第2話・国王だった少年の話

 薄汚れたマントを翻して僕は階段を駆け上った。宿屋の主人が一瞬眉を顰めるのと、『兄』が支払いをしようとしている金額を見て一番良い部屋に飛び込む。

 これで今日はベッドで眠れる。

 窓を開け放ち空気を入れ替える。埃っぽいマントを椅子の背もたれに掛け、きつく結んだブーツの紐を解くと、むくんで痣だらけになった脚が見えた。僕はそれを見て笑いがこみ上げてくるのを、必死で抑えた。

 安宿の一室で眠れることに喜びを感じるなんて、あの日の夜までは起きなかったことだ。

 身体の汚れを拭うより先に眠りたいと僕は思った。

 北の街。窓を開け放したまま放っておけば部屋は冷え切るだろうが、きっと『兄』が閉じてくれる。今は秋晴れの寒さの中で毛布に包まれていたい。


   * * *


 荘厳な音楽と歌声が響く、祈りを捧げる人々が訪う虹の間。水音が音楽のように響き、噴水が光を浴びて輝く庭園。衛兵が定刻に音楽と行進を披露する門前の広場。静かに靴音が響く玻璃の回廊。対となった瑠璃の回廊。回廊に挟まれた部屋は夜な夜な貴族たちが優雅な音楽に身を任せる広間。静謐な音楽がそっと添えられた、玉座のある謁見の間。吟遊詩人メネストレルたちの芸を楽しむ食事の間。さざ波のように寄せては返す美しい記憶。この記憶だけで留まっていたいのに。


破られた同盟。呼応した者。鏡の様に磨き抜かれた回廊を踏みにじる軍靴の音。人を平気で打ち殺す者が広間を血で汚す。その者たちはすでに祈りを捧げていただけの者たちも平気で打ち倒してきたのだろうか。玉座も打ち倒され宝石もすべてはぎ取られる。宝物庫はその玉座に座るべき者を守るべき、鍵を持っていた護衛隊に荒らされた。

 二つの国から挟撃され、内部からも破壊され、その国の中心たる王宮は一晩で無残な姿となった。


玉座に座っていた少年は、その夜宰相と共に姿を消した。


 少年は王位を簒奪した者として、宰相はそれを助けた者として、罪状が高々と読み上げられ張り出された。


   * * *


一定のリズムの太鼓の音に僕は目を覚ます。案の上『兄』が窓を閉めてくれ、暖炉に薪をくべていた。太鼓の音は街を守る門を閉ざす半刻前から鳴らされて、最後は銅鑼の音と重なる。銅鑼の音が重なると門が閉まり始めるので、街の中に入りたい者はこの音を頼りに門をくぐるのだ。鐘楼のない街はこの方法が主流だ。北の国への最後の砦となっていたはずの街ですらこの程度の国だったのだ。

「お目覚めですか陛下」

 夢も見ずに眠っていたかったのに、また何か夢を見たように思う。何の夢だっただろうと、僕は暖炉の揺れる火を見つめた。


 二人旅の商人の兄弟として流離さすらっている。その方法は『兄』の気分次第で、今夜のように安宿に泊まったり、野宿だったり、時には地方貴族の屋敷に献上品を持って行くことさえあった。『追われている』という事が、僕が兄と呼んでいる相手――かつての僕の宰相の最後の正気を保つ方法なのだ。僕のことを未だ『陛下』として扱うことが。例え痣だらけになり、細い体をむくませる過酷な旅を僕に強いようとも。それらは総て、青年にとっては『陛下』を守るための行動なのだ。

「私たちは兄弟だ」

「もったいないお言葉です」

 銅鑼の音が重なり始める。急いで門をくぐろうとする人々の姿が目に浮かぶ。もうすぐ街は夕餉の香りで満ち溢れる。眠りに入る前の一番華やかな時間。

「食事までに身体を拭いたいな」

「お湯を用意させましょう」

 部屋を出ていく青年の後姿を眺めながら、僕は夢の内容を思い出した。


   * * *


 王宮よりはるか離れた、でも王族の住む敷地内に打ち捨てられた屋敷。そこで少年は育った。どうやっても玉座どころか王宮にすら足を踏み入れられない者として。でも少年は簒奪者ではない。王家の一員であったことには間違いないのだから。

 あの夜、一晩その屋敷に身を隠した。青年が『お母上の形見を持って行きましょう』と少年の怯えた心を慰めてくれた。

 母親の大切にしていた髪飾り、母親の大切にしていた指輪、母親の大切にしていた…袋に詰めた思い出は、後で知ることになるのだが、その一欠だけでも民が何年も労せず暮らせる代物だった。思い出を詰めた夜は旅を続けるうちに、金を詰めた夜に少年の中で変わって行った。その夢を見たのだ。


   * * *


 次の旅はゆっくりと進んでいった。青年が何かを惜しむ様に。馬を買い揃え、街道に沿って旅をする。街から街へ。長距離になる時は、商人の一団と話を付けて一緒に進む。以前のように農家の納屋を乞うたり、野に食事もなく眠るような旅を青年はしなくなった。

 半年以上、そんな旅が続いた。何故急に、青年が普通の旅をし始めたのかと怪訝に思ったが、その理由は途中で気付いた。旅の商人の一団や、ある程度の街なら必ず宿屋に吟遊詩人ジョングルール、時には異国の踊り子の音楽が楽しめた。

 僕は小さな頃から音楽が好きだった。王であった時は、常に王宮には音楽が溢れていた。青年はそんな僕を楽しませようしている。


 故に、これが最後の旅なのだと僕は悟った。


 夕食は肉と新鮮な野菜を煮たものと蒸したパン。酸味のあるクリームを肉にかける。柔らかくて美味しい。宿で食べるこんな料理は、一般の国民の食べる物よりずっと上質なのだ。以前の旅では、空腹で死にそうな時には塩水のようなスープですらありがたかった。一年近くをかけて、僕は以前のようなしなやかな体を取り戻していた。


 食事をとりながら中央のテーブルの上で踊る少女を見つめる。華やかな音楽に、乾杯の声。少女が母の姿と重なる。

 少女が踊り終わると、次は哀切な音楽が流れ始める。緩急を心得た吟遊詩人ジョングルールが歌い始める。

 不思議なものだと思う。

 王宮に招いた踊り子はもっと上品だったのに母と面影が重なることはなかった。王宮にいた吟遊詩人メネストレルは古き時代の英雄や、恋に身を焦がした悲恋の姫君を謳うものばかりだった。

 思わず僕は微笑む。

「楽しいかい?」

「楽しいよ。兄さん」

 自分たちのことが謳われるなんて、これほど楽しい事があるだろうか。一晩で打ち砕かれた王宮。逃げる王子と宰相の姿。むしろ、あの夜何が起こったのかは、吟遊詩人ジョングルールたちの歌で知ったようなものだ。彼らは、情報を娯楽に変えて国民に売る。自分たちの絶対に手の届かない世界の話。国王の首、逃亡する悲劇の傀儡の少年王など哀切な音楽に乗せた娯楽でしかない。


 彼らは働いて得た金で、食物を手に入れ、服を手に入れ、寝床を整える。そして、時に娯楽を楽しむ。あくまでも商人ではない僕たちとは違う。持ち出したものを売りさばき、ただ擦り切れていくだけの旅。どこまでそれが持つというのだろう。

 あくまでも兄弟になりえない二人。そして、この国はもっと乱れて廃れていく。それを止める術はない。誰よりも肌で感じる国民たちはそれでもなお強い。争いで死ぬのも、日々の糧が手に入れられず死ぬのも、彼らにとっては同じことなのだ。


 僕は母の面影を宿す踊り子の手に、幾枚かの銅貨を落とした。


   * * *


「読み書き計算と少々の北の異国の言葉が話せます。馬にも乗れます。旅にも慣れていますし、地図も読めます」

 港町の商館の一室で、兄が僕を売る算段をしている。この港町は、かつてはこの国一番美しいと言われた港町だ。同盟国の間を商いで取り持っていたこの国のこの港町を最初に破壊する事を、二つの異国は選んだのだ。だが人が住んでいる以上、町は終わらない。生活は続く。兄が弟を売るように。

 僕は商人から一人で質問を受けた。淀みなく答えることができる。売られる以上、最高の品質として売られなければ。

「ほら」

 商人が投げ出した袋を、兄が床に頭をこすり付けように受け取る。

 僕はこれからこの袋の中身以上に働くのだ。

「最後に二人きりで挨拶を交わしていいですか」

 兄の言葉に商人は目を光らせる。逃げられては適わないと思っているのであろう。

「館の外には出るな」

 僕は頷く。思っているより良い場所を兄は選んでくれたのかもしれない。まだ僅かな自由は与えられた。


 疲れ切って与えられた部屋に戻る。働くことは旅とは違う疲れを引き起こした。同じ部屋を共有している少年二人とはまだ仲良くなれない。どこかに僕の異質を感じ取っているのだろう。彼らは敏感だ。僕と同じように売られた立場の筈なのに。


 兄と偽った宰相が懇願した最後の別れの挨拶は妙なものだった。人目のつかない場所で、今更僕を売った袋を差し出しこう告げたのだ。

「異国につてがあります。陛下をもう一度玉座に戻すために海を渡ろうと思います。その旅賃だけ頂きました。お許しください」

 袋からそれだけの金額を抜いたと告白する青年。国民の様に働くことも出来ず、商人のように売買したものは僕だけだというのに。

「許す」

 それでも慕っていた。あの夜、僕を守ってくれたのはこの手だけだった。


 同じ部屋の少年たちの視線にいたたまれず、部屋を出る。人目のつかない場所に移動する。ふと、最期の時差し出された袋の中身を確認していなかったことを僕は思い出した。いや、すぐに流れてきた噂のせいで確認したくなかったのだ。でも、異質な存在から抜け出すためには確認しなければ。もうあの手は傍らにはないのだから。



 走る。走る。凍てついた港町を。高台から海を照らす灯台に向かって。

 勝手にランタンを持ち出し、抜け出した恐ろしさよりも真実が確認したかった。事実ではなく真実を。


 灯台と簡略化された王家の紋章が描かれた一枚の紙。抜き取られていたのはたった一枚の銅貨。

 何故だ。

 たった一枚の銅貨で古い小舟を買い取り、沖に出た男の噂話を否定する。

 嘘だ。彼であるわけがない。兄は、僕の思い出すら金にした筈なのだ。

 そう思いながら灯台の壁を調べる。暗くてよく見えない。何度も何度も消えそうなランタンの明かりをかざして灯台の回りを見る。

 この街に来るたびに青年はこの灯台を見上げていた。その瞳を思い出す。この灯台の歌だけは聞きたがらなかった青年。美しい姫と宰相と灯台守のでてくるこの話は、吟遊詩人ジョングルール達によって競って様々な歌に仕立て上げられていた。


 明け方の光の中で少年はそれを見つけた。簡略化された王家の紋章。一見ただ悪戯で彫られたような稚拙な図柄。

 傍にあった薪の束から一本を取りだして土を掘る。すぐにそれは見つかった。

 簡素な箱。開けなくても何が入っているのか僕には判っていた。あの日僕が持ち出した、母との思い出の品の数々。この髪飾りをさして母は踊っていた。この指輪を付けて故郷を懐かしむ自分を母は戒めて歌っていた。


 彼は一切、王である僕のものに手を付けなかった。


 吹きすさぶ風に凍てつく港。もう一度、手持ちの袋も入れて埋め戻す。見つかる前に帰らなければ。忘れるべき思い出は埋めるべきだ。


 ただ一枚の銅貨ですら許しを請うた、たった一人の臣下。たった一人の国民。それを失った僕は、もう本当に王ではなくなったのだ。

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天の宝石、地の銅貨 叶冬姫 @fuyuki_kanou

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