ニワトリ人間

ニワトリ人間 第1話

 コーココ、ココ、ココ

 美しいさえずりとは無縁だったが、どこか愛嬌のあるその鳴き声は、たけるの祖父が営んでいる養鶏場のニワトリに違いなかった。しかし、鶏舎は自宅から少し離れていたし、その建物の外壁には開かれた窓は無く、外界とは閉鎖されて、家内まで鳴き声が届くはずは無かった。

 食卓には、ハムエッグ、卵かけご飯のための生卵、浅漬け、それぞれの皿が並んだところで、炊飯器の飯もちょうどいい具合に炊き上がり、味噌汁の独特の香りが部屋中を満たしていたのだが、その席には誰の姿も見当たらなかった。

 コーココ、ココ、ココ

 台所に居た武の母は、いらちを隠せないように二階の上り口へ向かった。ここ最近、武には色々と嫌な事があったのだと気遣って、そっとしておいたのが、ニワトリを部屋へ持ち込んだとなると、遂に母の我慢も限度を超えたらしい。眉間にしわを寄せ、階上をうかがった。二階は、まだ雨戸が朝日を遮って静まり返り、どこか暗澹あんたんたる気分にさせるものがあった。

 武は、田舎の小学校に通う二年生だった。彼が部屋に閉じこもるようになったのは、学校でいじめられたとか、勉強が嫌になったとか、世間に流布する単純な理由では無かった。もちろん、その事でいじめに近い仕打ちを被ったかも知れないが、それも彼が暗い部屋にこもりだした原因に比べれば些細なことだった。家族の誰にも隠し通してきた。家業が養鶏場を営んでいなければ、もっと家の者に頼れただろう。が、そうでは無いから、この武の体に起こった異変は、誰にも知られてはならないのだ。彼は、間も無く鳥に変身する。――

 その朝、武はベッドで目覚めると、声が上手く出ないことに驚かされた。詰まらない独り言を、「ああ、もう朝か……」と言った独り言をつぶやこうとして妙に声がかすれ、思うように言葉が発せられなかった。喉元に手を当てて、その感触にぞっとした。人の肌とは全く異なっていた。武は布団をはねのけて机上の手鏡を引き寄せると、恐る恐るのぞき込んだ。表面のガラスにはひびが入って、そこをセロハンテープで補修してある。その中に不気味な白い羽毛が映っていた。震える指でなぞってみても、指が鏡に映り込んで、彼の体の一部である事は疑いが無いのだった。

 武は、しばらく鏡の彼自身を見つめていた後、ようやく我に返ったように、机の引き出しを乱暴に探った。隠していた安全カミソリを手にして、再び鏡に向き合った。彼のあごには、不慣れなカミソリでつくった赤黒い小さな切り傷が一筋、這っていた。それも、やがて羽毛に覆われて分からなくなるのだろう。羽毛は幾らり落としても、次の日にはすっかり生え揃っていた。一体、彼の体はどうなってしまったのか。奇病だろうか? しかし、世間にそんな奇妙な病気があるとは耳にしたことが無い。――武はいつしか涙をこぼしていた。彼は自分の身に起こった不幸に悲観し、自然と悲しくなったのだ。それに幼い彼は、泣いてしまえば誰かが手を差し伸べてくれると言う考えがあったのかも知れない。やがて感情の高ぶりとともに、声を立てて泣きだした。誰か助けて下さいと叫ぶ代わりに泣き声を上げたのだ。ところが、その声はニワトリの鳴き声に酷似していた。

 数週間前、武の体に異変が現れたときは、ほんの些細なことだった。彼は胸元に一本の白羽を見つけて驚いた。どこでこんな羽根が紛れたのだろう、と払い除けようとして、それが確かに彼の皮膚から生えているのだと実感した。羽根を引っ張ると、皮が伸びてくっ付いてくるのだ。これはすごい発見をした。――彼は学校で自慢してやろうと意気込んでいたくらいだった。その一本だけ生えた白羽は、まるで天使の羽のように美しかった。これは何かいい事があるに違いない。幸せの羽なのだと、武にはそう思えたのだ。しかし、翌朝、武が胸元を開いて表情を凍らせた。昨夜は一本だったのが、今は一塊の羽が生え揃っているのだ。何かの間違えで生えたと言う様子では無かった。それが、日増しに体に広がる勢いを見せていた。やがて、体中が鳥の羽で覆われ、遂に声まで鳥のそれに変わってしまった。直に鳥になる。武はベッドにうつ伏せて、絶望の淵にあった。

 どうしてこんな奇態な体に成り果ててしまったのかと言うと、武には全く心当たりが無いわけでは無かった。ピピの事が彼の脳裏に甦った。それは、武がニワトリの雛に付けた名前だった。しかし、悲しい記憶だった。武はピピがあんな酷い事になったのは、自分の所為せいだと思っていた。それは、彼の体に異変が起こるずっと前の話だ。――

 その日、武が学校から帰って来ると、家内に上がる暇も無いほど急いで飛び出して行った。鶏舎に向かったのだ。それは、彼の家から十五分ほど走った山際にあった。小規模な縦長の建物が二棟、木々の間に隠れるように細々と並んでいた。鶏舎の側では、武の祖父が慌ただしく、十キログラムはある飼料の大袋を軽々と台車に載せて運んでいた。と、祖父は武を見つけたようで表情を和らげ、ヒヨコ届いたぞと明るい声を掛けた。

「奥の育雛器の所に集まっているだろう。よく消毒して行け。病気になったらいけないから……」

 武は、祖父の話も終わらないうちに、鶏舎へ駆けだしていた。それが、力一杯に鶏舎の扉を開いた途端に、怯えたような顔をして、棟を間違えたことに気付かされた。祖父の話をよく聞かずに、急いだから親鳥の方へ来てしまったらしい。仕舞ったと思ったときには、おびただしい数の悲鳴が鶏舎内を包んだ。耳の感覚が麻痺するほどのニワトリの鳴き声と羽ばたきや、柵の金網を震わせたり、足音を立てたりする轟音が辺りに響いていた。武は、余りの恐怖に身動きができなかった。

「大丈夫か? そっちじゃないぞ」

 武は、祖父に肩を掴まれて、ようやく正気を取り戻した。その時には、鶏舎のニワトリの騒ぎも治まりつつあった。

「さあ、こっちだ」

 武は、まだ硬く縮こまった腕を祖父に引かれ、鶏舎を出て行った。――すぐにヒヨコは見つかった。ピーピーと賑やかな雛の鳴き声が、室内に響いていたからだ。傘型の育雛器の辺りには、茶色みを帯びた黄の産毛のヒヨコが群がっていた。

「かわいいなー」

 武は、思わず口元をほころばせていた。二三百匹以上は居るだろうか。小さなくちばしで足元の餌をついばんでは、今にも転倒しそうな覚束無い足取りで、歩き回っていた。ヒヨコは、いくら眺めていても飽きなかった。武は夢中になっていた。どうにか手に取って、触ってみたいと思った。しかし、ヒヨコが傷ついたり、病気になったりするので、安易に触ることは許されなかった。それで、こうやって柵の外からじっと見詰めているしか無かった。

 その日から、武は朝夕欠かさず、鶏舎に通うようになった。もちろんヒヨコを見るためだったが、これまで余り鶏舎に近寄ろうとしなかったのは、鶏舎に二千匹以上のニワトリが居て、それが鳴いたり羽ばたいたりするのが、恐ろしかったからだった。しかし、ヒヨコが来たとなると話は別だ。ヒヨコは親鳥とは裏腹に、とても愛くるしかった。

 武が、初めてピピに出会ったのは、育雛器に集まる群れに、一際小さな体を見つけたときだ。そのヒヨコは、何をやるにも他とは少し遅れていた。餌をついばんでいても、すぐに別の大きなものに、それを横取りされ、保温器の暖かい場所から追い出されたように、一番寒い外側で寄り添っていた。それを観察していると、心が和んだ。武は、そのヒヨコを「ピピ」と名付けて会いに来た。ピピは弱々しい雛だった。周りの雛とは、明らかに成長が遅れていた。もう他の雛は産毛が抜け、成鶏と変わらない白羽が生え揃っていると言うのに、ピピはまだ雛のままだった。祖父がこんな事を言った。

「そのヒヨコは、もう駄目かも知れない」

 武は心配になった。――駄目とはもう生きられないと言うことだろうか。それとも、あんな小さな体では立派な卵を産めないから、これ以上育てても仕方が無いので、取り除かなければならないと言うことなのか。自然に死ぬのでは無く、商品として扱えないものは生きられないと言うことなのか。

「ピピは殺されるの?」

 幼い孫からそんな残酷な言葉が発せられたことに、武の祖父は戸惑いを覚えたのだろう。

「少し様子を見よう。まだ、これから餌をたくさん食べれば、大きくなるかも知れない」

 祖父は、そんな希望的観測を述べたが、表情は険しかった。

 武は、それからも毎日鶏舎を訪れた。学校に行く前と、帰って来てから、わざわざ鶏舎の方へ遠回りになることも構わないでいた。武がたいへん熱心だったので、祖父は何も言えないでいた。が、本当はあまり鶏舎に入ってはいけなかった。風邪など悪い病原体を持ち込んで、ニワトリに移してしまうからだ。しかし、武はどうしても気になって、足を運んでしまうのだった。彼の居ない間に、ピピが死んでしまっているかも知れないし、あるいは処分されているかも知れないと心配だった。ピピは未成熟な体で、この世に生を受けたのだからだ。――

 その熱心さが、大人たちにある不安を抱かせていた。

「武は動物が好きなんだ」

「そんな事言って、お父さん。うちは商売で飼っているのだから、普通に動物を可愛がって世話するのとは、わけが違うのだからね。ニワトリに情が湧いて、売りたくないって言い出したらどうするの?」

「馬鹿! それは考え過ぎだろう。そのくらいの事は、武だって理解している」

 しかし、間も無く武の母が心配していたことが、現実みを帯びてきた。

「ねえ、母さん。ピピは凄いんだよ!」

 武が目を輝かせて母の元に現れたのは、ピピに素晴らしい能力があると教えるためだった。その子は他のヒヨコと違って、たいへん頭がいいらしい。――

「ほらみなさい。情が湧いたのよ。情が……。間引くなんて言ったら、大事になる」

 祖父は苦笑いした。

「まあ、一匹くらい居候ができてもいい」

「そんな事言って、知りませんよ」

 武の母には、彼がピピを可愛がるあまり、そんな偽りを口にするのだと思っていたようだった。それからも、武は同じような事を何度か話した。彼の家族は、子供の奇抜な発想は、大人には理解できないところがある、と笑って取り立てもしないでいた。

 ある日は、武がまたこんな妙な事を話した。

「ピピは、人間の言葉が理解できるんだ」

「まさかね? そんな事無いでしょう」

 武の母は、彼の言葉を全く信じていなかった。またいつもの調子で言っているのだと思っていたのだ。それで、母はピピをじっと見詰めると、大きくなったら鶏肉にされて食われるのよと言った。ほんの悪ふざけのつもりだった。ところが、眼前のピピは、まるで言葉がしゃべれない赤ん坊のする、イヤイヤと顔を背けるような拒絶の仕草をして見せたのだ。その雛には嫌悪の表情が表れたように思えた。

「ほらね。酷い事を言うから……。ピピはちゃんと分かっているんだよ」

「まさかー」

 武の母は、気味が悪いと言う顔をしていた。

 武は、それからピピの事をほとんど話さなくなった。彼の母に限らず、祖父や父までも同じであった。大人たちにはピピの才能は疎まれていると、子供心に気付いた。それで、急にピピの話をしなくなったので、不審に思った母の方から、何か新しい発見はあったと聞かれることもしばしばだった。その時、武は何も無いよと答えることにしていた。もちろん、他にも様々な出来事が起こっていた。ある日には、嬉しさのあまりに秘密をもらしそうになったくらいだった。それは、ピピに子分ができたことだ。群れとは孤立して寂しい思いをしていたピピの側に、一匹のヒヨコを見掛けた。武は嬉しかった。あんなに除け者にされたピピに、ようやく希望が芽生えた。

 最初の一匹は、群れでピピの次に体の小さな雛だった。仲間でも友達でも無く、服従すると言う関係は奇妙だった。ところが、ピピの子分は日増しに数を増やしていき、今では、ほとんどの雛がピピに従うようになっていた。一部の体の大きな雛が、――もう成鶏と変わらないのが、立場が逆転して鶏舎の隅に追いやられていた。

「いいぞ、いいぞ!」

 体の小さなピピが、大きいのを服従させるのは、愉快なところがあった。武自身もあまり体格の良い方ではなかったから、学校で体の大きな同級生に屈服させられていたからだろう。しかし、そんな雛の変化も武の他は、家族の誰も気付いていなかった。

 ニワトリの変化に、大人たちが気付き始めたのは、武の祖父が鶏舎で作業をしているときだった。祖父は鳥かごの棚を左右に見ながら、その間の通路を歩いていると、何者かに見られているような嫌な感覚に襲われた。いつもは柵から首だけ出して、餌を突くのに夢中なニワトリが、一斉に祖父の方に顔を起こして、まるで剥製の鳥のように微動だにしていなかった。

「おい!」

 祖父は、その不気味さに思わず声をもらした。ニワトリはまだ動かないままで、じっとこちらをのぞいていた。祖父は不審な顔で、ニワトリに手を近づけようとした瞬間に、ゴム手袋の指に鋭い痛みが走った。

「あっ痛たたた!」と、祖父は慌てて腕を引っ込めた。手袋のゴムが破れんばかりにくちばしで襲われたのだ。突然と嘲笑するように、ニワトリが騒ぎだした。羽をバサバサ震わしたり、ココココと鳴き声を上げたりしていたのだ。耳がおかしくなる程の鳴き声が、鶏舎内を包んでいた。それからは、鶏舎のニワトリは、まるで彼らに敵意を見せるような行動を始めだした。

「お父さん。私、鶏舎に入るのはもう嫌よ! 何だか、ニワトリが凶暴になっているように思えるんだけど」

「何か機嫌を損ねることでもしたか」

「餌が悪いんじゃないの?」

「いや、トウモロコシ、大豆粕、米ぬか、カキ殻の入ったいつも混合飼料だ。粗悪な物が交じっていないか確かめてやる」

「どうしたんだろうね? 気味が悪い」

 武には、ニワトリたちに何が起こっているのか大体の察しが付いていた。これもピピの命令なのだと分かっていた。

 そんな事があった後、武がいつものように学校から戻ると、また鶏舎に走った。来ると、その棟の前に見慣れない人影を見た。祖父と年の変わらない数人の男たちが、深刻な面持ちで輪を作っているところだった。この界隈の養鶏場の組合員らしい。その中心に祖父の姿があった。武は思わず身をひるませて、草陰で彼らの様子をうかがっていた。――

「何か悪い病気じゃないのかね」

「病気? うかつな事、口にしたらいかん! それなら大事になる」

「どうしたものかね」

「……」

「反乱だ……が起こったんだ」

 輪の端に居たやせた男が、つぶやくように言った。

「はんらん? 一体何の話をしているのかね」

 苦笑いを浮かべた一同の視線が、その男に集まった。

「ニワトリの反乱が起こったんだ!」

 その男は、この近隣に鶏舎を持つ向井と言う人だった。武は何度か祖父の鶏舎の前で見掛けていたので、その赤ら顔には見覚えがあった。向井の言いたい事は、武だけには分かっていた。――ピピが、また人を困らせることをやったのだ。

「あんたの所に、妙な雛が居ると言うじゃないか。武君が見つけたらしい。何か言葉か、人の言葉を理解すると言う……」

「向井さん。何を馬鹿なこと言い出すかと思えば、そんな子供の話を一々真に受けても仕方が無い。それに、ニワトリに人の言葉が分かったところで、何もできやしない。そうだろう」

 武の祖父は今まで黙っていたのが、孫の話を持ち出されたとなると放っておくわけにもいかないらしく、向井の言葉を奪って話し続けた。

「ニワトリはずっと昔から人に飼い慣らされてきたんだから、今更反乱なんか起こしたって、どうなる。人の役に立つために育てられているのだから、それを拒絶すれば生きられないってことだろう。それに、雛は鶏舎に閉じ込めてあるんだから、どうやってそっちのニワトリにまで影響を与える。おかしいじゃないか」

「そんなこと言っても……」

「まあまあ、深谷さんもそう興奮しなくてもいいじゃないか」

「それに、人の言葉を理解するヒヨコが居るとは初耳だね。犬猫の一芸で言葉を理解するとか言うのは耳にしたことがあるが、そう言った類のものなのかね?」

 二人のやり取りを聞いていた他の男たちも、初めは胡散臭そうな顔だったのが、徐々に興味を現したように、二人の会話に割ってきた。

「あんた達まで、そんなおかしな話を信じると言うのか」

「まあまあ、そう邪険にしなくてもいいじゃないかね」

「そんな珍しい雛なら是非見てみたいな」

「そうそう、その雛を見せてもらおうじゃないか。そうすれば、はっきりするだろう。なあ、深谷さん」

「待て待て! 別に隠し立てするつもりは無いが、今は悪い病気が流行っているって言ったところなんだから、あまり他人の鶏舎に入らない方がいい」

 それで、とにかくその雛を見てから今後の事を相談しようじゃないかと、武の祖父はしぶしぶ説得させられたところだった。――

「ピピを殺すの?」

 突然の武の言葉に、そこに居た誰もが、まるで驚いた鶏舎のニワトリのように、一斉に顔を起こして振り向いていた。

「武、来ていたのか!」

 武の祖父は、いつもに無いくらい高い声であった。しばらく皆は面食らったような表情でたたずんでいたが、やがて子供の前で大人気ないやり取りをしてしまったと恥ずかしくなったらしい。後は、どうも気まずいと言う気色が、彼らの間で急に濃くなった。

「それじゃあ、日を改めて……」

 誰かの言葉を切っ掛けにして、男たちはぞろぞろと帰りだした。向井だけはまだ何か言いたそうだったが、「向井さん、早く!」と促され、しぶしぶ去って行った。

 武は、祖父と二人になったところで、再び同じ事を問い掛けようとした。が、祖父の方が先に、あまりここに来るなと、武を一人残して鶏舎に入ってしまった。


 木枯らしが、森や林を通って人家の間を勢いよく吹き抜けるような寒い日だった。もうすっかり冬支度と言う格好で、武の通う小学校の生徒があまりの寒さに鼻をすすりながら、急ぎ足で帰っていた。武はしばらく鶏舎に近づかないでいたのが、祖父に怒られた日から少し経っていたし、どうもピピが気になって仕方が無く、それで鶏舎の方へ足を向けていたのだ。祖父に見つかったとしても、まだ棟の中へ入らなければ、大丈夫だと考えていた。久しぶりに通る鶏舎までの道のりは、どこか懐かしいような、恥ずかしいような複雑な気持ちにさせられた。それが、畑ばかりの田舎道を進んで、鶏舎が向こう側に見えてくると、武はできるだけそちらを見ないように、辺りの景色に目を逸らして、とぼとぼと歩いていた。早くピピに会いたいと言う思いとは裏腹に、そこへ近づけば近づくほど切迫したような表情を浮かべ、落ち着かない様子だった。途中にススキの穂を抜いてみたり、柿が茜色に熟している所を見上げてみたりした。いつもの倍近くの時間を掛けて、鶏舎の近くまで来た。

 ここまで棟に近づくと、二千匹ほどのニワトリの声が共鳴して轟音となってもれてくるのか、絶えず何か奇妙な鳴き声が辺りを包んでいた。日暮れ前で、建物を見上げたその先が、煤煙のような黒い曇天だった。鶏舎の側には、黒土の地面を掘って盛った山ができていた。その作業に使った大きなスコップが、盛り土の横に直立に突き立ててあった。しかし、それを作ったらしい祖父の姿は、どこにも見当たらなかった。武は体が冷えてきたからか、妙に震えだした。が、彼はまだ鶏舎に入ろうか、どうしようか、祖父に見つかりはしまいかと躊躇ためらっていたのだ。すると、おかしな事が起こった。棟の向こう側に、ニワトリの雛が列を成して歩く一団の群れが現れたのだ。武は彼自身の目を疑った。あまりピピの事を考えていたから、そんな幻覚が現れたのだと思った。しかし、事態は急を要することで、ゆっくり確かめている余裕は無かった。武は勢いに任せて鶏舎の扉を開いて、祖父を探した。彼が始めに向かったのは、雛の居る棟だった。もちろん、そうすれば雛が逃げたかどうかはっきりするし、同時にピピにも会うことが叶うからだ。が、どうもこちらには祖父は居ない気がした。室内の明かりは点っていた。本来なら日暮れで照明を消しても構わないから、それは誰か中に居て作業していることに違いなかった。あるいは、直に電灯が消えるのだろうか。それなら、急がなければならない。武は育雛器の方へ走って行った。――もうほとんどニワトリと変わらないほどに成長した雛たちを目にして、武はようやく安心したように足を止めた。それから、床にしゃがむように体を低くして、ピピを探した。雛たちは、頭を下げて餌でも突いている様子で一所に集まっていた。しかし、ピピだっていつまでも黄色い産毛のヒヨコと言うわけでは無かった。きっともう羽が生え変わって、他の雛と区別が付かないかも知れない。それは、それで喜ぶことなのだが、武には少し残念な気がした。とにかく一番体の小さい雛がピピなのだ。そう思って、白羽の固まりを床の方からのぞいたが、それらしい雛の姿は見つからなかった。どうしたのだろう? 武は不審な顔を柵の中へ深く潜らせた。雛たちは尚も餌に夢中でたかっていた。体の大きく成長した雛は、凄みがあって、ときどき翼を羽ばたかせて、興奮気味に餌を奪い合うところは、恐ろしい気がした。もう可愛らしかった雛の面影は、どこにも見当たらなかった。ピピだって、他の雛たちと同じだ。しばらく鶏舎を離れていたから、彼の居ない間に、ピピは餌を独り占めして体が大きくなっているのだろう。ピピは雛の中で一番偉いのだから、それくらいのことは造作無かった。武だけには、ピピの凄さが分かっていた。――

 ピピの才能は、武が毎日、鶏舎に通う間に見掛けた奇妙な行動に現れていた。最初は、ピピの小さな輪を描くような奇行から始まった。足を痛めて、真っ直ぐに歩けないのだろうと心配していたのが、どうも武の勘違いで、ピピが意図的に輪を描いているようなのだ。一回りして、元の場所にちゃんと戻って来る。上から眺めてみると、奇麗な円を描いているのがよく分かった。それで、武の興味を引いて、餌でもねだっているのだと考えていた。

 次の日、武は、その奇行をする雛が増えていることに驚かされた。ピピの後に続いて、一匹の雛が輪を描いていた。武は、ピピに子分ができたのだと喜んだ。その時も、この事を披露しているのだと思った。ところが、ピピに従う雛は、二匹、三匹と日増しに数を増やしていった。楽しげだった様子が、今は隊列を組んだ物々しい行動に変わっていた。これは尋常では無いと、武にも分かった。間も無く、ピピは雛全体を統制するまでに至った。

 体格の恵まれないピピが、そんな大事をすることは不可能だが、観察しているうちに、ピピには武も思い付かないような知恵が備わっているようだ。どんな強靭なものでも、一度に複数の相手をするのは困難だと言うことを知っていたのだ。ピピは、はじめ自分と力の差の無い雛から仲間に従えていき、やがて大きな力を得ていった。それに、大多数の雛が争いを好まず、平穏な生活を望んでいた。それが、強者から襲われる不安などのストレスから弱者への虐待に至るのだろう。その不安から解放することで、ピピは雛たちを従えてきたのだ。ところが、その勢いは雛全体を統制しただけでは治まらずに、鶏舎の外の世界にまで向けられているように見えた。それはまるで、神の使いが人々を安息の地に導くように、ピピがニワトリたちを先導しているようだった。しかし、その事で武の祖父や養鶏場の組合の人を困らせることになったのも事実である。武はその様子を目にしていたので、あの時、怯えた向井さんの「反乱」と言う言葉が、あまり馴染みの無い言葉であったが、雛たちの奇行と合致するように思えた。これが、ピピたちの反乱なのだ。――

 と、物思いにふけっていた武が、不意に声を掛けられたから酷く驚いた。

「武、どうした! こんな所に来て……」

 武は、祖父の険しい表情を見て怒られると思った瞬間、もう走りだしていた。祖父を押し退けるように脇をすり抜けた。しかし、その時、祖父も祖父の声すら武を追っては来なかった。武には、祖父からこうやって逃げだすことは、初めての経験だった。戸口で少しもたついたが、すぐに扉を開いてまた走りだした。外はもう真っ暗で、後はその暗闇に紛れるだけだった。

 翌日、武は学校から戻ると、家には誰も居なかった。普段は、いつも母か誰かが居るはずなのだ。武は気になって、あまり行きたくなかったが、鶏舎の方へ走った。――昨晩の夕食時に祖父の姿は無く、まだニワトリの世話をしているらしかった。武の母は、片付かないから食べてから、やって欲しいと小言をもらしていた。その時は、鶏舎の事の後で祖父と顔を合わせずに済んだから、ちょうどいいと気にも留めずにいた。――直に真っ暗になる田舎道は、あまり走っては転びそうになる凸凹道だった。武は徐々に足を速めた。ピピや雛に何かあったのではないかと、急に不安になった。

 物寂しい所を独り通って来たからだろうか、武は鶏舎の明かりに誰か人が出ている気配を感じて、勢いよく走りだした。表には、十数人の人溜まりが電灯に照らされ、その幾本もの影が長くこちらへ伸びていた。武の祖父や母、先日の養鶏場の組合の人、その他にも見慣れない作業服を着た男たちの背中がうかがわれた。母は人溜まりから少し離れた所に立って、何か心配そうに彼らを眺めていた。しかし、祖父の方は母とは対照的に、厳しい表情で男たちとしきりに話しているのが分かった。武は、急に足を止めた。胸の鼓動が高鳴るのを感じた。幼い彼にも、ただ事では無いと察しが付いた。それが、武の想像とは違っていたとしても、少なからず、ピピたちに関わりがあることは間違いなかった。

「武くん」

 武はその瞬間、しかられると身構えていた。ところが、背後の声は意外にも、近所で養鶏場を営んでいる向井だった。作業服に長靴と言う、彼の鶏舎から直接ここへ駆け付けた格好だった。

「武くんも心配して来たのかね。それはご苦労様。――大変な事になった。もうこれはどうなるんだろうね」

 向井の疲労した顔からも、事の重大さがひしひしと伝わってきた。向井の話によると、この界隈でニワトリが大量に死んでいるのが見つかったらしい。それが、鳥インフルエンザでは無いかと疑われているのだ。事実なら、この地域一帯の養鶏場のニワトリは全て処分しないとならない。

「ピピを殺すの?」

「ピピ? 雛のことかね。――仕方無いんだよ。ピピも他のニワトリも悪い病気にかかってしまったんだ。放っておけば、他の所にまで病気が広まってしまうからね。これは、もう誰にもどうすることもできない規則なんだ。――ああ、お母さんが来たよ。さあ、もう遅いから帰りなさい」

 向井は、武の母に軽く頭を下げると、祖父や他の男たちの元へ向かうらしかった。武は、母に慰めのような言葉を掛けられたが、もう頭の中が混乱して、それも何と言われたかはっきり覚えていなかった。それから、武は母に連れ添われて家へ帰って行った。

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