼の物が隠されるにしても、そこまで執拗にできるものなのか、やるにしても相当の執念と労力が必要だった。少なくとも、彼の家族がやるようなことでは無かった。では、誰がそんな事をするのだろう? 武はそんなことで頭を悩ませながら、寝付けない夜を過ごしていた。
武は、無数のニワトリの死骸が、腐った土の中から、ゾンビのように甦るのを夢にした。それはあまりに鬼気迫って、夢なのか現実なのか区別が付かないほどだった。死んだニワトリは、厳重にビニール袋に入れられ、地中にしっかりと埋められたはずだ。
武は気になって、鶏舎へ行ってみたが、そこは完全に閉鎖され、閑散とした棟の有様がうかがわれるばかりであった。扉は施錠されて、建物の中に入れそうになかった。その周りが、妙に片付いていて広々とし、まだ石灰が
武の体に異変が現れたのは、その頃だった。彼は胸元に、一本の鳥の羽が生えているのを見つけて驚いた。ニワトリのような真っ白な羽であった。それは奇妙なことに違いないが、その時はあまり心配もせずに、むしろ喜んで冗談のように思っていた。次第に羽の数は増して、武の体中を覆った。その事は、家族の誰にも言えないでいた。
やがて、武の胸部は白羽がびっしり生え、ニワトリのそれと変わらなかった。彼の体は、馬鹿に熱かった。胸の羽が衣擦れして気持ちが悪く、服を脱いでしまいたかった。その羽が、首の辺りまで達するのは時間の問題だった。そうなると、衣服では隠しようが無い。今は冬で、肌の露出が少ない服だから、まだ誤魔化しようがあるが、先日など、お風呂へ一緒に入ろうと言う祖父の誘いを断ったところ、武は体調が悪いと言ったのだが、母には散々しかられてしまった。
ある日、武は喉に何かが詰まったような違和感を覚えた。それを吐き出そうとして、喉を鳴らしてみたが、なかなか治まりそうになかった。急に苦しくなって咳き込むと、異物を出すように唾を吐き捨てた。その唾の中に鳥の毛のようなものを見つけた。あっと叫び掛けて、声が上手く出せないことに気付いた。その時、武は底知れぬ恐怖を感じた。
それからも、体の異変の進行は衰えを見せなかった。首元まで広がると思われた鳥の毛が、それを待たずに、突然に武の顔面を浸食しだした。頬や口元に髭のように白い羽毛が現れた。武は怯えた顔で手鏡をのぞいていたが、あまりの恐ろしさに思わず鏡を投げ捨ててしまった。それが嫌な音を立てて、机の角に当たった。武は再び頬に手を当てると、そこをこすったり、引っ張ったり、必死になったが、彼の顔に生えた鳥の毛は簡単に取り除けそうになかった。武は、しばらく気が塞いだ格好で、じっと動かないでいたのが、今度は急に何か思い付いたように立ち上がった。部屋の扉を引いて出たところで、慌てて中へ戻り、顔をタオルで覆い隠すと、こっそり階下へ下りて行った。――
「お母さん、お父さんのカミソリ知らないかなー」
武が、ちょうど朝食を取っているところで、彼の父が台所をのぞいて言った。
「無いんですか? 私、知らないですよ」
彼の父は
その日の学校を終えると、武はとぼとぼと歩きながら、いつもと違う街道の景色に目を向けて、繁華街のスーパーマーケットにやって来た。武はその店の前に立つと、
間も無く、武はある棚の一角に、求めていた物を見つけた。それをじっとのぞきながら、どれがいいかと品定めを始めると、その値段を目にして、どきりとした。思っていた以上に、安全カミソリは値段の張るものだった。彼の所持金では、当然足りなかった。カミソリが無ければ、顔に生えた鳥の羽を隠すことはできそうに無かった。カミソリは必要だった。どうしても手に入れたい。手にしなければならない。そう考えているうちに、武はそのカミソリを上着のポケットに素早く忍ばせていた。――
「そこの君、ちょっとこっちに来てもらえないかな」
女店員の声が聞こえたのは、出入り口を直前にしたときだった。武は凍り付いて、万引きが発覚したのだと思った。上手くやったつもりが、やはり悪いことはすべきでは無かった。彼の体は完全に固まって、振り返ることもできなかった。
「そこの君、待ちなさい!」
ところが、そう呼び止められたのは、武が先ほど目にした男の子だった。男の子は女店員にしっかり脇を掴まれ、逃げることもできないらしい。武は、まるで無抵抗な男の子を尻目にうかがっていたが、あの子がいつ自分のことを指差しはしないかと、恐ろしくなって堪らず外に飛び出した。武は、寂れた繁華街の景色を目にした。自動ドアが低い音を立てて、彼の背後で閉じるのが分かった。
武はここまで脇目も振らずに、真っ直ぐ街道を歩き続けて来た。早足で歩いて来た分、彼の息は乱れていた。店からずいぶん離れて、ようやく大丈夫と歩調を緩めた。後は、どこをどう歩き回ったか分からないが、とある大通りを独りとぼとぼと歩いていた。
「そこの君、待ちなさい!」
突然のことに、武は足を止めた。止めると急に震えだした。しかし、その声は明らかに先ほどの女店員では無いようだった。武が振り向くと、彼のずっと後ろに、店に居た男の子が立っていた。怯える武を見て、その子はにやにやしていた。
「ちょっと、そこの君!」
声が街道に響いた。その子は、女店員の口調を真似ているらしい。が、それ以上近づくことも、武に何かする素振りも見せなかった。ただ笑いながら、こちらを見ていたのだ。それがかえって、武の罪悪感を刺激して堪らなかった。――やがて、男の子は肩をすぼめると、詰まらないと言う素振りを見せて、背を向けてしまった。武は少年の居ない薄暗くなった街道に、ぽつんと立っていた。
階下で物音がした。二階の薄明かりの部屋に鎮座しているのは、不気味な白羽の塊だった。武は何か気配を感じる度に、鳥の羽の体をびくつかせた。誰か階段を上がって来るようだ。それは武の母の足音だろうか、溜息の聞こえてきそうな重い足取りだった。
「武、武! ご飯ぐらい下で食べなさい!」
また物音が聞こえた。カチャンと言って、部屋の前に何か置くのが分かった。母は次第に遠ざかって行くらしい。武は白い羽の中から目をギョロギョロ動かして、外の様子を感じ取っていた。母は本当に下りて行ったようだ。
武がこもるようになってから、母が二階に食事を運ぶようになった。茶碗が奇麗になっていたから、母も不本意ながら、こんな事を続けているようだ。武は立ち上がるなり、扉に忍び寄った。誰の気配も感じられなかった。扉を静かに開いた。部屋の外は暗がりだが、その匂いで食べ物の在りかは知れたし、盆はいつも同じ扉の側にあった。そこに小さな台が設置されていて、母はそれに食事を置いて行った。武は恐ろしい勢いで、それを部屋の中に引き入れた。彼の動きは桁違いに敏捷であった。野性的であり、体を覆う羽の
間も無く部屋は、雨戸の透き間からこぼれる外光が無くなる。暗くなっても電灯を点けることは無く、後は目を閉じるだけであった。武は暗くなる前に、食べ終わった食器を外に出すことにした。その事は、まだ人間らしいところであった。それが済むと、朝までほとんど動かなくなる。物音に驚かされて、目を開くことはあった。恐ろしい夢にうなされることもあった。この頃は、そんな悪夢もずいぶん減ってしまった。夢を見るのは稀で、その夢も食べ物に関する夢だった。だから、武は以前ほど心を痛めることも少なくなった。
その夜はどう言うわけか、久しぶりにベッドの上で寝てみようと思い立った。いい気分だった。夕食のおかずが、好物だったからか、あれは何と言う食べ物だろうか思い出せない。とにかく美味しかった。
掛け布団はどこだか行方不明だが、武が布団の中に潜ることは無かった。敷き布団の上に腰を下ろせば、羽毛が彼を暖かく包んで、後はじっとしていればよい。服を着ているのか、裸なのか、もうどうでもいい事だった。どうせ白い羽の塊だからだ。武は目を閉じると、すぐに眠りに入った。その夜は、とても穏やかで、何か体中が浄化されるような心地よさがあった。
清々しい朝であった。武の目覚めとともに、真っ白な世界が眼球を刺激した。しばらく、その神秘的な光景に目を奪われていた。それは全て白い羽であり、ベッドの上から床に至るまで、部屋中が白一面に埋め尽くされていた。武は起き上がりながら、体の周りの羽根を払った。すると、驚いたことに彼を覆っていた羽までもが、体を滑るように離れ、かすかな衣擦れに似た音とともに落ちていった。武はベッドの上で跳ね上がった。天井で白羽根がぱっと広がり、宙で踊った。その羽根は、彼の視界を遮るほど馬鹿騒ぎをしだした。武は嬉しかった。自分を追い詰めていた体の羽から、ようやく解放されたのだ。恐ろしい呪いは消し去った。武の体は清らかだった。これまでの苦しみは、この浄化に至るまでの試練のように思えてきた。
ベッドを下りた床は、まるで純白の絨毯だった。武は勢いを付けて、その純白の羽根に飛び下りた。ところが、足がそれに届いた瞬間に嫌なものに突き当たった。今までの心地よさが、一息に突き飛ばされ、肉塊を踏みつぶしたような酷い感触が足の裏に伝わった。そればかりか、足にどろりと冷たいものが、まとわり付いて不快になった。武は思わす体を傾けた。が、一歩も後に下がれない。下がれば、また別の肉塊に触ってしまうからだ。それは、おびただしい数のニワトリの死骸だった。武はそれを踏み付けていたのだ。足には、べっとり黒ずんだものが付着して、それが血であることは紛れも無かった。急に強烈な死臭が鼻を突いて、胃がむかむかしてきた。武は恐怖に怯えてその死臭の沼から、どうにか逃げようともがいていた。扉までたどり着けば、何とかなると必死になった。扉は目の前なのだが、ぬるっと糸を引いたどす黒い血の沼に足を取られ、這い出せなかった。どうにか武は扉の取っ手に手を伸ばして、強く引いた。開かない! 扉はわずかに内側に引いて動こうとするも、すぐに押し戻される。死骸が引っ掛かっているのだ。武が取っ手に力を入れると、その死骸が醜くつぶれ、中からどす黒い物があふれて来た。床はぎっしりその死骸で埋まっていて、どうすることもできないのだ。
「ああああああ……」
武は狂気になって、扉を引き続けて叫んでいた。――彼の体は、次第に血まみれになり、どす黒く染まっていった。やがて完全に闇と変わらぬ姿になるだろう。
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