天の宝石、地の銅貨

叶冬姫

第1話・灯台守の話

 男はゆっくりと螺旋階段を登っていく。

 片手には男にとっては昼食となるパンと干し肉の入った籠。ワインはまだ上に少し残っていたはずだ。片手は、本来壁であった棚に触れながら男は登っていく。

 今日は籠の中には数冊の本も入っている。

 階段の壁に沿って作られた棚にも本が詰め込まれている。

 この棚を作ってくれた男は笑って言ったものだ。本の重みで大事な灯台を倒さないでくれよ…と。

 優秀な船大工だった。そう言えばあの男は、あの船の造船にも携わっていた。

 崖の突端の作られた灯台は、青い宝石の港プルジスタフヴィ・ヴ・サフィーレと呼ばれる美しい港を臨み、守る。

 その名前に恥じぬ港から出港した、最も美しかった船。

 宝石のような海と対になったような靑空の下、祝砲が撃たれ、雲よりも波よりも白い帆を広げて、堂々とその船は出航していった。

 王女の名前を冠して。

 美しい王女を乗せて、宝石に一筋の航跡を残しながら。

 灯台から眺めたもっとも美しかった光景。

 今でも昨日の出来事のように男の胸に蘇る。


 * * *

 

 恵まれた子供だったと思う。公爵家の使用人だった父の真面目な働きぶりが公爵の目に留まったのもあったのだろう。

 僕は公爵の息子の遊び相手をしながら、共に学ぶことを許された。剣や乗馬は苦手だったが、本を読むのは好きだった。

 貴族の家と言っても長閑な田舎町で、決して口に出すことは勿論なかったが、3つ年上の公爵の息子は兄の様に、2つ年下の公爵の娘は妹の様に思っていた。

 3人で庭で遊び、時には絵を描き、街にこっそりとジプシーの踊りを見に行ったこともある。

 ただ何事もなく、過ごすことができると思っていたのは僕だけの様だった。公爵は勉学に勤しむ僕を見て、息子の補佐にしようと思ったようだ。

 その考えは、王都の不穏な様相からのものだった。

 皇太子を決めず崩御した王の後継を巡り、王弟と王子が争いを始めていたのである。内戦までには至らぬが、至らぬが故、裏での貴族同士の争いは熾烈を極めていた。そして、好むと好まざるとに関らずその争いに巻き込まれることであろう状況は、公爵を憂いさせた。

 辿れば王家の血筋にたどり着く家柄であるのは確かであるのだから。田舎で長閑な貴族というようなものを時代が許してくれなかったのだ。


 * * *

 

 階段を登りながら、棚の本を一冊男は手に取る。どの本も、男はすべて覚えている。

 涙を流した本、笑った本、怒りに震えた本。諳んじるまで読んだ本。

 一文字ずつ読んで憶えていった異国の本。

 すべてが愛おしい。

 新しく届いた本は、どんな気持ちを男に与えてくれるのだろう。

 棚に本を戻して、男は再び登り始める。

 たどり着いた小部屋には机と椅子。数冊の冊子とペンとワイン。籠を机に置き、男は露台に出る。

 手慣れた仕草で、灯台の灯りのための火を熾す。

 この日を一晩中絶やさず、見守るのが男の仕事だ。 


 * * *

 

 王宮の広間で正装して膝を折る。

 何故こんなところにいるのだろうと僕は思った。

 王女が広間に入ってきたと知らせる楽隊の音色。

 顔を上げるとそこには美しい少女がいて、その背後の玉座には幼い子供が座っていた。

 僕はいったい何をしてしまったのだろう。

 玉座の横には、一人の青年が立っている。心の中で兄と慕い、公爵家の跡を継いだ青年が。彼を助けて、彼の望みを叶えたはずだった。それが僕の成すべきことだったから。

 美しい少女。この国の王女。

 数度にわたって養子縁組を妹にさせ、王家の娘として妹をその座に括り付けた兄…もとい、公爵。

 幼帝を傀儡にこの国すべてを治めさせる、いつのまにか僕は、そんな力を彼の手に落としていた。

 王女の瞳が僕を見つめる。その瞳をを見つめ返す僕。

 一枚の羊皮紙が王女の手に渡される。

 夢のように僕の名前が呼ばれる。

「そなたを『青い宝石の港プルジスタフヴィ・ヴ・サフィーレ』の灯台守に任じます。この港はこの国の重要な貿易の要。その灯台を守るのはこの国の利益を守ることです。心して勤めなさい」

「はい。心して勤めさせていただきます」

 美しく立派です。化粧で隠された仮面の下は真っ青でしょう。震えて逃げ出したいでしょう。

 羊皮紙を臣下に戻し、それで僕たちはもう二度と会えない。

「わたくしから、今までわたくしどもを支えてくださったお礼がしたいのですが」

 広間に集まった他の貴族がざわつくのを感じる。

『あなたは頭でっかちね。そんなんじゃ、お嫁さんなんか来ないわよ。仕方ないから私がなってあげる』

 何故、こんな時に幼く無邪気で優しかったあなたの言葉を思い出すのでしょう。自分がどんな返事をしたのかも忘れてしまったのに。

 国一番の学士の、誉れが高い僕をただの灯台守にすることで、あなたはどんな気持ちなのですか伯爵。先日耳もとで囁かれた、『ずっとお前が目障りだった。子供のころから』という言葉。

 父を、妹を踏み台にして、僕を突き放し、自分だけの才覚を信じて進む道。それがあなたの望みだというのなら、僕はその望みに従うほかありません。

 でもそれは孤独と破滅への道。その道に進ませてしまったのは他ならぬ僕なのですね。どこで僕は釦を掛け違えてしまったのでしょうか。

「私は本を読むのが好きです」

「さすがこの国一番の学士ですね」

「王女様のお言葉に甘えさせていただいて、王女様が選んだ本を灯台に届けていただけないでしょうか」

 すみません。伯爵。僕は本当にあなたを慕っていました。でも、切り捨てます。

 目障りだというなら消えましょう。でも、あなたの妹君との繋がりはいただきます。

「わかりました。必ず、そのように取り計らいましょう。」

 なんだその程度の事か、だいたい貴族でもないのに拝命儀式が王宮でなんて…ざわつく貴族たちの声が聞こえる。

 そう、彼は、本当はただの一枚の羊皮紙で発令ですむことを、わざわざこんな形にした。

 そう、自分でさえ気づかなかった僕の恋心を嘲笑うために。

 気付きませんでした。こんなことになるまで。妹のようだと思っていた彼女を私は好きだったのだと。

 自分すら騙せるほど僕は利口だったのだと思わせてください。美しい私の王女様。

 

 そして一人の青年は灯台守になった。


 * * *


 ワインと薪を運んでもらおうと男は思った。

 崖の下の港町の酒場に頼んで食事は毎日灯台まで運んでもらっている。その通いの娘に言伝しよう。今日の魚介のスープは旨かった。母親よりも良い腕をしているのでないのだろうかあの娘は。

 一晩中、届いた本を読みながら、男は灯台の灯りを守る。

 この灯りは、この国を守るものだから。


 * * *


 本当に大事な仕事なんて、自分のような者のところには回ってこないのだ。その癖、数だけは多い。内容をほとんど確かめもせず、その役人はひたすらサインをしていく。小間使いに雇っている少年を呼び、そのサインされた書類の束を運ぶよう命令する。

 少年は積み重なった書類を抱え部屋を出る。一枚一枚、あちらこちらに運ばないといけないのだ。面倒臭い。

 突然、風が吹いて何枚かの書類を飛ばす。それらを一枚づつ拾い上げて…

「あんな古い港町への命令書? って、あんなところにまだ灯台なんてあったのか」

 少年が生まれる前に在った戦争で、滅ぼされた異国。もうすでに、別の場所に新しい港が作られて、誰も覚えていないような、さびれた異国の港。その書類には、名前だけが美しく残った港にある灯台への命令がいくつか書かれてる。

「ま、いっか」

 少年の知ったことではない。彼はただ書類を運ぶだけだ。


 そう、その美しい港から、王女の名前を冠した美しい船が、人質の花嫁を乗せてこの国に着いたのは、少年が生まれるよりもずっと前の話。

 少年の知らない滅びた国の王女の話。

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