二十二 人生
翌朝も晴れたが、空気がきのうより乾き、冷気が刺すようだった。
早朝、ロクバンはすっかり旅支度を済ませて神殿の前に出ている。旅支度と言っても、そもそもそれほど私物はないので、荷物は神託用の持ち物を運ぶときより小さいくらいだった。
ダイスケとみんなが囲むように立つ中、イチバンがロクバンの前に進み出る。ロクバンはひざを曲げて礼をしてから、腰の短剣を鞘ごと返した。
これでもう完全に女官ではない。
「では、行きましょう」
イチバンが受け取った短剣を自分のものの横にさして言った。
ロクバンの前後を囲むように山道を下る。もう別れはすませているのでみんな言葉少なだった。だれも泣かない。旅立ちを祝う日だ。イチバンとニバンは小さく祈りを繰り返している。
すき間だらけの木の枝から日光がまんべんなく照らしているというのに暖かくならない。
ダイスケは鼻をすすりたかったが、誤解されるのがいやだったので指でこすってごまかしておいた。
遠く下のほうを見ると、収穫が終わって荒く起こし返された田畑は濃い茶色で、さらにその向こうにぼやけて見える海には白波が立っている。ここはこんなに晴れているのに、あっちは荒れてきているのだろうか。
「ここらへん、雪はよく降る?」
だれにきくともなしにきいてみた。ただ声を出したかっただけかもしれない。それでもヨンバンが答えてくれた。
「山は降ります。でも歩くところの雪をどけるくらいですみますよ。下は降っても日が出れば泥になる程度です」
だれもそれ以上続けず、そこで会話が止まってしまう。周囲の枯れた草木が言葉を吸い込んでいるようだった。
下りていくにしたがって、田畑、町や村、海への見通しがきかなくなっていく。鳥の鳴き声もあまりしない。
光のさしてくる方向によっては息の白さが見えた。動いているのに体が暖まらない。雲ひとつない青空は地面が蓄えた熱を容赦なく奪っている。
山のふもと、村との境に着いた。街道が走っている。見送りはここまでだ。
「ダイスケ、お別れの前にお願いがあるの」
ロクバンはダイスケのそばに寄り、見上げて言った。
「名前を付けて」
みんなダイスケのほうを見て微笑んでいる。そういえば、もうロクバンじゃなくなる。
「幼名はなんだったの?」
「ハル」
「それがいい。いい名前だよ。そのまま使ったらどうかな」
ロクバンが困った顔をし、イチバンが横から説明してくれる。
「ダイスケにはわからないかもしれないのですが、いい歳をして幼名をそのまま名乗るというのは、その、わたくしたちにとっては恥ずかしいことなのです。なにか良い名前を付けてあげてください」
すこし考えてから、クリップボードを取り出し、新しい紙に『春美』と漢字で書く。こちらの字で「ハルミ」と読み仮名を振り、それぞれの字の意味を添え書きした。
「『ハルミ』はどう? 『春』は『ハル』と読む。春夏秋冬の春の意味。『美』は『ミ』と読んで、『うつくしい』という意味」
紙を渡して説明すると、表情がぱっと輝いた。
「『ハルミ』かぁ。うん。じゃあ、今日からあたしはハルミね。よろしく」
女官たちは手を叩き、「おめでとう」とか、「ハルミ、体に気をつけて」と言いながら肩や頭をなでている。
「ダイスケ、ありがとう」
「うん、あ、ぼくからもお願いがあるんだけど」
「なに? なんでも言って」
「研究結果、本にでもまとまったらぼくにも送ってほしい」
「なんだ、そんなことか。もちろん。ダイスケだけじゃなくて、みんなに送るよ。じゃあね」
ハルミはみんなから離れ、手を振って街道のほうへ行きかけたが、すぐに戻ってくる。
「忘れてた。ダイスケ、ちょっと」
手招きするので近くに行く。
「もうちょっとこっち」
もっと近寄った。
キスされた。
「名前つけてくれたお礼ね。はじめてだからうまくできなかったけど」
「ぼくもはじめて」
「じゃあ、はじめて同士だったんだ」
イチバンとニバンとゴバンは目を丸くしている。サンバンとヨンバンは笑っている。
ダイスケはハルミの頭を強くなでた。
「好きなように生きていけよ。ハルミ。幸運の子」
「ダイスケもね」
「みんなー、さよならー、元気でねー」
そう言って、ハルミは街道をいきおいよく歩いて行った。豆粒のようになって見えなくなるまで見送っていた。
神殿への帰り道、ダイスケはみんなから小突かれ、からかわれた。行きの静けさを埋め合わそうとしているようでもあった。
「ダイスケはキスしたことなかったんだ」
サンバンが意外だという口調で言った。
「でも、ダイスケは元の世界じゃ学生だったんだし、キスしたことないっていうのは将来、なにか神聖な職につくつもりだったんでしょ」
ニバンが助け舟にもならない助け舟を出した。
そこへヨンバンが意識せずに火を広げる。
「さっきからイチバン、黙ってるけどどうしたの?」
「わたくしはロク……、いえ、ハルミとのお別れを思い返していたんです。みなさん、騒がしいですよ。子供じゃあるまいし」
ゴバンはそのようすをじっと見てから、小さな声でつぶやいた。
「イチバンが二番目になるのですね」
「なんですって? はっきり言いなさい。ゴバン」
ダイスケはどうしていいかわからないので黙っている。元の世界でも、こっちの世界でも女性の心は不可解だ。
どうせわからないのだから、男性とか女性とかわけずに、人間として接すればいいだろうと気楽に考えてみた。
サイ子とミテルはどうしよう。あいつらも人間扱いでいいかな。すくなくとも姿を現しているときはこっちに合わせてくれるだろう。
そうすると、ぼくのまわりの世界には、結局人間しかいないんだ。
まわりで騒ぐ女官たち、もう街道を行ってしまったハルミ、世界の創造主であるサイ子とミテル、この世界の大勢の人々。
ダイスケは一瞬、頭上に広がる青一色の空を通じて、全員とつながった感じがした。
これが幸せというものなのだろうか。
これが生きているということなのだろうか。
その答えを探すのが、ぼくのこれからの人生だな、とダイスケは山道を踏みしめ、頂上に向かって登っていった。
(了)
乱数勇者異世界転生 @ns_ky_20151225 @ns_ky_20151225
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