かまくらの奥に 第2話
雉岡は行き成り目を見開いて、咳き込んだ。気付いたときには、雪の中に顔を沈め、酷い有様だった。吸い込んだ粉雪でむせ返り、激しく苦しんだ。暗闇の中で、かまくらは急に狭くなって、体を起こすにも不自由するほど雪壁が折り重なっていた。恐らく先ほどの衝撃で、雪壁が崩れたようだ。今のは雪崩だったのだろうと、改めて雉岡は肝を冷やしていた。生き埋めになっては大変だが、その時は、占めたとある期待を抱いていた。――雪壁の裂け目から外に出られると思い付くなり、雉岡は体をひねりながら手探りの手を伸ばし始めた。
彼の思った通り、つい先ほど継ぎ目の無い見事な雪氷の壁面は、断末魔の叫びとともに無残な姿に変貌を遂げて、今は裂けた壁が重なり合い、幾つもの透き間を形成しているようだった。雉岡はそれを一々確かめていった。しかし、ほとんどは腕がやっと入るくらいの小さな穴で、どれも出口には当たらなかった。やっと、それらしい透き間を見つけても、頭を入れてみれば、その先は非情にも行き止まりだった。雉岡は、「またやり直しだ」と体を横に向けた。辺りが狭くなった分、息苦しさも増していた。はあはあ言う雉岡の息遣いと防寒着の衣擦れの音、雪上をそれが擦る音、暗闇の中はそれだけの世界だった。雉岡は忙しく探し回った。ここで諦めれば、死んでしまいそうで恐ろしかった。
しばらく彼の奮闘が続いた後に、一つの希望を探り当てた。その穴は、大人一人がやっと這って通れるぐらいのもので、獣の穴蔵のように窮屈だった。雉岡は疲れた体を強引にねじ込んで、暗闇の奥をさまよい始めた。――雉岡は、どうも厄介なことになったと思い始めていた。ここに入ってもう三十分は這って来たのに、出口らしい所に行き当たらない。その穴は、想像以上に奥深いらしい。もし、この先で行き止まりになっていたら、引き返すことは容易では無かった。穴の幅が狭く、向きを変えることも不可能だから、そのまま後ろ向きに戻らなければならない。これまでの道のりを考えると、とてもそれで戻れる距離では無かった。既に息は切れ切れになって、疲労も甚だしかった。雪上を腹ばいになって、両腕と片足の力で滑るように這って来た。その時、他方の足は常に伸びきって、雉岡の格好はあのサソリのようで、彼の毒尾は常にだらしなく引きずって、役に立ちそうに無かった。手足はほとんど感覚を失っていたが、どうにか動いていた。
雉岡が、先ほどから考えを巡らしていたことは、どうもこの穴は雪崩の亀裂でできたものでは無いらしいと言うことだった。すると、誰かが意図して掘ったものとなるが、それなら相当大型な動物、熊か何かが掘ったものになる。が、熊がこんなに長いトンネルを器用に作るとも思えなかった。どちらにしても、先へ進めば出口らしい所にたどり着くに違いない。もちろん、その前に凶暴な獣に遭遇しないとも限らなかった。今は少しでも希望が持てればと、
どのくらい時が経ったのか、もう雉岡にははっきりしなかった。それでも、せいぜい一時間かそこらだろう。とにかく、この窮屈な穴から早く抜け出したかった。疲労と寒さで、頭が
明かりと言っても、そこはぼんやりとした薄明かりのようだった。今まで闇を通って来たからだろうが、それでも雉岡は馬鹿に明るいと感じていた。あと少しで届く先は出口のように穴の壁面が終わって、向こうがただ一様に明るくなっていた。それは、豆電灯の淡い光に似ていた。雉岡は最後の力を振り絞って、明かりの中へ滑り落ちた。床に無防備な格好で倒れ込んでいた。体の至る所が硬直して痛かった。しばらくは、立ち上がることも、動くこともできなかった。顔は床に伏せて、周りの様子は分からないままだった。
雉岡が目を閉じていたのは、ほんの少しの間だったはずだ。恐らく数分にも満たないうちに、誰かの声に呼び覚まされ、驚きのあまり目を見開いた。まだ自由の利かない体で、ゆっくりと顔を起こしながらも、その恐怖から彼の目は
ただ、壁の一角に新聞紙を裂いたような紙屑が、うずたかく積まれてその壁面を埋めていた。そこが妙に気になって、雉岡の目は尚見開かれて、警戒を解いていなかった。彼以外の何かが潜んでいると、じっとそこから目を離さなかった。再び声が聞こえた。
「そこに誰か居ますか?」
それは若い女で、美しい声では無かったが恥ずかしそうに、ときどき声が震えるのであった。雉岡は若い女の声であったから、自然と警戒心を緩めていた。それでも、その紙屑の異様な状況を前にして、返事すべきか
「誰か居るのですね」
「あっ、はい」
雉岡は、思い切って声を返してみた。その震える声に、心引かれたのかも知れない。
「姿が見えませんが、そこに居るのですか?」
雉岡は一度口を利いてしまえば、後はすらすらと言葉が口をついて出て来た。しかし、声は聞こえども、その声の主はいつまでも姿を見せなかった。雉岡は、それでいい加減いらいらしてきた。声の方へ向かって、その正体を暴いてやろうと思ったのだが、まだ彼の体はしびれて、自由にならないらしい。
「私はここに居ます。居ますが、今は決して見ないでください!」
「どうしてですか?」
「見ないでください。きっと見ると怖がるから……」
女の語調は、いつの間にかはっきりとしたものに変わって、先ほど壊れそうなほど恥ずかしがっていたのが、今はどこか底知れぬ意志のようなものが伝わって来た。
「怖がる? どうして……。そんな事無いです。僕は雑誌社でカメラマンをやっていますから、これまで様々の悲惨な現場に直面してきました。多少の事では驚いたりしません。――もしかして、何か事故に遭って、酷い怪我をされたんですね。そうなんですね。人には見せられないような傷痕があると言うのでしょう。そのくらいの事なら、慣れていますから平気です。どうぞ心配しないでください」
ところが、女の声が途絶えてしまって、雉岡は急に心細くなった。よくよく考えてみれば、ここで遭難して、出口もどこだか分からない。その女だけが頼りだった。きっと雉岡があまりしつこく嫌がることを強いるので、彼女は機嫌を損ねてしまったのだろう。確かに、全くの初対面な者に、こんな失礼なことをされれば、怒って口を閉じてしまうのも当然だった。雉岡はどうにかそれを繕おうと、必死に何か慰めの言葉を探したのだが、どうも形式ばかりの空虚な言葉しか思い浮かばなくて、ただ謝ってばかりだった。
「あの大丈夫ですか? 済みません。失礼なことを言ってしまって、どうかお気を取り直してください。もう顔を見せてくれとは言いませんから……」
「ありがとうございます。優しい人なんですね」
「いいえ、こちらこそ。雪崩に遭って、ちょうど困っていたところなんで、あなたが居て助かりました。それで、ここらは一体どの辺りなんでしょうか? スキー場の近くだと思うんですけどね」
「ここを出るのですね」
雉岡の言葉を聞いた女の声は、寂しさを帯びて沈んで聞こえた。それで、雉岡は嬉しくなった。
「ええ、まだ宿も決めていませんから、早く戻らないとならないのです」
「それなら、ここで朝まで過ごしたらいかがでしょう。これから山を下りるとなると危険ですから、どうぞそうしてください」
雉岡は不思議な気がした。先ほどから、二人で会話をしているのだけど、未だにそこには相手の姿は見えず、誰か他の者がこの様子をうかがっていたならば、まるで彼一人がぶつぶつと独り言を言っているように見えただろう。その上、雉岡はあんな事を言ったが、今でもどうにかその声の主を見てみたいと切望していた。
「それじゃあ。明るくなるまで、居ようかな」
雉岡は照れたように、にやにやしていた。
「ええ、是非そうしてください。私はこの冬の間ずっとここに独りで暮らしていたので、人と話すのは久しぶりなのです」
「それは寂しかったでしょう。誰か家族の者は居ないのですか?」
しかし、相変わらず雉岡は誰とも分からない者としゃべっているわけで、どうにも
雉岡は酷く疲れた気がした。ここに来て、今までの疲労が一息に現れたようだった。長い間、無理な姿勢で必死に這って来て、この女と接し、ようやく緊張の糸が解れたからだろうか。雉岡は徐々に眠気を催していく中で、彼女の声が遠くでぼんやりと響いているのが分かった。しかし、その話は何とも不可解だった。
「……、私は明日になれば、美しく生まれ変わります。生まれ変わるのは、今度が初めてですから、不安なのです。どうかそれまで一緒にいてください」
懇意な女に一緒に言ってくれと言われれば、男ならば少なからず有頂天になるはずだろうが、この時ばかりは様子が違っていた。何の冗談だろうと、彼女の言うことが全く理解できなかった。からかわれているとさえ思えた。雉岡の頭は鈍重になってはいたが、それでも彼女への興味が次第に退いて行くのを感じた。何か大変なことに巻き込まれようとしている。雉岡は、直感的にそれを嫌がっていたのだ。それに抵抗するように、口を大儀そうに動かして言った。
「しかし、僕はあなたの事をよく知らない。せめて顔だけでも見せて欲しい」
女は黙っていた。突然と、雉岡は異常なほどの疲労を感じ始めた。それは先ほどの疲れとは全く異質で、不快なものだった。彼の体中の生気が、吸い取られているように感じた。と、雉岡は、この室の入り口がいつの間にか消えて無くなり、どこを見渡しても外に出られる場所が無いことに気付いた。気付くと、急に恐ろしくなった。手足が震えだした。が、しびれから回復していたために、何とか体は動かせそうだった。雉岡はふらふらになりながらも立ち上がり、紙屑の方へ歩き始めた。すると、雉岡の動きを察してか、その紙屑が怯えるように、小刻みに震えだした。まるで嵐が茂みの枝葉を揺らすように、ザザザザザと音を立てていた。雉岡がまた一歩、ゆっくりとした足取りで近づいて行く。その度に紙屑の山はざわめいた。
ようやくそこへ手が届くほどに迫ると、雉岡は大きく目を見開いて、その紙屑の中のものを両手に力を込めて握り締めた。そのものの生命を滅するまで、ぐっと指を押し込んだ。
奇声を発したのは、紙屑の中のものだったろうか。それとも雉岡だっただろうか。もう今では、はっきりしなかった。ただ、雉岡の両手には恐ろしく不快な感触だけが、記憶として残っていた。――何か巨大な昆虫のさなぎを握りつぶしたような感触だった。
その時、再び地鳴りが彼を押し倒した。
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